2 苦い敗北





「……イサーッ!」

 肩から噴き出る血を押さえながら、レトウ・ヴィスタは何とか這い上がろうとした。
 思ったよりも深く切られたらしい。息が止まりそうなくらいに、体全身の血がどくどくと激しく脈打っているのがわかる。
 痛みを通り越して、既に利き腕の感覚は完全に麻痺してしまっていた。

 しかし、それ以上に彼にはモルディ・ルハトたちに追われていったイサスのことが気になった。
(あいつ……馬鹿な真似しやがって――!)
 不意に目の前に人影が立った。
「――ティラン……!」
 レトウはかっと目を見開くと、相手を睨みつけた。
 一人その場に残ったティラン・パウロがレトウに向けて剣先を突きつけていた。
「悪く思うなよ、レトウ。おまえにはそんなに恨みがあるわけじゃねえんだが――」
 ティランは言いながら、剣を振り上げた。
「元の仲間のよしみで、今この俺が楽にしてやるからよ」
「抜かすな!……てめえごときに殺られるかよ!」
 レトウはティランの剣先から身を交わし、反転した。
 跳ね上がりざまに、地面に転がっていた剣を左手で掴み取り、そのまま下から相手の懐に飛び込んだ。

 刃が空を切る。ティランの目の前ほんの数センチといったところをレトウの剣が掠めていった。
 ティランはあっと息を呑み、危うく後ろにひっくり返りそうになった。
 僅かに身を動かしたことが幸いし、ぎりぎりのところでレトウの剣から逃れることとなったのだ。
 まさに髪の毛一筋といったところだった。ティランにしては、機敏な反応だったかもしれない。
 だが、何よりもレトウが利き腕を使えなかったことがティランには幸運だったといえる。
 ――レトウが利き腕を使っていたなら、まず間違いなく今の一刀でティランの命はなくなっていただろう。

「なめんなよ。利き腕でなくたって、剣は使えるんだぜ!」
 レトウは吐き捨てるように言うと、更に挑むように相手に剣を向けた。
 ティランは青ざめながら、やや後退った。利き腕を使えないレトウにまだこれだけ抵抗する余力があるとは、彼にとっては予想外のことだったろう。
「どうした、かかってこねえのか。――俺の今の一刀で腰が抜けたか」
 レトウが嘲笑するかのように言うと、ティランは途端に頬を紅潮させた。
「……何だと!」
 ティランは怒りにまかせて、レトウに向かっていった。
 再び剣が交わされたが、レトウの片手で打ち込む剣撃の力の方が、圧倒的に勝っていることは見た目に明らかであった。
 ティランは自然とその力に押され気味になり、何回目かに刃を合わせたあと、彼はついに剣を手から弾き飛ばされた。

「……くっ!」
 ティランは歯ぎしりして、一瞬どうしようかとためらう様子を見せたが、レトウの剣が動こうとするのを見ると、急に後ろを向いて脇道へと駆け出した。
「逃げるのか。腰抜け野郎が!」
 レトウは怒鳴りながら、後を追おうとしたが、一瞬目の前が暗くなって思わずふらりと地面に膝をついた。
 今しがたの激しい動きのせいか、負傷した右肩からの出血がひどくなっている。腕を伝ってぼたぼたと血が流れ落ちていき、見る見るうちに地面に血溜まりをつくり始めている。

(……畜生め……!)
 レトウは唇を噛んだ。思うように動かない体に、激しい焦燥と苛立ちが渦巻いた。
 そんな彼の耳に、微かに馬蹄の音が聞こえた。
 気のせいか――と思いきや、蹄の音はどんどん近くなり、気が付くと一頭の馬とそれに跨った騎手がやってくるのが目に入った。
 騎手の姿がはっきりわかった途端、レトウは思わず何かにすがるかのように、必死でその名を叫んだ。

「――リース・クレイン!」
「その声……レトウ・ヴィスタか!」
 リースは馬から飛び降りると、レトウの傍へ駆け寄った。
 彼は周囲の惨状とレトウの様子を見て、愕然としたようだった。
「遅かったか……。騎兵隊――恐らくモルディ・ルハトの一隊だな」
 レトウは見上げながら、頷いた。
「ああ、見事に嵌められたぜ。ざまあねえや」
 レトウの息遣いの荒さに、リースは眉をひそめた。
「ひどくやられてるな。――大丈夫か」
 しかし、レトウは傷ついた腕を取ろうとするリースの手を軽く押しやった。
「――いや、俺のことはいい。それより、イサが……」
 そう言うと、レトウはイサスとモルディたちが消えた前方の木立ちの方向を顎で示した。
「イサスが――どうした?」
 リースの顔が強張った。
「俺のせいだ。……俺のために、多分あいつはわざと――」
 レトウの顔が曇り、忽ち悔恨の表情が浮かぶ。
「あいつ……モルディ・ルハトの野郎をさんざ挑発して、残りの奴ら全部引っ張っていきやがった。リース、頼む……早く追いかけていかねえと、ありゃあ、大分やばい」
 それを聞くと、リースは愕然と目を見開いた。
「モルディ・ルハトに、たった一人で、か?何と無茶なことをする……!」
 その語調に込められた怒気は、彼のどこへも向けようのない苛立ちを表していた。
「――ジェラトからの使者がもう一足早く着いていたら、この襲撃そのものを中止させられただろうに……」
 リースが思わず呟いたその言葉を、レトウがすかさず聞き咎めた。
「……どういうことだ?何かあったのか」
 リースのいつになく深刻な、厳しい眼差しがレトウの胸を突いた。
 その目を見ただけで、これから彼が言おうとしていることがいかに大変なことであるかということを察することができた。

 リースは一瞬逡巡したかのように間を置いたが、やがて感情を押し殺したような低い声で、ぽつりと言った。
「――お館さまが……アルゴン州侯ザグレブ・ラファウド様が逝去された……」

                 *   *   *   *   *

 ――イサスは密生する樹林の間を、小獣がすり抜けていくかのように敏捷に駆け抜けた。

 すぐ背後からアルゴン兵達が追ってくる音が聞こえる。彼はわざと走る速度を緩めた。
 荒い息遣いが間近まで迫ったとき、突如振り返り、剣を向ける。
 不意を突かれて驚いたアルゴン兵の剣を払いながら、相手の懐に入り、左の短刀でその喉笛を掻き切った。
 瞬時の早業だった。

 そして再び彼は走った。走っては振り返り、敵を一人ずつ討ち払っていく。その繰り返しが続いた。
 そのうち、木々がまばらになり、やや開けた丘陵地が目の前に開けた。
 そこで、イサスの足が不意に止まった。その視線が前方に立つものを凝視する。

「逃さんぞ。狼」
 モルディ・ルハトの巨漢が、くっきりとした影を地面に落とし、目の前に厳然と立ちはだかっていた。
 彼が他のアルゴン兵を倒している間に、恐らく先回りをしたのだろう。
 あと三、四人ほどの騎兵が後方から姿を現したが、モルディとイサスの対峙を見ると、やや遠巻きに様子を窺うように待機した。

「――さあ、どうする」
 モルディのさりげない問いに、イサスは訝しげに相手を見返した。モルディはにやりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「さっきも言っただろう。おまえさえその気があるなら、このまま俺がおまえを引き取ってやってもいいと。ザーレン・ルードに飼われているより、ユアン様の配下に入った方がずっと未来(さき)があるぞ。どうだ、悪い話ではないだろう。少なくともこのままここで犬死にをするよりはましだと思うがな」
 イサスは黙って聞いていたが、その目には明らかな蔑みと憤りの色が表れていた。
「……俺はティランとは違う。誰の飼い犬になった覚えもない」
 イサスは吐き捨てるように言うと、剣を威嚇するように相手に突きつけた。
 それを見て、モルディは面白そうに笑った。
 だがその眼にはぎらぎらとした貪欲な妄執の炎が宿っていた。

「おまえの反応は全く、いちいち俺を楽しませてくれる。なるほど、確かにおまえはティランなどとは比較にもならん――まさしく孤高の狼か……ますます俺はおまえが欲しくなったよ、イサス。だが、どうやらその様子では、力ずくでも手に入れることは叶わんようだがな。残念だが、やはりここで始末をつけるしかなさそうだ」
 モルディは鞘から長剣を引き抜くと、斜に構えた。
 モルディの瞳がぎらりと光った。刀身が不気味な光を閃かせたかと思うと、忽ちイサスに向かって物凄い勢いで振り下ろされた。
 イサスは危ういところで剣の下から身を脱した。
 が、息をつく間もなく、目を開けるとすぐ前に第二刃が迫っていた。
 イサスはすかさず剣でその刃を受け止めようとしたが、その激しい剣圧に耐え切れず、一瞬で剣は撥ね飛ばされた。
 じん、と腕が痺れた。

(こいつ……!)
 イサスは目を見開いた。
 違う。さっきまでとは、全く別人のようだ。
 さっき手を合わせたときも、確かに他の騎兵達とは比にならない技量と力を感じた。
 しかし、今のこれは違う。何が、どう違うのか……。
 だが、今はそれ以上あれこれ考えているだけの余裕はなかった。そうする間にも相手の刃が圧倒的な力で襲ってくる。

 イサスは素早い身のこなしで刃の下をかいくぐったが、身を防ぐだけで精一杯だった。
 恐ろしいまでの速度と力。
 彼は短剣を引き抜いたが、モルディの大刀の前では彼の短刀など、あってなきようなものであった。到底太刀打ちできない。
 何回か刃を交わすたびに、イサスの手首から、全身に強い衝撃が走る。剣を打ち落とされていないのが奇跡だった。

 イサスの内に、初めて焦りが生じた。自分のペースがかつてない程に乱されているのがわかる。
 そして、胸の内に湧き上がってくる不安めいた感情。
 自分より強い者に出会ったのが初めてだというわけではない。そこまで彼自身、自分の技量を過信してはいない。これまでも、強い敵と真剣を交わしたことは幾度もある。

 しかし、今、目の前の男から感じる、この何ともいえない凶々しさはどうだろう。
 こんなに凄まじい殺気を感じたのは彼にとってははじめてのことだったかもしれない。
 この男が異常なだけなのか。それとも、これまでにこのような敵と出会わなかった彼の経験のなさが災いしているのか。

 イサスは苛立ちを感じ始めていた。
 完全に相手に振り回されている。呼吸も乱れていた。
 それに対して、相手の落ち着きはどうか。
 顔色ひとつ変えず、息を荒げる様子もなく、涼しい顔で剣を振るっているのである。

(化け物か、こいつは!)
 双方の剣戟が一時止んで、再び相手と距離を置いて向かい合ったとき、イサスは心中薄ら寒いものを覚えずにはいられなかった。
「だいぶ息が上がっているな。そろそろ限界か」
 モルディは薄ら笑いを浮かべながら、ゆっくりと剣先を動かす。
「最後に一つ教えてやる。アルゴン州侯は死んだ。まもなく政変が起こるだろう。ザーレン・ルードはもう終わりだぞ」
 その言葉にイサスの身がぴくりと反応した。彼は顔色を変えた。
(……な……にっ……?)
「今一度聞くが、考えは変わらないのだな」
 問いかけるモルディに対するイサスの返事はなかった。
 そのとき、彼の頭の中には色々な事柄やそれに付随する思いが怒涛のように駆け巡っていた。
(――アルゴン州侯が……死んだ――?)
(――ザーレンの身に、何か……?) 
そんな彼の混乱した思いを嘲笑するかのように、目の前の敵は冷やかに剣先をイサスの胸に向けた。
「殺すには惜しいが、止むを得んか」
 剣が再び動いた。
 一瞬の激しい剣の交差があり、イサスの手から衝撃で短剣が弾け飛んだ。
 イサスはすかさずはね飛び地面に転がっていた長剣を再びその手に掴んだ。その剣でそのまま迫りくるモルディの刃を間一髪で受け止める。

(なかなか素早い)
 モルディは目を細めた。
 しかし、彼は攻撃の手を緩めなかった。さらに激しい打ち合いが続き、ついに幾度目かの剣戟で、イサスの体は地に横転した。

 イサスの右半身を鋭い痛みが走った。脇腹の下あたりがざくりと裂かれ血が噴き出していた。
 呻きながらも、彼は何とか立ち上がり、体勢を立て直そうとしたが、既に長剣を持つ手にはあまり力が入らなかった。
 そこへ、モルディのさらなる強烈な一撃がイサスの利き腕を容赦なく打ち据え、たまらず彼は剣を手離していた。
 顔を上げたイサスのすぐ前で刃が閃き、彼は左肩に鈍い痛みを感じながら、なすすべもなく地に倒れた。
 利き腕の感覚はまったくなく、全身に激しい痛みが走っていた。
 それでも彼は何とか敵から逃れようと、本能的にもがいたが、そんな彼の体をモルディが上からがっしりと抑え込んだ。
 イサスの喉もとには冷たい鋼の先端がぴたりと突きつけられていた。

「なかなか楽しませてくれたが、どうやらこれで終わりになりそうだな。残念だよ、イサス。ティランなんぞよりおまえの方が余程役に立つだろうに……」
 モルディの顔から笑みが消え、冷酷な兵士の表情へと一変した。

「……だが、恐ろしい奴だ。多分、おまえのような危険な獣は今のうちに息の根を止めておいた方がよいのだろうな。ザーレン・ルードがおまえのような駒を使うとなると、尚更のこと、俺たちにとっては脅威となる」
 モルディはそう言うと、剣を持つ手に力を込めた。
「安心しろ。せめて、苦しみが少ないよう一息に殺してやる」
 イサスはどうにもできぬまま、ただ目を閉じた。
 全身に広がる痛みで既に意識は朦朧としている。

 不意に、雲間から月の光がこぼれた。
 一陣の風がざわざわと周囲の木立を揺らす。

 それと呼応するかのように、イサスの胸元が微かな光を発した。
 一瞬のことではあったが、その緑の不思議な閃光はモルディの目をつき、彼は驚いて手を止めた。

 再び視線を戻したときには、既に光は消えていた。
(何だ、今のは……?)
 気のせいかと思いながらも、モルディは何か落ち着かない気持ちになった。
 周囲で立ち尽くしていた兵士たちも不思議そうに、辺りを見回している。

 冷たい風がひときわ激しく木立を揺らした。
 何かの気配がモルディの気を一瞬そらした。
「――誰だ!」
 少年に剣を突きつけた姿勢のまま、モルディは木立ちの方を見て叫んだ。
 返事はない。だが、木の梢のざわめきが、妙に彼の神経を逆撫でた。
「誰かいるのか!」
 さらに、モルディは誰何した。
「――モルディ・ルハト殿。その者には、手をかけないでいただきたい。……こちらには、まだ用があるのでね」
 木立ちの間から、下生えを軽く踏みしだく音がして、一人の青年が姿を現した。
 月明かりの下で、短い銀灰色の髪が幻想的な雰囲気を醸し出していた。その姿はまさしく神話の中に登場する人の姿を借りた神々を想起させた。
 周囲に立っていた騎兵たちは、その姿に半分幻惑されながらも、警戒して青年の周りを取り囲もうとした。それへ青年は軽く手を振った。
「心配するな。敵ではない。モルディ・ルハト殿がご存知だ」
 当のモルディ・ルハトはやや驚いた表情を浮かべて、青年を凝視していた。
「……そなた――エルドレッド・ヴァーンか。とうにジェラトに着いているものと思っていたが……なぜ、このようなところに……」
 モルディの言葉に、騎兵たちは慌てて剣を引いた。
 青年はにっこり笑うと、騎兵たちの間を抜けてモルディの方へ近づいた。
「――私のことはエルダー・ヴァーンとのみお呼び下さい。何度も申し上げておりますように、その名はあまりにも目立ちすぎますので――」
 青年の口調は柔らかかったが、それでいて、そこからは強い非難と強制の響きが感じ取れた。
 モルディはひそかに鼻白んだ。
(『エルドレッド』……聖王家ゆかりの血筋を表す者に多い名か。確かに一介の塔の魔導士にしては、ご大層な名前だ。そこまでこだわるほどのこともあるまいが……本当に、ただの魔導士というだけであるならば、だが――)
 モルディは何か考え込むような様子で、僅かに目を眇めて青年を眺めた。
 しかし、口に出してはそれ以上その件については触れなかった。

「わかった。――エルダー・ヴァーン。で、なぜこいつを殺してはならんのか。こいつに何の用がある」
 エルダー・ヴァーンは謎めいた微笑を浮かべた。
「――あなたには関係のないことだが、ユアン・コーク殿もご承知のこととだけ、申し上げておきましょう。私の言う通りになさることです」
 その人を小馬鹿にしたような物言いに、モルディはむっとした様子を見せたが、それでも彼は敢えて自制した。
 ユアン・コークの名が出た以上、己の立場を考えると止むを得ないところであった。

 モルディは大きく肩で息を吐くと、捕まえていた少年からあっさりと手を離した。
「まあ、いい。どういうことかわからんが、今はそなたの指示に従おう。俺としてもあっさり殺してしまうには、少々惜しい獲物だと思っていたことだしな」
 そう言うと、モルディ・ルハトは足元を見下ろし、そこに転がる既に意識のないイサスの体に、粘着質な視線を浴びせた。              

                                     (...To be continued)


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