「えっ、土方さんが!?」
思わず叫んでしまった。
それに、原田が重々しく頷いた。傍には斉藤、永倉もいる。
隊士たちのたまり場だったが、幹部たちが集まる様子に余程の案件だと思われたのか、彼ら以外の姿はない。
ピキリと固まっている総司の前で、原田が言葉をつづけた。
「あれはかなり攻勢かけられているぜ? いくら土方さんでも堪えきれないんじゃねーの」
「そんなに……ですか」
「さすが売れっ子芸妓、男を落とす手練手管にかけてはお手の物だし、向こうはかなり土方さんに惚れまくっているしなぁ」
永倉がやれやれと首をふった。
それに総司はぎゅっと両手を握りしめた。
土方が女性に言い寄られているという話なのだ。
浮気厳禁の土方がなぜその芸妓と知り合ったかというと、接待で出かけた宴でのことだったらしい。先斗町の芸妓にたちまち惚れこまれ、土方自身もまんざらでなかったようだ。
接待で逢うたびに仲は深まっていき、今や先斗町で土方はその美しい芸妓の男という事になっているらしい。
それを聞いた時思ったのは、やはり、あの夢の事だった。
彼は心変わりするのだ。
総司から気持ちが離れ、なのにそれが嫌で縋った挙げ句、斬り捨てられてしまうのか。それとも、傷心のまま伊東一派に身を投じて斬られるのか。
どのみち、最悪の結末しかありえない。
だが、しかし。
(冗談じゃないでしょ、今更!)
ぺしぺし地団駄踏みたい気分だった。
何しろ、この二年どんな思いで過ごしてきたか。どれほど努力を重ねてきたか。
それもこれも全部、あの夢を実現させないためだった。なのに、今更この時期になってのどんでん返しに、それこそ総司の方がちゃぶ台ひっくり返したい気分だ。
黙り込んでいる総司をどう思ったのか、原田が言った。
「ま、そろそろ切れるかなぁと思っていたけど、やっぱりなぁ」
「切れるって……土方さんの忍耐力が、ですか」
「おう、わかっているじゃーん、はじめちゃん」
ぽんと斉藤の肩を叩いた。
「ある意味、二年もよくもったもんだよ。けど、まぁ、土方さんも男だ、仕方ないんじゃねーの」
「仕方ないなんて事は、全然ないのです」
早口言葉のような事を言って、総司は大きな瞳で原田をじっと見つめた。心なし、目が据わっている。
「私たち、血判まで交わした仲なのです。絶対、心変わりは許せないのです」
「血判! それマジっ?」
さすがにそれは聞いていなかったらしく、皆、仰け反った。
「まるで赤穂浪士じゃん。本当にやったの、それ」
「はい。私がお願いしたら、土方さん、ちゃんと血判してくれました。心変わりしませんって。なのに、それを破るなんて事ありえないのです」
「まぁ……信じたい気持ちはわかるけど、でもさ、総司」
原田がはぁっとため息をついた。
「土方さんの気持ちもわかってやれよ。二年も可愛い恋人に手を出せず、女遊びもしないで我慢しつづけてきたんだ。心がわりするなって言う前に、総司の方もやる事あるんじゃねぇ?」
「やる事とは」
「そりゃ決まっているじゃん」
にかっと笑った原田は懐から出した春画本を、ぽんと総司の前に置いた。が、それを手に取ろうとしたとたん、横合いから斉藤にひったくられる。
「な、ななな何てものを総司に見せるんですかっ!」
「何って春画本だけどー?」
「こんなもの総司に見せるなんて、絶対だめです。総司は純真で初なんですよ、なのに」
「へーえ、はじめちゃん、こんなものって言うってことは見たことあるんだ」
「み、みみ見たこと、あり、ますけどっ。オレが言いたいのはそういう事じゃなくてッ」
「ほうほう、自分は見たけど、総司が見るのはだめと。ひどーい、はじめちゃん」
わざとらしく手で口をおおってみせる原田に、斉藤はぶるぶると怒りに震えた。
「誰がはじめちゃんですかっ。とにかく、こんなもの総司に見せたと知られたら、命ありませんよ。即切腹命じられますよ」
「土方さんに? うーん、それは有り得そうだなぁ」
「あの人、総司のこと真綿で包むみたいに大事にしているんですから。全部、自分で教えるぞって感じ」
「男の性というか、我儘だよねぇ。ま、わかるけど」
「ですよね。けど、土方さんはその辺り極端過ぎるんですよ。だいたい、この間も」
「あのう」
話が違う方向へ行きかけたところで、小さな声があがった。見れば、総司が困ったような顔で彼らを見ている。
「何?」
「あのね、その本なんですけど」
総司は斉藤が手にしている春画本を指さした。
「その本はもう読んじゃいました。なかなか詳しくて勉強になりましたよ」
「……は、はあぁああッ!?」
思わず斉藤は叫んでしまった。さすがに原田も驚いたらしく、びっくりした顔で総司を見ている。
総司はにこっと笑った。
「色々と読んで勉強しているのです。あ、男色ものもちゃんと入手して読みました。なかなか難しかったけど」
「難しいって、どこら辺がッ!?」
「はじめちゃん、突っ込むとこソコ?」
呆れる原田の傍で、斉藤は身を乗り出した。
「いったい全体どこまで知っちゃったわけ? いや、やばい、やばいぞ! あの人激怒するぞ!」
「あの人って、土方さん?」
「決まっているだろ!」
「怒る、かなぁ?」
不思議そうに小首をかしげた。その仕草もまた可愛らしい。
「別に宮川町に行って実践した訳じゃないし、そんな怒らないんじゃないですか?」
「み、み、宮川町って、総司がそんな処に行った日には嵐が来るだろっ」
「??? どうして、私が宮川町に行くと嵐がくるのです」
「総司―」
噛み合わない会話に口を出したのは、ほとんど黙っていた永倉だった。
「つまりさ、宮川町に総司が行ったら、土方さんが嵐のように怒るってことだよ。あれだけ大事にしているんだから。勉強はいいけど、程々にした方がいいとおれは思う」
「そうですね、すみません、永倉さん」
「いや、左之から回したの、おれだし」
「え……えぇえっ! 新八ちゃんな訳!? 総司にアレ渡したの」
とんだ伏兵に原田はびっくり仰天だ。それに、永倉が重々しく頷いた。
「さすがに土方さん切れそうだっただろ? で、隊内の平和のために、総司に勉強させようと思ったんだ。切っ掛けになるだろうし、遊郭に連れていくよりはマシだろうし」
「そりゃマシだろうが、また命知らずな……」
呟く原田に、斎藤は半目になった。
「あんたもさっき渡そうとしたでしょうが」
「えー、一冊だけだから。おれ、罪軽いしー」
「同じことですよ。しかし、総司……それ土方さんには言わないほうがいいぞ」
「それは」
総司は大きな瞳で、じっと彼らを見た。
「男の性だから? 全部自分で教えたい、からですか?」
「ま、まぁそうだな。つまり、隊内の平和のためだ」
「新八ちゃんの安全も含んで」
「原田さんのもですよ」
「だから、言ってるじゃん。一冊だけだってー」
げらげら笑う原田をよそに、総司は、ふむと考え込んだ。
隊の平和を考えるなら、彼らの言うことを聞いた方がいいのだろう。
ようは、春画本から勉強したなんて事を言わなければいいのだ。しのごの言わずに実践しちゃえばいい。
それには、さっそく勉強が役立ちそうだった。
土方を虜にした美しい芸妓から、彼を取り戻さなければならないのだ。が、相手はプロだ。かなりの難関と言えるだろう。
むろん、出来ることなら契りとか色々したくなかった。
別に土方が嫌なのではない。ただ面倒だったからだ。
が、そんな呑気なこと言っていられない。今はとにかく、土方を取り戻すことに全力を尽くさなければ。
そうでないと、行き着く先はあの夢だ、破滅だ。それだけは御免だった。
「よし、頑張る!」
小さな拳を握りしめた総司に、騒いでいた彼らはびっくりしたようにふり返った。
まずはアプローチから。
いきなり褥に入っても事は進まない。というか、契った後に飽きられてポイでは、元も子もないのだ。長く細くつきあい続けるためには、加減する必要があった。
だから、総司は少しだけ土方に歩み寄ることにした。
「土方さん」
甘く澄んだ声で呼びかけた総司に、土方は驚いたようにふり返った。が、その前に慌てて何か隠したのが見えてしまう。
「……」
ちょっと、めらっとした。
今のなんですか。もしかして、例の芸妓さんからの恋文ですか。だったら、絶対許さないんですけど。
が、ここで縋ったり悋気やいたりすれば、ますます彼の気持ちが離れてしまう。仕方なく、笑みをうかべた。
そして、言った。
「それ、何ですか」
……あ、言っちゃった。
だめだなぁ、私って素直すぎるから。
いいや、もう聞いちゃえ。
「見せて下さい、今隠したものあるでしょ」
「……」
にっこり笑顔で手をさし出してくる総司に、土方は固まってしまっている。気のせいか、怯んでいるようだ。あの鬼の副長が!
あちこち視線をさまよわせた。
「……いや、これは仕事関係で」
「ふうん」
「だから、その、おまえには見せられないんだ」
「一番隊組長筆頭師範代である私こと沖田総司に見せられないのですか」
「う」
「そうですか、余程の重要案件なんでしょうね。近藤先生に聞いてみましょう」
くるりと背を向けて歩きだそうとする総司を、土方は慌てて呼びとめた。
「いや、違うから! すまん、これは俺の私物なんだ。だから」
「だから?」
「おまえには……その、見せられないんだ」
「土方さん」
静かな声で総司が呼びかけた。思わず居住まいを正してしまう声音だ。その証に、土方の背がぴんと伸びた。
それを見上げ、言葉をつづけた。
「私、土方さんの念弟ですよね。それは変わらない事ですよね」
「あぁ。おまえは俺の念弟だ」
「だからと言って、あなたの私的な部分に全て踏み込むつもりはありません。でも、今、あなたには疑いがかかっているのです」
「疑い?」
訝しげに土方が眉を顰めた。それに、こっくりと頷いてみせた。
「あの誓文を破った疑いです」
「え」
土方の目が見開かれた。が、すぐに慌てて言い訳を始める。
「お、俺は誓いを破ったりしていないぞ! 俺は絶対潔白だからッ」
「はいはい」
軽く流してから、にっこり笑った。
「うん、じゃあ、それ私に見せられますね」
「……」
「土方さん」
冷たく澄んだ声で彼の名を呼ぶ総司に、土方は進退窮まった。思わず助けを求めるように、あちこちへ視線をさまよわせてしまう。
すると、渡り廊下の向こうから、原田が身振り手振りしているのが見えた。口パクもしている。それは、つまり。
『口に入れて飲み込んじゃえ! やばいから早くっ』
(俺はヤギか!)
文を飲み込むことなど、出来るはずもない。下手すれば喉に詰まらせてしまう。
だが、しかし、これを総司に見せないようにするには他にどうすればいいのか。
頭を抱え込みたくなる土方の前で、総司がちょっと小首をかしげた。桜色の唇に指をあてている様が、息を呑むぐらい可愛くて魅力的だ。こんな時なのに、思わず見惚れてしまう。
「んー、やっぱり嫌ですか」
「あ、あぁ」
「じゃあね、いいですよ。私も無理強いなんて嫌だし」
「本当か」
「もちろん……条件があります」
その言葉に、土方はぞぞぞっと背中が寒くなった。
条件?
条件とは何だ。
まさか、まさかと思うが……別れるとか!?
思わず総司の細い肩を掴み、力説した。
「それだけは嫌だ! 絶対嫌だからなッ」
「まだ何も言っていませんけど」
半目になっている総司に気づかず、懇願した。
「頼むから、別れるなんて云わないでくれ。それだけは嫌だ」
「は? 土方さん、私と別れたいのですか」
ますます声音が冷たくなったのを感じ、土方はハッと我に返った。見れば、総司は愛らしい顔に、冷たーい笑みをうかべている。
その様子に戦慄した。
お、怒っている……!
これは、完全に怒っている顔だ。
「総司、違う」
慌てて弁明した。
「頼む、わかってくれ」
「別れることをですか?」
「違う! 違うんだ、そうじゃない。俺はおまえと絶対別れない、別れたりするものか」
「じゃあ、何をです」
「俺はおまえの条件が、別れることだと思ったんだ。けど、それだけは絶対に嫌だ。俺はおまえと別れたくない」
「私もそんなつもり、全くありません」
総司はこっくりと頷いた。手をのばすと、土方の襟元にふれてくる。そっと袷を直してくれながら、言った。
「私があなたと別れるはずないじゃありませんか。……ね?」
「……」
何だろう。
嬉しい言葉を言われたはずなのに、こう、妙な寒気を感じるのは。
黙り込んでしまった土方に、総司はにっこり笑った。が、目は笑っていない。
「私ね、お願いがあるのです」
「願い……」
「行きたいところがあるのです。土方さん、連れていってくれる?」
「え」
土方は目を見開いた。
もっと、とんでもない事を言われると思っていたのだ。
だが、総司はただ道行きに誘ってくれるつもりだったのだ。
なのに、その純な気持ちを疑うなんて。
あぁ、俺は……!
反省しまくった土方は、すぐさま総司の手を握りしめた。
「あぁ、もちろんだ! おまえが望むところなら、どこでも連れていってやるよ」
「本当?」
総司は柔らかく微笑んだ。
そして、言った。
「じゃあね、今すぐ先斗町に連れていって下さい」
「…………え?」
空気がパッキーンと凍った。