静かな夜だった。
 凍えた月が群青色の空にかかっている。
 影が一つ、ふわりと屋根上に降り立った。黒い装束をつけた小柄な姿だ。艷やかな黒髪を一つに束ね、顔の下半分を布で覆っていた。
 その面立ちが伺えるのは、目元だけだ。大きな瞳が潤んだようで、どこか可憐な子猫を思わせた。
 だが、足元の京の町へ視線をやれば、冷たい印象に変わる。


(雲が出てきた……月が隠れればいいけれど)


 土方に顔を見られたくなかった。
 総司に殺されるのだと、知らせたくない。何も知らぬまま、あの世へ送ってあげたかった。
 否、総司の方が怖かったのかもしれない。
 最期の瞬間、彼の瞳に湛えられるだろう、己への憎悪や怒りを見たくなかった。

「……」

 きっと唇を引き結んだ総司は、屋根上で小さく蹲った。

 足音が近づいてくる。
 単独行動を好む土方は今夜も一人だ。むしろ、今まで総司に護衛させていた事の方が不思議だった。
 あれも、彼なりの愛情表現だったのか。

 総司はゆるく首をふると、想いを振り払った。そのまま、視線を白い路上に向ける。
 土方の姿が見えた。ゆっくりと、こちらへ向かって歩いてくる。
 雲が柔らかく月を隠しかけた瞬間、総司は一気に飛び降りていた。既に刀は抜き放たれてある。
 ぎらりと銀色の刃が闇に光った。

「……ッ!」

 刃は男の肩先を掠めた。
 息を呑む。が、構わず、もう一度刃を振り上げ斬りかかった。
 それに土方が飛び退りざま、刀を抜き放つのが見えた。そのまま正眼で刀を構え、草履を乱暴に脱ぎ捨てる。

「……」

 何も問われない。
 無言のまま、こちらをじっと見据えていた。その端正な顔に表情はない。闇の中、黒い瞳が冷たく光っている様が獰猛な獣のようだ。
 襲いかかったのは此方なのに、総司が獲物であるかのようだった。ぞくりと背筋が寒くなる。

 もう少しで雲が切れる。

 月光が地上に降り注ぐ一瞬前、総司は身をひるがえしていた。素早く地を蹴り、屋根上へ飛び上がる。
 立ち去る総司を土方は追うでもなく、ただ、眺めているようだった。振り返れば、刀をだらりと下げたまま、こちらを見ている姿が目に映る。

(どうして……なの)

 その問いは、己に対してだ。
 しくじったのだ、仕事を。
 土方を殺すことが出来なかった。

 あの時、もう一度斬りかかることは可能だっただろう。だが、彼を斬ることは出来なかった。
 初太刀が狂った。それゆえなのか。否、違う。
 直前までは冷然と決意していた、当然のように彼を殺そうと決めていた。
 なのに、土方の姿を見た瞬間、すべてが呑まれたのだ。殺意も決意もお光のことも何もかも消え去り、彼への愛しさがこみ上げた。

 いとしかった。
 愛しくて愛しくて、たまらなかった。

「……っ」

 総司はきつく瞼を閉じると、何度も呼吸を繰り返した。
 屯所の近くまで来てからのことだ。忍び込むように自室へ戻り、手早く黒装束を脱ぎ捨てながら考える。

 この先、どうすればいいのか。
 土方を殺すことは出来ない、自分には無理だ。ならば、どうするべきなのか。
 考えても考えても、わからなかった。ただ、このままではまずいということはわかる。
 もしかすると、彼に見られたかもしれないのだ。総司が刺客だと、気づかれたかもしれない。
 ならば、すぐにでも逃げるべきだった。
 土方に追求される前に逃げて、あの連中よりも早くお光を連れ出して、それから。

「!」

 考えに沈んでいた総司は、はっと息を呑んだ。
 足音がこちらに近づいてくるのだ。刻むような足音、明らかに彼のものだった。
 まさか、帰営してすぐこちらへ来るとは。明らかに気づかれたとしか思えなかった。

(どうすればいいの)

 呆然と部屋の中で立ち尽くす総司に、障子の外から声がかけられた。

「……総司」
「あ」

 こくりと喉が鳴った。が、ここで暴かれる訳にはいかない。証はないのだから白を切り通さなければいけなかった。
 総司は無意識のうちに胸元をきつく掴みながら、答えた。

「はい……」
「今、いいか」
「えぇ……どうぞ」

 すっと障子が開かれた。
 部屋に入ってきた土方は、先程と全く同じ出で立ちだった。黒の羽二重の羽織に、黒の長袖、袴を身に着けた武家姿だ。いつもと変わらぬ副長らしい姿だったが、一箇所だけ違う所があった。
 肩の部分だ。総司の刃が掠めた部分が切れていた。
 そこに目をとめて息をつめた総司に、土方は気づいたようだった。苦笑する。

「あぁ、掠り傷だ。たいした事ではない」
「……」
「それよりも話がある。坐っていいか」

 ぎこちなく頷いた総司に、土方は静かに腰を下ろした。それから、ふと気づいたように総司を見る。

「おまえも坐ってくれ」
「あ……は、はい」

 慌てて坐った総司を、土方は切れの長い目で見つめた。
 それに息がつまり、指先が冷えた。

 ついさっき、命を狙った男なのだ。彼を殺そうとした。今も、斬りつけた刀の感触がこの手に残っている。
 なのに、その彼の前で平然としているなど、到底できなかった。どうしても視線を落とし、俯いてしまう。
 それがひどく怯えているように見えたのだろう。
 土方が、ぽつりと低い声で言った。

「……おまえ、俺が嫌いか」
「え」
「俺のことが嫌いになったのか、疎ましく思うようになったのか」
「?」

 思ってもみないことを言われ、総司は顔をあげてしまった。呆然と見上げれば、土方は苦々しげに唇を歪める。
 くしゃりと髪をかきあげながら、言葉をつづけた。

「当然だな。おまえからすれば、俺は九つも年上で、しかも男だ。優しくしてやることもできねぇし、挙げ句、山南の件ではおまえに辛い役目を背負わせた」
「土方、さ……」
「だが、俺はおまえが好きだ、おまえに惚れている。生憎、手放すつもりはねぇんだよ」

 駄々っ子のような口調で言い切った土方に、総司は目を見開いた。

 この状況で、まさか彼にこんな事を言われるとは、思ってもみなかったのだ。しかも、どうやら先程の刺客が総司だと気づかれていないらしい。気づいていれば、当然、その事に必ず言及してくるだろう。
 体の力が抜けるような安堵感を覚えながら、総司は口を開いた。

「あの……私、土方さんのこと、嫌いなんて思っていません」
「だが、おまえ、俺のことを避けていただろう」
「それは……」

 確かに真実だ。
 こくりと頷いた総司を、しばらくの間、土方は黙ったまま見つめていた。やがて、深く嘆息した。

「やはり……避けていたのか」
「……」
「気のせいだと思いたかったが、違ったんだな。顔をあわせたくない程、嫌われていた訳か」

 苦々しげな口調に、思わず叫んだ。

「嫌ってなんかいません!」
「なら、どうして避けた」
「それは」

 口ごもった。が、必死に言葉をつづけた。

「山南さんに……土方さんのことを、私が本当に好きだと指摘されて、その、何だか恥ずかしくて……どうしたらいいのか、わからなくて……」

 嘘をつく時は、真実を混ぜること。

「それで、ごめんなさい……土方さんのこと、避けてしまいました」
「総司」

 不意に手を掴まれた。びくりとすれば、柔らかく撫でられる。
 おずおずと見上げると、土方が優しい瞳で見つめていた。

「ありがとう、嬉しいよ」
「土方さん……」
「おまえが俺のことを好きだと言ってくれて、嬉しい。それに、嫌われていないとわかって、心底安堵した」
「そんな、大げさです」
「俺にとっては大事なのさ。この処、ずっと悩んでいたんだからな」

 悪戯っぽく笑いかける土方に、どぎまぎしながら頭を下げた。

「ごめんなさい。避けるなんてして」
「二度としないでくれ。……そうだ、謝る代わりに俺の願いを聞いてもらっていいか」
「願い?」

 不思議そうに首をかしげる総司を、土方は柔らかく抱きよせた。耳もとに唇を寄せる。
 低い声が囁いた。

「……今夜の償いに」
「っ」

 息を呑んだ。
 反射的に彼の胸に手をついて押しやれば、簡単に男の抱擁はほどけた。
 心の臓が激しく打ち、耳奥が痛いぐらいだった。息ができなくなる。それでも震えながら見上げた総司を、土方は静かに見つめた。
 不意に手がのばされて、そっと頬にふれられる。

「どうした、総司」
「あ、あの、意味が……こ、今夜のって……」

 問うことさえ恐ろしかった。が、それでも聞かずにはいられない。

「どういう、意味ですか」
「意味? あぁ、言い方が悪かったか。おまえ、さっき、俺を驚かせただろう?」
「……」
「俺を避けたと言ったかと思えば、好きだと告げる。そうやって男を翻弄した事だよ」
「ほ、翻弄……?」
「あぁ。おまえ、初なくせに、俺を振り回してくるからな」

 くっくっと喉奥で笑う土方は、いつもの彼だった。先程の冷たく低い声音が嘘のようだ。
 あれは錯覚だったのかと戸惑いつつ、総司は答えた。

「そんなつもりありませんけど、でも、願いって? 土方さんが私に何を願うのですか?」
「明日、少しつきあってくれねぇか」
「? 外出ですか。そんな事でいいの?」
「あぁ」

 頷いた土方に、総司は安堵した。何を頼まれるのかと身構えていたのだ。

「わかりました。おつきあいします」

 素直に答えると、土方は静かに微笑んだ。








 翌日、総司は土方と連れ立って屯所を出た。
 馬に二人乗りで行く。それに少し複雑な気持ちになった。

 本来なら、昨夜のうちに逃亡していたのだ。この男を殺す事をしくじったがゆえに。なのに、今、その男とこうして馬に揺られている。
 後ろから抱きすくめられるようにして。
 彼の逞しい腕の中は、本当に心地よかった。守られているという安堵感に、心が満たされる。
 一方でたまらなく怖かった。
 愛しいと、心の底から愛しいと思う男なのだ。傍にいれば、もっともっと好きになる。愛してしまう。
 それがとても恐ろしかった。

「……どこへ行くのですか」

 しばらく馬に揺られ、東山の近くまで来た時、総司は訊ねた。それまで黙って彼に任せていたのだ。
 土方がくつりと笑った。

「今頃、聞くか。おまえは本当に警戒心がねぇな」
「……土方さん相手ですから。警戒する必要なんてありません」
「信頼してくれて、嬉しいよ」

 柔らかな声で言いざま、そっと耳もとに口づけられた。それに、びっくりして目を見開く。
 思わず片手で耳元をおさえた。頬が火照っているのが自分でもわかる。

「ッ! ここ、往来なんですけど」
「そうだな」
「人に見られるのに、こんな」
「構やしねぇよ。逆に、おまえが俺のものだと、見せつけてやりたいね」

 そう言って微笑む土方の顔を、見ることが出来なかった。


 彼のもの。
 そう、自分は彼だけのものなのだ。
 もはや、以前の総司はそこにいない。ただ、もう恋に愛に溺れるばかりだ。

 逃げようと思っていた相手の腕の中で、頬を染めている自分は何なのか。
 以前なら惨めだと思ったはずなのに、今は、もっと彼のぬくもりを感じたくなる。抱きしめられたい、愛されたいと願ってしまう。
 簡単に捨てられる恋だと思っていた。線香花火のような、一瞬の恋。
 だが、今はわかっている。
 そんなこと……出来るはずがない。


「……総司」

 ぼんやりと彼の腕の中で考え事をしていた総司は、男の声に、はっと我に返った。
 びっくりして見上げれば、土方が心配そうに見つめている。

「大丈夫か」
「あ……はい」
「ならいいが、あぁ、着いた。ここだ」

 土方はそう言うと、馬を止めた。ひらりと敏捷な動きで飛び降り、総司にむかって両手をさしのべてくる。それに、おずおずと縋れば、娘にするようにふわりと抱きおろされた。
 思わず周囲を気にしたが、辺りに人気はない。見れば、一軒の家屋があった。小さな庭がある小奇麗な家だ。

「ここは……?」
「俺の家だ。おまえと過ごすために買った」
「え」

 驚いて、思わず声をあげてしまった。唖然とした顔で土方を見上げる。
 それに、土方は悪戯っぽく口角をあげてみせた。

「驚いたか? だが、本当だ」
「い、家って……そんな簡単に」
「簡単ではなかったが、何とか気にいった家が見つかって良かったな。おまえも気にいってくれたらいいが」

 少し気遣うように訊ねてくる土方に、総司は慌てて首をふった。

「気にいらないなんてこと、ありません! でも、土方さん……」
「話は入ってからにしよう」

 そう言うと、土方は総司の肩を抱いた。馬を枝折戸の柱に繋ぎ、敷地内へ足を踏み入れてゆく。
 初春のために、それ程草花がある訳ではなかったが、穏やかな印象の庭だった。それは家屋も同じで、二間と土間だけだが、とても優しく落ち着ける雰囲気だった。他の家に比べて贅沢なのは、小さいながらも風呂場がある事だろう。

「どうだ?」

 辺りを見回している総司に、土方が問いかけた。それに、そっと身を寄り添わせる。

「とても気にいりました。優しい感じで……」
「よかった。安堵したよ」

 本当にほっとしたようで、土方は小さく笑った。総司の頬に口づける。

「おまえが気にいってくれなきゃ、どうにもならねぇからな」
「だけど、土方さん……本当にいいの? こんな家まで用意して」
「どういう意味だ?」
「だって、後戻りできなくなる。私を念弟になんかしなくても、土方さんならもっといい人が沢山……」

 口にするのも嫌で辛くて、総司は唇を噛んで俯いてしまった。それに、土方は身をかがめ、愛らしい顔を覗き込んだ。
 そっと、優しい声で囁きかける。

「俺はおまえがいいんだ。総司、おまえしか望まない」
「土方さん……」
「自分でもおかしくなるぐらい、惚れちまっている。おまえだけが好きだ……愛しているんだ」
「私、は……っ」

 震える声で、総司は答えようとした。が、出来ない。
 いくら彼がそれを知らずとも、昨夜、土方を殺そうとした事は紛れもない事実だ。
 なのに、今更、愛を告げる資格が自分にあるのか。
 否、応える資格さえないのに。
 それでも、彼を求めてしまう自分が怖かった。こんなにも身勝手で凶暴な感情は初めてだ。

 彼に愛されるのなら、他の何を捨ててもいい――などと、思ってしまうなんて。

 ぎゅっと己を守るように身を竦めた総司に、しばらくの間、土方は黙っていた。
 が、やがて、ゆっくりと手をのばし、柔らかく引き寄せる。その逞しい両腕で包みこむように抱きすくめた。

「すぐに答えようとしなくていい」

 土方が囁いた。
 己の腕の中に抱きすくめた総司の額に、髪に、口づける。

「今はただ、傍にいてくれたらいいんだ。俺の傍にいてくれるなら、急かすつもりはない」
「土方さん……」
「おまえにとって、この恋は嵐のようなものだろう。俺が強引に引き込んだ。だからこそ、おまえをこれ以上追い詰めたくない、急かしたくないんだ」
「……っ」

 あくまで総司を大切に思いやってくれる土方の優しさに、愛情の深さに、涙がこぼれそうになった。
 ……嬉しい。
 純粋に、愛されることが嬉しい。
 けれど、自分は彼に愛される資格があるのだろうか。
 彼の命を狙うために近づいたのに。昨夜も実際、彼に刃を向けた。なのに、それを隠して彼の愛情を優しさを受ける自分は、本当に狡くて酷い。

「……土方さん……」

 彼の名を呼んで、縋るように男の背に手をまわした。ぎゅっとしがみつく。
 ぬくもりが愛おしい。
 本当なら、昨夜絶たれていたはずの命。
 それが今たまらなく恐ろしかった。このぬくもりを失うことを思うだけで、身震いがするほどの怖さを感じる。
 彼を失わぬためなら、何でも出来ると思うほどに。

(愛してる、あなただけを愛してる……)

 だが、彼を殺さなければ、姉が殺されるのだ。
 どうすればいいのか、総司にはもう──わからなかった。









次、お褥シーンがあります。苦手な方は避けてやって下さいね。