嘘を云っているようには、到底見えなかった。
何よりも、たった二度しか会った事がない上、それも山南の遺言を伝えるためだったと云うのだ。
総司は明里を見つめたまま、呆然と立ちつくした。
(じゃあ、土方さんと明里さんは何もなかったの……?)
何もなかった。
二人は何の関係もなかったのだ。
だが、ならば、あの香りは? あの時の香りは、何だったのだ。
「……あの」
総司は、立ち去ろうとする明里を、思わず呼びとめた。しばらく躊躇ったが、どうしても聞きたくて問いを口にする。
「昨日ですが……土方さんと逢われましたか?」
「? 昨日ですか?」
僅かに、明里は小首をかしげた。それから、小さく頷く。
「お会いしました。道で少しお話しただけですけれど」
淡く微笑んだ。
「そう云えば、その時……犬に吠えかかられまして」
「犬に?」
「土方様が庇ってくださって助かったのですが、なかなか犬もしつこくて難儀しました。でも……それが何か……」
「いえ……」
慌てて首をふった総司に、明里は小さく微笑んだ。
「では、わたしはこれで失礼致します。土方様によろしくお伝え下さいませ」
明里はそう云うと、しとやかに頭を下げた。総司に背を向け、歩み去ってゆく。
遠ざかる彼女の背を見つめ、総司はきつく両手を握りしめた……。
明里の事は、土方の小姓から伝えてもらった。
幸いと云うべきか、副長室へ行ってみると、彼は外出中だったのだ。そのため、伝言という形にできた。
相変わらず逃げていると思いはするが、まだ土方と顔をあわすのが怖い。
それに……いっそ、このまま別れたままにした方がいいのかもしれなかった。その方が、お互いのためなのだ。
土方にとって自分が目障りならば、あの時、思ったとおり消えてしまった方がいいのかと、そんな事さえ考えてしまう。
「……」
総司は橋の欄干に凭れかかり、ため息をついた。
見上げれば、新緑の木の葉がきらきらと陽の光に眩くきらめいていた。命が息づく春だ。
林の向こうでは、人々が賑やかな祭りに興じているのが垣間見えた。
神社の春を彩る祭りだった。
斉藤と一緒にやってきたのだ。
だが、あまりの人の多さに疲れてしまい、総司はここで休んでいた。斉藤は休憩する場所を探してくると、傍を離れていた。
総司はもう一度ため息をつき、視線を彷徨わせた。
しんと静まり返ったここは人気もなく、とても静かだ。祭の喧噪が嘘のようだった。
「斉藤さん……」
小さく呟いた。
いつも気づかってくれる友人を有り難く、そして申し訳なく思っていた。
斉藤が総司に対して抱いている想いは知っているが、受け入れることは到底できなかった。友情と愛情は全く異なるものなのだ。
土方に対する想いと比べれば、それは明らかだった。
土方と共にいる時、こんなに穏やかな気持ちになった事はない。
いつも息がつまり、苦しく切なかった。
彼の瞳に見つめられるだけで鼓動が早まり、彼の指さきにふれるだけで躯がどうしようもなく震えた。少しでも傍にいたくて、でも、傍にいれば切なくて、気がおかしくなりそうだった。
まるで花びらに包み込まれたような、あの感覚、狂おしいほどの激しさに、息さえとまった。
それが恋というものなのだと、今ならわかる。
わかったからといって、今更どうにもならない事だが……。
「……いっそ、思い切れたらいいのに」
総司はそう呟き、欄干の下を流れる川面に目をやった。
先日の雨のせいか、流れは速い。
ふと、そこへ身を投げれば、助かることはないだろうと思った。
(侍の身投げ……?)
なんて無様なと思った。だが、それでも、無意識のうちに躯が動いてしまう。
病もちの身だった。死を定められた身だった。
なら、もう終わりにしても構わないではないか。
こんな一縷の望みもない恋に狂い、地獄のような日々の中で、少しずつ少しずつ病み衰えていくのならば、いっそ……。
「……っ」
欄干を掴む手に力がこもった。周囲に人気はない。
水の音が自分を呼んでいる気がした。頭の中がぼうっとし、耳鳴りがし始める。
総司は爪先立ちになり、身をのりだした。そのまま前へと重心をかけようとした。
その瞬間だった。
「───総司ッ!」
鋭い声とともに、その肩と腕が後ろから掴まれた。乱暴に引き戻される。
あっと思った時には視界がぐるりと回り、倒れこんでいた。
総司の耳元で、聞き慣れた声が怒鳴った。
「この莫迦! いったい何を考えているんだッ」
「……土方…さん……?」
半ば呆然と、彼を見上げた。
どうしてこんな処に土方がいるのか、わからなかった。だが、それは確かに土方だった。
しかも、酷く彼は怒っているようだった。黒い瞳が激しい憤怒を湛えている。
呆気にとられて見上げる総司を、土方は怒鳴りつけた。
「おまえ、死ぬ気だったのか! えぇ!? 川にでも飛び込んで死ぬ気だったのかよっ!」
「……私……私は……っ」
「そんなこと、俺が許すものか。おまえは俺のものだ。勝手に俺をおいて死ぬなんざ、絶対に許さねぇよ!」
「……っ」
それを聞いた瞬間、総司の頬がかっと熱くなった。
「勝手な事……云わないでッ!」
叫びざま、乱暴に身を捩った。男の腕の中から抜け出す。
腕を掴もうとする彼の手もふり払い、大声で叫んだ。大きな瞳が怒りに燃えあがり、頬が紅潮した。
「私がいつあなたのものになったの!? 云ったはずでしょう、もう別れますって」
「俺は認めていない」
「そんなの……そんなのおかしいじゃない! あなたは私をただの駒だとしか思っていない。なのに、こんな病もちで役たたずになった私を、どうして欲しがるの。もう放っておいてくれたらいいじゃない……!」
「放っておけるか! おまえが病もちだろうが何だろうが、そんなの関係ねぇよ」
「だって、あなたには明里さんが」
「明里?」
訝しげに、土方は聞き返した。それに、総司はまだ疑念を抱いていた想いを吐き出す。
「明里さんはあなたに想いがないみたいだったけど、でも、あなたは? あんなにも姉上に似た明里さんだもの、気持ちが揺らいで当然じゃない。だって、私は姉上の身代わりだった、もしくは、復讐するために傍においていた。でなきゃ、こんな……っ」
「おまえ、いったい何を云っているんだ」
土方は意味がわからぬと云いたげな表情で、眉を顰めた。そのまま手をのばし、総司の腕を掴んでくる。
「場所をかえよう。今日こそ、話がしたい」
「私は話などありません」
そう云うなり、総司は土方の手をふり払った。見れば、ちょうど斉藤が戻ってきた処だった。
土方と云い争っている姿に、驚いて足をとめている。その腕の中へ、総司は躊躇いなく飛び込んだ。
「斉藤さん!」
驚きつつも受けとめた斉藤の胸もとに顔をうずめ、総司はきつくしがみついた。
「総司」
「お願い、早くどこかへ連れていって」
「……」
斉藤は顔をあげると、橋の袂に佇み、こちらを真っ直ぐ見据えている男に、ぐっと口許を引き締めた。
事の次第を察したのだろう。きついまなざしになる。
「……」
土方も無言のまま、目を細めた。
自分の目の前で、他の男の腕の中へ飛び込む。
その行為が何を意味するのか、全くわかっていない総司の幼さに、腹の底からの怒りを覚えた。
あまりにも激しい怒りと嫉妬に、気が狂ってしまいそうだ。今すぐにでもその華奢な躯をこの腕に奪いとり、抱きしめたかった。
おまえは俺のものだ、他の誰にも渡さないと、思い知らせてやりたい。
鋭い視線をむける土方に、斉藤がきつい表情で言葉を投げてきた。
「副長」
「……」
「こんな処まで、散策ですか」
皮肉まじりの言葉に、きっぱりと云いきった。
「総司の後を追ってきた」
臆面もなく云いはなった土方に、斉藤の目が見開かれる。
人一倍矜持の高い彼だ。その彼がこんな事を平然と口にしたのだから、驚いて当然だった。
「そうですか。でも、総司はおれと一緒にいたいのです。引き下がって貰えませんか」
「断る」
「土方さん、総司自身の気持ちも考えて下さい。総司はもう十分傷ついたはずです」
斉藤の言葉に、土方は唇を歪めた。
おまえに何がわかる。
俺たちの何がわかると云うのだ。
「なら」
土方は僅かに目を細めた。
「おまえは総司を慰められるのか。その傷ついた総司を癒してやれると云うのか」
「……」
「そんなこと出来るものか。総司が必要としているのは、おまえじゃねぇよ」
傲然とした口調で云いきった土方に、斉藤は息を呑んだ。
それに冷笑をうかべ、総司に視線をうつした。総司はまだ斉藤の腕に身をゆだねたまま、だが、彼の方を不安げに伺っている。
土方はゆっくりと手をさしのべた。
「総司……来い」
「……」
「おまえは俺のものだ。何があっても手放さない」
男の言葉に、総司の躯がびくりと震えた。まだ斉藤の胸もとに縋るように手をおいたまま、おそるおそるふり返る。
(……土方さん……)
自分を見つめる男の鋭い瞳に、総司はきつく唇を噛みしめた。
堪えていなければ、涙がこぼれそうだった。
彼の言葉は嬉しい。
たとえ愛されていなくとも、憎まれていても、それでも、何があっても手放さないと云ってくれた彼が、泣きだしたくなるぐらい嬉しかった。
だが、一方で思うのだ。
行ってはいけない。
全部終わりにしなければならない。
このままでは遠からず、何もかも知られてしまうだろう。自分の気持ちも、この人を切ないぐらい想う気持ちも。
だが、誤解して、身勝手な理由で彼をふり回して、その挙げ句、彼の愛を求めるなんて、許されるはずがなかった。
あげられるもの何一つもたない私に、そんな事許されるはずがない……
「! 総司ッ!」
不意に、総司は身をひるがえした。
斉藤の腕の中から抜け出たかと思うと、逆方向に走り出したのだ。橋を渡りきり、そのまま一気に祭りの雑踏の中へ駆け込んでゆく。
「総司、走るな!」
その病身を思ってか、後ろで土方が叫んだ。
だが、それでも総司は走るのをやめようとしなかった。息をはずませ、必死に駆けてゆく。
雑踏を抜けると、本殿裏の物陰に逃げ込んだ。さすがに息が切れてきたのだ。
はぁはぁという息を必死におさえ、総司はその場に蹲った。
すぐ傍を土方と斉藤が足早に過ぎてゆくのを感じる。懸命に自分を探してくれているようだった。
それに、申し訳なさがたったが、二人と再び顔をあわせても、何を云えばいいのかわからなかった。どうしたらいいのか、自分でもわからないのだ。
「……っ」
不意に、鈍い感覚が込みあげてきた。慌てて、両手で唇をふさぐ。
喉元に重苦しさを感じた瞬間、口の中に、鉄の味が一気に広がった。
「……っ…ぅ……っ」
必死に堪えようとしたが、鮮血はあふれ出した。ぼたぼたと地面に落ちてゆく。
視界を染める朱に、総司は目を見開いた。
久しぶりの吐血だった。やはり、走ったのがいけなかったのか。
くらりとするような目眩が総司を襲った。暗い闇がその意識を呑み込もうとしている。
それを感じながら、総司はきつく目を閉じた。
(……死ぬの、かな……?)
本気でそう思った。
今度こそ死ぬのかと。
だが、それを実感した瞬間、たまらなく泣きたくなった。切なくなった。
我慢ばかりして、ずっと堪えて自分の心を押し殺して、いったい私は何をしてきたというのか。
誰よりも愛する人を傷つけ、苦しめて。
あの人のために別れると云いながら、本当は自分が怖かっただけなのに。土方さんから決定的な別れを告げられ、何の未練もなく捨て去られる事に、いつも死ぬほど怯えていた。
それが怖くて怖くてたまらなかった。
だからこそ、自分から別れを告げたのだ。切り捨てようとしたのだ。
そのくせ、離さないと云ってくれた土方さんの言葉に、泣きたくなるぐらい嬉しさを感じて……
(……土方さん)
総司は冷たい地面の上に、崩れおちるように倒れこんだ。すうっと奈落の底へ落ちるように、意識が遠ざかってゆく。
それを感じながら目を閉じた総司は、最後の瞬間、どこか遠くで土方の声を聞いた気がした。
