総司は静かに息を吐いた。
 しばらく見守っていたが、監視者はお光が自宅に戻っていくと、同じように後を追っていった。
 今すぐ殺すつもりはないらしい。様子を伺っているのか、それとも、総司の動向次第なのか。
 とりあえず、今この江戸に総司がいることを知られてはならなかった。すぐにでもお光は殺されてしまうだろう。
 彼らにとって駒は多ければ多いほどよいが、裏切るような駒は無用なのだ。見せしめのためにも、すぐさま切り捨てるに違いない。そうして、彼らは闇の底で根を張ってきたのだから。

(地獄の亡者みたいだ)

 総司は皮肉げにそう思った。
 暗殺を請け負う自分もそうだが、彼らもまた既に亡者のようなものなのだ。人の心をもつ者たちの所業ではない。
 むろん、その命令に従い、幾多もの命を奪ってきた自分も同様に。

 総司は物憂い気持ちになりながら、宿への道を辿った。
 こんな自分が人並みの幸せを望んだことが、間違いだったのか。

(土方さん……)

 ふと、恋しい男の名を呟いた。
 ずっと考えないようにしていた。京を出てからは想わぬように、彼のことを忘れるように努めてきたのだ。だが、そんな事……出来るはずがなかった。
 逢いたい、と思ってしまう。
 その力強い腕で抱きしめられ、いつものように「大丈夫だ」と囁いてほしいと、願ってしまう。
 彼から逃げ出したのは、自分なのに。ましてや、一度は彼をこの手で殺そうとしたのに。
 なのに、この身の内から迸るような想いは何なのだろう。
 ただ、愛しいという気持ちだけではない。逢いたくて逢いたくてたまらなくて、叫びだしたくなる。
 それこそ、狂ったように。

(狂気じみている)

 宿に戻った総司は、両膝を抱え込んでそこに顔を伏せた。

 初めての感情の激しさに、怖くなったのだ。
 どれだけ彼に依存しているのか、彼が自分の内に入り込んでいるのか、思い知らされた気持ちだった。
 一時だけで終わる、気まぐれの遊び。そんなふうに思っていたのに、彼から与えられた愛情が、総司を変えてしまった。
 まるで、焔のような恋だった。
 己も彼も灼きつくしてしまう、激しい恋だ。

(どうすればいいの……)

 お光を助け出すことは、ほとんど不可能に近い。
 あの男だけでなく、他にも見張りがつけられていることは確実だった。
 ならば、京に戻って土方を殺すのか。お光の命と引き換えに、愛する恋人の命を奪うのか。

「……そんな事、できるはずがない……っ」

 総司は掠れた声で呻き、両手をきつく握りしめた。爪が食い込むが、その痛みさえ感じない。
 しばらく目を閉じていた総司は、やがて、身を起こした。窓際に寄り、障子を開いた。

「……雨」

 さーっと音もなく雨が降り出してきたのだ。
 春の雨は優しく静かに、江戸の町を包みこんでいく。
 それを眺めながら、総司は小さくそっと、愛しい男の名を呼んだ。








 土方は書類をまとめていた手をとめ、ふり返った。
 後ろで同じように応募してきた者たちの書類を眺めていた斉藤に、問いかける。

「呼んだか?」
「? いえ?」

 不思議そうに斉藤が首をかしげた。それに眉を顰めてから、文机へ向き直りかける。
 ふと気づいて、縁側の方へ視線をやった。

「降ってきたな」
「霧雨ですね。江戸での雨は久しぶりです」
「そうだな」

 土方は立ち上がると、部屋を横切った。縁側に出て、試衛館の庭を眺める。
 春特有の新緑が雨に濡れて、美しかった。たいした庭ではないが、それでも春ともなれば緑が雨に映える。
 見上げれば、雲が重くたちこめ、しばらくは降りつづけそうだった。

「……昨日は手間をかけたな」

 突然、低い声で言った土方を、斉藤は訝しげに見上げた。だが、すぐに彼の言葉の意味を知ったのだろう。
 軽く肩をすくめた。

「別にたいした事ではありませんよ」
「あれが、たいした事じゃねぇか。さすがは新選組三番隊組長だ」

 くっくっと喉奥で笑う土方に、斉藤はため息をついた。

「嫌味ですか。ですが、言ったでしょう。手伝うと」
「そうだな」
「オレは後悔していませんよ。むしろ、清々しました」
「おまえも、なかなか冷徹だな」
「大切なものを守るためなら、当然のことです。あなたも同様でしょう」

 そう言った斉藤に、土方は目を細めた。
 庭を眺めたまま、低く答えた。

「あぁ」

 一言だけだったが、彼の強い意思がこめられていた。
 そのまま無言で、庭に降りしきる雨を見ていたが、やがて、ぽつりと言った。

「俺は、雨の日に……あいつの事を知った」
「? どういう意味です」
「そのままだ。総司が人を殺すところを、雨の日に目撃したのさ」
「あぁ、なるほど」

 斉藤は微かに首をかしげた。

「当然、京での話じゃありませんよね。いつの事です」
「あいつがまだ宗次郎と呼ばれていた頃だ。むろん、総司は俺に気づいていなかった。だが、雨の中、震えていたことを、俺はよく覚えている」

 土方はまた黙り込んだ。それきり何も言わず、庭を眺めている。
 その時、縁側を一人の隊士が渡ってきた。小柄な男だ。板間に片膝をつき、呼びかけた。

「副長」
「何だ」
「沖田先生をお見かけしました」
「……」

 土方は隊士に視線を向けた。ゆっくりと問いかける。
 静かだが、鋭い声音だ。

「どこで」
「例のお宅の近くです。他の者に追わせましたところ、少し離れた柊屋という宿に入っていかれました」
「わかった。そのまま見張りを続けろ」
「承知致しました」

 隊士は一礼すると、すぐさま去っていった。それを見送ることなく、土方は踵を返した。文机の前に腰をおろすと、書類を音をたてて捲り始める。
 それに、斉藤が訊ねた。

「迎えに行かないのですか」
「行くさ、そのうちな」
「そのうちですか」
「あぁ」

 土方は頷き、斉藤の方を一瞥した。

「だから、おまえも手伝え」
「承知」

 傲慢な口調で言い切ってくる副長の、言葉の裏を感じとった斉藤は、小さく笑った。隊士募集のための書類を整理し、検討していく。
 霧雨が、葉に降りしきる柔らかな音が部屋に響いた。時折、緑の匂いがたつ。
 雨は当分、止みそうになかった。









 翌日、総司はお光の家へ向かっていた。
 遠目ながらでも無事を確かめたかったのだ。ただ、あの見張りに気づかれてはいけないと、気を引き締めている。
 お光の家の近くまで来た時だった。
 鋭く響いた物音に、はっと息を呑んだ。

「!」

 見れば、見覚えのある男が例の見張りの男と刃を交えていた。それに訳がわからなくなる。仲間割れをしているのか、それとも、あの連中の手下ではなかったのか。
 だが、それでも、お光に危害が及ぶ恐れがあることは確かだった。彼女の家へむかって走り出そうとする。
 その瞬間だった。

「!?」

 不意に横合いから手がのびたかと思うと、腕を捕まれ、暗がりへ乱暴に引きずり込まれた。あっという間に後ろから逞しい腕で抱きすくめられる。
 叫ぼうとしたとたん、口元を男の大きな手のひらがおおった。

(な、何……ッ?)

 大きく目を見開いた。
 総司も新選組一番隊組長という地位にいる者だ。当然ながら剣客としての勘も鋭いし、気配を読むこともできる。
 なのに、引きずりこまれるまで男の気配に気づかなかったのだ。信じられない事だった。
 総司は身を低くして、肘を男のみぞおちに叩きこもうとした。が、それを察したのか、より強く抱きすくめ、男は耳もとに唇を寄せてくる。

「……総司」
「!」

 耳もとで囁かれた低い声に、息を呑んだ。
 なめらかでよく透るその声は、総司が聞き慣れたものだった。間違えようのない、誰よりも愛しい……

「いいか? 手を離すからな、大声を出すなよ」
「……っ」

 ゆっくりと手をはなされ、腕の力も緩められた。総司が体の向きを変えようとすると、柔らかく背に手をまわしてくれる。
 見上げれば、端正な顔がこちらを見下ろしていた。目があうと、微かに笑いかけられる。

「久しぶりだな」
「土方…さん」
「まったく、おまえは……」

 少し厳しい口調で言いかけ、結局、土方は嘆息して総司を優しく抱きよせた。

「あまり心配をかけさせるな」
「……っ、ごめん…なさい」
「悪いと思っているのなら、それでいい。だが、二度目はないぞ」

 そう土方が言った時だった。
 男を倒したらしい見張りの者が、こちらにやってきた。

「……副長」

 その呼びかけに、彼が新選組の隊士であることを知った。おそらく、副長直属の手のものなのだろう。

「終わったか」

 土方が冷徹な口調で確認した。それに、隊士が「はい」と頭を垂れる。

「あれが最後の一匹だな。……ご苦労だった」

 隊士は総司に対しても一礼すると、そのまま歩み去った。他の者が片付けたのか、男の遺体はおろか争った形跡さえない。
 あれ程の争いだったのに、お光の家はしんと静まり返っていた。それを不思議に思った総司が彼を見上げると、土方は唇の端をあげた。

「お光さんたちは、試衛館に呼んである。おまささんと一緒に食事でもしている頃だろう」
「そう…ですか」

 わからない事ばかりだった。だが、何から聞けばよいのかさえわからない。
 戸惑っている総司の手を、土方は柔らかく引いた。手を繋いだまま、暗がりから連れ出される。ふり返ってみれば、家と家の間にある路地裏だった。そこへ引きずりこまれたのだ。

「すまん」

 突然、謝られ、驚いて彼を見た。それに、目を細められる。

「乱暴なことをして悪かった。すまない」
「そんな……土方さんが謝ることじゃありません」

 小さく答えると、土方は黙ったまま手を軽く握りなおした。
 その後、連れてこられたのは、少し離れたところにある料理屋だった。食事目的ではないらしく、部屋にあがると酒とつまみだけを持ってこさせ、仲居を追い払ってしまう。

「総司」

 土方は部屋を横切ると、障子を開いて窓枠に腰掛けた。手招きされ、総司も傍による。
 彼がとった部屋は二階だっため、眼下に江戸の町があった。川が流れているが、幾つもの建物の裏手になるらしく路地に人の通りもない。

「あれは、雨の日だった」

 突然、ぽつりと土方が呟いた。それに首をかしげる。

「雨の日……ですか」
「あぁ。俺がおまえに初めて逢った日だ」
「そうだったでしょうか。よく覚えていません」

 何故急にそんな事を? と訝しく思いながら、彼を見上げた。土方は端正な横顔をこちらにみせたまま、静かに町を見下ろしている。

「おまえは覚えていなくとも、俺はよく覚えているさ。おまえは雨の中で、震えていた」
「震えていた?」
「あぁ、……血塗れの手で刀を握りしめながら」
「!」

 一瞬、声さえ出なかった。
 反射的に路地へと視線をやってしまう。
 どうして気づかなかったのか。思い出さなかったのか。
 ここは、あの場所だった。

 総司が初めて、人を殺した場所だ。

 大きく目を見開いている総司の前で、土方は淡々と続けた。

「俺は、この部屋から全てを見ていた。大の男を苦もなく殺したおまえが、事の後で震えだしたことも、逃げていく姿も、全部見ていた」
「……」
「その数日後だったか。試衛館を訪れた俺が、近藤さんからおまえを紹介されたのは」
「どう、して」

 声が掠れた。

「どうして、あの時、詰問しなかったのです。人殺しだと、何故」
「何故だろうな」

 土方は目を伏せ、くすっと笑った。

「ただ……わかっていたのは、おまえが決して自ら望んで人を殺していないという事だった。何が理由なのかは暫くわからなかったが、わかってからも、あの頃の俺では何も出来なかった。力が欲しいと思ったのは、あの時が初めてだ」
「力?」
「あぁ、おまえを俺だけのものにする、絶対的な力だ」

 土方はゆっくりと手をのばした。男の大きな手のひらに頬をつつみこまれる。
 顔をあげれば、そっと頬に口づけられた。そのまま柔らかく抱きしめられる。突然告げられた事実に呆然としていて、総司は抵抗なく身をゆだねた。
 その耳もとで低い声が告げた。

「……あの連中は皆殺しにした」
「!」

 びくっと体が震えた。
 睦言には似つかわしくない物騒な言葉に、息を呑む。反射的に男の肩を押し返すようにして見上げれば、土方は薄く嗤っていた。まさに京を震撼させる、冷酷で容赦ない新選組副長の顔だ。
 怜悧な光をうかべた黒い瞳に、まっすぐ見つめられる。

「……皆殺しって」
「あぁ、さっきのが最後の一匹だ。おまえを苦しめた犬どもは全部始末したさ」
「土方さ……」
「大丈夫だ、総司」

 土方は先程の冷たい瞳が嘘のように、優しく微笑んだ。少年のように朗らかに。

「この俺に手抜かりあると思うか? もう、おまえを苦しめる連中はいねぇよ」
「……」
「心配するな。俺がおまえを必ず守ってやる」

 そう囁きながら、土方は柔らかく総司の躰を胸もとに引き寄せた。少女のように華奢な躰が、無抵抗に、大人の男の腕の中におさまる。
 呆然としている総司の髪を、土方はそっと撫でた。頬や首筋に口づける。

「可愛い総司、辛かっただろう? 苦しかっただろう? ましてや、俺を殺せなどと命じられ、どんなにおまえが苦しんだか。それを思うと、あいつら百回殺しても飽き足らねぇよ」
「……っ」

 男の言葉に、さっと血の気がひいた。

 彼は知っていたのだ。
 幼い頃から暗殺をしてきた事はおろか、総司が土方の命を狙ったことまで全部。
 躰中が震えた。
 彼が怖い、と思った。
 いったい今まで見てきた、知っていると思ってきた彼は、誰だったのか。
 目の前で、グルリと世界の色が反転してしまったような衝撃だった。

 優しく微笑みかけてくる彼が、恐ろしい。

 確かにわかってはいた。
 この土方は、京を震撼させる新選組の副長なのだ。血も涙もないと囁かれ、敵どころか味方であるはずの隊士たちにも恐れられている。
 だが、一方で、総司にとっては、いつも心優しく、純粋な少年のような笑顔を見せてくれる恋人だった。心を閉ざしていた総司を、一つ一つときほぐすように開かせ、柔らかく静かに受けとめてくれた彼。
 なのに、それが……。

(全部、嘘だったの……?)

 優しく微笑みながら、その裏で何もかも知っていたのだ。
 総司の苦しみも悩みもすべて知った上で、何も言わず傍にいたのか。総司が知らぬところで、あの冷たい瞳で観察し、策略を張り巡らし、組織を壊滅させる時機を伺っていたのか。
 それがたまらなく恐ろしかった。
 いくら自分のため、おまえを救うためだよと言われても、その容赦ない残酷さが、相手を追いつめてゆく冷徹さが、たまらなく怖いのだ。
 そして、総司を偽っていた事が何よりも。

(私が愛したのは……誰……?)

 総司は震えながら土方を見上げた。それに、彼は微笑みかけ、優しく抱きしめてくれる。
 だが、今の総司には、その微笑みが抱擁が、世界中の何よりも恐ろしかった……。