秋の紅葉が美しかった。
 寺の裏山にある雑木林も金色と朱に染め上げられ、見上げれば、はらはらと紅葉が舞い落ちてくる。
 樹木の根元や小道も紅葉で埋め尽くされ、それは見事な眺めだった。まるで絵のようだ。
 その光景を見つめ、総司は小さく呟いた。
「……綺麗……」
 思わず身をのりだし、手をのばした。舞い落ちる紅葉を掴もうとする。
 だが、その躯はすぐさま後ろから乱暴に引き戻された。紅葉の幹に背を凭せかけて坐る男の膝上へ、軽々と抱えなおされる。
「や」
 かるく身を捩ったとたん、小袖の襟もとがするりと肌けた。剥き出しになった白い肩に、土方は愛しげに唇を押しあてる。
 首筋にさらりと男の前髪がふれ、思わず吐息をもらした。
「ん……や、ぁ」
 ふるりと首をふった総司に、土方はくっくっと喉を鳴らした。その大きな手が、まだ情事の余韻に痺れる躯をまさぐってゆく。
「さっきまであんないい声で鳴いていたくせに……今更、いやも何もねぇだろう」
「……でも、いや…です…」
「怒っているのか」
 かるく唇の端をつりあげた土方に、総司は目を伏せた。きゅっと唇を噛みしめる。
 男の肩の窪みに頭を押しつけながら、小さな声で答えた。
「別に……怒ってなどいません」
「そうだな。おまえは嫌だと抗いながらも喜んでいた。すげぇ可愛かったぞ」
「! 土方さん!」
 揶揄するような男の言葉に、総司はきっと彼を睨みつけた。だが、すぐまた頬や首筋を撫でられ、なし崩しにとろかされてしまう。
 総司はあたえられる口づけをうけながら、きつく目を閉じた。


(どうして、私はこんなに弱いの……?)


 もう何度めかの情事だった。
 土方という男の正体を知らされた後も、総司は彼に抱かれていたのだ。
 だが、それは恋人としての艶事というより、取引だった。従順で素直な手駒でいることへの、褒美なのか。
 総司の誇りも矜持も奪い去り、屈辱を味あわせる取引だったが、今更引き返すこともできないほど、彼の虜にされてしまっていた。その自覚がある以上、拒む事など出来なかった。
 愛しているのかどうかも、わからない。
 だが、以前と同じように憎いのかと問われれば、それもまたわからなかった。
 只、わかっているのは、いつのまにか総司は、彼なしでは生きられなくなってしまった事。
 土方という男がいなければ、総司の世界はすべて終わってしまうのだ。
 その凄まじいまでの喪失感は、激しい恐怖をあたえた。
 捨てられると思った瞬間の恐怖と、捨てないよと彼が断言してくれた瞬間の信じられない程の歓喜。
 惨めだ、とも思った。
 復讐してやるつもりだったのに、いつのまにか彼の掌中にとりこまれ、その指さきで操られていたなんて。
 だが、それでも。


『おまえは俺を失っては生きてゆけぬはずだ』


 男の言葉は真実だった。
 たとえ、それが必要悪であったとしても、総司はもう彼なしで生きてはいけないのだ。彼を失った瞬間、息絶えてしまうのだ。
 そこにある感情が、憎しみであれ、愛しさであれ。
 生き甲斐というものがあるのなら、総司にとってそれはまさに土方だった。彼への感情だけで生きていると云っても、過言ではない。


(私はこの人をどうしたいの……?)


 姉の仇として憎み、復讐したいのか。
 それとも、彼の手駒となり、快楽に溺れていきたいのか。
 自分自身の気持ちさえわからぬ曖昧さに、総司はきつく唇を噛みしめた。












 芹沢一派が一掃された後、土方は明らかに変わった。
 豹変したと云ってもよい。明るく優しかった笑顔はなりをひそめ、端正な顔からは一切の表情が失われた。
 酷く余所余所しく冷たい雰囲気を漂わせ、余人をよせつけぬようになったのだ。
 副長として隊を仕切るようになり、気がついた時には、すべて彼の掌中におさめられていた。
 隊の実権を握っているのは副長の土方である事は、誰の目にも明らかだった。
 そうである以上、当然その責任と多忙さは凄まじいものとなったが、土方はまるで意に介していなかった。端然と振る舞い、鉄の規則で隊を引き締め、反したものには容赦なく血の粛清を行った。
 その冷酷無情さ、果断さは、京に潜む浪士たちを震撼させたばかりか、隊士たちにも恐怖と憎悪の感情を抱かせた。
 誰もが彼を恐れていた。












「山南さんは、知っていたのですね」
 そう問いかけた総司に、山南は静かな瞳をむけた。
 穏やかな昼下がりだった。


 あの紅葉の森の中で土方に抱かれてから、数日がたっている。
 いつもの事だが、抱かれている最中は「お願い、捨てないで」と泣きじゃくり、そのくせ、情事の後は、己の弱さ愚かさに強く打ちのめされ、二度と抱かれまいと決意する。
 ずっと、そのくり返しだった。
 水面に浮いては沈む木の葉のような己の気持ちを、総司は掴めずにいた。


「山南さんは」
 一瞬、躊躇いはしたが、言葉をつづけた。
 大きな瞳を山南にまっすぐむける。
「土方さんがやっている事を、全部知っていた。その上で、新見さんの件も口を閉ざした。そうじゃないのですか」
「……総司」
 山南は微かに笑い、手元の書を片付けた。しばらく黙ってから、穏やかな声で云った。
「おまえが土方君に特別な感情を持っていることは、気づいていたよ」
「……」
「それが、愛憎とも云うべき情である事もね」
「……愛憎……」
 小さく呟いた総司に、山南は静かな瞳をむけた。
「そう、愛憎だ。もともと、愛することと憎むことは裏表、同一のものだと云われている。おまえが土方君に抱いている感情も、恐らくそうなのだろう」
「私は……」
「いや、否定も肯定も必要ないよ。ただ、この新撰組で土方君の駒として動く意志があるのなら、そういった感情は捨てた方がいい。愛憎の念など抱えていると、総司、おまえが傷つくばかりだ」
「それは」
 山南の言葉に衝撃を受けつつ、総司は訊ねた。
「報われぬものだからですか」
 その問いかけに、山南は答えなかった。黙ったまま、目を細める。
 総司はまるで急き立てられるように言葉をつづけた。
「土方さんは隊の事しか考えていない。感情など、何処かへ置き忘れてしまったようだ」
「……」
「そんな人に感情をむけても、虚しいだけではないかと。山南さんは、私にそう云われるのですか」
「……総司自身はどう思う?」
「え……っ」
 逆に問い返され、総司は言葉に窮した。長い睫毛を伏せてしまう。
 しばらく己の膝上においた手を見つめていたが、やがて、小さな声で云った。
「虚しいと…思います……」
 きゅっと唇を噛んだ。
「……でも……」
「でも?」
「それでも……抑えきれないと、感情を捨てることができないと、わかっている以上……もうどうしようもない事ではないのですか」
「総司」
 山南は微かに苦笑した。
「おまえはとても感情豊かで、素直な優しい若者だ。だが、それ故、とても傷つきやすいし、人の悪意や汚さも感じやすい。そういうおまえにとって、この新撰組はますますいづらい場所となってゆくのかもしれないよ」
「いづらい場所? 山南さんにとってもですか?」
 総司の問いかけに、山南はちょっと小首をかしげた。
「私? 私は……さぁ、どうだろう。土方君のように悪にもなれず、おまえのように善にもなれない。曖昧な私だからね」
「曖昧なのは私もです」
 両手をきつく握りしめた。
「土方さんの手をとる事も、拒絶することも出来ずにいる。今ではもう憎んでいるのか愛しているのかさえ、わからない。私はとても曖昧なのです」
「総司……」
 山南は目を細め、慈しむような表情で総司を見つめた。
 黙ったまま、総司は深く頭を下げた。きつく唇を噛みしめるその顔は、今にも泣きだしそうだ。
 その涙を隠すように顔をそむけ、立ち上がった。ほとんど走らんばかりの足取りで、部屋を出ていってしまう。
 遠ざかる足音を耳にしながら、山南は深く嘆息した。








「……かなり迷っているようだな」
 暫時の後、張りのある低い声が部屋に響いた。
 隣室に面する襖がからりと開かれ、一人の男がゆっくりと入ってくる。
 それにちらりと視線をやりながら、山南は小さく笑った。
「仕方ないよ。総司はきみに惑わされている」
「だが、もう少し容易に手に入ると思っていた」
 どこか憮然とした表情の土方に、山南は面白そうに笑い声をたてた。


 まるで正反対の性格であり、生まれ育ちも違う二人なのだが、意外にもよく気があっていた。
 山南はこう見えても策謀家であり、冷徹な部分も持ち合わせている。そのため、実直で生真面目な近藤には到底する事のできぬ汚い話も、土方は打ち明けていた。
 それに山南もよく応え助言を重ね、芹沢一派一掃となったのだ。


「少し……時期が早すぎたな」
 土方は立ったまま、苦々しげに呟いた。
「完全に俺のものにしてから、引き入れるつもりだったが」
「であっても、あの総司が完全に手に落ちたとは思いがたいね」
 山南は淡々とした声音で返した。
「総司はとても正義感が強いし、潔癖で純粋な性質だ。曲がったことや歪んだことは、それが正しいとわかっていても許せぬだろう」
「確かにな」
 片手で煩わしげに黒髪をかきあげた。
「お梅を斬った事にも妙にこだわっていた。この間も聞かれたよ」
「それはまた違うのではないか」
 山南は、土方の端正な顔を見上げ、ふっと笑った。
「お梅はきみが唆した女だろう。しかも手にかけた。きみ自身の思い入れがあるのではないかと、可愛いやきもちを妬いているのかもしれないよ」
「ならいいが」
 土方は柱に凭れかかって坐ると、行儀悪く片膝を抱え込んだ。だが、そんな姿が逆に、どきりとする程の男の色香を感じさせる。
 切れの長い目で庭先を眺めながら、呟くようにつづけた。
「総司は未だ、俺のものじゃない」
「まだ手を出してないと?」
「まさか」
 くすっと笑った。
「あの躯は俺のものさ。だが、それとは違うんだ」
「つまり、心かね」
「そう。総司は未だに俺に心を開いていない。どんなに愛してやっても、まるで通じねぇ」
「総司は、きみに憎まれていると思っているのだろう」
「俺を憎んでいるのは、総司の方さ」
 土方は苦笑した。その黒い瞳が昏い翳りを帯びる。
 柱に背を凭せ掛けたまま、言葉をつづけた。
「お光の仇を討つため、俺に近づいた。だが、俺がこんな男だと知った後、憎しみに恐れが加わったみたいだな」
「……」
「その証拠に、時折、まるで化け物を見たような目で、俺を見上げてくる。あれを見るたび、俺は……」
 言葉をきり、きつく唇を噛みしめた。男の端正な顔が苦痛の色をうかべる。
 だが、それは一瞬の事だった。
 僅かに嘆息すると、土方は言葉をつづけた。
「何にしろ、総司を完全に俺のものとしたい。でなければ、大事な時に取り逃がしてしまう」
 土方の言葉に、山南ははっとしたように顔をあげた。躊躇いはしたが、思わず問いかける。
「きみは」
「何だ」
「これから先の事を、総司にも手伝わせる気か?」
「いや」
 ゆるく首をふった。
「その気はねぇよ。ただ、総司はあの若さで一流の剣士であり、また、あの容姿だ。新撰組の象徴として、俺が命じるままに戦えば、それだけで力となるだろう」
 山南がどこか皮肉げな口調で訊ねた。
「きみの命令なら何でも従う、人形かね?」
「まぁ、そうなれば好都合だが……俺自身はあまり望まねぇな」
 片頬に苦笑をうかべた。
「おとなしい操り人形に等なりそうもねぇから、手を焼いている。総司はあれで気も強く矜持も高いからな。俺の思惑どおりには、なかなかならんだろう」
「同感だね」
「むろん、それはそれで可愛いと思う所以だが、隊の事を思えばそう呑気な事も云っておれん。万一にでも背かれれば大変な事になるからこそ、ここで手を緩める訳にはいかねぇのさ」
「今後のことを考えるが故に、完全に己のものにしておきたい、と?」
「あぁ」
 土方は僅かに目を伏せた。
 いったん口をつぐんでから、やがて、低い声でつづけた。
「この先、何があるか知れたものじゃねぇ。新撰組はまだ始まったばかりだ」
「そうだな」
 山南は頷いた。
「確かに……始まったばかりだな」
 己自身に云いきかせるような口調だった。
 それに土方は黙ったまま、また庭先へ視線を転じた。つられ、山南も庭の方を眺めやった。
 空が翳り、緑がしめやかに濡れてゆく。
「……雨、か」
 二人の視線の先──京の町に、庭に、昼下がりの雨がひっそりと降り始めていた。