4 封印された力
イサスは外へ出た途端、戸口の側の塀に凭れ、そのまま地面にへたりこんだ。
冷たい外気が頬を撫で、彼は息を吐き出した。まだ心臓がどきどきと激しく波打っている。
そっと胸に手をやると、石の脈動は既におさまっていた。彼はほっと息をついた。と同時に新たな疑念が頭をもたげてくる。
(――何が……起こった……?)
あの遊芸師は、さっき自分に何をしたのか。
「だいぶお加減がすぐれぬようだが、大丈夫ですか」
不意に背後から声がかかり、イサスは驚いて振り返った。
そこに立っていたのは、先程の遊芸師の若者だった。
イサスと目が合うと、彼はにやりと笑った。しかしそれは先程まで彼が舞台上で見せていた愛想笑いとは全く違う、冷やかな笑みだった。
「やはり先程のがこたえましたか。少し手加減したつもりでしたが、それでも相当刺激が強かったとみえる。どうも、あなたはまだあの力を使ったことがないようですね」
「……おまえ――!」
イサスの体に緊張が走り、彼の手は帯の短刀の柄にかかっていた。それを見て遊芸師はすかさず身を離した。
「慌てないで。ほら、この通り。私は丸腰ですよ」
遊芸師は改めて少年の前に対峙すると、両手を開いて目の前にかざして見せた。
「おまえ――ただの遊芸師じゃないな。何者なんだ」
イサスが探るような視線を投げると、若者はくすりと笑った。その顔に悪戯っ子のような、悪びれず屈託のない表情が広がった。
「遊芸師?――いえいえ、勿論、違いますよ。さっきのあれは宿と飯代代わりにね。――まあ、あんなのはちょっとした子供だましのようなものです。本物の遊芸師が見れば怒りますよ。聖都へ来て、本物の芸を見ればわかる」
冗談ともつかぬような調子で言うと、一転して遊芸師はイサスを真面目な顔で見た。
「それはともかくとして――私はさっき、舞台の上から偶然あなたと目が合ったあの瞬間に、それを感じとってしまったのですよ。……あなたは本当に大変なものを持っておいでだ。なのに、あなた自身はまだそれが何かすらおわかりになっていない。……あなたこそ、いったい何者なのかお聞きしたいですね」
イサスは、目を開いて遊芸師を見返した。
「――どういうことだ」
「その胸の石ですよ」
若者はイサスの胸を指さした。
「……緑碧石――『エランディル』ですね。『契約の石』だ。私の焔に反応しましたからね、間違いない……。まったく驚いたな。なぜあなたがそれを持っているのか――答えは一つしかない。すなわち、あなた自身が『契約者』であり、あなたの体の中に『エランディル』の力が隠されているということだ」
「エラン……ディル……?」
その言葉は、なぜかイサスの心の奥に深く響いた。
――遠い過去に埋もれた記憶。その記憶の片隅に封印されていた何か得体の知れぬものの影が、こそりと音を立て動いたような気がした。
イサスは僅かに身を震わせた。
(何だろう、この感触は――)
懐かしいような、それでいて同時にそれは、触れてはいけないものであるかのように、本能的な危機感をも感じさせる。
「――駄目だ……やめろ……!――」
イサスの本能が、悲鳴を上げかけていた。彼は我知らず後退っていた。見えない何ものかの手から逃れようとするかのように。
「逃げないで……私の目を見て下さい。大丈夫。恐がることはない」
遊芸師は身を退いていこうとするイサスに向かってそっと手を伸ばした。その碧い瞳が真っ直ぐ彼の黒い瞳を覗き込む。
「私の目を見て……そう、そのまま……楽にしていればいい。さあ、私に心を開いて――」
イサスは遊芸師の目から、目を逸らすことができなかった。
その瞬間、彼は既に自分が遊芸師の手の内に捉えられてしまったことを悟った。だが、彼にはもはやそこから抜け出すことはできなかった。
遊芸師の差し伸ばされた手がイサスの額にそっと触れた。
――エランディル――
言葉が、再びイサスの脳にずしりと重く響いた。
――頭の片隅に微かにちらつく淡い光の片鱗。脈打つ何か強い波動。
……その何かは、確かに彼の体の中で息づいているようであった。
遊芸師はその確かな手ごたえを感じると、更に見えない触手を少年の意識の内側へ伸ばそうとした。
――駄目だ。それ以上は……!――
突然、イサスの内にある何かが、強くそれを拒んだ。
――くるな……!――
激しい拒絶の感覚と、同時に鈍い衝撃が彼の体を貫いた。イサスの心が狂ったように悲鳴を上げていた。
遊芸師の額に汗が滲んだ。
少年の思いがけない抵抗が、彼の力を予想以上に消耗させていた。
少年の記憶の入り口まで何度も手を伸ばすのだが、そこから先へ行こうとすると、強固な壁に阻まれ一歩も進めなくなってしまう。
――それは、堅く閉ざされた封印の壁であった。
何者の為したる業か、恐ろしく強い力で封呪されている。さしももの彼の力をもってしても、そう簡単には突き崩せそうにない。
(これ以上は無理か――)
遊芸師は息を吐き、イサスから手を離した。
少年の体がぐらりと揺れ、倒れかかるのを両手でしっかりと受け止める。
イサスは完全に意識を失っていた。遊芸師はそのまま彼の体を、地面に横たえた。
手を離して立ち上がり、改めて目の前の少年を見下ろす。
その遊芸師の碧い瞳が物思わし気に揺らめいた。
(こいつもまた、フェールの血を引く者なのか。しかし『エランディル』とは、また……――あのお方がこれをお聞きになれば、どう反応されることか……)
遊芸師が僅かに逡巡する様子を見せたとき、イサスの口から小さな呻き声が洩れ、彼は再び意識を取り戻した。
地面に手を突き、何とか立ち上がろうとするイサスの体を遊芸師が支えた。
「急には動かない方がいい……ゆっくりと立って――」
イサスは遊芸師の顔を、不審を込めた目で見た。
「おまえ……俺に、何をした――?」
遊芸師はそんなイサスを間近から平然と見返し、にっこり微笑んだ。
「何も――ただ、ほんの少し心の中を覗かせてもらっただけです。残念ながら、私の望むものは見つかりませんでしたがね。――ただわかったのは、あなたが盗賊団『黒い狼』の首領イサス・ライヴァーだということぐらいかな」
イサスの顔に驚きと同時に忽ち強い警戒の色が浮かんだ。彼は反射的に遊芸師の腕を払いのけ、半身を起こしたまま、相手を睨みつけた。
「……おまえは……誰なんだ……」
その問いかけに対して、遊芸師はただ謎めいた微笑を返しただけだった。
「――それはまたの機会に」
そう言うと、彼はそのまま踵を返し、歩き始めた。
それを呼び止めようとしたイサスは、思わず息を飲んだ。
歩き去っていく遊芸師の体が、徐々に闇に溶け込んでいく。姿かたちそのものが薄れ、文字通り虚空に消えていくのがわかる。
信じられぬ光景に、イサスは慄然とその場に硬直した。
何がどうなって……という理屈はとうに彼の脳裏から飛び去っていた。
ただ、これが好ましからぬ何かの始まりであるらしいということだけは、漠然とながらも感じ取れた。
「おい、イサ!何やってんだ、おまえ」
戸口から最初に顔を出したのはレトウだった。見るなり、驚いたようにイサスのそばへ寄ってきて、顔を覗き込む。
イサスと目が合うと、レトウは小さく息を吐いた。
「おいおい、びっくりさせんなよ。……てっきり誰かに殺られたもんと思ったぜ」
レトウはイサスの体を強い力で引き上げた。
「どうした。何かあったのか」
続いてリースも出てきたが、レトウに支えられて立ち上がろうとしているイサスを見て、やはり驚いた様子だった。
「いや、何でもない――」
イサスはそう言うと、レトウの腕から身を離そうとしたが、足元はまだおぼつかなげであった。
「おっと、危ねえ」
一瞬揺らめいた彼の体をレトウの逞しい腕が再びしっかりと受け止めた。彼はイサスの顔を一瞥すると軽く鼻を鳴らした。
「全く……どう見ても、何でもないって顔じゃないがね。……まあ、いいや。弱音吐かねえのは、あんたの性分だからな。
今さら言ってもしゃあねえが、明日は大仕事が控えてんだからよ。頼むぜ。肝心の首領(ボス)が倒れちゃあ、俺たちは――」
言いながら、レトウの目がふとイサスの背後にある何かをとらえ、彼はイサスに素早く目配せした。
レトウの視線を追ってイサスが振り返ると、数歩離れた先の路地に入る角にいつのまにか一人の少女がひっそりと佇んでいた。
それを見て、リースが僅かに眉をひそめた。
「イサス――」
彼が何か言おうとするのを、イサスは目線で止めた。
「悪いが二人とも、先に中へ入っててくれ」
イサスはレトウの腕を押しやると、今度はいくらかしっかりとした足取りで少女の方へ歩み寄っていった。
「あいつ……いつからティランの妹と――」
リースが呟くと、レトウが彼の肩に手を置いた。
「ま、仕方ねえや。首領(ボス)も年頃の坊やだ。それに、ターナはあの通り、なかなかの別嬪ときてる。全く、ティランの野郎と兄妹だなんて、信じられねえよな」
レトウは面白そうに言った。自分もイサスと僅か三、四才しか違わないということをすっかり忘れているかのような口ぶりだった。
「けど、それも今夜でまあ、終わりだな。ティランの野郎が裏切ったとなりゃあ……」
レトウは気軽に言うと、さっさと宿の中へ戻っていった。
しかし、リースはしばらくその場に留まり、難しい表情のまま、イサスと少女の方へ視線を注ぎ続けていた。
* * * * *
路地の角では、イサスと少女がぎこちない様子で向き合っていた。
南国娘特有の小麦色に焼けた肌が、お下げに編み込まれた栗色の長い髪によく似合っている。
昼間日の光の下で見た方がより見映えがしただろうが、夜の暗い帳が下りた中ではどこか色褪せ、精彩を欠いた印象であった。
あるいはそれは彼女の打ち沈んだ雰囲気からきているのかもしれなかった。
「……イサ……」
ターナは、俯きながらそっと切り出した。彼女は意図的にイサスと目を合わせるのを避けているかのようだった。
「……今日、兄さんが来たの。――明日、州都(ジェラト)へ発つって……」
イサスは無言のままだった。
ターナはふと顔を上げた。いつもの生き生きとした活発な表情が暗く翳りを帯び、今は紙のように白くなっていた。
「――兄さんは、やっぱり裏切ったのね。さっき、あんたのところに来たはずよ」
ターナは言いながら、物問いたげにイサスを見た。
「あんた、兄さんを逃がしたんでしょう。あたし、あんたはきっとその場で兄さんを切り捨てると思ってた。
……馬鹿だわ、あんた。あんたらしくないよ、こんなの。
兄さん、きっとあんたを殺すよ。兄さんはあんたのこと、憎んでるんだから……!」
そう言うと、ターナは急に感情を爆発させた。彼女の顔に瞬時に生気が甦り、怒りに頬を紅潮させて、彼女はイサスを睨みつけた。
「何で殺さなかったの。あんた、馬鹿よ!」
ターナは吐き捨てるように言いながらも、その褐色の瞳は悲しそうな色を湛えていた。
そのとき、彼女が本気でその台詞を言っていたのかどうか、彼女にも実のところわからなかった。
兄への気持ちと、イサスへの思いが絡み合い、彼女は困惑の中にいた。
「――おまえも、あいつと一緒に行くのか」
イサスが初めて口を開いた。冷たい淡々とした、感情の込もらない声だった。
ターナはびくっと肩を震わせたが、すぐに頷いた。
「兄さんのこと……放っておけないから」
彼女は、薄く笑った。
「――ごめん、イサ。でもね……あんな兄でも……私にとってはたった一人の肉親なのよ」
「そうか。じゃあ、今夜でお別れだな、おまえとも」 その言葉は相変わらず淡々とした調子で、そこには何の感情の発露もないように感じられた。
しかし次の瞬間、イサスの黒い瞳がターナを初めて真っ直ぐに見据えたそのとき、ターナには彼の内にかつて見たことのないような激しい感情の波が渦巻いていることがわかった。
彼女は何か返したい言葉がたくさんあるような気がしたが、なぜか胸が詰まって何も出てこなかった。
代わりに彼女はイサスに思い切り抱きついた。
「さよなら、イサ……気を付けてね」
ターナは最後にそっとイサスの耳元にそう囁いた。
体を離す直前のほんの一瞬、彼女を抱くイサスの腕に力が込もったような気がしたが、離れたときに見たイサスの顔はいつものように冷静で、もはや一片の感情の揺れ動きすら感じられなかった。
それは、ターナがイサスと知り合う前にいつも見ていた『黒い狼』の首領の顔だった。
かつて彼女が、見る度に恐ろしさに打ち震えずにおれなかった、冷酷な野性の獣の面。
今その彼の顔は、彼女にはかつてとはまた異なる意味で、慄然たる思いを抱かせるものとなった。
なぜなら、彼女は既にその面の内側に存在するもう一人の彼の素顔を見てしまっていたから。
あるいは、彼女はイサスの中の踏み込んではいけない領域にまで、少々深く足を踏み入れすぎていたのかもしれない。
そう思ったとき、ターナはひそかに震えた。ふと、イサスはこのまま自分を生かしておかぬのではないかという気がしたのだ。
ターナは様々に渦巻く感情を敢えて抑えて、イサスに背を向けた。
「ターナ」
歩き出す彼女の背中へ向けて、イサスが不意に声をかけた。
その声の強い響きにターナはびくりと一瞬足を止めた。
イサスの小昏い瞳が自分の背中に突き刺さるように注がれているのをターナは肌で感じ取った。
「――今度会うときは、ティランも、おまえも殺す」
イサスの言葉は冷たい夜気の中を、鋼のように無機質に響き渡った。
(...To
be continued)
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