二人が念兄弟になった時期は、曖昧だ。
いつと誰かに問われたとしても、答える事は出来ない。強いていうなら、あの口づけの時だろうが。
それでも明確な区切りはない気がした。
くり返された口づけ、抱擁、甘い睦言。
それらを総司は抗うことなく受け入れた、従順に。
しかし――一度として、それらを返そうとはしなかった。
土方には幾度も、好きだと言われたが、総司は言葉さえも返した事がない。
(仮初の関係だから)
己自身はもちろんのこと、土方の方もそうなのだろうと断じていた。
遊びの恋なのだ。
気まぐれに手を出しただけの男と、それに応じた若者の恋。それこそ、線香花火のような恋。
だが、それでよかった。むしろ、その方が都合がいい。
(いざという時、殺りづらくなる……)
なんと言っても、土方は、総司の恩師の友なのだ。
彼が死ねば、近藤が悲しむことは目に見えていた。それを思うと、心の奥が痛んだが、計画を中止する気はない。
そんなことをすれば、姉の命がないのだ。
最愛の姉であるお光は、人質だった。
総司が十を過ぎた頃、暗殺を請け負う集団に目をつけられ、闇の世界へ引きずりこまれた。才ある事が、当時、宗次郎と名乗っていた少年の人生に影を落とした。
初めは暗殺の手段を教え込まれただけだが、すぐさま人を殺すよう強制された。子どもは身軽であり、警戒されにくい。そうでありながら腕のある宗次郎は彼らにとって最高の駒だった。
逆らえば、姉のお光を殺すと脅され、従う他なかった。ただし、一度だけ逆らおうとした事はある。組織の彼らを殺そうと決意したのだ。
だが、多勢に無勢だった。いくら腕の立つ総司であっても、相手の人数が多すぎた。その後、幾度か、仲間が同じ思いで逆らい、人質ごと殺されるのを見た事も諦めに繋がった。
以降、総司は淡々と暗殺を請け負ってきた。
当初あった罪悪感や恐ろしさは、次第に薄れた。麻痺したと言ってもよいだろう。また、好んでやっている訳ではない、身内を人質にとられているから仕方ないという、己への理由づけもあった。
むろん、この事実を他の誰も知らない。人質とされているお光さえ知らなかった。
新選組一番隊組長となり、隊務として人を斬ることが公然になると、尚更、人を殺すことへの罪悪感が薄れた。
総司にとって、暗殺も、斬りあいも同じだった。
(でも、今度のは少し違うかな)
身近な知人を殺すのだ。
そこにはどうしても、情や思いが絡んでしまう。それが酷く煩わしかった。
知らない相手を殺る方が余程楽だ。鎌で刈り取るように命を奪えばいい。何の準備もいらない。
ため息をもらした総司に、傍らで刀を磨いていた斉藤が振り返った。
「どうした、さっきから浮かぬ顔をして」
「え?」
総司は目を瞬いてから、ちょっと困ったように笑った。
「あれ? 顔に出ていました?」
「思い切りな。おまえ、けっこう顔に出るから」
「そうかな」
頬に手をあてた。
実際、総司は腹芸が苦手だ。隠し事ができない性質だし、嘘をつくことも苦手だった。
それゆえ、今回の案件は総司を憂鬱にさせている。
土方に対して思い入れはない。
いくら好きだと言われても、どうせ遊びだ気まぐれだと割り切っているし、こちらも殺すために近づいたのだから仕方がない。ただ、やはり、よく見知った男を殺ることは物憂かった。
ならば、これ以上近づかなければいし、ここまで近づくつもりもなかった。少し親しくなる程度でいいと思っていたのだ。
まさか、土方が自分を念弟にしようとは思いもしなかった。
深入りしたくないと思いながら、気がつけば、男の腕の中へ抱きこまれてしまっている。そんな錯覚さえ覚えた。
その事実に酷く苛立つ。
「土方さんのことか?」
不意に、男の名を出され、びくりと肩が跳ねた。
斉藤が苦笑している。
「ほら、おまえは本当に隠し事ができない」
「斎藤さん」
「あの人と念兄弟になったんだろう? それが物思いの原因か。おまえの意思じゃなかったのか?」
「いえ、私の意思です。だけど……」
口ごもった。
いったい、何と言えばよいのだろう。
確かに心から望んだ事ではない。
二人の間に、恋愛なという生ぬるいものは存在しないし、今だけ互いを気まぐれに求めあう、冷めた関係だ。
それでいいはずなのに……その方が都合がよいはずなのに。
あれだけ甘い言葉を囁いておきながら、実を言えば、土方はいつも優しいという訳ではなかった。
遊びの恋なのだと思い知らせるように、時々、その冷たさを垣間見せてくるのだ。
抱きしめたと思えば、突き放し、屯所の一角で甘く口づけたくせに、次に会った時は、手のひらを返したような冷たい瞳を向けられる。
だが、そうして、すげない態度をとられた時、冷めた笑みを見せられた時。
総司の方が拒んだはずなのに、あっさり手を引かれた時。
……胸奥がつきりと痛んだ。
(私は何を求めているの)
それがわからなかった。
遊びだと割り切ればいい、初めからお互い気まぐれだとわかっている。
それが出来ないのなら、念兄弟になるべきではなかった。深入りしていい相手ではないのだ。
総司はきつく唇を噛みしめた。
……あれは、猫だ。
しなやかで愛らしく、可愛くて我儘で。
今もほら、気まぐれにこちらへ寄ってきたかと思えば、手をのばしたとたん、逃げやがる。
だが、その奔放さが心地よかった。
決して本心から甘えず、心許さぬところが、尚更可愛いと思ってしまう。
「俺も大概いかれているな」
くつりと笑った。
副長室の文机に頬杖をつき、先程届けられたばかりの文を眺めやった。
何の気まぐれか、総司からの誘いの文だった。冬の山茶花を見に行きたいと書かれてあった。
土方にすれば、可愛らしいおねだりだ。
むろん、滅多に甘えてこない恋人の願いぐらい、叶えてやるつもりだった。
否、どんな願いごとでも叶えてやりたくなる。
愛しい恋人のためなら。
彼の幼い恋人は気まぐれで警戒心が強く、人を信じない。
いつも隊で見せている人当たりのよい笑顔や、素直さ、優しさに隠された真実を、土方は鋭く見抜いていた。ずっと昔から知っていたのだ、他の誰よりも。
むしろ、だからこそ愛したと言ってもよい。
気高く美しい猫のような若者を愛した。誇り高く気まぐれで我儘で、ふれれば爪どころか牙を剥きそうな気性の激しさまで愛しかった。
他の者が総司に対して見ているような、素直で優しい若者など退屈だ。
総司は決して善人ではない。むしろ、その残酷さ、冷たい傲慢さが愛おしかった。
冷たく澄んだ瞳が、少し拗ねたような桜色の唇が、甘く掠れた声が、彼という男を狂わせたのだ。
何故、と思う間もなかった。
総司が総司であるからこそ、愛した。
むろん、土方の思いを気まぐれだと、総司が見ていることはわかっていた。二人の関係を仮初だ、遊びだと思っていることも。
彼に──近づいた理由さえも。
だが、それを追求するつもりはなかったし、焦るつもりも一切なかった。少しずつ、この腕の中に閉じ込めていけばいいのだ。
完全に抱きすくめてから、男の愛を――その深さを、じっくりわからせてやればいい。
土方は文を懐に仕舞うと、立ち上がった。
「さて……、迎えに行ってやるか」
形のよい唇が、ゆっくりと酷薄な笑みを浮かべる。
獲物を前に舌舐めずりする、凶暴極まりない獣のような笑い。
それは、彼が誰よりも愛おしむ若者には決して見せられぬ、男の表情だった……。
「土方さんって、私のこと本当に好きなのですか?」
あっと思った時には、言葉が滑り出ていた。
土方が驚いたように目を見開く。まさか、そんなことを総司が言うとは思っていなかったのだろう。
それも拗ねきった口調で。
約束どおり,山茶花が見事な寺へ向かう途中だった。
二人共に歩いていたのだが、その道行きの中で、先斗町の芸妓といきあったのだ。それが土方の知り合いだったため、声をかけられた。
愉しげに会話をする二人の傍で、総司は黙念と佇んでいた。口出すつもりはなかったが、どこか疎外感を覚えたことも確かだ。
土方とその美しい芸妓は、絵のように似合いだった。
周囲もそう思うのか、行き交う人々が皆ふり返ってゆく。
黒い着物を着流して粋に刀を斜め差しにした土方は、水際立った男前だ。艷やかな黒髪に、切れの長い目。その端正な顔だち、しなやかに引き締まった長身、くわえて遊び慣れた様に、遊女や芸妓たちが夢中になっていると聞いていた。
中でも、この君菊という芸妓は、かなり馴染みなのだろう。楽しげに彼と話す姿はとても美しく、大輪の牡丹のようだった。ふっくらとした唇や、艶めかしい女性らしいまろやかな躰は、当然ながら総司にはないものだ。
「……」
総司は思わず視線を落としてしまった。
自分にあるのは、この華奢な躰と剣術だけだ。美しい女を見慣れた土方が心惹かれるとは到底思えなかった。
ならば、彼が総司を恋人としてくれるのは、いったい何故なのか。気まぐれか、遊びか、物好きなのか。
むろんのこと、わかっていた。
暗殺目的のために近づいた以上、土方の気持ちなど関係ないのだ。気にする必要もない。
なのに……考えてしまう。愚かさを自覚しながら、幾度も思ってしまった。
どうして、この人は私に構ってくれるの……?
「すまん、待たせたな」
君菊が丁寧に総司へも一礼して去った後、土方が柔らかな笑顔をむけた。
誘うように、片手をさし出してくる。
「行こう、もうあと少しだ」
「……」
だが、総司は、そのさし出された手をとらなかった。
自分とは違う大きな手に視線を落としたまま、思わず口走っていた。
「土方さんは、私のこと本当に好きなのですか?」
「……」
土方は呆気にとられたようだった。手をさし出したまま、驚いた表情で総司を見下ろしている。
それに、かっと頬に血がのぼった。
今更ながら、とんでもない事を口にしたことに気づいたのだ。
私、何をやっているの!
総司はくるりと背を向けると、足早に歩き始めた。後ろから土方が呼んでいたが、到底振り返ることが出来ない。
恥ずかしくて、格好悪くて、馬鹿みたいで。
耳朶まで真っ赤になりながら、総司は必死になって前だけを見据え、歩き続けた。が、いくらも行かぬうちに、熱い手のひらに手首を掴まれる。
はっとして振り返れば、土方が追いついていた。真剣な表情でこちらを見下ろしている。
離して、と言いかけたとたん、土方が勢いよく頭を下げた。
「すまん」
「……え」
「俺が君菊と話しこんだのが悪かった。せっかくおまえが誘ってくれたのに、俺は……本当にすまない」
真摯な口調で謝られ、絶句してしまう。
そこまで謝られることではなかった。むしろ、こっちが勝手に拗ねていただけだ。
なのに、彼は頭を下げるのだ。こんな些細な事でさえ、こんな往来で。
「あ」
我に返った。
こんな往来で人前で、男に頭を下げさせているのだ。とんでもない事だった。武家姿の男、それも新選組副長にさせることではなかった。
慌てて、土方の手をとり握りしめた。
「や、やめて下さい。私が勝手に拗ねただけだから、そんな謝らないで」
「だが、おまえは傷ついただろう?」
「違うのです。ただ……不安になっただけだから」
小さな声で答えた総司に、土方は首をかしげた。
「不安……?」
「……」
黙り込んでしまった総司に、こんな場所でする話ではないと気づいたのだろう。土方は総司の手を握ったまま、柔らかく促した。
先程言われたとおり少し歩いてゆけば、山茶花の寺にたどり着いた。
清々しい雰囲気のある寺だった。
人気がないことにも安堵した総司を、土方は石段に導き座らせてくれた。その傍らに男が腰を下ろし、切れ長の目で見下ろしてくる。
あらためて羞恥がこみあげ、力無く項垂れてしまった。
「……ごめんなさい」
呟くように言った。
「訳のわからない事ばかり言って……本当にごめんなさい」
「いや、おまえが謝ることではない」
土方は短く嘆息した。
「俺は知っての通り、それなりに遊んでいる。あの君菊とも馴染みだ」
「!」
男の言葉の裏にある意味を感じ、唇を噛みしめた。
それを見ながら、土方は僅かに目を細めた。手をのばし、そっと総司の細い肩にふれる。
はっと息を呑んで顔をあげる総司を、静かに見つめた。
「おまえが不快に思うのなら手を切ろう」
「え」
「俺はおまえが欲しい。その為なら他の事など瑣末事だ」
「そん、な」
総司は息を呑んだ。
あの時、土方を見上げて話していた君菊の美しい横顔が、目にうかぶ。
その上気した頬、潤んだ瞳には、馴染み客への気持ち以上のものがあった。明らかに、君菊は土方という男に惚れているのだ。
なのに、それをあっさり切り捨てるのか。あんなにも美しい彼女を。
この自分を得るために。
「信じられない……」
思わず呟いてしまってから、はっと唇を両手でおさえた。彼を疑っていると言わんばかりの言葉に、無礼だと思ったのだ。
だが、土方は苦笑しただけだった。
「信じられねぇか」
「だって……あんな綺麗な人なのに」
「おまえの方が綺麗だ」
「それこそ信じられません」
きっぱり断言した総司に、土方は眉を顰めた。そっと頬に指さきでふれてくる。
「おまえ、自分の容姿をどんなふうに捉えている」
「どんなって……痩せっぽちで目ばかりが大きい他は、別に普通だと」
「呆れたな」
土方が喉奥で笑った。
「おまえ、全然自分のことをわかっていねぇよ。俺は、おまえみたいに綺麗なのを見たことがない」
「? 言っている意味が」
「だから、おまえは綺麗なんだ。誰もが振り返るぐらい綺麗で……そうだな、花のように愛らしい」
「は、花のようにって……」
絶句してしまった。
そんな事、言われたのは初めてだったのだ。
総司は己の容姿に無関心だった。気にするようになったのは、土方とつきあい出してからだ。それでも、醜いとまでは思わないが、平凡な容姿だと思っていた。
だが、土方は言うのだ。
綺麗だ、花のように愛らしい、と。
とても信じられない話だった。
が、ふとあることに思い至り、土方を見上げた。それに気づいた彼が促してくるのに、訊ねた。
「じゃあ、土方さんは、私の容姿が理由で念兄弟にしたのですか?」
「違う」
土方は即座に否定した。総司を見つめる目が細められる。
「むろん、綺麗だと思っているが、それだけじゃない。何と言えばいいのか……内面、性格、つまり、おまえ自身に惚れたんだ」
「私自身に……?」
しんと、体の奥が冷えた。
(私自身って、何……?)
新選組の隊士たちはもちろん、この土方が知っているのは、素直で優しい沖田総司だ。
だが、そこに真実はない。本来の姿を知っているのは、総司自身だけなのだ。
本当の総司は、姉のためという大義を盾にして罪悪感もなく、多くの人々の命を刈り取ってきた死神だった。
そして、今、まさにその目的のため、土方を殺すために近づいた。なのに、彼は言うのか。総司の内面、性格ゆえに惚れた、と。
総司の本質など、知るはずがないのに。
すっと目を細めた。