ふわりと撫でられた気がした。
 優しく、そっと守るように。

「……」

 ぼんやりと目を開けば、黒い瞳がこちらを見つめていた。布団の上に肩肘をついて横になり、見つめている。
 片手は、総司の髪や頬を柔らかく撫でていた。

「……土方、さん……?」
「おはよう」

 笑顔で顔を近づけ、口づけてくる。
 それに、はっと我に返った。思わず叫んでしまう。

「あ、あの……外泊届け!」
「……っ」

 土方が一瞬目を見開いてから、肩を揺らして笑いだした。おかしくてたまらぬらしく、くっくっと喉奥で笑っている。
 それに唇を尖らせた。

「笑う事ないと思うのです。土方さんが決めた規則だし」
「いや、起きてすぐの言葉が、それかよと思ってな。大丈夫だ、昨夜のうちに出してある」
「そう…だったんですか。ありがとうございます」
「どう致しまして」

 悪戯っぽく笑いながら答えた土方は、そっと総司を抱きおこした。自分はあぐらをかいた形で、総司を凭れかからせるようにして坐らせる。
 額をそっとあてられた。

「うん……熱はないな」
「大丈夫です」
「だが、躰が怠いだろう。帰営するのは夕方にしよう」
「そんな……土方さん、仕事が」
「仕事よりおまえが大切だ」

 きっぱり断言してくれた彼に、胸がふわりとあたたかくなる。頬を染めて俯いた総司を、土方は柔らかく抱きすくめた。

「すげぇ可愛いな……おまえが俺のものになってくれた事が、今でも信じられねぇよ」
「私も、です。私も……信じられないぐらい幸せ……」

 ぽろりと涙がこぼれた。
 幸せなのに、涙がこみあげたのだ。そんな総司に驚き、覗き込んでくる土方に「大丈夫」と答えながら、その理由がわかっていた。


 仮初の幸せだから。

 今こうして土方に愛され、彼を愛しているこの一時は仮初に過ぎなかった。
 むろん、彼の気持ちを疑うわけではない。線香花火のようだと自らに言い聞かせる必要もなかった。
 むしろ、そうであっても構わない。大切なことは今、この瞬間、彼が当に自分を愛してくれているという、その事だけなのだから。
 だが、それでも、土方と総司の幸せは仮初めだった。
 総司が彼の命を狙っている。それを知られるまでの一時のこと。偽りに彩られた関係など、長続きするはずがないのだから。


「……総司」

 彼の肩に顔を押しつけ、声を殺して泣きつづける総司に、土方はきつく唇を噛みしめた。

 こうして腕の中にいてくれる総司が愛しい一方、他の者のために泣く総司が憎らしくもある。
 総司へと向けられる全てが、己ゆえであればいいとさえ願う、この執着。
 狂ったような男の独占欲を知れば、この純真な若者は逃げてしまうのだろうか。
 地の果てまでも。

 ほの暗い情愛を押し隠し、土方は柔らかく総司の頬に口づけを落とした。そのまま涙を唇で拭いとってやれば、驚いたように目を見開く総司が可愛らしい。

「朝餉をとろうか」

 泣いている理由も聞かず、そう言った土方に、総司は少し戸惑っていたが、やがてこくりと頷いた。

「よし」

 土方は笑顔になると、総司の躰を抱き上げた。子供のようにたて抱きにしたまま、縁側から庭へ降りれば、総司が慌てる。

「ちょっ……土方さん!」
「何だ」
「お、下ろしてっ、私、子供じゃないんだから」
「あぁ、子供じゃねぇよ」

 くすっと笑い、艶っぽい流し目で総司を見やった。それに、総司が顔を真っ赤にしてしまう。

「おまえは大人だ。俺が男を教えて、昨夜、大人にしたからな」
「ひ、土方さんッ」
「本当の事だろう? あぁ、可愛いな」

 耳たぶまで真っ赤にして恥じらう総司が可愛くて可愛くて、たまらなくなる。が、ここで手を出せば、それこそ夕方にも屯所へ戻れなくなってしまうだろう。
 さすがにそれはまずいと、土方は総司を下ろしてやった。縁側に坐らせる。そのまま身をかがめ、耳元に唇を寄せた。

「好きだ、総司」

 低く囁きかければ、頬を桜色に染めたまま、こくりと伏し目がちに頷く。煙るような長い睫毛が震えた。
 その愛しくも憎らしい恋人を抱きしめ、土方は静かに瞼を閉じた。


――この存在を決して離さぬと、誓いながら。









 それは、総司が土方と本当の意味で恋人になった翌日の事だった。
 江戸から送られてきた文に、総司は息を呑んだ。
 忘れていたわけではない、だが、現を突きつけられたのだ。

 それは、お光の夫からのものだった。
 お光が先日、ならず者に襲われかけたとの事だった。たまたま、通りかかった武家に助けられたとの事であり、怪我もなかったが、ならず者は未だ捕まっていないのだという。
 その出来事が意味する事は、明白だった。
 挙げ句、ほぼ日を置かず届けられた文。暗殺の催促。

 総司は二通の文を前に、呆然とした。

(どうすればいいの……っ)

 暗殺を実行しなかった場合、人質の行く末は決まっていた。
 必ず殺されるのだ。
 それはよく知っている事だった。むろん、総司自身が人質に手を下したことはない。
 総司が暗殺を引き受けるにあたり、一つだけ出した条件は、女子供は対象としないという事だった。それだけは出来ないと告げ、それは意外にも了承されたのだ。おそらく、女子供が暗殺対象となる事など、ほとんどなかったからだろう。
 だが、人質の場合は違う。
 暗殺を請け負わされている者たちの人質の大半は、女子供だ。彼らは、暗殺を請け負う者が命令に背けば、必ず殺された。
 所謂、見せしめだった。
 逆らえばどうなるのか、他の者に晒すことで恐怖を植え付けるのだ。

 それゆえ、総司が土方を殺さなければ、お光は必ず殺される。それは明確な現実だった。また、総司が自死したとしても同じことだ。どのみち、見せしめとして、お光は殺されるのだ。
 お光を守るためには、土方を殺す他なかった。だが、しかし。

(そんな事……できない)

 総司は己の肩を抱きしめ、きつく目を閉じた。
 出来るはずがないのだ。
 あんなにも優しく愛しい彼を殺すことなんて、できるはずがない。彼を失うぐらいなら、自分が死んだ方がましだった。
 だが、その恋のために、己の愛のために、何の罪もない優しい姉を見殺しにするのか。

「……っ」

 不意に、傍らに感じた気配に、はっと顔をあげた。
 思考に沈んでいたのでわからなかったのだろう。
 気がつけば、土方が傍らに佇んでいた。総司が気づいた事を知ると、ゆっくりと片膝をついた。そっと手をのばしてくる。

「……どうした」

 低い声に、強張っていた体の力が抜けた。否、彼に声をかけられて初めて、自分が躰を固くしていた事に気づいたのだ。
 総司はそれでも両膝を子供のように抱え込んだまま、彼を見つめた。唇が震えた。

「こ、怖くて……」

 意味のわからぬ答えだっただろう。なのに、土方は僅かに首をかしげただけだった。
 冷たく澄んだ黒い瞳が総司だけを見つめている。
 それに、繰り返した。

「怖い、のです。怖くて……たまらない」
「何が」
「あなたを失うことが」

 自然と口に出た言葉だった。


 おそらく限界だったのだろう。
 もともと、総司は剣術は天才的であり、新選組の中で一番隊組長としての働きもずば抜けたものがある。
 だが、一方で、その心は脆く純粋だった。何事にも感じやすい若者なのだ。その総司が暗殺という闇を抱えながら、それでもやって来る事が出来たのは、試衛館という場に身を置いていたからこそだった。京に上ってからは、新選組がその代わりとなった。
 居場所がある。それは総司の心を守った。
 酷い事をしている、後ろめたく恐ろしい所業を繰り返す自分にも、帰れる居場所がある。
 愛する姉のためだと言いながら、命令されるまま人殺しを繰り返す自分を、総司は憎悪していた。だが、そんな総司を、試衛館の人々はごく普通の若者として扱った。
 別に何か特別なことをされたわけではなかったが、逆に、その特別でない事が、あの頃の総司には嬉しかったのだ。

 むろん、暗殺という所業を知らさぬため、出来るだけ人とのつきあいは希薄にした。
 が、それでも彼らは別にそれを厭うことも、気にすることもなかった。ただ、沖田総司という存在として、接しつづけたのだ。暗殺のための道具ではなく。

 新選組の隊士というもの自体、人を殺すための道具だと断じる人々もいるだろう。
 だが、総司にとってそれは全く意味合いが違った。目的もなく、それも闇に紛れて殺すのではない。京の治安を守るという大義名分があり、それは幕府を支えることに繋がっていた。
 だからこそ、総司は息ができたのだ。道具ではない自分を感じて、安堵できたのだ。
 が、そこに与えられたのは、土方の暗殺命令だった……。


「俺を失うこと?」

 土方は虚を突かれたようだった。驚いたように目を見開いている。
 それに、総司は何も言わなかった。黙ったまま、彼の端正な顔を見つめている。
 しばらく黙って考え込んでいた土方は、やがて、微かに笑った。手をのばし、総司の手に重ねてくる。

「……失わねぇよ」
「っ、で、でも……」
「失わねぇ。おまえは決して俺を失わん」

 きっぱり言い切ってから、僅かに目を細めた。形のよい唇の端があげられる。

「それとも何か。おまえは、俺がそう簡単にやられるような男だと思うのか」
「違い、ますけど……」
「なら、理解しろ。俺を失うなどありえぬ事を、おまえは理解するべきだ」

 静かな言葉に、瞠目した。
 人によっては傲慢とも思える言葉だろう。だが、それは今、総司の救いとなっていた。
 この愛しい男が失われる事など、ありえない。
 何があっても、決して。

「土方さん……っ」

 縋りつくように腕の中へ飛び込んできた総司を、土方は抱きとめた。逞しい腕でしっかりと抱きしめてくれる。
 それが嬉しかった。
 どんな事があっても揺るがぬ彼の力強さ、大丈夫だと言い切ってくれる彼の存在が、嬉しかった。
 そのためか、思わず全てを告げてしまいそうになる。助けてほしいと、彼を頼りたくなったのだ。
 総司はぎゅっと彼の着物を掴みながら、目を伏せた。

「……あの、あのね」
「総司?」
「あの、私、土方さんに……」

 そう言いかけた時だった。
 不意に廊下で足音と気配がおこり、声がかけられた。

「――副長」

 監察の山崎だった。
 はっと振り返れば、縁側に片膝をついた山崎が目を伏せている。

「こちらでしたか。お探ししました」
「何用だ」
「例の件のご報告を。文が参りましたので」
「……」

 見上げた視線の先で、土方が僅かに眉を顰めた。何か思わしくない件なのだろう。
 少し黙ってから、彼は小さく吐息をもらした。

「わかった。副長室で聞く」

 そう答え、腕の中の総司を見下ろした。不安げな恋人に笑いかけると、その白い頬に口づける。

「悪い。後でな」
「はい」

 こくりと頷いた総司の髪を撫でてから、土方は腕をほどいた。ゆっくりと立ち上がり、部屋を出てゆく。黒い着物の裾をひるがえし出てゆく彼をぼうっと見送っていると、縁側にいた山崎が静かに黙礼した。それに慌てて頭を下げた。
 山崎はまさに土方の懐刀だ。彼が監察としてだけでなく、土方直属の別働隊を仕切っていることは、知っていた。全く表に出てこない隊であり、一番隊組長である総司でさえ顔を知らぬ隊士ばかりだ。かなりの人数がいるようだった。
 そのため、山崎は多忙だ。むろん、それ以上に多忙なのは土方なのだが。

(土方さんに、私は頼りすぎている……)

 総司はのろのろと両手で唇をおおった。

 先程も、危うく彼に全てを打ち明ける処だったのだ。無性に怖くて不安で、頼りそうになった。守ってほしいとさえ願った。
 山崎が訪れてきたことで、それは逃れたが。
 我にかえれば、自分の弱さが脆さが……恐ろしかった。

 いつの間に、こんなに弱くなったのだろう。彼を失うことが怖くて震えているような、そんな情けない自分ではなかったはずなのに。
 これは己自身が始末をつけるべき事なのだ。
 無関係な彼を巻き込む訳にはいかない。

「……」

 総司は文箱から例の文を取り出すと、静かに見据えた。きつく唇が噛みしめられる。
 障子の外で、ほろりと花びらが舞い落ちた。








 真夜中だった。
 微かな音に、土方は眠りから引き戻された。
 廊下を渡ってきた誰かが、部屋の外で膝をついた音だった。
 反射的に起き上がり枕元の刀を掴もうとした瞬間、障子の外から声がかけられた。

「……土方さん」

 その小さな声に、驚いた。
 こんな夜更けに何があったのか。

「総司か」
「はい。……入ってよろしいですか」
「あぁ」

 男の言葉に、すっと障子が開かれた。白い寝着姿の総司が部屋に入ってくる。
 薄闇の中、総司は迷うことなく彼がいる場所まで歩いてくると、驚いたことに、するりと布団の中へ入ってきた。
 それに思わず訊ねた。

「いったいどうしたんだ」
「何も……ただ、あなたの傍にいたいのです」
「総司」

 土方は少し困ったように、呼びかけた。そっと髪を撫でてやる。

「褥を共にして、俺が何もしないと思っているのか?」
「屯所では少し難しい……?」
「そうだな。おまえの声を他の奴に聞かせたくねぇな」

 冗談っぽく言った土方に、総司はくすくすと笑った。鈴を転がすような声だ。

「じゃあ、このまま一緒にいるだけにして下さい。それなら難しくないでしょう?」
「おまえな、俺に苦行しろって事か」

 はぁっとため息をつき、土方は総司の躰を腕の中に入れた。そっと優しく抱きすくめてやる。
 男の腕の中にすっぽりとおさまった小柄な躰は、とけてしまいそうなほど儚かった。先日、抱いたはずなのに、それが夢だった気がしてしまう。
 総司は、色がないのだ。透きとおった硝子細工のような存在だった。そのため、土方が抱いても愛しても、それは総司に何も影響を及ばさない気がした。どんな激情も想いの深さも。
 だが、今、総司は少し不安げに彼を見上げている。薄闇の中でも、その揺れる瞳がわかった。
 その不安が己ゆえであればいいと思ってしまうのは、傲慢なのか。愛するゆえの執着なのか。

「……土方さん」

 きゅっと、総司の細い指さきが彼の着物を縋るように掴んだ。何か言いたげに唇が震え、だが、そのまま俯いてしまう。
 その髪に優しく口づけた。

「何も言わなくていい……今は眠れ」
「……」
「ずっと傍にいてやるから」

 それはある意味、願いでもあった。

 傍にいたい、おまえと共に在りつづけたい。
 何があっても永遠に。

 だが、それは己だけの願いだったのか。叶わぬことだったのか。
 翌朝、目を覚ました土方は、腕の中から、総司が消えていることを知った。そして、それは彼の傍からだけではなかった。



 初春の朝、総司は行方を絶った……。