ゆっくりと瞬きした。
それに、土方が切れの長い目をむける。微かに苦笑した。
「……気にそまぬ答えだったらしいな」
「え?」
「また、手を握りしめている」
気がつけば、片手をきつく握りしめていた。土方に指摘されるまでは知らなかったが、総司が何かを堪える時の癖だ。
黙ったまま力を抜いた総司に、土方は静かな声で言った。
「俺が、おまえの何を知っていると言いたいのだろう」
「……」
「図星か。だが、それの何処が悪い」
「……え」
驚いて顔をあげた総司に、土方は皮肉げに唇の片端をあげてみせた。軽く身をかがめ、総司の顔を覗き込む。
彼の澄んだ黒い瞳が深々とこちらを見つめた。
「おまえだって、俺の本質なんざわからねぇだろう。当然だ、本人じゃねぇんだからな」
「……」
「内面だ、性格だと言っても、全部知っている訳じゃない。人は己の目で見えたもの、感じたものしか、理解できねぇよ」
手をのばし、そっと頬にふれた。
「だが、俺はおまえと接して感じたこと、知っている事柄で、少しでもおまえを理解したいと思った。心寄りそいたいと願った。俺は……おまえの笑顔が見たい」
「土方…さん……」
「好きだ。総司。おまえが好きだよ。俺は、ここに今いるおまえが好きなんだ」
「……っ」
虚を突かれた。
彼が言っていることは真理だった。
他人が相手の心の奥底まで、内面までわかるはずもない。己自身でさえ掴めぬものを、他の者が理解できるはずもないのだ。
だが、それでも好意を持ち、逆に悪意をもつのは、表面に現れた性格や言動に影響されるからだ。むしろ、それしか判断材料がない。
土方が総司を好きだと言ってくれること。それこそが真実なのだ。
彼も、総司の全てを理解している訳じゃない。ただ、好意をもってくれた、心寄りそいたい、笑顔が見たいと願ってくれた、それだけの事なのだ。
そんな……簡単なこと。
ぽろりと涙がこぼれた。
それに、びっくりして慌てて片手で目をこする。それでも、ぽろぽろ零れる涙に呆然としていると、突然、目前が暗くなった。
「あ」
男の胸もとに引き寄せられていた。両腕で優しく抱きすくめられる、包みこむように。
頬にふれる男の着物が、ぬくもりが、匂いが、心地よくて目を閉じた。ここなら大丈夫と、誰かが囁いてくれた気がした。
……そんな事あるはずないのだけれど。
ゆっくりと、子供を宥めるように、男の大きな手のひらが頭や背を撫でてくれた。
その広い胸もとに顔をうずめ、吐息をもらす。
なぜ泣いたのか、自分でもわからなかった。
彼の言葉が胸にしみたから?
いや、そんな綺麗ごとじゃない。
きっと……嬉しかったのだ。
彼が本当に自分のことを好いてくれているのだと、知ったから。
むろん、気まぐれかもしれない。一時の気の迷いかもしれない。
それでも、彼は今この瞬間、本当に自分を好いてくれている。
こんな自分を。
「私……人に好かれたの…っ、初めてで」
まだ涙がとまらなくて、しゃくりあげた。黙ったまま、土方がより深く抱きすくめてくれる。
それは、世界から守るようだった。
ずっと幼い頃から、総司を傷つけ脅かし虐げてきた恐ろしい世界から、守るように。
「あなたに好きって言われて…どうしたらいいか、わからなくて……だけど」
「……」
「嬉しかった、です……」
たどたどしい言葉づかいで告げた総司に、土方は柔らかく髪を撫でてくれた。それから、身をかがめ、額に、頬に、口づけを落としてくる。
心地よさげに目を閉じた総司に、優しい声が囁きかけた。
「好きだ、総司……」
事件が起きたのは、総司が土方という恋人をもつ事に馴れだした頃だった。
総長である山南が脱走したのだ。
朝も早くから部屋を訪ねてきた土方に、総司は目を瞬いた。慌てて布団から出て、袷を整える。
「どうしたのですか、こんな朝早くから」
「山南が脱走した」
「え」
驚いて声をあげた。が、思ったより声が響いた事で、はっとして唇を抑える。
それに、土方は軽く肩をすくめた。
「別に構やしねぇよ。すぐに皆にも知れる」
「あの……っ、本当の事なのですか。ただ少し出かけているだけでは」
「脱走すると書き置きがあった」
嘆息する彼の顔は憂いの色が濃い。それに、総司は唇を噛んだ。
最近、土方と山南の間柄が悪化していた事は知っていた。
もともと二人は友人だったのだが、新選組を結成してからは意見の違いによる争いが増えていた。挙げ句、屯所の移転問題が二人の関係を急激に悪化させたのだ。
「さっき近藤さんにも言ってきたが、追手をかけることになった」
低い声で、土方が言った。
それに、総司は彼の言葉の意味を知った。今ここに彼がいるという事は、そうなのだろう。
総司は大きな瞳でまっすぐ土方を見つめ、彼が言う前に自分から口にした。
「その追手、私にさせて頂けませんか」
「総司」
「むろん、必ず連れ戻してきます」
「おまえ……いいのか」
土方は痛ましげに眉を顰めた。
「俺からも頼もうと思っていたが、辛い役目だ。おまえも山南とは付きあいがあっただろう」
「つきあい……という程ではありません」
土方さんの方が親しかったでしょう? とは、口に出さなかった。
総司にとって、試衛館の仲間も、ある意味他人だった。姉のお光以外に心許さぬことは、今も変わっていない。ただ、その中に土方が含まれなくなった事を、総司自身が気づいていなかった。
いつの間にか自分の心の奥深くへ食い込んだ男を、総司は見つめた。
「大丈夫です。むろん、連れ戻した後の事も理解しています。隊規は、山南さんもわかっているはずです」
淡々と告げる総司を、土方は黒い瞳で見つめた。しばらく黙り込んでいたが、やがて、深くため息をついた。
そして、一言だけ告げた。
「……すまん」
「謝らないで下さい。それに、あなたが謝ることじゃないでしょう?」
総司は手をのばした。そっと男の冷たい手を握りしめる。
それに驚いたように目を見開く土方に、微笑いかけた。
「私は、あなたの役にたちたいのです。だから、謝らないで」
「総司……」
まだ躊躇っている土方の手を一度だけ強く握ってから、離した。
指さきに冷たさが残る。
その冷たさは、まるで冬暁の凍えた氷のようだった……。
山南は大津の宿にいた。
総司から逃げるどころか、自ら宿の窓から声をかけてきたのだ。一瞬、事の大きさがわかっていないのかと思ったが、部屋に入った総司に投げられた言葉で、そうではないとすぐわかった。
「最期の頼みだ。一晩だけ、つきあってくれないか」
死を覚悟した男の目に、総司は頷く他なかった。こくりと子供のように顎を引いた総司に、安堵したように山南は笑った。
火鉢の火がおこされた部屋は暖かく、外とは別世界だった。が、それでも、心の奥にある冷えたものは溶けない。
両刀を脇に置き、その場にすっと端座した総司は、怜悧な目を山南にむけた。はっきりとした口調で告げる。
「私は、山南さんを連れ戻すために来ました。明朝、屯所へ同行して頂けますか」
「わかっている」
山南は淡々とした表情で答えた。
「戻れば死罪である事も理解しているよ。むろん、抗うつもりも逃げるつもりもない。私はただ江戸へ帰りたかった……それだけだ」
「江戸へ帰ってどうされるつもりだったのです」
「さぁ、わからないな」
はぐらかすような山南に、僅かな怒りを覚えた。思わず言ってしまう。
「山南さんは何もわかっていない……! 土方さんの立場も苦しさも」
「当然だ、わかりはしないよ。私は彼じゃないからね」
「そういう事ではなく……」
「ならば、きみは土方のことを心底理解していると?」
「……っ」
答えられなかった。そんな事あるはずがない。
押し黙ってしまった総司を見つめながら、山南は言葉をつづけた。
「私は彼の長年の友人だった。幾度も酒をくみかわし、議論しあってきた。それでも理解できないのだよ、人のことなど理解できるはずもない。所詮、他人なのだから」
「でも」
総司は思わず言いつのった。
「わかろうと務める事は出来るはずです。確かに本質までわかるはずがない。人は自分の目で見たものしか、理解できないのだから」
「……」
「だけど、行動や表情でわかることもあります。少しでも理解しようと務める事は出来るはずです、心寄りそいたいと願うことが……」
「それは……土方に言われたのかね?」
不意に訊ねられ、ぱっと頬に血をのぼった。己の言葉でないものを口にした事を、咎められた気がしたのだ。
だが、山南はゆるく首をふった。
「別に咎めている訳ではない。ただ、謎が解けた気がした。きみが土方と念兄弟になったと聞いた時から、不思議だった。あれ程他者に心を閉ざしているきみが、誰かの念者になるなど珍しいと思っていたのだ」
「……」
目を瞬いた。驚いた顔で山南を見てしまう。
それに、彼は苦笑した。
「他の者は知っているかわからないが、私は傍観者的な立場だからね、より見えやすい事もある」
「……」
「そうか、土方はそう言ったのだね。行動や表情で理解しようとすることが出来る、心寄りそいたいと願うことが出来る、と」
「はい……」
こくりと頷いた総司に、山南は微笑んだ。
「総司、きみは情が深い若者だ。彼を好いているのなら、今ここで、土方君のために必死になるのも当然のことだろう」
「……え」
息を呑んだ。
思いもかけぬ言葉を投げられ、理解できなかったのだ。
呆然と、目を見開いてしまう。
好いている?
私が、土方さんを……?
好意をもつなんて、ありえない話だった。
彼は、総司の標的なのだ。いずれ、この手で殺めなければいけない男。
なのに、その彼を好いてしまうなど、自分で自分が信じられなかった。予想もしていなかった事態に、体中が震えた。
(そんな事って……ッ)
まったく自覚していなかったのだ。
確かに土方と念兄弟になった。彼と逢瀬を重ねたし、その腕の中で泣いたこともある。
だが、それでも、総司は本当の意味で理解していなかった――己の心を。
どうしようもなく彼に惹かれ、愛してしまった自分を。
(土方さん……)
今朝の別れ際だった。
玄関まで見送ってくれた土方は、総司を固く抱きしめた。
雪が降り舞う中、すべてから守るように無事の帰りを祈るように、その力強い腕で抱きしめてくれた彼。
あの時、総司を見つめていた黒い瞳も、一瞬だけ頬にふれた唇の感触も、すべて覚えている。
かなしいぐらいに。
あの時――否、ずっと前から、彼を愛していたのだ。
その事に総司が気づいていなかっただけ、自覚していなかっただけ。
背筋がぞっと寒くなった。
(私は、なんてことを……なんて愚かな)
最愛の姉お光を人質にとられているのだ。
いくら知人であっても標的とされた以上、必ず殺さなければならなかった。この手で殺めなければならない男。
なのに、その男に近づいた挙げ句、逆に籠絡されてしまうなど、とんでもない事だった。しかも、自分はその事実に今まで気づいていなかったのだ。
殺すべき男を愛している己に。
呆然と、総司は目を見開いた。
山南の脱走から数日が過ぎた。
その間、総司は徹底的に土方を避けつづけた。それを彼や周囲がどう思っていたかはわからない。だが、総司にすれば、これ以上彼と馴れ合う訳にはいかなかった。
傷は早いうちに塞いだ方がよい。
総司にとって、彼との恋はある意味「傷」だった。その深く刻まれた傷のせいで、身動き出来なくなっている。
だが、一方でどこか冷めた声が囁いた。
恋だ、愛だと言っても、一時のことだよ?
土方からの想いも気まぐれだと、思っていたのだ。ましてや己自身など、より信じられなかった。
確かに今、彼が好きだ、彼を愛してる。
だが、それはおそらく……一時の気の迷い。ほんの少し時をおけば、距離をおけば、すぐにも冷めるものだろう。
恋とは、そういうものなのだから。線香花火のようなものだから。
総司は土方を避けながら、彼を暗殺するための準備も進めていた。
この感情を抱いたまま実行するのは危険だったが、江戸からの文が増えていた。早く仕事を終わらせ、次の標的へ移れと命じてきているのだ。さもなければ……それに続く言葉を、総司はよくよくわかっていた。
儚くも優しい姉を守るため、愛する男を殺す。
それは総司にとって致し方のない事だった。
何と言っても、土方は男だ。諸刃の上を渡るような危険な日々をおくっている新選組副長だ。守るべき相手ではなかった。
総司は冷徹にそう判断を下し、準備を進めた。それも迅速に。
江戸からの文が増えていることも理由だったが、それ以上に恐ろしかった。
もっともっと、彼に惹かれていくのが。
逢えば見つめてしまう。
その声を聞いてしまう。
ぬくもりを、まなざしを、優しさを、感じてしまう。
それが……たまらなく恐ろしかった。
息つめるような日々を送っていた総司は、ある日、土方が黒谷屋敷へ出かけることを聞いた。
帰りが遅くなることも。
(……今夜、殺ろう)
そう決意した総司の瞳は、昏く静かだった。