野口は芹沢一派のいわば生き残りだった。
その彼が総司のもとへやって来たのは、偶然だったのか。
屯所の一角だった。
その日、中庭の池傍に、総司は一人佇んでいた。己の気持ちを掴みかね、もう一度姉の嘆き苦しみを心に思い返そうとしていたのだ。
幼い自分の前で、半ば狂ったようだったお光。
歳三との恋に破れ、彼に捨てられ、自害までしようとした姉。
苦しみ嘆いて、挙げ句、その後結ばれた義兄ともうまくはいかなかった。
そんな姉の不幸の元凶が、あの男なのだ。許すことなど到底できるはずもなかった。幸せなど信じる事もできぬほど、地獄の底へ引きずりこんでやりたかった。
だい好きな優しい姉の事を思うと、憎くてたまらなかった。こんなにも誰かを憎める自分が、恐ろしい程だった。
なのに……。
「……あぁ」
総司は己の肩を抱きしめ、目を閉じた。
名を呼ばれるだけで、躯が熱くなった。
そのきれいな笑顔をむけられるたび、頬が上気し、どきどきした。
恋人となってからも、出来るだけ一線を引こうとする総司に、彼は何の躊躇いもなく手をさしのべてきた。柔らかく抱きよせ、優しく愛を囁いてくれた。
世にも稀な宝物のように大切にし、慈しみ、愛してくれた。
彼と過ごす一時は、まるで夢のようだった。
こんなにも簡単に囚われてしまうなんて……。
総司は恋愛というものなど、むろん全く知らなかった。
初な何も知らない状態のまま、彼の腕の中へ飛び込んだのだ。
百戦錬磨の彼に叶うはずもなかった。愛されて甘やかされて、とろかされて。
身も心も籠絡されてしまっている事に気づいた時は、もう遅かった。こんなはずじゃなかったのに、籠絡して虜にしてやるのは、自分の方だったはずなのに。
最後の最後で、自分の心自身が裏切った。
それが涙が出そうなぐらい、悔しかった。腹ただしかった。
こんな結末など望んでもいない。
これでは、切り捨てるどころか、姉と同じように彼に別れを告げられたとたん、泣きながら縋りついてしまいそうだ。
(そんなの……絶対にいやだ)
総司はきつく唇を噛みしめた。
可愛らしい顔だちと華奢な躯つきから誤解されやすいが、総司はもともと気が強く、矜持も高いのだ。
惨めな自分など見るのも嫌だった。到底我慢できなかった。
「……」
両手のひらに爪を食い込ませ、総司はじっと水面に映る自分を見つめた。
その時、だった。
茂みが激しく揺れ、一人の男がよろめくようにその場へ走り込んできたのだ。
それに総司は驚き、ふり返った。男の顔を見たとたん、目を見開いた。
「……野口、さん」
野口は、芹沢派の生き残りだった。彼らが近藤派によって秘密裏に処理された後も、隊に留まっていたのだ。
「……ッ」
総司を見たとたん、野口は顔を歪めた。追われているのか、それとも脱走を図ろうとしているのか、肩で荒く息をしている。
ぎらついた目が総司を見据えた。
「沖田か」
「……」
「斬るなら、斬れ! 芹沢先生を殺したようにな」
「……」
黙ったまま見返す総司に、野口は鋭い視線を向けた。
「だが、おれはすべてを吐いてから、死んでやる。おまえたちの悪行をばらしてからな」
「私たちの悪行……?」
「しらばっくれるな。おまえも土方が使う手駒の一つだ、知らぬはずがないだろう」
「手駒……」
「芹沢先生をあんな状態にまで追い込んだのは、土方だろうが。土方が蜘蛛の巣のようにはり巡らした策謀に、芹沢先生はどんどん嵌っていった。傍で見ていたおまえも、さぞかし楽しかった事だろうな」
「どういう…事……?」
総司は目を瞠った。
いったい、何を云っているのか。
策謀とは何の事なのか。
京にのぼってきてから、土方はずっと総司の傍にいた。江戸の頃と変わらぬ、明るく優しい彼だった。
副長としての務めもほとんど山南が行い、隊の運営にも何もまったく興味がないようだった。楽しく過ごした方が得だと笑ってさえいたのだ。
そんな彼が、策謀……?
「まさか」
思わず強い口調で否定した。
「そんな事あるはずありません。土方さんはそんな人じゃない」
だが、総司の言葉に、野口の方が逆に驚いた顔になった。唖然とした顔で眺めていたが、突然、顔を仰け反らせて笑いだす。
「おまえ、知らないのか! 何も知らないのか」
「……」
「土方は恐ろしい男だ。血も涙もない冷酷な策士なんだぞ。この新撰組の実権を握り、支配しているのは、あの男だ! 芹沢先生も排除し、近藤もおまえも皆、己の手駒同然にした。すべては土方の掌中に収められているんだ……!」
斬りつけるような野口の言葉に、総司は激しく首をふった。
「そんなの嘘です! 土方さんはいつも副長として扱われる事さえ疎んじていた。なのに……っ」
「なら、芹沢先生の押し込みたかりを、影でそそのかしたのが土方でも? お梅をけしかけ、芹沢先生を籠絡させるよう命じたのも、大和屋に大砲を撃ち込ませたのも皆、あの男の策略だったと云えば、少しは信じられるか」
「……そん…な……っ」
総司は到底信じられぬ思いに、喘いだ
信じたくなかった。
もしかすると、姉の仇であることを越えても尚、恋し愛しはじめていた優しい彼。その男がそんな裏の顔を持っていたなど、自分の知らないところで恐ろしい策謀を張り巡らし、芹沢一派を葬って尚、素知らぬ顔でいた事など、何があっても信じたくなかった。
それでは、いったい自分は何なのだ。
復讐などといきがって、彼を騙すつもりでいながら、逆に騙されていたという事なのか。
とっくの昔に、裏切られていたのか。
(私が見ていたのは、本当の彼じゃなかった……?)
半ば呆然と心に呟いた時、野口がはっとしたように息を呑んだ。そのまま不意に身をひるがえすと、茂みの奥へと逃げ去ってゆく。
垣根を越える音が鳴り、それを追う怒号と足音が響いた。それは、永倉の声だったような気がする。
総司はきつく両手を握りしめた。
そして、のろのろと顔をあげ──息をつめた。
「!」
いつの間に来たのか、そこには土方が立っていたのだ。
緑鮮やかな茂みに手をかけ、静かな表情でこちらを見つめている。だが、その綺麗に澄んだ黒い瞳は、いつものように優しかった。
それに、ほっとする思いで、総司は彼の名を呼んだ。
「……土方さん……」
土方は微かに困ったように笑ってから、歩み寄ってきた。総司のすぐ前までくると、きつく握りしめていた両手を柔らかくとりあげた。爪の食い込んだ痕を、指さきでそっと撫でてくれた。
「こんなに握りしめて……野口から、いったい何を聞いたんだ」
「……」
「俺には話せないことか?」
静かに問いかけてくる土方に、総司は首を横にふった。
「そうじゃありません。でも、あまりに信じられない事ばかりで……」
「どんな?」
「土方さんが……芹沢さんのことを陥れたとか、新撰組の実権は全部あなたが握っているとか、私はただの手駒だとか……」
「総司、総司」
土方はくすくすと笑った。
「おまえ、そんな事を信じたのか? 本気にしたのか?」
「でも……」
「俺がそんな事するはずないだろ。だいたい、新撰組の実権だって、局長である近藤さんが握っているんだぜ。俺はただの補佐さ」
「……」
「それに、総司、おまえは手駒なんかじゃないよ。俺の大切な可愛い恋人だ」
甘い声で囁きざま、土方は総司の華奢な躯を腕の中に引き込んだ。そのまま柔らかく抱きすくめ、混乱している総司を宥めるように背を掌で何度も撫でてくれる。
「野口の云う事なんか、気にするな。おまえにとって、俺は恋人だろう?」
「えぇ。でも……」
「なら、俺のことを信じてくれるのが筋じゃねぇのか? それとも、野口を信じるのか?」
「そうじゃありません…けど……」
総司は口ごもり、目を伏せた。
慣れた男のぬくもり、匂い、抱きしめてくれる腕。
そのすべては、総司にとって今や愛しいものとなりつつある。ともすれば、あんなにも激しかった憎しみが霞んでしまいそうだ。
だが、その一方で、総司の中の何かが激しく警鐘を鳴らしていた。
いけない、と。
彼を信じてはいけない。
真実を見なければ、目の前にある真実だけを───
総司は黙ったまま、ゆっくりと男の胸に両手を置いた。そっと身を捩り、彼の腕の中から抜け出ようとする。
その時だった。
耳もとで、低い声が呟いた。
「……うまくいかねぇものだな」
「え?」
ふり仰ぐと、彼は微かに笑っているようだった。陽を背にしているため陰となり、男の表情は読み取れない。
だが、その黒い瞳が総司を見つめている事だけは確かだった。
「まったく……」
それは、聞いた事もないほど冷ややかな声音だった。
恐ろしい予感に、背中がぞくりとする。
怯えたように息を呑む総司の前で、土方はすうっと目を細めた。
「野口が余計な事を吹きこむとはな。おかげで予定が狂っちまった」
「な…に……?」
意味がわからず目を瞬いた。
「土方、さん……?」
「もう少し深く取り込んでからのはずだったが、まぁ、仕方あるまい」
「…え……」
「野口は既に始末した、あんな煩い男は消すに限るだろう。隊士というものは何の信念も理想もなく、ただ将棋の歩兵のように戦えばいい。ましてや、一個人への忠義など、論外だ。何も考えぬただの手駒で十分……いや、それ以上はむしろ害になる」
冷徹な口調で呟いた土方は、突然、総司の躯を乱暴に突き放した。何の容赦もない不意打ちに、思わず後ろへよろけてしまう。
だが、その事で、彼の顔をまっすぐ見つめる事になった。
総司は大きく目を見開いた。
「土方…さん……?」
まるで、別人だった。
一切の表情を消し去った端正な顔は、息を呑むほど冷たかった。双眸は鋭い光を湛え、形のよい唇は固く引き結ばれている。
美しいと云ってもよい男の冷ややかな顔を、総司は呆然と見つめた。
(この男は……誰?)
よく知っていると思っていた。わかっていると思っていた。
あんなにも長い年月傍にいて、しかも、自分はこの男の恋人なのだ。
なのに、今、ここにいる男は別人だった。
まるで、器だけ残したまま、中身が他の誰かとすり変ってしまったような感覚だった。
「……」
男にしては長い睫毛がゆっくりと瞬いた。冷たく澄んだ黒い瞳が総司を見つめ、ふと、微かな笑みがうかべられる。
「総司」
ゆるやかにのばされた、そのしなやかな指さきを、総司は世にも恐ろしいものでも見るように凝視した。
「おまえも今は混乱しているだろう。だが、すぐ理解できるようになる」
どうして、そんな事が断言できるのか。
「俺が見込んだおまえなら、大丈夫だ」
「……」
「総司……おいで。俺にはおまえが必要だ」
「……っ」
総司は目を瞠ったまま、ゆるゆると首をふった。
今まで味わったこともない底知れぬ迄の恐怖に、躯中が竦んでしまう。
いったい、何がどうなっているのか、わからなかった。まるで突然、天地が逆さになってしまったような衝撃だ。
どうして。
土方さんが、何故?
野口さんが云った事は全部、本当だったの?
なら、芹沢さんを陥れたのも、新見さんに詰め腹きらせたのも皆、土方さんの仕業。
今ならわかる。
お梅を殺したのも、己の策謀に加担した人間だったからだ。
口封じのために、容赦なく邪魔者を消したのだ。
その何の躊躇いもなく行われた所業に、総司は、土方の剥き出しにされた冷酷な本性を見た。
お光が捨てられたのも当然だと思った。
そして、いつか、自分も捨てられるのだ。
この人に、私は捨てられる。
「……捨てないよ」
まるで、心の声が聞こえたかの如く、土方が優しく囁いた。
驚いて見つめると、笑みをうかべてみせた。だが、それは優しくも冷たくもない、ただの笑みだ。
「おまえは俺の恋人だ。可愛いと思っている。そのおまえを、捨てたりするものか」
「……土方…さん」
「安心しろ」
土方はうっすらと笑った。
「お光とおまえは違う。どれ程憎まれたとしても……おまえは捨てない」
「……ッ」
総司の目が見開かれた。
知っていたのだ。気づいていたのだ。
総司の奥底にある憎しみに。
息をつめる総司に、土方はもう一度、手をさしのべた。
「だから……おいで」
優しい声だった。
「俺におまえは欠く事ができねぇように、おまえも俺を失っては生きてゆけぬはずだ」
その言葉は真実だった。
総司にとって、もはや彼は欠くことのできぬ存在なのだ。
愛するにしろ、憎むにしろ。
彼を失った世界は、総司にとって無にも等しかった。
「……」
総司はふらりと前へ歩み出た。少しずつ歩み寄ってゆくにつれ、彼の微笑みが深くなる。
あと少しというところで腕を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。そのまま男の力強い腕に息もとまるほど抱きしめられ、総司は目を見開いた。
きつく束縛するような、今までとはまるで違う抱擁。
だが、これが本当の彼なのだ。真実の彼なのだ。
ならば、慣れなければならない。
この男に。
「……っ」
唇を重ねられ、吐息まで奪うように激しく口づけられた。優しさなど欠片もない、何もかも貪りつくすような口づけ。
ここが屯所の中庭だとか、いつ人が通るかわからないとか。
そんな事、まったく頭に思い浮かびもしなかった。ただもう彼の腕の中、とろけるような口づけに溺れてゆく。
「来い」
やがて、土方は総司の躯を抱きかかえるようにして、縁側に上がった。そのまま中庭近くにある小さな空き部屋に引きずりこまれ、ぴしゃりと障子を閉じられる。
怯えた顔で見上げると、土方は冷たく笑ってみせた。
それに「や…っ」と身を捩れば、後ろ髪を掴まれた。そのまま噛みつくように口づけられる。
「あ……っ」
突然、突き飛ばすように押し倒され、畳の上に這わされた。まるで獣のような体位をとらされる。
そして、そのまま抱かれたのだ。
袴を脱がされ、小袖の裾をあげられて躯を重ねられた。柔らかく激しいとろけそうな愛撫の後、深々と楔を打ち込まれる。
土方は何度も最奥を突き上げ、総司の躯を乱暴に揺さぶった。まったく、今までとは違う容赦ないやり方だった。
まるで凌辱のような激しさで犯してくる男に、幼い総司は怖がり泣きじゃくった。
「ぃ…ぁッ、ぁ! や、いや…だぁ…っ」
大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちる。もがき、泣きながら畳に爪をたてた。
だが、躯は嘘をつけない。
さんざん馴らされ仕込まれたそこは、貪欲に男を咥えこんでゆく。そればかりか、彼のものを甘やかに締め付け、奥へ奥へと誘い込んだ。
「ッ、はっ…ぁあッ」
濡れたそこに男の楔が打ち込まれるたび、総司の背筋を強烈な快感美が突き抜けた。たまらず甘い嬌声をあげる。
「ふ、ぁあんっ、んっ、ぅ…ぁんっ」
次第に、快楽だけを追い始めた総司に、土方は薄く嗤った。
耳もとに唇を寄せ、わざと低めた官能的な声で囁きかけた。
「……いい子だな」
「や…ぃ、ぁッぁあ…っ」
「可愛い総司……おまえは俺のものだ」
身を起し、ぐっと腰を引きつけた。最奥まで突き上げられ、「ひィッ!」と総司が悲鳴をあげた。その背中を、掌でするりと撫であげた。
ふり乱される艶やかな髪が白い肩に散らばり、艶めかしい。
「これからも、おまえがいい子にしていれば……ずっと抱いてやるよ」
「ッん、ぁ…ひ、土方…さんっ……」
「おまえも、俺に抱かれるのは好きだろう?」
くっくっと土方が喉奥で嗤った。蔑むような、嘲るような笑い声。
一気に揺さぶりをかけられ、総司は泣き叫んだ。
「ぁあああ──ッ……」
男の囁きは残酷だった。
総司の矜持も誇りも何もかも叩き壊し、堕落させるものだった。
彼に抱かれることだけを望んで、淫らな快楽だけを求めて、手駒となり果てればいい。
それは既に決定済の事実だった。ずっと前から、この男に定められていたのだ。
彼が総司を手駒にしようと決め、己のものとするため籠絡を企んだ時から、決定権はない。
すべてはもう奪われ、定められてしまった。
私は、彼だけのものなのだから───
総司は泣きじゃくった。
子どものように、そして、真実の恋人のように。
身も心も包みこむように抱いてくれる男の腕の中、どこか甘えを含んだ声で泣きじゃくった。半ば気を失うほどの絶頂に何度も達し、男をより深く淫らに受け入れた。
とろける快感美。
(……堕ちて…ゆく……)
激しく吐露される男の熱を躯の最奥で感じながら、総司は何かに縋るように片手をのばした。それが後ろから掴まれ、指の間に男の指がさしこまれてくる。きつく絡められ、握りしめられた。
痛いほどの繋がり。
他のことを考える事さえ許さぬような。
だが、今の総司には、その深く狂おしい繋がりだけが唯一の救いだった……。