祈りの海 (短編集)


■著書名:【祈りの海】
■ジャンル:SF
■著者名:グレッグ・イーガン
■出版社:ハヤカワ文庫
   発行年:2000年   定価:840円
■ISBN4-15-011337-8
■おすすめ度:★★★

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 短編集というのはあまり読まないのだが,「宇宙消失」という長編が気に入
たグレッグ・イーガンの作品というので買ってみた。訳者の後書きを見ると,
日本でオリジナルに編集した短編集ということらしい。

 イーガンという作者,自分とは何か,あるいは何をもって自己というのかと
いうアイデンティティの問題をよくテーマとして取り上げている。アイデンテ
ィティ問題を描くために,様々なアイデア・場面を考え出して物語を綴ってい
く。イーガンの出してくるアイデアの中には突飛なものもあって面白いのであ
るが,ストーリー展開が少々冗長で,ついつい途中を読み飛ばしてしまう場合
がある。読むたびにもう少しテンポが早ければなあと思ってしまうが,まあそ
こはアイデアの面白さがあるからいいかと思っている。

 アイデンティティ問題をSFの場を使って描くというのは,哲学のようにこ
難しく考えるのではなく,自由奔放に自分の思いを書けることもあって,これ
はこれでなかなかうまいSFの使い方ではないかと思う。

 本書には表題の「祈りの海」の他,10個の短編が収められている。その中
からいくつかを紹介してみよう。

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<ぼくになることを>
 ぼくの頭の中には小さな黒い<宝石>がいてぼくになることを学んでいる。
何のために−−−? ぼくがぼくでいられなくなったとき,<宝石>が代わり
にぼくになれるようにだ!

 ぼくの頭の中にある<宝石>とは何だろうか? それは一種のコンピュータ
チップである。人間の脳は30歳になる前に衰退を始めるのだが,生まれてす
ぐにチップを埋め込み,成長とともにずっと生身の脳の思考を模倣することで
その個人のアイデンティティをチップに覚えさせることができる。

 人々は30歳になる前に(脳が衰退を始める前に),自分の生身の脳を除去
し生まれてこのかたずっと自分を模倣して成長してきたチップに代替させ,そ
の後を生きていく。おそらくその人自身にとっては,生身の脳であろうが,そ
の思考形態を完全に模倣してきたチップであろうが,何の変わりもないように
生き続けていくのであろう。なにしろ自分の思考パターンや行動パターンは一
切これまでと変わらないのであるから。

 しかし自分の思考形態が変わらないといっても,それが生身の脳ではなくて
コンピュータチップであるということを思うと,はてさて自己のアイデンティ
ティとは一体何なのだろうと考えさせられてしまう。

 かつてデカルトは「我思う,故に我あり」と言った。この「我」とは当然生
身の人間だったのであろうが,コンピュータチップであろうとやはり「我は思
う」。遠未来には人間の思考は,コンピュータネットワークの中に保存され,
その中で生きていくのであろうが,思考または意識体がどこに宿ろうと「我思
う」というのが自己の存在を確かなものにしているのだろうか。とそんなこと
を考えてしまった。

                                  *

<誘拐>
 人間の死後も自分自身を生きていくために,生存中に自分自身の脳をスキャ
ンさせ電子状態にコピーを作っておくという設定である。自身の肉体が滅びた
後も,自分の意識がコンピュータ内で再生され成長しながら生きていく。はた
してこのとき自分は自分であるのだろうか。

 以下,作品からの一部引用。

 「自分が死んだあとで,コンピュータに物真似されるのはごめんだわ。それ
でこのあたしに,なんの得があるっていうの?」

 「物真似を悪くいっちゃいけないよ。−−−だいたい生命からして物真似で
なりたっているんだから。きみの体内の器官という器官は,絶え間なくそれ自
身の姿にあわせて作り直されている。細胞分裂というのは,細胞が死んで,自
分をそっくりの偽物と置き換えることだ。いまのきみの身体には,生まれたと
きに持っていた原子は一個も含まれてない。−−−じゃあ,きみがきみである
ことの根拠は何だい? それは情報のパターンであって,物理的な何かではな
いのさ。そしてきみの身体にそれ自身の物真似をさせておくかわりに,コンピ
ュータにきみの身体の物真似をさせはじめたとしたら,唯一意味のある違いは
コンピュータのほうがはるかに間違いをおかさないということだ。」

                                  *

<キューティ>
 面白く,そして哀しかった。気に入った作品の一つである。

 ある夫婦がいる。夫は自分達の子どもが欲しくてたまらない。妻のほうは絶
対に子どもは欲しくないという。当然のように夫婦は別れるが,やがて夫のほ
うはキューティを購入する。

 キューティは可愛らしい赤ん坊は欲しいけれども,その先のひねくれた子ど
もや反抗的なティーンエージャーは決して欲しくない,という人々の理想とし
て人間の生殖細胞を使って作り出された。

 ただし大幅なDNA操作が施されていて,決して人間の知性には達しないよ
うに設定されている。しかも4歳になった途端に死んでしまうという子どもで
ある。そのために人間としては認められていない。

 キューティーを購入した夫は,男ながら自分の腹に身ごもり,そして出産す
る。夫は仕事も辞め一日中キューティべったりで子育てを始める。それこそ猫
可愛がりに,ひたすら一日中接していくうちに,このキューティは予想に反し
て知性を発達させる。ただ「バブバブ」と言いながら愛想を振りまくだけのよ
うにDNA操作されているはずのキューティが何故か知性を見せ始めた。

 しかし4歳という寿命はもうまもなくに迫っている。予想外の知性を見せ始
め,ますます愛おしくなってきたキューティと,その親たる夫はさてどうする
のであろうか。

 これは心の葛藤を描いた作品である。読んだ後の余韻を長く残し,しばらく
は記憶に残ってしまった。

                                  *

<祈りの海>
 本書の表題にもなっている作品である。ヒューゴー賞,ローカス賞などSF
界の各賞を受賞している逸品であるらしい。(らしい,と書いたのは個人的に
は,とくに引き込まれるような作品ではなかったから・・・)

 数万年前に地球人類はとある惑星に到着し,そこに新しい人類と新しい環境
を創造した。(よくあるSFのパターンである) 新人類達は誰もが何らかの
宗教を熱心に信仰しているのだが,何故自分達はこれほどまでに熱心な信仰心
があるのだろうかと,とくに主人公はずっとその解答を求めて生きていく。

 どちらかといえば形而上学的なストーリー展開で,いわゆるハードSF的な
ところは全くなくて盛り上がりも少ない。ハードSF好きな自分としては少々
ページを飛ばして読んでしまった。

(2001.3.21)

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