突然だった。
 男は総司の細い肩を掴み、そのまま己へと引き寄せた。
 広い胸もとに引き込まれ、抱きしめられる。――息もとまるほど。
 まるで長く引き離されていた、ようやく逢えた恋人を抱きしめるような抱擁だった。
「……土方、さん?」
 何が起こったのかわからず、目を瞬いた。理解できない。


 どうして?
 何故、この人は私を抱きしめているの?
 どうして……


 それでも、痛いほどわきおこる喜びは否定できなかった。
 ずっと焦がれてきた、求めてきた、そのぬくもりを――――
「!?」
 次の瞬間、息を呑んだ。
 突然、胸が熱くなったのだ。
 熱くて冷たくて、痛くて……
「っ……」
 見下ろせば、ぎらりと光る刃が目を射た。斬られたのだと気づいたのは、彼の胸に手を突っぱねた後だ。
 血まみれの手で彼を突き放し、後ろへよろける。
 胸もとを斬られていた。否、刺されたのか。おさえた両手の指の間から零れ落ちる血が、己の命そのものだ。
「……っ、ぁ……」
 もう声が出なかった。急速に視界が暗くなってくる。
 それでも震えながら見上げれば、土方は無言でこちらを見下ろしていた。怜悧な表情で、静かに、総司が息絶えていく様を見つめている。
 事切れるまで見届けるつもりか。
 冷徹な新撰組副長として。
「ッ、ぁ…っ、ぅ……っ」
 ぽろぽろと涙がこぼれた。


 辛くて悲しくて辛くて、切なくて。
 一瞬でも彼に抱きしめられた事を喜んだ自分が惨めだった。その後、こんな絶望が待っていたなんて。
 否、それとも、自分は幸せなのだろうか。
 彼に一時でもふられて、挙句、その手で命絶たれる事になって。
 違う、自分はそこまで堕ちていない。
 彼を愛していても、己を貶めることはしたくなかった。彼の傍にあり、彼を支え、幸せに生きていきたかったのだ。
 ただ、それだけだったのに。
 それしか望まなかったのに。


 地に崩れ落ちながら、総司は啜り泣いた。本当に、心の底から泣いた。慟哭した。


 どうして、どうして、どうして。
 何故、こんなふうになってしまったの。
 こんな形でしか、私たちは在りえなかったの……?


 もう指さきにさえ力が入らない。
 何も言えない、何も叫べない。
 何も見えない。


 己が殺した私を見つめるあなたさえも。





 ――最期の瞬間。
 彼が、自分の名を呼んだ……。


















「!?」
 はっと目が覚めた。
 思わずがばっと飛び起きてしまう。反射的に胸もとへ手をあてた。
 痛くないし、むろん、傷もない。
「……ゆ、め?」
 呆然と総司は呟いた。
 だが、あまりにもまざまざとした夢だった。彼に殺される夢だなんて。
 声もはっきりしていたし、痛みさえも確かにあった。
 あの時の、泣き叫びたいぐらいの悲しみも。
 総司は布団の上に坐り込んだまま、一生懸命考え始めた。
「確か、あれは……伊東先生と隊を出た後だったよね」


 この数日、夢を見続けていた。
 まるで時をなぞるように、夢を見ていたのだ。見ない日もあったが、だいたい夢は時の流れに沿っていた。
 夢の中で、新撰組に入ってきた伊東は参謀となり、たちまち隊士たちの信望を集め、隊を割ってしまった。その思想に賛同したのかどうかまでは覚えていないが、とにかく、総司も伊東に従って新撰組を脱退した。
 むろん、一番隊組長であり、局長近藤の愛弟子である総司の言動は大きな影響があり、隊に動揺を招いた。
 それでも、総司は隊を出たのだ。
 理由は様々なものがあったが、その一つは土方との不仲だった。
 もともと、別に仲が悪かったわけではないが、仲がよいという訳でもなかった。それが伊東の入隊、山南の死により、一気に悪化したのだ。
 そして、皮肉なことに、総司が土方への恋心を自覚したのもその時期だった。冷たく見据えられたり、拒まれすげなくされたりして、初めて、彼への強い執着と想いに気づいたのだ。


「うわー、私ってやばい?」


 冷たくされて好きだと自覚するなど、ある意味やばいだろう。
 いや、夢の中の自分が! だが。
 今、総司は土方を副長として敬っているが、彼への恋心があるかと問われれば、首を傾げざるをえない。むろん、嫌っている訳ではなかった。
「だけど、本当にこれってただの夢? もしかして、将来起こることの夢とか……」
 そんなこと信じられないが、それでも、そうとしか考えられなかったのだ。
 あそこまでまざまざとしたものを、ただの夢と片付けられなかった。ここ数日見続けてきたのだ。
 挙句、今朝の夢だ。
 今も尚、彼に殺された痛み、悲しみは覚えている。
 思わず、ぶんぶん首をふった。
「あんな結末、絶対いやだよね。ただの夢か、それとも、この先起こることを暗示した夢なのか、確かめる方法はないのかなぁ」
 うーんと考え込んでから、はっと気がついた。


 今は、そうだ。山南が切腹した日の翌朝だ。
 それを思ったとたん、ばばばっと夢の記憶が流れ込んできた。
 この日、打ち合わせの時に永倉が土方に食ってかかり、それに対する言葉の冷たさに愕然として、総司も思わず土方を罵ってしまうのだ。
 全部、それが始まりだった。
 二人の関係が捻れていく切っ掛けだったのだ。


「確かめなくちゃ! これがただの夢なのか、それとも将来の夢なのか……」
 総司は慌てて立ち上がり、着替えをした。朝餉を取りに広間へ向かう。
 後ろから声がかけられた。
「おはよう」
 振り返ると、斎藤が立っていた。
 複雑な表情だ。当然だろう、友人であり仲間だった山南を介錯したのだ。どこか腫れ物にふれるような周囲の反応を感じつつ、総司は元気いっぱいに挨拶した。
「おはようございます! 斎藤さん」
「……大丈夫なのか、総司」
「大丈夫って、何が?」
「昨日もあの後、体調を崩していただろう」
「あ、えーと……大丈夫です、たぶん」
 笑顔で誤魔化してから、さささっと広間に入った。皆が朝餉をとっている。
 食事をしながら、今の自分の行動はまずくなかったかどうか、考えた。


 確かに、山南の死は衝撃だった。重く胸奥にのしかかっていた。
 だが、一方で、どんなに嘆いても、山南は戻ってこない。
 彼自身、最期に話した時、すっきりと納得した様子だった。大津から京へ戻る道でも、達観した様子だったのだ。
 総司は何度も説得したが、初めから、山南は死を望んでいた。山南が納得して逝ったのならば、それを受け入れるべきなのだろう。
 それに、なんというか……夢の衝撃が大きすぎて、昨日の事が吹っ飛んでしまっていた。自分が冷たいのかなとも思うが、あまりにも夢の方が衝撃すぎたのだ。
 何しろ、あの土方に殺されたのだから。


 周囲を見回してみたが、土方の姿はない。その事にほっと安堵の息をもらした。


 夢だとはいえ、自分を殺した男なのだ。しかも、その夢をついさっき見たばかりだ。
 さすがに会いたいとは思わなかった。
 いや、もちろん、わかっている。新撰組に身をおいている以上、副長と会わぬ訳にはいかないのだ。それでも気が重かった。
 やはり、思ったより例の夢を引きずっているらしい。
 先程、斎藤に冷たくしてしまったのも、夢のせいだった。
 夢の中で、自分は斎藤とも仲が悪かった。共に伊東派へ加わったが、彼が土方の懐刀であることは知っていたのだ。そのことに嫉妬していた。
 斎藤は何も余計なことは言わなかったし、土方のように冷たく接してくる事もなかったが、敵対していることは確かだった。
 いつも、遠くから冷たく眺められていたのだ。侮蔑されている気がした。
 むろん、土方との関係が悪化するまで、そんな事はなかった。友人として接してくれていたのだ。だが、立場が変わっていくにつれ、斎藤との距離も離れていった。


(あの時、私は一人ぼっちだった……)


 独りで戦っていた、という感じがする。
 それはとても辛く悲しい事だった。世界は総司に対してとても冷たかったのだ。
「……」
 きゅっと唇を噛んでから、総司は膳に箸を置いた。あれこれ考えてしまったため、食が進まなかったのだ。
 広間を出て、そのまま打ち合わせの場に向かった。部屋に入れば、幹部のほとんどはもう来ている。皆、表情が沈んでいたし、言葉数も少なかった。
 仕方ないことだろう。何しろ、あんな事があった翌日なのだ。明るく話せという方が無理だ。
 総司は部屋に入り、静かに一礼した。そのまま歩き、自分のいつもの定位置に座る。
 むろん、まだ土方は来ていなかった。
 だが、もうすぐ彼はここに現れるはずだ。それがひどく怖くて、緊張した。


(まるで、初めて逢うみたい……)


 夢の中の表情が、あの冷たいまなざしが、思い浮かんだ。
 自分の胸を刃で貫いた時も、こちらを見ていた黒い瞳……。
「……っ」
 ぶるっと身震いした。
 その時だった。
 部屋がしんと静まったのを感じ、目をあげた。とたん、息を呑んだ。
「!」
 土方が入ってきたのだ。
 黒い紬の着物を着流し、刀を腰に斜め差しにしている。すらりとした長身によく似合っていた。
 艷やかに結い上げられた黒髪も、その切れの長い目や深く澄んだ黒い瞳、形の良い唇も何もかも、夢の中の彼と寸分違わない。
 端正な顔だちは冷たく、そのくせ、大人の男特有の色香があった。しなやかな指さきまで、本当に綺麗な男なのだ。
 むろん、女性のような美しさではない。研ぎ澄まされた刃のような美しさだ。
 部屋を大股に横切り、土方はこちらへと歩んできた。ちらりと総司に視線をやったが、無言のまま隣に腰を下ろす。
 その一連の動きを、総司は呆然と見つめていた。
 頭の中が真っ白だったのだ。己の感情ゆえに。


(この人、こんなに格好よかった……?)


 最初に思ったのは、そんな言葉だった。
 夢の中の想いが残っているのか、昨日までなんとも思っていなかったはずなのに、奇妙なぐらい惹きつけられる。
 むろん、怖さはある。何しろ、つい先程、夢の中とはいえ、自分の胸に刃を突き立てた男なのだ。
 それを思うと身が竦んだが、一方で、彼がたまらなく魅力的であることは確かだった。その姿、仕草、動きすべてに、得も言われぬ華があるのだ。
 ぼうっとしている総司の隣で、土方は書類をめくり始めた。やがて、近藤がやってきて打ち合わせが始まる。
 だが、それはすぐさま中断された。
 永倉が言ったのだ。
「こんなどうでもいい事話し合う前に、やることあるんじゃねぇか」
「どうでもいい事だと?」
「あぁ、そうだ。土方さん、あんたには生きた血が通っているのか? 平然としているあんたが鬼に見えるよ」
「……」
 そのやり取りに、総司は、はっと声を呑んだ。


(同じだ!)


 あまりにも印象的だったためか。
 この永倉の発言と続くやり取りを、しっかり覚えていたのだ。さすがに言葉の端々までは覚えていないが、鬼だとか、生きた血が通っているのかとか、けっこう酷い台詞があった気がする。


(それで、この後、原田さんが……)


「やめろ、新八」
「左之、おれは言わなきゃ気がすまねぇんだよ」
「気持ちはわかるけど、今更……」
「今更も何も、今のことだ! 山南さんが死んだのに、平然と何もなかったように振る舞っているのが許せないんだよ」
 永倉は口早に言って、土方を睨みつけた。
「だいたい、山南さんが死んだのは、あんたのせいだろう? あんたが追い詰めたから、あの人は」
「新八、やめろって」
「止めないでくれ、おれは」
「永倉」
 ずっと黙っていた土方が、低い声で彼の名を呼んだ。
 それに、総司は目を見開いた。この後、彼が何を言うかわかっていたのだ。
 それはとても酷い言葉で、皆の心に傷を深く残してしまうのだ。永倉や原田はもちろん、この後、罵ってしまう総司にも。
「俺は、おまえの言うと」
「――――あ、あのっ!!!」
 大声で総司が叫んだ。思いっきり副長たる土方の言葉を遮ったのだ。
 それに、皆が驚いたように、総司を見た。いつも打ち合わせではあまり発言しない総司が突然大声を出したことに、驚いたのだろう。土方も目を見開いている。
 一斉に彼らの視線を浴び、総司は耳朶まで赤くなってしまった。何だか恥ずかしい。
 だが、絶対言わせてはいけなかった。否、言ってほしくない。


 今ならわかるから。
 あの言葉を告げた時、彼は、皆だけでなく己自身も深く傷つけたのだ。
 だからこそ、絶対に言ってほしくなかった。


 総司は頬を紅潮させつつ、言葉をつむいだ。
「こんなふうに言い争うの、山南さんは望んでいないと思うのです。今は、その、静かに山南さんの冥福を祈る時ではないでしょうか」
「総司……」
「永倉さんの気持ちもわかります。でも、あの、土方さんだって、別にないがしろにしている訳じゃないのです。ただ、仕事をしないとやってられないというか、たぶん、そうして気を紛らわしているんじゃないかな、と」
「……」
 総司の言葉に、隣で土方が息を呑んだ。おそるおそる見やれば、呆気にとられた顔で彼はこちらを見下ろしている。それに恥ずかしくなりつつ、口早に続けた。
「だから、皆、争ったりしないで、山南さんの冥福を祈りませんか。あ、私、今からしますから」
 そう言って手をあわせ、目を閉じた総司に、皆は呆然としたようだった。が、しばらくすると、皆、手をあわせている気配がする。
 そっと目を開けてみれば、隣で、土方も瞑目し手をあわせていた。それに、ほっとする。
 やがて、再開された打ち合わせだったが、永倉もそれに異を唱えなかった。それどころか、打ち合わせが終わった後、謝られた。
「総司、すまない」
 驚いて振り返ると、永倉が頭をかきながら苦笑いしていた。
「おれ、かっとなってしまって……なんか、総司に諭されたよな。一方的にしか見れてねぇって自覚した」
「そ、そんな、私は別に」
「本当に助かった。ありがとう、それから、ごめん」
 頭を下げる永倉に、ちょっと慌ててしまった。だが、それに言葉を返そうとしたとたん、横合いから腕を掴まれる。
 誰? と思って見上げた総司は、息を呑んだ。
「……土方、さん」
 彼は無表情で総司を見下ろしていた。切れの長い目がまっすぐ見つめている。
「少しつきあえ」
「え」
「副長室に来いと言っている」
「……っ」
 有無を言わせぬ言葉だった。答える間もなく引きずられるように、その場から連れ去られる。
 副長室に入ると、土方はさっさと腰を下ろし、総司にも坐るよう促した。それに、おずおずと従い、視線を落とす。


(やっぱり、さっきの事……かな)


 土方の言葉を遮ったことを咎められるのだろうか。叱られても仕方がないと思った。
 幹部同士の口論に分け入ったのだ、それなりの覚悟が必要だった。
 ぎゅっと唇を噛みしめた総司は、だが、顔をあげることができなかった。
 叱られることも責められることも、仕方がないと思っている。それでも、彼の姿を目に映すことが怖かった。
 あの夢が重なってしまうのだ。
 自分を殺しながら、冷たく見下ろしていた男の表情が忘れられない。
 じっと押し黙ったまま俯いていると、やがて、土方が小さく息をついた。
「……そんなに怯えないでくれないか」
「え」
 意外と柔らかな口調に、驚いた。思わず顔をあげれば、土方は困ったような顔でこちらを見つめている。
「強引な事をして悪かった。だが、俺はおまえを叱責するために連れてきたんじゃねぇんだ。むしろ、逆だ」
「逆……?」
「おまえに礼を言いたかった。あの場で俺を遮ってくれたことだ。本当に助かった」
「……」
 目を見開いた。それに、土方は静かな口調でつづけた。
「永倉に罵られて、俺もかっとなった。もともと気が立っていたからな、余計に堪え性がなくなっていた。言ってはならん事まで口にしていた処だった。おまえのおかげだ、ありがとう、総司」
「そ、そんな……」
 総司は慌てて首をふった。
「私、お礼を言われるような事、していません。ただ、その……」
「ただ?」
「その、土方さんが……傷つくだろうなぁと、思ったから」
 小さな小さな声だったが、土方には伝わったのだろう。
 驚いたように、彼が目を見開いた。