京で二度目の春を迎える頃、土方は新撰組副長としての座を完全に確立させていた。
鷹揚な近藤は隊内の事はすべて土方に任せきりであり、今や実権は彼の一手に握られていた。そもそも、副長にすべての命令権が集中するよう組織されてあるのだ。当然の成り行きだった。
それと同時に、土方自身の多忙さは極まった。
同じ屯所にいながら、総司が土方の顔を見るのは、ごく稀な事となった。
公事でそうであるなら、私事では尚だ。
土方は総司に声一つかけなくなり、他人同然の扱いとなった。あれほど幾度も躯を重ねた事さえ、忘れ去ってしまったようだった。
廊下ですれ違っても、一瞥さえあたえぬまますれ違ってゆく。
そんな男の態度に、総司は戸惑った。
もともと受け身で始まった関係だった。
土方から手をのばしてきたのだ。その冷酷な本性を知らされた後も、躊躇う総司に「俺のものになれ」と囁き、抱きしめてきた。
強烈な快楽に酔わせ、身も心もとろけさせた。そうする事で籠絡させようとした。
だが、今、突然、男は背をむけてしまったのだ。
もはや総司を手にいれる事に飽きてしまったのか、諦めたのか。冷ややかな一瞥さえ、あたえられなくなったのだ。
男の突然の豹変に、総司は戸惑うばかりだった。
今までは彼の強引さに引きずられつつ、それに抗っていればよかった。どんなに「いや」と拒んでも、彼の力強い腕は総司を抱きしめた。とろけるような熱い口づけをあたえ、その躯に彼の熱を刻みこんでくれた。
だが、彼はもう自分に見向きもしない。
(土方さんは、私に飽きてしまった……)
それを思うと、気持ちが沈み込んだ。
だが、一方でそんな風に思うのはおかしいとも考える。
土方のものになりたいなどと、一度だって望んだことはなかった。自分が彼を狂わせ堕しめてやる、それが復讐なのだと思っていた。
なのに、どうして今、背を向けられたぐらいで狼狽えてしまうのか。胸の奥にぽっかりと穴があいてしまったような気持ちで、落ち着かなくなるのは、何故なのか。
「……っ」
独り寝の夜、総司は褥の中でそっと身を丸めた。指さきが己の肌を撫でるが、何も感じない。
たまらなく、彼が欲しかった。
あの指さきが、唇が、吐息が。
そして、まるで花びらに包みこまれたような抱擁が恋しかった。
不意に蘇る、めくるめく快楽の記憶に、呼吸さえとまった。
「……土方さん……土方…さん……」
何度も、唇の中で彼の名を呼んだ。
それはいったい何故なのか。
彼に抱いて欲しいと願っているから、恋しいのか。
求めているのは、この躯なのか、この心なのか。
やはり心なのかもしれないと思う一方で、そんなふうに憎んでいるはずの彼を求める己が許せず、かといって、彼を想ったとたん熱く火照ってしまう我が身も許せなくて。
(……何も…わからない……)
己の心の行方さえわからぬ不安に、総司は己の肩を両手で抱きしめると、きつく祈るように目を閉じた。
稽古の後に斉藤に声をかけられたのは、その数日後だった。
井戸端で誰もいないのを見計らい、そっと声をかけてきたのだ。
「……大丈夫か?」
「え」
意味がわからず目を瞬いた総司に、斉藤はちょっと困ったような顔になった。
しばらく躊躇ってから、静かな声で云ってくる。
「最近、元気がないなと思って」
「あ……」
「ぼうっとしてる事が多いし、稽古もあまり身がはいってないみたいだ」
その言葉に、総司は頬を紅潮させた。慌てて背筋をのばし、頭を下げる。
「すみません。師範代としてみっともない話ですね」
「いや、怒ってるんじゃなくて……心配しているんだ、オレは」
そう優しい声で云ってくれた斉藤を、総司は大きな瞳でじっと見つめた。
斉藤は総司と同じ年なのだが、外見も性格的なものも大人びている。
いつも冷静であまり激する事のない彼を、総司は友人として大切に思っていた。
また、剣の腕前も素晴らしい事から、公私ともに色々と学ぶべき事の多い友人なのだ。
「ありがとう」
総司は小さく笑ってみせた。
「でも、大丈夫です。もう京に来て一年近くになるんだなぁと、思っていただけですから」
「一年近く…か、そうだな」
斉藤は頷き、それから僅かに小首をかしげてみせた。
「この一年、色々あったが、総司自身にも事多き一年だったのじゃないのか」
「……」
総司は思わず斉藤をじっと見つめてしまった。
彼の言葉がとても意味深に思えてしまったのだ。まるで、土方との仲を探られているような気がした。
その警戒心が顔にあらわれたのだろう。
斉藤がゆるく首をふり、僅かに苦笑した。
「別に詮索する気はないよ」
「……」
「ただ、おまえが苦しい思いや辛い思いをしてないか、それだけが心配なだけだ。おまえが誰かといる事で不幸になっていないかと」
「斉藤さん」
「幸せであるのならいいし、もし不幸でもおまえが望んだ事なら仕方がない。でも、もしおまえが望まぬ関係を強いられているのなら、おれは相手が誰であってもおまえのために戦うつもりだ」
きっぱりと云いきった斉藤に、総司は小さく目を見開いた。
斉藤は知っているのだ。
総司が土方と深い関係を結んでいることも。
それが、憎しみと復讐、愛情の混迷する歪みきった関係であることも。
その上で、総司のために戦うと断言してくれた斉藤に、胸が熱くなった。
「ありがとう」
総司は思わず手をさしのばした。
「……」
斉藤は一瞬躊躇ってから、その細い指さきをおそるおそる握りしめた。
同じ年ながら、斉藤の大きな手の中で、総司のそれは少し力をこめれば折れてしまいそうなほどか細かった。それを感じたとたん、斉藤の心に強い庇護欲と、この若者へ以前から抱いていた恋慕が込みあげる。
「斉藤さん?」
手を握られたまま、総司は長い睫毛を瞬かせた。
男を狂わせる──何一つ罪深い事など知らない、きれいに澄んだ瞳が斉藤を見つめた。
そっと小首をかしげ、微かに唇を開いて彼の名を呼ぶ。
「……っ」
斉藤がたまらず総司の手を引いた。よろけるようにして、その腕の中に引き込まれ、きつく息もとまるほど抱きしめられる。
「あ」
だが、それは一瞬の事だった。
すぐさま斉藤は総司を腕の中から解放すると、謝した。
「すまない。悪い事をした」
「……斉藤…さん」
「ごめん」
頭を深く下げてから、斉藤は踵を返した。足早にその場から立ち去ってゆく。
遠ざかる背を見つめ、総司は微かに吐息をもらした。
夕刻、土方は屯所を出た。
こんな時刻に彼が外出するのは、そう珍しい事ではない。
島原や祇園へ行く事も多かったし、今夜もそうなのか、隊服でなく黒地の小袖、袴を纏っていた。ゆっくりと歩む長身はすっきりした佇まいで、すれ違う女のほとんどがふり返ってゆく。
思わず見惚れるのも当然の、いい男ぶりだ。どうという事もない仕草にも、大人の男の色香がそこはかとなく漂う。
土方は懐に片手をさしこみ、まるで行き先もないようにゆっくりと歩いていた。
どこかへ散策にでも行くかのようだ。だが、そのくせ、幾つかの角にくれば躊躇うことなく曲がり、歩いてゆく。
そうして、幾つめの角を曲がった辺りだろうか。
不意に、土方は歩をとめた。
「……どこまでついてくる気だ」
低い声が、人気のない路地裏に響いた。
この先はあまり町家も少なくなる辺りであり、夕暮れ時という事もあり、人の影一つ見あたらない。
そうである以上、襲撃かと考えるべきなのだが、土方の声は余裕そのものであり、微かな笑いさえ含んでいた。
背を向けたまま、くすっと笑った。
「さっさと出てこいよ。初めから俺に逢いたくて、こんな事をしたのだろう?」
「……」
とたん、角から影が覗いた。夕闇に、ほっそりとした人影がうかびあがる。
柔らかな黒髪を、さらさらと風が撫でていった。細い肩に波うつ様が、まるで絵のようだ。
美しくも儚げな光景に、土方は目を細めた。
「刀も持たず、髪も結わず……か。まるで、娘のようだな」
「いけませんか」
「いや、その方が俺も都合がいい。口説きやすくなる」
「──」
土方の言葉に、総司は目を見開いた。だが、すぐにきついまなざしになる。
「……その気もないくせに」
「心外だな。俺は何度もおまえを口説いたはずだろう?」
「以前は。でも、最近はまるで関心を失っていたじゃありませんか」
そう答えた総司の声音は、無意識のうちにどこか拗ねたような響きがあった。
土方がふっと笑った。面白そうに総司を眺めやる。
「淋しかったのか」
「誰が!」
総司はかっと頬に血をのぼらせた。顔をそむけ、そのまま踵を返そうとする。
だが、いつのまにか近づいてきた土方に、その腕を強く掴まれふり向かされた。あっと思った時には、男の腕の中に引き込まれてしまっている。
背中が撓るほど、きつく抱きしめられた。
「や」
小さく身を捩ったが、それは甘えを含んだ仕草であり、すぐさま男に宥められてしまう。
抱きしめられ、頬に首筋に口づけを落とされれば、もう駄目だった。
久しぶりの抱擁。彼の匂い、感触。
抱きしめてくれる力強い腕に、肌にふれる熱い唇。
頬をかすめる彼の髪、吐息。
その何もかもに、気が狂いそうになった。彼を欲していたのだと、心から思い知らされた。
意地も矜持も誇りも何もかも、彼という圧倒的な存在を前に、崩れ落ちてゆく。
「……総司」
素直におとなしく男の腕に抱かれる総司を、満足げに眺めながら、土方は囁いた。耳もとに唇をよせ、低めた声で囁きかけてやる。
「可愛いな、総司」
「……ぁ」
「おまえは、俺だけのものだ」
「土方…さん……」
「俺に放っておかれて、淋しかったか?」
「……」
桜色の小さな唇を震わせ、総司は男を見上げた。言葉はなかったが、その潤んだ瞳が答えだった。黙ったまま男の広い胸もとに顔をうずめてくる。
土方がそれを抱き寄せながら、訊ねた。
「淋しさに堪えきれず、他の男に身をまかせてねぇだろうな」
「……そんなの」
「するはずねぇか。……斉藤とも?」
男の問いかけに、総司の目が見開かれた。
驚いて見上げる若者に、土方は低く嗤った。
「そんなに驚く事ねぇだろう。あんな目立つ処で抱き合っていれば、人の目にもつくさ」
「見て…いたのですか」
「あぁ、面白い見物だったな」
そう云ってから、土方は唄うような口調でつづけた。
「誰が相手であっても、おまえのために戦う……か。けなげな男だ、斉藤は」
「土方さんと違いますから。とても誠実で優しい人です」
きつい声音で返した総司に、土方は微かに笑った。
思わず見惚れてしまうほど、きれいな優しい笑顔。
だが、その一方で、声音は冷ややかな嘲りに満ちていた。
「誠実で優しい、ね」
口角をあげた。
「そんな生ぬるい男じゃ満足できねぇくせに」
「何を……」
土方は肩をすくめると、すっと踵を返した。まるで、今までの会話などなかったように、さっさと歩き出してしまう。
放り出された格好になった総司は、呆気にとられ目を見開いた。思わず後を追ってしまう。
だが、角の少し手間で、男が立ち止まったのを見て小さく息をつめた。
それは、一軒の宿屋の前だった。
美しく曙色に染められた暖簾がはらりと風に翻り、優雅な雰囲気を醸し出している。塀沿いに植えられた萩の若葉が瑞々しく美しかった。
土方はふり返ると、切れの長い目でまっすぐ見つめてきた。
「……ぁ」
小さく息を呑んだ。
言葉には出さないが、来いと命じられている気がしたのだ。
否、実際そうなのだろう。これは誘いではなく、命令だ。
もっとも、彼に従えばどうなるかわかっていた。また、彼の手の中へ堕ちてしまうのだ。
矜持も意地も何もかも剥ぎ取られ、この男の意のままにされてしまう。
不意に、土方がそっけない口調で訊ねた。
「どうする?」
「……え」
目を瞠った総司に、土方は言葉をつづけた。
「誠実で優しい男がいいのなら、今すぐ帰ればいい。だが、俺が欲しいのなら、一緒に来い」
「……」
「どちらにするか、今ここで選ぶんだな」
そう云うと、息をつめたままの総司を見つめ、土方はゆっくりと笑った。
端正な顔にうかべられた、冷やややかな──だが、どこか誘いかけるような笑み。
とたん、総司の躯の奥で、彼に抱かれる時の甘い熱が疼いた。
思わず固く目を閉じてしまう。
(……あ……)
甘い花びらに包みこまれたような情事。
とろける蜜の彼方にまで追い上げられる、めくるめく悦び。
そこに、誠実さも優しさもなかった。
あるのは、快楽と狂おしさ、そして何よりも、本能のまま互いを激しく求めあう獣のような関係だけだ。
愛だとか憎しみだとか。
そういう感情すべてを越えた処で、自分はこの人を求めているのか。
「決心がついたら、入ってこい」
気がつくと、土方は暖簾をくぐろうとしていた。ちらりとふり返りざま、微かな笑みを投げかける。
濡れたような黒い瞳に、男の情欲を感じた。
そのまま、広い背は暖簾の向こうに消えていった。遠ざかってゆく足音を聞きながら、総司はきつく唇を噛みしめる。
わかりきっている事だった。
ここに入れば、まためちゃくちゃになるまで抱かれる。
そして、何もわからなくなって、今度こそ彼のものとされてしまうのだ。
だけど……それでも。
私が欲しいのは何なのか。
今、私はいったい何を望んでいるのか……迷う必要もない程に。
総司は一瞬だけ目を閉じると、決意したように顔をあげた。それから、ゆっくりと足を踏み出す。
暖簾がひらりと翻り、そのほっそりとした躯を中へと招き入れた。
春の夕闇が、ゆるやかに辺りを満たしてゆく。
紫色の空が広がる山の端。
ひっそりと細い細い月がうかぶ黄昏時。
やがて、艶やかな春の宵が訪れた───
