ヴィルナが姿を消してから一週間が経った。 クロイーは薄暗いカウンターの中でそっと溜息をついた。 時刻は午後三時。両親の経営する宿を継ぐために修行中のクロイーは、宿の一階にある食堂のカウンターで、一人店番をしている。宿に泊まる客は大抵この食堂で食事をとる。さっきまで昼食を求める客で賑わっていたが、今はみな食事を終えどこかへ出かけてしまった。 クロイーはまた一つ溜息をついた。 ヴィルナとは小さい頃からの幼馴染だった。決して社交的とはいえない性格のヴィルナの友達はクロイーしかいないといっても過言ではなかった。その上両親を早くに亡くしているヴィルナを心配するのは、クロイーぐらいしかいない。 本当はすぐにでも探しに行きたいのだが、まったくあてもない上仕事を抜け出せなくて、ただヴィルナが帰ってくるのを待つしかなかった。 せめてこの不安をごまかそうと何かやることを探したが、片付けも掃除も先ほど全部すませてしまった。客がいつ来るかもわからないので、気分転換に散歩に出かけることもできない。 部屋に大分前に読みかけのまま放っていた本があったのを思い出して取りに行こうと立ち上がろうとしたとき、誰かが階段から降りてくるのに気づいた。 「どうかしましたか?」 降りてきたのは、今朝やってきた奇妙な客の片割れだった。 もう間もなく夜が明けるという頃にやってきた紅い髪の少女と銀色の髪の青年は、朝食はいらないから夕方まで起こすなと言って部屋に入っていった。 「ちょっとお腹がすいちゃって」 白いシャツに黒いスカートのラフな格好をした少女は、そう言って少し笑った。 「トーストとコーヒーぐらいしか出せないけどいい?」 買い置きの食材は今日の昼で全部使い切ってしまった。いつもならそろそろ問屋が食材をもってくるはずだが、今日はまだ来ていない。 「お願いします」 そういって少女は綺麗に微笑んだ。 大人びて見えるが、よく見ればクロイーより少し年下らしい。 コーヒーカップを出していると、少女と目が合った。 紅い髪に同じ色の瞳なんてとても珍しい。だけど、綺麗だと思った。自分の平凡な茶色の髪と緑の瞳とは大違いだ。 「あの……?」 あまりにもまじまじと見すぎてしまった。少女が戸惑うように首を傾げた。 「あぁ、ごめんなさい。綺麗な色ね。外国の人?」 コーヒーと、バターとジャムをそえたトーストを少女の前に置きながらも、クロイーの視線は少女の髪と目にいってしまう。 「いえ。珍しいってよく言われます」 少女は苦笑しながらコーヒーに手を伸ばした。 「そう。……。私はクロイー・リード。よろしく」 普段クロイーは客に自分の名前なんて教えない。どうせみな一泊しただけですぐ旅立っていくからだ。 「イリス・ウィンスレットです」 互いに名前を教えあったせいか、なんだか馴染みがもててしまった。 歳が近いせいか話がはずむ。 聞けば一緒にいる青年とは旅の途中で知り合ったとか。なぜ旅をしているのかは教えてもらえなかったが。 クロイーも色々なことを話した。 自分はこの宿の経営者の娘で将来はここを継ぐこと。学校を卒業してからはずっと宿の手伝いをしているので友達にも中々会えないこと。 そして、どうしてだか分からないけれど、会って間もないイリスに友人が帰ってこないことまで話してしまった。 「その人、一週間経っても戻ってこないんですか?」 「ええ。ふらっとどこかに旅行に行くような子でもないし。……行くとしても私にぐらいは声をかけるはずだわ」 それまで穏やかだったイリスの目に、真剣な光が宿った。 「その人、ヴィルナさん行方不明になる前どんな様子でしたか?」 「別に……普段と変わったことはなかったわ。だから、いきなりいなくなったこと余計に心配になって」 「それじゃあ、他にヴィルナさんと関係ないことでもいいんです。この町で変わったことはありませんでしたか?」 変わったこと。そう言われてクロイーは何かなかったか記憶をたどりはじめた。 「あぁ、そう言えば。一週間ほど前なんだけれど、奇妙な病気が流行ったわ」 「奇妙な病気?」 「流行ったっていっても、実際に亡くなったのは三人だけなんだけれどね。亡くなる前の晩まではみんな元気だったのに、朝になってみると髪の毛を真っ白にして死んでいたって」 新しい伝染病かとこの町の人間は恐怖にかられたが、本当に奇妙なことに亡くなったのはその三人だけで、ほかに患者もでなかったことからだんだん忘れていっていた。 「それ……」 「あ、でも今は大丈夫だから。流行り病ってわけじゃなさそうだし」 クロイーはイリスを安心させようと笑ったが、イリスはにこりともしなかった。 「イリスちゃん?」 「あ、いえ。……ごちそうさまでした」 そう言って、イリスは立ち上がった。 階段を上っていくイリスを見ながら、クロイーは片づけをはじめた。 時計を見ると四時を過ぎていた。窓の外はもう暗くなりはじめていた。 日が暮れる。部屋の窓から外を眺めていると、太陽がどんどん沈んでいくのがわかった。道を行く人々は暗くなる前に帰ろうと足を急がせる。季節は秋になろうとしていた。 イリスはベッドから立ち上がると部屋を出た。そろそろ隣の部屋で寝ている吸血鬼も目を覚ます頃だろう。 部屋の前に立ったが、中から物音はしない。日が暮れたばかりだから、もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。 「シアン、入るよ」 ノックをしてそう言うと、イリスはドアを開けた。 この吸血鬼は部屋に鍵をかけるということをしない。はじめは物騒だと思ったが、彼には必要ないのかもしれないと考え直した。盗られて困るようなものなどないだろうし、人間ごときにやられるほど彼は弱くない。 「なんだ」 シアンはベッドの上に座っていた。起き抜けの寝ぼけた目をしている。どうやら低血圧らしい。 至極迷惑そうなその視線を無視して、イリスはベッドの脇にある小さな椅子に腰掛けた。 「アタリみたい。血の犠牲者は三人。この宿の娘の友人が関わってるかもしれない。今行方不明らしいけれど」 「………そうか」 「シアンはどうする?行く?」 「……いや、私はいい」 シアンはそう答えた。 「ふぅ……」 クロイーは誰もいなくなった食堂で一人息をついた。 宿の客のほかに地元の人間もよくここに来る。陽気な彼らは好きだが、酔って上機嫌になった彼らの相手をするのは疲れるものがある。 くぁ、とクロイーは欠伸をもらした。もう片付けも終わったしそろそろ寝よう。そう思ったときだった。 トントン。 食堂の入口の扉が叩かれた。 こんな時間に客だろうか。もう夜の十一時を過ぎているのに。 そう思いながら扉を開けて、びっくりした。 「ヴィルナ……!」 「こんばんは、クロイー」 そこに立っていたのは、一週間音信普通だったヴィルナだった。 「どうしたの?そんなに驚いた顔して」 ヴィルナはくすくすと笑った。その顔もその声も、間違いなくヴィルナのものだ。だが、クロイーはどこかに違和感を覚えた。 「どうしたの、じゃないわよ。一週間も何してたの?心配したのよ」 「ごめんね」 にっこり笑った顔も見慣れたものだ。 だけど……。 「それで、こんな時間に何?」 「ちょっとね、ついてきて欲しいところがあるの」 そう言うとヴィルナは、クロイーが抗議の声をあげる前にクロイーの手を引いて、夜の町へと歩き出した。 ヴィルナに手を引かれてやってきたのは、町の外れにある今はもう使われていない教会だった。全てが闇に沈んで動かない中、ひび割れたステンドグラスから差し込んでくる月明かりだけが、生きているようだった。 ヴィルナとクロイーの足音が、静かな教会の中に響く。 「ねえ、こんなところに何かあるの?」 ヴィルナは何も答えない。教会の奥へとただ進んでいく。 「それに、一週間もどうしてたのよ?」 ヴィルナは祭壇の前で立ち止まった。真上には大きな十字架がその存在感を示している。 ヴィルナの様子がいつもと違う。なぜか、逃げ出したい衝動にかられた。 「クロイー」 ヴィルナがゆっくりと振り返った。 顔が月の明かりに青白く浮かぶ。笑った口元から犬歯が白く光った。尖ったそれは、まるで獣の牙のようだ。 いや、違う。あれは本物の牙だ。あんなに鋭く尖った犬歯なんて見たことがない。 逃げろ。 クロイーの体の奥で本能がそう叫ぶ。 だけど足が動かない。恐怖で顔が引きつっていくのが分かる。 ヴィルナが近づいて来る。 これは本当に、ヴィルナなのだろうか。今の彼女は神の十字架を背にした魔物に見えた。 ヴィルナのひんやりとした手が、クロイーの首に絡まる。 吸血鬼。 その言葉が頭の中に浮かんだ。 ドンッ!! 凍るような静寂の中に、突然銃声が響いた。 切り取られたスクリーンのような視界から消えるようにヴィルナが倒れた。 かつん。 教会の中に足音が響いた。 振り返ることができない。 クロイーの足元では、ヴィルナが肩を押さえてうずくまっている。ヴィルナの着ている秋物のベージュのカーディガンが、血で赤く染まっていく。 「………誰?」 思ったよりもクロイーの声はしっかりしていた。 足音はやまない。どんどん近づいて来る。 「クロイーさん」 聞き覚えのある声に、思わずクロイーは振り返った。目に飛び込んできたのは暗闇の中でもわかる紅い髪と瞳だった。 「……イリスちゃん」 緊張していた頬の筋肉がゆるんだ。だけど、イリスが手にしているものを見てまた顔が引きつった。 少女が持つにはあまりにも似合わない大きな銃。 「クロイーさん、怪我はないですか?」 右手で銃の照準をヴィルナに合わせたまま、イリスはクロイーに左手を差し出した。 本当は今すぐにでもその手を取ってここから逃げ出したい。 だが、体が言うことを聞いてくれなかった。 「クロイーさん、その人から、ヴィルナさんから離れてください」 近づいて来るイリスが、とても恐ろしく見えた。 「どうして……?」 「その人は……」 イリスのその紅い瞳はさっきのヴィルナのように爛々と輝いていた。 「吸血鬼です」 クロイーにはイリスの方が恐ろしい魔物のように見えた。 「嘘………」 「本当です。ヴィルナさんは、もう人ではありません」 ぞっとするほど冷たい声だった。 吸血鬼。人の血を吸う恐ろしい化け物。 今まで一緒に過ごしてきた幼馴染が、その吸血鬼だというのか。 だが、さっきのヴィルナの様子は尋常ではなかった。 だけど……。 「違う……。ヴィルナは、吸血鬼なんかじゃ……」 突然のことに混乱するクロイーの首が、突然後ろからつかまれた。 爪が首に食い込む。生暖かい息が首筋にかかる。 「ヴィ、ヴィルナ………」 「クロイーさん!!」 イリスが銃を撃った。弾がヴィルナの足首にあたった。ヴィルナは叫び声をあげるとクロイーから手をはなした。 「かはっ……!」 倒れこんだクロイーは息苦しさから咳き込んだ。血と硝煙の匂いが交じり合う。酸欠で目の前が白くちかちかする。 かちゃり。 銃をかまえる音がした。 「ま、待って……。やめて!!」 クロイーはイリスの腕にしがみついた。 「あの子が、ヴィルナが吸血鬼だなんてそんなこと……」 頭の中では理解している。ヴィルナは今までのヴィルナではない。 足と肩を打たれながらも立ち上がり、大きく開いた口から牙をのぞかせ爛々と目を輝かせているのは吸血鬼だ。 だが、感情がそれについていかない。 「クロイーさん。ヴィルナさんをこのまま苦しめるつもりですか?」 イリスの声が静かにクロイーに届く。 「このままではヴィルナさんは、生者でも死者でもないものとして生き続けることになる。それでも、いいんですか?」 そうだ。ヴィルナはとても優しい子だった。人を傷つけるようなことは何よりも嫌がっていた。何よりも今一番傷ついているのは、ヴィルナなのだ。 クロイーはイリスの腕から手をはなした。 月が姿を消した。教会の中は本当の闇に包まれた。 「さようなら。どうか、安らかに」 短く銃声が響いた。 心臓に銀の銃弾を打ち込まれたヴィルナは、ぴくりとも動かなかった。 涙が、クロイーの目から流れた。 「大丈夫ですか?」 クロイーの目の前に、手が差し出された。 見上げると、イリスが目の前に立っていた。昼間見たときと同じように、イリスは柔らかい空気をまとっていた。 「イリスちゃん、どうしてここに………」 「あとをつけさせてもらったんです。昼間話を聞いたときに、もしかしたらと思ったので」 クロイーはイリスの手をとると立ち上がった。 「ごめんなさい」 突然イリスから言われたその言葉の意味が、しばらくわからなかった。 イリスの手にはまだ銃が握られたままだった。 それを見ながら、クロイーは唐突に理解した。この人も、苦しんでいるんだ。 「正直……あなたを許すことはできないと思う。それでも、イリスちゃんはヴィルナを救ってくれたわ」 クロイーのその言葉に、イリスは目を丸くした。罵られると思っていた。今までそうだったから。 吸血鬼になっていたとはいえ、クロイーの友人を殺したのだ。 イリスは、少し微笑んだ。 「ねえイリスちゃん。どうして、ヴィルナは吸血鬼に………?」 「……わかりません」 「そう………」 「クロイーさん。帰りましょう」 クロイーの手を引いて、イリスは歩き出そうとした。 だが――。 「まだ帰れないよ」 女の声がした。 いつの間にか教会の入口に誰かが立っていた。 漆黒のマント。金色の髪と瞳。口からのぞく鋭い牙。 「吸血鬼……!!」 イリスはクロイーをかばうように後ろに下がらせて、銀の弾をこめた銃をその美しい女吸血鬼に向けた。 「私よりもそっちに気をつけたほうがいいよ。それ、本当に死んでるの?」 吸血鬼は、イリスの後ろに向かって指をさした。 「え?」 短い悲鳴がイリスのすぐ後ろから聞こえた。 「クロイー、さん………?」 クロイーの首筋に、滅んだはずのヴィルナが深々と牙をつきさしていた。 ステンドグラスから再び差し込んだ月の光が、ヴィルナとクロイーを照らしている。 「しまった………!!」 銀の銃弾で滅ぼした吸血鬼は、決して月の光にあててはいけない。なぜなら、蘇ってしまうからだ。 普段のイリスなら絶対に犯さないようなミスだ。油断をした。 「ぁ………」 クロイーがうめき声をあげた。 ヴィルナがかみついた首元から真っ赤な血があふれだして胸をぬらしていく。 「クロイーさん!!」 クロイーの体が崩れ落ちた。 血を吸ったヴィルナは、今度はイリスに狙いを定めた。 蘇った吸血鬼に、銃ではなくトネリコの木を削って作ったナイフを向ける。本当は杭がいいのだが持ち歩くのに不便だ。だが、効力は変わらない。 ヴィルナの爪が頬をかすった。膝を軽く曲げて攻撃をかわすと、ヴィルナの心臓をめがけてナイフを突き刺した。 断末魔の悲鳴が上がる。 ひとの肉を断ち切る嫌な感触。温かい血が、腕にかかった。 できれば、使いたくなかった。銃と違って、ひとの命を絶つのを直接感じるから。 苦しそうに呻くヴィルナから、ナイフを引き抜いた。返り血が顔にもかかる。 そういえばシアンは獲物を自分の鋭い爪で引き裂いていたな。イリスはそんなことをぼんやりと思い出した。どうして、この感触に耐えられるのだろう。 ヴィルナは埃の積もった床に倒れると、そのままさらさらとこぼれるように灰になった。 「クロイーさん………」 仰向けに横たわったクロイーの首筋には、牙のあとが穿たれている。 吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる。もう、手遅れだ。今ここで殺しておかないと、さらに犠牲者が増えることになる。 「どうしたの?早く殺したら?吸血鬼を滅ぼすのが、あなたの仕事でしょう?」 楽しそうに女吸血鬼が笑う。 言っていることは正しい。クロイーの首もとの傷はだんだんと消え始め、早くも口元からは鋭く牙が伸び始めている。 イリスは震える手で、クロイーの胸にナイフを突き立てた。 その瞬間、クロイーが目を開いた。何かを言おうと口を開けると、口の端から血があふれた。 「イリス……ちゃん……」 だが、その言葉の続きが聞こえる前に、その体は真っ白な灰になってしまった。 「お疲れ様」 にっこりと笑う女吸血鬼に、イリスは銃を向けた。 「やだなぁ。そんなにむきにならないでよ。あなたの仕事がちょっと増えただけでしょう?」 「ヴィルナさんを吸血鬼にしたのはあなた?」 顔についた血も拭かずに、イリスは銃の照準を吸血鬼の心臓に合わせた。 「えぇ、そうよ」 「吸血鬼の血をばらまいたのもあなた?」 「そうよ」 吸血鬼は楽しそうに答えた。 イリスの表情がさらに険しくなる。 「どうして……!!」 「あなたをおびき出すためのちょっとした余興よ。どう、おもしろいでしょう?」 イリスの中で何かが切れた。 「貴様ぁっっ!!」 銃声が教会の中に木霊する。 吸血鬼は銃弾を半身をずらしただけでよけると、十メートルほどあった距離を一気に詰めて、イリスの首をつかんだ。 その手が、じゅっと白煙をあげた。 「へぇ、体の中に聖句を埋め込んでるんだ。さすがにちょっと痛いかな」 「っ………!!」 「かわいそうな子。こんなことをしても、何の意味もないのにね」 美しいその顔は、だけど酷く恐ろしかった。 ――死ぬ。イリスはそう思った。 だが、吸血鬼はその手をはなした。 イリスは後ろに飛ぶように吸血鬼との距離を開くと、もう一度銃をかまえた。 手が震える。動悸がおさまらない。今までハンターとして、それなりの危険は経験してきた。だが、この吸血鬼は今まで退治してきた吸血鬼の何倍も恐ろしかった。 自分では、決して勝つことができない。 「あなたは、とても強いわ」 吸血鬼は目を細めてそう言った。 「でも、とても弱いわ」 吸血鬼はそう言うと、イリスに背を向けた。イリスは立ち去っていくその背中をにらんだ。 教会の入口で振り返ると、吸血鬼はこう言った。 「私の名はリヴ・ド・ミスティリーネ。また会いましょう、イリス。シアンによろしく」 マントを翻すと、リヴは闇の中に消えていった。 |