さくり、と音が鳴った。
 それに心の臓が跳ね上がる思いで振り返ったが、雑木林の中を抜ける道には誰もいない。風が吹いているだけだ。
 その事に安堵感と同時に失望を覚えた自分自身に、総司は戸惑った。

(私は見つけてほしいの? それとも、忘れられたいの……?)

 答えなんて何処にもなかった。





 新選組の屯所を出てすぐ、江戸への道を辿った。
 むろん、これが土方への裏切りになることはわかっていた。何も言わず消えた恋人を、彼はどう思っただろう。
 おそらく初めは探しただろう、戸惑いながら。
 だが、それはいずれ怒りにかわることを知っていた。

 総司は脱走したのではなかった。
 事前に近藤に隊を抜ける許可をもらった上で、江戸へ帰ったのだ。療養したいといえば、近藤は即座に許してくれた。
 が、その時、総司は一つだけ願い事をした。土方には秘密にしておいて欲しいと。
 二人が念兄弟であることは新選組の中でも公にされてあり、当然ながら近藤も知っていた。そのためか、総司がその願いを申し出ると、痛ましいものを見るようなまなざしを向けられた。が、結局は黙って頷いてくれたのだ。
 二度と彼のもとへ戻るつもりはなかった。

 あのままいれば、自分が自分でなくなる怖さがあった。
 いずれは土方にすべてを打ち明け、巻き添えにした事だろう。それが恐ろしかった。
 彼はとても心優しい人だ。
 新選組副長として振る舞う土方は冷徹で残酷極まりない一面があるが、それでも、総司に対しては真実優しかった。
 時々見せてくれた少年のような笑顔、さしのべられた手、そっと抱きしめてくれたあのぬくもりは、決して忘れない。
 近づいた時はそんなつもりなんて、全くなかった。
 なのに、気がつけば、後戻りが出来ないぐらい、彼を愛していた。
 彼がいない世界なんて、考えられないぐらい。

「でも、もう……絶対に逢わない」

 京と江戸は遠く離れている。
 そう簡単に会える距離ではなかった。それに、お光を連れ出したら、そのまま遠くへ逃げるつもりだ。
 逢えるはずがなかった。
 あの愛しい男とは、二度と。

「……」

 総司はきつく唇を引き結ぶと、編笠を深くかぶった。そして、決然とした面持ちでまっすぐ歩き出していったのだった。








「……歳」

 声をかけられたが、土方は全く無視した。
 知らぬ顔で準備を進めていく。無言のまま、手元の仕事を片付けることに専念していた。
 それに、近藤がため息をついた。しばらく黙っていたが、やがて諦めたのか、局長室へ去っていった。
 土方はその足音が遠ざかるのを聞きながら、筆をきつく握りしめた。
 正直な話、近藤が去ってくれてよかったと思った。あのまま話を続けられれば、なりふり構わず非難しまいそうだったのだ。
 必死に抑えている苛立ちが爆発寸前だった。

(畜生……っ)

 油断していたとしか言いようがなかった。
 長年恋い焦がれつづけ、ようやく手に入った幼い恋人に浮かれてしまっていたのか。
 あの日、土方が目を覚ました時、既に総司の姿はそこになかった。初めは、ただ自分の部屋に戻ったのかと思った。
 真夜中の訪れには驚かされたが、それだけ自分に心を開いてくれた証だと思っていたのだ。
 だが、それは間違いだった。
 総司は最期の別れを告げに来たのだ。

 異変に気づいたのは、自分でも情けない事に昼過ぎだった。
 打ち合わせのために広間へ入った土方は、自分の定位置の隣の席が空いていることに、眉を顰めた。

「……沖田君はどうした」

 そう訊ねた土方に、斉藤や永倉たちも首をふった。誰も知らないようだった。
 訝しく思いながら腰を下ろしたところへ、近藤が入ってきた。席につき、打ち合わせを始めようとする。
 総司がいない事に気づいていながら頓着しない態度に、思わず言った。

「局長、沖田君の姿がないようですが。何か別用でも?」
「……脱退させた」

 間違えのようない明確な言葉に、息を呑んだ。
 一瞬、頭の中が真っ白になる。
 何を言われたのかさえ、わからなかったのだ。否、頭が感情が理解することを拒絶していた。
 呆然としている土方をよそに、斉藤が鋭く問いかけた。

「脱退とは、総司をですか? いったい何が」
「総司自らの希望であり、むろん、おれも許可した。療養のために江戸へ帰ると言っていた」
「そんなこと、誰も聞いていません!」
「だろうな。皆には黙っていてほしいと言われていた」
「……」

 静かな口調で答える近藤に、次第に沸々とした怒りがこみあげた。
 公の場でなければ、掴みかかっていただろう。
 自分でもわかっていた。これは嫉妬だ。総司の本心を聞かされていた近藤に対する、醜い嫉妬だった。

 土方は腹の底が焦げつくような憤怒と嫉妬を、懸命に押し殺した。きつく奥歯を噛みしめ、堪える。
 この場で醜態をさらす訳にはいかなかった。彼は総司の恋人である前に、新選組副長だったのだ。
 その副長として打ちあわせをやりきった後、手早く書類を片付けた。立ち上がり、大股に広間を横切る。心配そうに斉藤がこちらを見ているのを知ってはいたが、何も言う気になれなかった。
 結局、近藤が部屋まで来て声をかけてきたが、それさえも無視した土方は片手で口元を覆った。

「……っ」

 肩で大きく息をした。そうしなければ、叫びだしてしまいそうだったのだ。

 近藤にも周囲にも腹をたてていたが、何よりも一番怒りを覚えたのは己自身だった。
 あれだけ慎重に事を進めてきたのに、やはり身も心も手にいれた喜びが己の理性を狂わせたのか。最後の最後で油断してしまった。
 もう大丈夫だ、これで総司は俺のものだと安心し、気を抜いてしまったのだ。

 ──ほんの一瞬だけ。

 だが、その一瞬が命取りだった。あの総司相手にそんな油断が許されるはずもなかったのに。
 休息所に閉じ込めればよかったのか、いや、いっそ鎖で繋いでしまえばよかったのだ。そうすれば、あの愛しい恋人が自分の腕の中から逃げ出すことなど、ありえるはずもなかったのだから。
 むろん、憎まれただろう。驚愕し、泣いて彼を嫌悪する姿が目にうかぶようだった。
 当然だ、今まで土方は優しい男を演じてきたのだから。
 総司がどんな我儘を言っても、冷たい素振りをみせても、動じず全てを柔らかく受けとめた。他の誰にも見せたことのない笑顔で、総司の心を開かせようとした。
 但し、総司に見せた優しさが嘘だった訳ではない。総司を甘えさせ優しくすることは、土方の欲求でもあった。愛しくて可愛くてたまらないのだ。

 世界中の幸せをかき集め、花片のように降らせてやりたい。

 なのに、その総司は彼の手から逃げ出したのだ。
 それは決して許されぬ事だった。愛する総司が彼の知らぬ何処かにいるなど、我慢ならなかった。
 今もあれこれ考えてしまうのだ。
 恐ろしいめにあっていないか、不安がっていないか、泣いていないか。総司が辛いめにあうと想像するだけで、胸奥が痛くなり息がつまった。

 その想像を頭をふることで振り払い、土方は立ち上がった。ある事を決意したのだ。
 固い面持ちで訪ねると、局長室にいた近藤は驚いたようだった。当然だろう。先程、完全に無視された相手なのだ。

「……明後日出発する予定の江戸行きは、俺が行く」

 いきなり切り出した土方に、近藤は目を見開いた。呆気にとられた顔になっている。
 それに畳み掛けた。

「他の誰が行くよりも俺の方がいいだろう。この際、俺が行って采配をとってくる」
「い、いや、待て。歳、おまえは副長だ」
「だから? 副長だから駄目だって規則でもあるのか。隊にはあんたがいればいいはずだ」
「歳、おまえ……総司を連れ戻すつもりか」
「当然だ」

 きっぱり言い切った土方に、近藤は疲れたように嘆息した。しばらく黙ってから、目の前にいる盟友を眺めた。

「総司の気持ちは考慮せんのか。脱退のことだが、あいつ、おまえにだけは秘密にしてくれと言っていたのだぞ」
「……っ」

 胸奥に錐が捩じ込まれたような痛みを覚えた。

 総司は俺を拒絶している。

 認めたくない真実を突きつけられ、屈辱と怒りに拳が震えた。
 もはや捨てられた男同然だ。総司は彼の庇護も愛も何もかも拒絶し、逃げ去ってしまったのだ。それを追うのは愚かそのものだろう。
 矜持があるのか、情けないと思われて当然だ。誰に聞いても、男ならば、きっぱり諦めろと言われるに違いない。
 だが、土方にとって、矜持や立場など、どうでもよかった。総司が手に入るなら、他の何を捨ててもいい。
 今も跪いて乞うことで総司が戻ってきてくれるなら、どんな事でもしただろう。惨めだ、情けないと嘲られても平気だ。
 総司が傍にいてくれるなら、他には何も望みはしない。


「俺は……諦めない」

 喉奥から絞り出すような声音だった。

「総司を諦めねぇよ。必ず取り戻す」
「歳……」
「あんたが止めても無駄だ」

 そう言い切るなり、土方は立ち上がった。
 急遽、江戸行きの準備を整えなければならなかった。仕事を片付ける必要もあるし、江戸での手配もある。その段取りを考えながら局長室を出た土方の前に、誰かが立ち塞がった。
 不愉快さを隠そうともせず眉を顰めて顔をあげれば、そこには斉藤が立っていた。

「オレも連れていって下さい」
「……」
「総司はオレの友人です。それに……オレは事情をわかっています、手伝えるはずです」
「……」

 斉藤の言葉に、土方の目が細められた。しばらく黙ってから、低い声で問いかける。

「明後日、出発だ。すぐに準備できるか」
「出来ます」
「なら、やれ」

 傲慢に命じる土方に、斉藤は頷いた。一礼してから足早に去ってゆく。それを見送り、土方は副長室にむかって歩きだした。
 その端正な顔にある表情は冷たく、決然としたものだった。










 江戸へ着いて、すぐに行動する訳にはいかなかった。
 総司が京を離れたことは、既に連中に知られている可能性もあるのだ。そのため、お光のところに直行するなど、言語道断だった。
 しばらくは様子をみて策を練る必要がある。
 総司は、お光たち一家が住む場所から少し離れたところに、宿をとった。

(どうするべきなのだろう)

 お光だけを連れ出そうとしても、それは姉自身が嫌がるだろう。
 夫と子供を置いて逃げるなど、彼女が承知するはずもない。だが、彼ら全員を連れて逃げるわけにはいかなかった。
 京を出る時は、お光を連れて逃げることだけを考えていたが、そこに彼女自身の意思はなかった。遠く離れていたためか、総司はお光を守るべき存在としてだけ考え、その意思や気持ちを思いやることが出来なくなっていたのだ。

 否、京へ行く前からそうだった。
 総司は幼い頃から暗殺というものに手を染め、周囲にそれを押し隠してきたためか、人との交流が少なかった。それゆえ、極端なほど人の心や機微を察することが難しかったのだ。
 土方に対しても同じだった。
 彼が自分を好いてくれていることはわかっていたが、自分の言動でどんなふうに思うか、察することが出来なかった。
 だが、彼を愛したことで、そして、自分でも驚くほどの愛情を返してもらったことで、総司は人の気持を知りたいと思うようになった。相手の立場に立つまでは出来なくても、せめて、少しでもわかりたい、理解したいと考えるようになったのだ。
 そのため、今回、お光をどうするべきか、考えあぐねていた。
 彼女の気持ちまで考えていては手遅れになるとわかっていても、なかなか動けない。





「とりあえず様子を見にいこう……」

 総司は一つ決心すると、二階の部屋から階段を降りた。
 明るく挨拶してくれる宿の者たちに会釈しながら、宿の玄関を出る。
 外に出れば、春の柔らかな風が総司の黒髪を波うたせた。総司は一つに束ねて高く結んでいるのだが、男にしては長く艷やかな黒髪のため、一見すれば女性のように見えてしまうことが多い。女性というより、美しい少女が男装しているように見えるため、今も、町行く人々が見惚れる視線をおくっている。
 その事に全く気づかぬまま、総司は足早に歩きはじめた。いくらか歩けば、お光が住む家の近くまでたどり着ける。
 とたん、はっとして慌てて身を隠した。
 お光が買い物へ行くのか、籠を手に歩いてくるのが見えたのだ。先日の襲撃で難を逃れたが、気持ちが落ち着かぬようだと義兄からの文にはあったが、もうすっかり元気であるようだった。明るい面持ちで、店に入り買い物をしている。
 それを、総司は安堵する思いで見守った。

(よかった……)

 彼女の手で育ててもらったと言ってもよい、最愛の姉なのだ。
 優しくいつも穏やかで、あたたかい笑顔が似合う美しい姉だった。総司が口べらしに道場へやられる事になった時も、最後まで反対し泣いてくれた姉。
 その姉が人質にとられれば、理不尽な事であっても従う他なかった。いくら報酬だと金を渡されても、怒りと屈辱はおさまらなかった。
 殺してやろうと思ったこともあったが、総司一人で相手に出来る人数や組織ではなく、抗うことさえ出来なかったのだ。

 総司は物陰からお光を見守っていたが、やがて、一人の男の存在に気がついた。はっと息を呑む。
 深く編笠をかぶった小柄な男が、お光の後をずっと追いつづけていた。顔はよく見えず、わからない。だが、それでも、総司にはそれが何のための存在であるか、すぐさま理解できた。

(見張りだ……!)

 監視、それとも、再びお光を襲撃するつもりなのか。
 人質と言っても見張りが常についている訳ではない。暗殺を請け負う者が裏切ったり、裏切りそうになった時だけ、見張られ、やがて手を下されるのだ。
 一度襲撃があったことから可能性はあった。だが、ここまで監視者がぴたりと張り付いているとは思わなかったのだ。
 これでは、お光を連れ出すことなど出来ない。
 総司は血の気が引くような思いで立ち尽くした。