……知っていたさ。
おまえが俺の傍にいる理由など。
その瞳に声に、すべてに。
おまえは唯一つの理由のために、俺のもとへ来た。
この狂った世の中で、それを成すためだけに。
俺は知っている。
おまえが今も昔も、傍にいる理由を。
それは。
「土方さん!」
明るく澄んだ声に、ふり返った。
見れば、可憐で愛らしい顔だちの若者がこちらへ駆けてくる。大きく手をふる様は子供のようだ。
思わず苦笑がもれた。
「本当に、子供みたいだな」
「え?」
駆け寄ってきた総司は、小首をかしげた。不思議そうに目を瞬いたが、彼に促されると話し始める。
「あのね、さっきまで斎藤さんと甘味屋に行っていたのです」
「斉藤と?」
「はい。それで、今度、土方さんと……」
言いかけた総司は、ちょっと息を呑んだ。土方が頭にむかって手をのばしたからだ。一瞬、小さく身をすくめたが、彼の大きな手は総司の髪を撫でただけだった。
「甘味屋はいいが、なんで斉藤なんだ」
「だって、土方さん、いなかったし」
「なら、今度からは俺がいる時に言えよ。他の男と出かけられるのは面白くねぇ」
「ふうん」
総司が小首をかしげると、柔らかな髪が細い肩でさらりと揺れた。後ろで手を組んで、土方の顔を下から覗き込む。
「妬いているの?」
「ばか」
「違う?」
「妬いて当然だろ」
あっさりと答えた土方に、総司はちょっと目を瞬かせた。それに、低く喉奥で笑う。
「俺はおまえの念兄だ。妬くぐらいするさ」
「意外。土方さんって、そういうの、隠す人だと思っていました」
「この程度の事まで隠してどうする。あれもこれも秘密にしていたら、息がつまっちまう」
「そうですね。土方さんなら、他にも沢山秘密あるでしょうし」
「総司、おまえは?」
柔らかな口調で訊ねられ、え、と目を瞬いた。それに、土方が微笑う。
「おまえも秘密ぐらいあるだろう?」
「それは」
総司は後ろに回した手を、きつく握りしめた。にこりと笑う。
「ありますよ、もちろん」
「……」
「人は誰だって秘密があるものですから」
「そうだな」
土方は頷くと、それきり踵を返した。袴の裾を翻し、歩み去ってゆく。それを、総司は後ろから眺めた。
黒谷屋敷からの帰りなのだろう。
紋付羽織に黒い着物、袴という武家姿の土方は、水際立った男ぶりだった。
艶やかに結いあげられた黒髪に、切れの長い目、黒曜石のような瞳。引き締まった頬から顎にかけての線、形のよい唇。端正な顔だちに、そのすらりとした長身に纏いつかせた艶は、際限ないほど女を引き寄せた。
彼が町を歩くだけで、大半の女が振り返る。彼には他者とは違う、特別なものがあった。はっと人目を惹きつけ、虜にしてしまう魔のような力だ。
むろん、幾多もの女から秋波を送られ、美しい花を無造作に手折り続けてきた。
つい最近、土方が手折ったのは、この総司だ。
新選組一番隊組長であり、天才剣術士として彼を支える立場にある総司が、彼の恋人として公にされたのはつい先日の事だった。
この時代、衆道は決して忌まれるものではない。むしろ、当然の事とされているため、土方が総司を傍に置いた時も、隊内に驚きはなかった。
「……」
その手折られた花である総司は、己から離れ、歩いてゆく念兄を見つめた。無言のまま、男の広い背を見送っている。
しかし、その愛らしい顔からは一切の表情が消えていた。まるで拭い去られたように何の表情もない。
硝子玉のような瞳で、静かに男の後ろ姿を見つめた。
そこに、先程まで土方の前で見せていた、明るさや朗らかさは皆無だ。
あるのは、対象を怜悧に観察するまなざしだった。
「……」
やがて、土方の背が屯所の門奥に消えると、総司は長い睫毛を伏せた。
池田屋事件の後、新選組はその地位を大きく飛躍させた。
資金が潤沢になったおかげで隊士の数も増え、名実ともに京でも最強の武装集団となったのだ。
むろん、当然ながら様々な軋轢も生まれた。隊での内部闘争は熾烈を極め、つい最近も総長の山南が脱走した挙げ句、切腹となったばかりだ。 その後、西本願寺へ移転となったが、隊内どころか、京のいたるところで血なまぐさい事件が続いている。
土方はその新選組の副長だった。荒れくれ者たちを率いる男はその容赦なさゆえに鬼と呼ばれていたが、一方で心酔する者も多い。とくに土方の右腕とされるのは、筆頭剣術師範代一番隊組長を務める隊随一の剣士である沖田総司だった。
一見すれば、美しく玲瓏な少女のようにしか見えない。
しかし、その剣はまさに天才だった。斬りあいとなれば、自分より遥かに年上の男たちを指揮し、勇猛果敢に戦った。
どれ程苦境になっても、一歩も引かず闘い続けるその姿は鬼気迫るものがあったが、この若者を忌むものはなかった。病を得ている身でありながら、明るく優しい性格のためか、誰からも好かれている。
その総司が土方と恋仲になったのは、池田屋事件から暫くたった頃だった。それまで試衛館出身の仲間に過ぎなかったのが、急速に近づいたのだ。
(切っ掛けは、清水寺だった)
総司は自室で文を丁寧な手つきで畳みながら、思った。
文は、江戸にいる姉のお光からのものだった。総司にとって唯一の肉親であり、最愛の存在だ。
家族ともに健やかであることが文からも伺え、安堵の息がもれた。穏やかであればいいと願う、心から。
総司は文を文箱に仕舞い、視線を庭へうつした。
春だ。
鳥の囀りが聞こえ、新緑が目にやさしい。
彼と清水寺で逢ったのは、紅葉の頃だった。美しく色づいた紅葉が舞い散る中、二人は言葉を交わしたのだ。
むろん、偶然ではなかった。
あれはすべて、総司の思惑ゆえだった……。
「総司……?」
後ろから、声をかけられた。
むろん、わかっていた。そこに彼がいることなど、とうの昔に。
だが、総司は初めて気づいたように振り返り、目を見開いた。小さく、その名を呼ぶ。
「土方…さん?」
「奇偶だな」
微かに笑い、土方は歩み寄ってきた。黒い着物をさらりと着流し両刀を斜め差しにした姿は粋で、紅葉の中でも映える。
黒髪を片手でかきあげながら、切れの長い目で見下ろした。
「おまえが紅葉狩りとは珍しい」
「お言葉を返しますよ。土方さんこそ、こんな所でどうしたのですか」
「紅葉を眺めていた。美しいものだ」
土方は広がる鮮やかな紅葉に視線をやり、目を細めた。
その端正な横顔を見上げ、総司はちょっと言葉を呑んだ。
彼の顔はとても美しかった。
一見すれば冷たく見える男の中にある、澄み切った潔さゆえなのか。
視線をそらした。
「珍しく一人なんですね」
「珍しいか」
「はい、とても。土方さんなら、紅葉狩りも女の人を連れてだろうと思っていました」
そう言った総司に、土方は肩を揺らして笑った。
「はっきり言うな。だが、俺はそこまで女好きじゃねぇよ」
「祇園や先斗町で遊び回っていると、噂ですよ、副長」
「噂が事実に則しているとは、限らねぇだろう」
「じゃあ、偽りってことですか」
「まぁ、八割がた……事実だな」
「それって、ほぼ事実ってことじゃないですか」
軽口を叩きながら、総司は、土方という男が少しわからなくなっていた。
もともと江戸の頃からのつきあいだが、それ程、親しかった訳ではない。
総司にとって、土方は、時折試衛館を訪れてくる近藤の親友だった。日野の名主である佐藤彦五郎の義弟であり、どこか遊び人のような雰囲気を纏っていた。原田や永倉とよく遊んでいたことも知っている。
だが、京にのぼってから彼の人柄はがらりと変わった。本質的なものは変わらないが、雰囲気が変わったのだ。
研ぎ澄まされた刃のような鋭さ、冷徹さが際立つようになった。容赦ない策略をはりめぐらし、新選組を最強の武装集団にするため心血を注いだ。
これ程の手腕があるとは誰も思っていなかった。目的のためには手段を選ばぬ冷徹さに、皆、目を瞠った。
今や新選組の中で、土方と言えば、鬼とまで呼ばれる存在だ。
総司にとっても、京にきてからの方が接する時が多いため、土方は冷徹な副長という印象だった。軽口など到底たたけぬ存在なのだ。
が、今、土方は総司の言葉を咎めることなく、笑っている。その笑顔は江戸の頃と変わらぬ、明るく快活なものだ。
それ故、彼という男がわからなくなった。
ぼんやり彼を見ていると、土方がこちらへ視線を流した。黒曜石のような瞳が見つめる。
「体調の方はどうだ」
「あ……えぇ、大丈夫です」
池田屋で吐血したことはむろん、土方も知っている。総司が労咳という不治の病にあることは、隊内の者は皆知っていた。
もっとも、江戸にいる最愛の姉は何も知らない。総司が近藤をとめたため、知らされていないはずだった。でなければ、あの姉のことだ。家族を残しても総司のために京まで来そうだった。
「医者には行っているのか」
「はい。薬も苦いですけど、ちゃんと飲んでいますよ」
そう答えた総司に、土方は苦笑した。
「子供じゃあるめぇし。だが。そうだな……養生している褒美に昼飯でも奢ってやるか」
「本当ですか? 嬉しいです」
「そういうところ、おまえは遠慮ねぇな」
肩をすくめた。
「俺が何と呼ばれているか、知っているだろ」
「鬼の副長、でしょう?」
「なのに、おまえは態度を変えねぇな」
「だって、土方さんが優しいこと、知っているから」
くすくす笑いながら、総司は子供のように彼に纏わりついた。男の逞しい腕に手をからめ、あどけなく笑いかける。
「お昼ご飯奢ってくれる人に、怖い人はいませんよ」
「その論理はまずくねぇか。おまえなんて、簡単に騙されちまうぞ」
「うーん、私、これでも隊随一の腕前なんですけど」
「意味が違うさ」
二人は笑いあいながら、土方の行きつけらしい小料理屋に向かった。
さっぱりとした清潔感のある小料理屋で、小部屋をとってくれた土方は、食事の間も気さくだった。今や京で鬼と恐れられている男とは思えぬ笑顔をむけてくる。
意外にも、二人きりの時をもったのは、この時が初めてだった。
そして、それが彼らのつきあいの始まりでもあった。
その後、土方は総司を度々誘うようになり、総司もそれに応じていった。別に仲が悪かったわけではないが、今までそれ程深いつきあいでもなかった二人の急接近に、友人である斉藤などは驚いて訊ねてきた。
「なんか急に仲が良くなったんだな」
それに、総司は小首をかしげてみせた。
「別に今までだって、仲が悪かった訳じゃありませんよ?」
「いや、ここの処、非番の時はいつも一緒にいるだろう」
「よく見ているんですね」
くすっと笑った総司に、斉藤は顔を赤らめた。
この年の近い友人は優しい。また、優しいだけでなく、本当に思ってくれているからこその厳しさもあり、とても誠実だ。
時折その好意が煩わしくなることもあるが、それでも、総司にとって斉藤は希少な友人だった。数少ないからこそ、尚のこと。
「理由がある訳じゃありませんよ、なんとなく……あ、でも」
「でも?」
「意外と、土方さんって一緒にいて楽しい人だから、かな」
「それだけか?」
声を低めて訊ねる斉藤に、ちょっとだけ息を呑んだ。が、すぐに振り払うように笑った。
両手を後ろに組んで、あどけなく小首をかしげてみせる。
「それだけって、他に何があるというのです?」
「いや、別に……」
「おかしな斎藤さん。心配性なんだから、もう」
鈴を転がすような笑い声をたてれば、斉藤はもう何も言わなかった。が、その様子に、ひそかに唇を噛んだ。
(斎藤さんって、結構鋭いから……)
総司の傍にいるだけあって、本当によく見ている。
土方へ近づく真意に気づかれていると迄は思わないが、それでも、言葉どおりではない事は気づいているのだろう。
だが、悟られる訳にはいかなかった。
犠牲は少ないほうがよいのだ。余計な手間もかけたくない。
(私に斎藤さんを殺させないで、ね?)
総司は無邪気な笑顔で友人を見つめながら、心の中で小さく呟いた。