土方は部屋の中に入る気はないようだった。
ゆっくりと腕を組み、障子の桟にかるく凭れかかる。陽光を背にしているため、その端正な顔にうかぶ表情は伺いしれなかった。
だが、形のよい唇が薄い笑みをうかべているのは、わかった。
嘲るような色をうかべた瞳が、総司の様子を眺めている。
「……っ」
総司は、鋭い視線をあてられている事を感じたが、慌てて文を仕舞い込んだ。
座り直し、彼を見上げる。その細い肩が僅かに震えた。
「何か……」
声が喉にからんだ。
「私に、何か……御用ですか」
抑えたつもりでも、感情が表に出てしまったのだろう。
怯えきった様子のまま訊ねる総司に、土方は片頬を歪めた。
「……まるで」
ふっと嗤った。
「化け物でも見たようだな」
縁側に佇んだまま、土方は総司を眺めた。切れの長い目が、すうっと細められる。
それが……たまらなく恐ろしかった。
深く澄んだ黒い瞳に何もかも見透かされそうで、思わず身をひいてしまう。
今はまだ彼に逢いたくなかった。
こんなにも混乱している状態で言葉をかわせば、何かとんでもない事を口にしてしまいそうな気がしたのだ。
「……っ」
総司はきゅっと唇を噛み、両手を握りしめた。
お願いだから、早く立ち去って欲しい。
今、この人とだけは顔をあわせたくなかったのに。
そんな総司の気持ちを知ってか知らずか、土方はそっけなく視線をそらせた。
庭の方を眺めやりながら、ゆっくりとした口調で告げる。
「仕事だ」
投げるような言葉に、総司は、はっとして顔をあげた。
それに、土方は言葉をつづけた。
「ある店を張る事となった。おまえの番は、明日の午後だ」
「……わかりました」
「何も聞かねぇんだな」
ふと揶揄するような口調で、土方が呟いた。
常ならば、総司は自分が納得するまで動かなかった。様々なことを土方から聞き出し、完全に納得するまで動かない。
「聞く気にもならんという事か」
「違います」
すぐさま、総司は首をふった。だが、それに言葉をつづける事も出来ぬまま、俯いてしまう。
そんな総司に、土方は鋭い視線をあてた。
しばらく無言のまま眺めていたが、やがて、低い声で「……まぁいい」と呟くと、踵を返した。そのまま身を起し、立ち去ってゆく。
仇だと思っていた男。
憎むべきだと信じ、憎んでいた人。
なのに……。
立ち去ってゆく男の足音を聞きながら、総司は固く瞼を閉ざした。
見張りの場所は、小料理屋の二階だった。
そこから下を見下ろせば、路地を挟んだ向かいに小間物屋が見える。その店の出入りを見張るのが、総司の役目だった。
先程交代した時、斉藤は気遣わしげな表情で総司を見た。
「顔色が悪いな」
前にも云われた言葉に、総司は同じように返した。
「風邪気味なだけですよ」
「医者には行ったのか」
「風邪ぐらいで……すぐ治りますから、大丈夫です」
「そう云って、もうずっとだろう」
語気を強めた斉藤に、総司はきゅっと唇を噛んだ。
もともと丈夫な方ではない。幼い頃はよく熱を出して寝込み、そのたびに姉のお光が懸命に看病してくれた。
その意味でも、総司にとって、お光は、ほとんど寝たきりだった母よりも、ずっと大切な存在だったのだ。
「少し……疲れているのかもしれません」
小さく笑った総司に、斉藤は眉を顰めた。
だが、やはりいつものように深く追究しなかった。ただ、そっと頬を撫でてくれる。
総司は黙ったまま目を伏せると、踵を返した。見送る斉藤の視線を感じながら、ゆっくりと階段を下りる。
宿の外に出てから、そっとため息をついた。
(いっそ、斉藤さんを愛せたら……)
大切な友人ではあるが、斉藤が総司に対して抱いている気持ちを、薄々感じてはいた。
あれだけ大切にしてくれるのだ。
もし総司が斉藤に心を開いたなら、喜んで受けとめてくれるだろう。
斉藤と恋仲になる。
そこには、憎しみも復讐も、策略もないはずだった。
あるのはただ、慈しみと優しさと、やすらぎ。
土方との歪んだ関係では決して得られる事のないすべてが、あたえられる事は確かだった。
だが、それでも、総司が斉藤の手をとる事はありえないのだ。
それを、総司もよくわかっていた。
土方が決して誠実でも優しくもない──それどころか、冷たく残酷な男だとわかっていながら、総司自身が、彼の中にある闇にふれたいと願っている事も、また事実だったのだ。
斉藤は、総司に夢を見ている。
総司がとても清らかで純粋で、美しい存在だと信じている。
だが、姿形はそうであっても、総司の中にもまた、闇が存在していたのだ。
半ば狂ってしまった姉の苦痛を、土方への憎しみを、復讐を、味わったことで、総司はどこか欠け落ちた若者になっていた。
瑞々しく清らかな心は変わらないが、それでも、何処かが小さく欠けてしまい、そこに闇がひっそりと息づいていたのだ。
そうである以上、土方が抱える闇に惹かれるのは必然だった。
彼が「おまえには俺が必要だ」といった事は、誤りではないのだ。
もはや、闇は総司の一部分となり、それなしでは生きてゆく事さえできなかった……。
(私は……土方さんなしでは生きてゆけない)
己に云い聞かせるように呟いた総司は、そっと長い睫毛を伏せた。
斉藤と別れた後、総司は屯所への帰り道を辿った。
だが、ふと、そこが以前土方と共に泊まった宿の近くだという事に、気がついた。
しばらく考えてから、その宿の方へ向ってみる。
宿に入って少し休みたいという事を告げると、一見でない事もあり、すぐ通してくれた。同じ部屋ではなかったが、二階にある見晴らしのいい部屋だった。
川のせせらぎがさらさらと聞こえ、とても心が安まる気がした。
他に客はないのか、静まりかえっている。
総司は窓枠に躯を凭せかけ、ぼんやりと下の往来を眺めやった。それ程人の行き来がある場所ではないが、それでも時折はある。
様々な人々が通り過ぎていった。足早に過ぎてゆく商人や、親子連れ。
中には、幸せそうに寄りそう男女もあり、総司は思わず視線をそらした。
(私に、あんな幸せは訪れない……)
彼らが羨ましかった。
何のしがらみもなく寄りそえる恋人たちが、羨ましい。
あんな誤解さえしなければ、今頃、もしかすると、自分もあぁして誰かと恋仲になっていたかもしれなかった。幸せに微笑っていたかもしれないのだ。
だが、それもすべて己自身が招いた事だった。誤解し、土方を憎み、挙げ句、復讐のためと、この躯まで投げ出してしまった。
そんな自分に、幸せが訪れるとは到底思えない。
(これから先、私はどうなるのだろう……)
そんな事を考えながら視線を戻すと、ぱらりと音がたった。見れば、雨が降り出している。
小雨だ。皆、足早に駆けてゆく。
それらの光景を眺めていた総司は、不意に、はっと息を呑んだ。
「──」
一人の武士が宿の前を通りかかったのだ。すらりと均整のとれた長身に、濃い藍色の単を着流し、編み笠をかぶっている。
男は総司がいる窓下まで来ると、編み笠を指さきでかるく押しあげた。
切れの長い目がまっすぐこちらを見つめた。
「……土方…さん……」
譫言のようにその名を呼んだ総司の声が聞こえたのか、土方は微かに笑った。すっと身を返し、そのまま宿の入り口をくぐってくる。
「あ」
彼がここへ来るという事実に、総司は狼狽えた。思わず立ち上がってしまう。
「どうしよう……」
躯中が竦みあがり、緊張と不安のためか、すうっと指さきが冷たくなった。
本当は逢いたくなかった。できるだけ避けてしまいたかったのだ。
なのに。
憎むことさえ出来なくなった彼に、いったいどう接すればいいの──?
呆然と立ちつくす総司に、やがて、襖越しに声がかけられた。
連れがきたと告げる宿の者の声に、はい、と強ばった声で答えると、すっと襖が開けられる。入ってきたのは、やはり、土方だった。
編み笠を手に、微かに笑ってみせる。
「こんな処で何をやっているんだ」
「いえ……」
宿の者が下がったのを確かめてから、土方は部屋の奥へと歩を進めた。先程まで総司が凭れかかっていた窓枠に腰かけ、外へ視線を流す。
その端正な横顔を見上げ、総司は小さな声で謝った。
「屯所に戻らず、申し訳ありませんでした」
「務めさえ果たせば、別に構わねぇよ。ここで休んでいたのか」
「えぇ……近くまで来たので」
そう答えた総司に、土方は黙然と頷いた。それに、少し躊躇ったが、小さな声で問いかけた。
「……土方さんは、どうして」
「何がだ」
「どうして、ここへ来たのですか」
「おまえが見えたからだ」
「そうじゃなくて、なぜ、この辺りに……」
「おまえをつけて来たのさ」
「──」
驚いたような顔になった総司に、土方はくすっと笑った。片膝を抱え込み、くっくっと喉を鳴らす。
「豆鉄砲くらったような顔するなよ。これは嘘じゃねぇぞ」
「え、でも」
「あの店に行ってみると、おまえが出てくる処でな。声をかけようかと思ったが、屯所へ帰る風でもない事に気づいて、どこへ行くのかとつけちまったんだ」
「そうですか……」
「まさか、この宿に入るとは思っていなかったが」
そう云って、土方は笑ってみせた。
陰ひなたのない、きれいな笑顔。
だが、それを総司はもう形通りに受け取れなくなっていた。
裏に何が隠されているのか、いやという程知らされてしまったためだ。
今回のことも、男の言葉を信じる気になれなかった。つけてきたというのなら、どうしてすぐ現われなかったのか。何か他に思惑があったのか。
それとも、初めから自分に疑いでも抱いて、つけてきたのか。
「……私は疚しい事などしていません」
云わずもがまな事を口にした総司に、土方は驚いたように目を見ひらいた。
「あたり前だ。そんなものわかっているさ」
「なら、どうして、こんな」
「だから、云っている。気まぐれだと」
「……」
「まったく……俺も信用ねぇな」
土方は苦笑し、総司にむかって片手をのばした。それを戸惑ったように見つめると、「来いよ」と命じられる。
「……」
総司は躊躇いがちに立ち上がると、土方の傍へ歩み寄った。立ったまま見下ろせば、腰に手をまわされ、ぐいっと引き寄せられた。
「あ」
男の胸もとに倒れこむ形になり、総司は慌てて手をついた。
抱きすくめられた瞬間、視界の端に、開け放たれた窓の外が映る。どう考えても、抱きあう姿は往来から丸見えだった。
思わず羞恥心に身を捩った。
「や」
「何が」
「だって、外から……」
「あぁ」
土方はちらりと視線を外へ投げると、薄く嗤った。くっと喉を鳴らし、総司の首筋に唇を這わせる。
「このままでは下から見えるな」
「わかっているなら、離して」
「ここで今、おまえを抱いたらどうする?」
「……っ」
総司の目が瞠られた。男の腕に抱かれた華奢な躯が細かく震え出す。
まるで獰猛な獣に捕えられた小動物のようだった。あとは牙をたてられ、貪られるばかりなのだ。
この男がそう行動を決めたのなら、抗う術はない。
逃れることなど出来なかった。
「い…や、やめて」
弱々しく、総司は喘いだ。半ば泣きだしそうになりながら、男に縋りつく。
「お願いだから、やめて下さい」
「……」
「許して、土方さん」
そんな総司に、土方は僅かに目を細めた。どこか探るような視線をあててから、ふっと片頬を歪めた。
若者の躯を抱きすくめ、耳もとに唇を寄せる。
そして、囁いた。
「……何に、許しを乞うているんだ」
低い声音だった。冷えた憤りを感じる。
それに、総司は目を瞠った。
