まるで浮かびあがるように、目が覚めた。
いつのまにか褥に寝かされている自分に驚きつつ、総司はまだぼんやり霞む視界を眺めた。
屯所の自室だ。そこに褥が敷かれ、寝かされていた。もう長い間眠っていたのか、夜のようで明かりが灯されている。
いったい、今は何刻だろう……。
そんな事を考えながら、視線をめぐらせた総司は息を呑んだ。
傍らに土方がいたのだ。褥のすぐ傍に坐ったまま俯き、組んだ両手を額に押しあてている。
「……土方…さん」
掠れた声で呼んだ総司に、土方は弾かれたように顔をあげた。その目が見開かれる。
「……総司! 気がついたのか」
「えぇ……」
「よかった。気がついて……本当に良かった」
そう声を震わせる土方の顔は、憔悴と疲労の色が濃かった。
大きな瞳で見つめ返す総司に、土方は安堵したように息をついた。ひんやりした手が額にふれる。
「あの神社で血を吐いて昏倒してから、丸一日、おまえ目を覚まさなかったんだ。熱がなかなか下がらなくて心配した」
「……もしかして、土方さん」
総司は口ごもった。
「ずっと、傍に……?」
「……」
土方は無言のまま、視線をそらせた。
だが、その表情を見れば、わかる。彼はずっと傍にいてくれたのだ。副長として多忙であるはずの彼が、傍に寄りそい看病しつづけてくれた。
総司は思いがけぬ喜びに、胸が熱くなった。
もしかして……許されるのだろうか。
この人に、好きだと告げることを。この人を愛することを。
もしも、近いうちに消え失せる命であるのなら、たとえ蔑まれてもいい、笑われてもいい。
好きだと告げたかった。一度でいい、自分の気持ちを正直に云いたかった。
死ぬ前に、たった一度でいいから。
愛しいこの人に……
「……総司、どうした」
黙ったまま瞳を潤ませる総司に、土方が目を見開いた。
眉を顰め、慌ててその頬にふれてくる。
「どこか痛むのか? 苦しいのか……?」
「……ちがう、の……」
総司はこぼれる涙をぬぐってくれる彼の手を、そっと握りしめた。驚いたように目を瞠る土方を、潤んだ瞳で見上げた。
桜色の唇が震えた。
「ちがう……好き、なの」
「え?」
「あなたの事が…好きなの。誰よりも好きなのです」
「──」
総司の言葉に、土方は息を呑んだ。
信じられぬ事を聞いたような顔で、じっと見つめ返している。ふれる彼の手が驚くほど熱くなったのを感じ、総司は首をふった。また、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい。今更何をと呆れているでしょう? あなたと姉の事を誤解して、勝手に憎もうとして……そんな私が何を云っているのだと。さんざんあなたをふり回して傷つけて、なのに……」
「傷ついてなんかいねぇよ」
ぶっきらぼうな口調で云い捨てた土方に、総司はぴくんっと肩を震わせた。だが、すぐ淋しげに目を伏せてしまう。
「そう…ですよね。私は、姉の身代わりで、都合のいい駒に過ぎなかった。あなたが傷つくはずなんてありませんよね」
「違う! そういう事じゃない」
土方は思わず声音を強めたが、怯えたように見上げる総司に、きつく唇を噛んだ。煩わしげに前髪を片手でかきあげると、はぁっと大きくため息をついた。
「まったく……」
短く舌打ちした。
「どこまで拗れているんだか。俺とおまえは、ずっとすれ違って来たって訳なんだよな」
「土方…さん」
「いいか、総司」
土方は身をのりだすと、総司の手をそっと握りしめた。綺麗に澄んだ黒い瞳で、愛しい若者をまっすぐ見つめる。
「一度しか云わねぇから、よく聞けよ」
「はい」
「俺は、おまえに傷つけられた事なんざねぇよ。おまえの傍にいられるだけで良かった。幸せだった」
「ど…どうして……」
「決まってるだろ。俺がおまえに惚れているからだ」
「……え」
総司の目が瞠られた。それを見つめ、土方は俯いた。総司の手にそっと唇を押しあてる。
「好きだ、総司……おまえだけを愛してる」
「……そんな……嘘」
「嘘なものか」
「だって……っ」
ふるりと総司は首をふった。
「こんな私なのに。病の身で、あなたのために何の役にもたてなくて。何一つ、あげられるものがなくて……」
「俺はおまえ以外、いらねぇよ」
きっぱりと土方は云いきった。
「ただ、おまえが生きてくれればいいんだ。何も出来なくても、病だろうと何だろうと、どうだっていい。おまえ自身が欲しいんだ」
「土方さん……」
「それにな、俺は、おまえを駒としてなんざ一度だって見た事がねぇ。ずっと、おまえは俺の大切な総司だった」
「でも、土方さん、私は姉の……」
「あぁ、お光の弟だと知った時は、正直、複雑な気持ちだったさ。だが、もうお光の顔さえ覚えていない。総司、俺にとっておまえは誰よりも大切なんだ。可愛いんだ。かけがえのない、俺の総司なんだ」
「ぁ……」
みるみるうちに、総司の瞳が潤んだ。先程よりも、大粒の涙がこぼれ落ちてしまう。
だが、その泣き顔も可愛かった。いじらしかった。
「……総司」
頬を両手で包みこんだ。素直に見上げる総司が、何よりも愛おしい。
「……っ」
総司は土方の腕の中に抱きしめられたとたん、子どものように泣き出した。今までの堪えてきたすべてを吐きだすが如く、激しく泣きじゃくっている。
それが土方にはたまらなかった。
いじらしくて愛しくて、今、腕の中で小さく震えながら泣いている総司のためなら、何でも出来ると思った。
どんな事でも、たとえ命を投げだすことでも出来るだろう。この愛しい存在のためなら。
なのに、その総司を泣かせてきたのは己自身なのだ。
「すまねぇ……総司」
優しく抱きすくめ、何度も謝った。
「俺が悪かった。こんなにもおまえを苦しめて……本当にすまない」
「土方…さん……っ」
「総司、愛してる。おまえだけを愛してるよ」
ぽろぽろ涙がこぼれる頬に、唇を押しあてた。
そのまま涙をぬぐい、額に頬に髪に、口づけを落としてゆく。
やがて、そっと──唇を重ねた。何度も角度をかえて、深く重ねてやる。
総司はおずおずと手をのばし、彼の胸もとに縋りついた。無我夢中で口づけに応えてくる。
「んっ…ぅ、ぁ……っ」
甘い吐息をもらす桜色の唇を、何度も舐めあげ、痺れるまで口づけをかわした。総司の躯から力が抜け、男の腕に凭れかかってくる。
「……総司」
口づけの後、そっと目を閉じた総司を、土方は柔らかく抱きすくめた。
花を降らすように、その額や頬に口づけながら、優しく囁きかけた。
「愛してる……」
そう囁いた土方の腕の中。
総司はようやく辿りつけた幸せに、そっと目を閉じたのだった……。
斉藤とは、床上げした翌朝、井戸端で逢った。
顔を洗っていると傍らから手拭いがさし出され、ふり返ってみれば、彼が立っていたのだ。
「……斉藤さん」
小さくその名を呼んだ総司に、斉藤はゆるく首をふった。それから、鳶色の瞳で総司を見つめた。
「云わなくても、わかっているよ」
「……」
「土方さんがおまえを連れて帰営した時、オレも一緒にいたんだ。けど、あの人はおまえを絶対に離そうとしなかった、オレに譲ろうとはしなかった。それに……」
斉藤は微かに笑った。
「おまえも、土方さんの腕の中で幸せそうだった」
「斉藤さん……」
「おまえが土方さんといるのが当然というか、居場所というか、そんな感じがして……」
ため息をつき、空を見上げた。少し大きな声で、自分の気持ちを吐き出すように叫んだ。
「かなわないなぁ……!」
「……」
びっくりして目を見開いた総司に、斉藤はくすくす笑った。いつもの優しい笑顔になり、手をのばす。
くしゃっと総司の髪をかきあげた。
「かなわないって思ったんだ。どんなにオレがおまえを望んでも、おまえの居場所は土方さんで、土方さんの居場所はおまえだ」
「斉藤さん」
総司は息を呑み、斉藤を見上げた。大きな瞳が彼だけを映している。
その事に、ささやかな喜びを感じながら、だが、それでも、己の想いを沈めるように静かな声でつづけた。
「だから……総司。もう、間違ったりするなよ。迷ったりするんじゃないぞ」
「はい……」
総司の声が震えた。思わず、斉藤の手を掴んでしまう。
「ありがとう……」
「総司」
「いっぱい迷惑をかけたのに、なのに……本当にごめんなさい」
「迷惑だなんて」
斉藤はゆるく首をふった。ぎゅっと手を握りしめる。
「ただ、オレはおまえの幸せを望んだだけだ。むろん、出来る事なら、この手で幸せにしてやりたかったけれど……」
何か、眩しいものを見るようなまなざしで微笑んでみせた斉藤に、総司は胸奥が切なくなった。だが、黙ったまま、その手を握りしめる。
佇む二人に、晴れ渡った空から、春の光が柔らかく穏やかに降りそそいでいた。
今夜は、月夜だった。
夜空に美しい月がうかんでいる。
月明かりが、この宿の庭を柔らかく包みこんでいた。樹木が風に揺れ、緑なす苔の上に桜の花片が舞い落ちる。
だが、ふと視線を落としたとたん、闇が目に入った。
月の光がとどかぬ、夜の底。
とろりとした闇に、ふたり閉じこめられた感覚。
「……」
思わず目をそらした総司は、土方の胸もとに凭れかかった。
あれから数日がたっていた。
まるで今までの事が嘘のような、穏やかで静かな日々だった。
むろん、隊の中の様々な軋轢や争い事は、今なお収まるどころかますます激化している。だが、それでも、総司は土方と一緒になら乗り越えてゆけると思っていた。
今夜は久しぶりに、この宿を訪れたのだ。
二人は戯れ、躯を重ね、深く甘く愛しあった。それは以前の閨には及びもつかぬ程の、心地よさと幸せにみちた行為だった。
総司はそっと長い睫毛を伏せた。
先程までさんざん貪られた躯はまだ気怠く、だが、甘やかな心地よさに痺れている。
褥に横たわったまま後ろから抱きすくめる男の腕の中、総司は微かな吐息をもらした。それに、土方が耳もとでくすっと笑う。
「どうした、ため息などついて」
「……まるで」
総司は小さな声で云った。
「夢みたいだ……と思ったのです」
「俺とこうしているのが?」
「えぇ。ほんの少し前まで……あなたに捨てられると思っていたから」
「捨てないよ」
土方は総司のほっそりした躯を背中から抱きすくめると、その白い項に唇を寄せた。口づけながら、囁きかける。
「おまえを捨てるはずがないだろう……こんなにも愛しいおまえを」
「土方さん……」
「俺はおまえをかけがえのない存在だと思っているし、おまえも俺が失えないはずだ。俺たちは互いを失っては、生きてゆけない」
「えぇ」
こくりと頷いた総司は物憂げな仕草で、ゆっくりと身を起した。細い指さきで半ば肌けた着物をかき寄せる。
そんな仕草にも、愛された余韻なのか、匂いたつような色香が漂っていた。なめらかな白い肌に、淡い色合いの小袖はよく映える。
月明かりの中、まるで一幅の美しい絵のようだった。絵師にでも見せれば、喜んで描く事だろう。
恋人の艶めかしい姿を、土方は肩肘をついたまま眺めた。
しばらくそうしていたが、やがて、何気ない口調で云った。
「今度、斉藤に……間者を命じようと思う」
「え」
総司は突然の話に、目を見開いた。
いったい、何を云われたのかわからない。
目を瞬かせながらふり返ると、その大きな瞳で彼を見つめた。
「間者……?」
「あぁ、そうだ」
土方は淡々とした口調でつづけた。
「伊東たちを探るためにな。斉藤を間者として潜り込ませ、奴らの動向を探らせる」
「……斉藤、さんに?」
「危険な仕事だが、あいつならやってのけるだろう。総司、おまえは斉藤との中継ぎになってくれ」
「中継ぎ……私も関われという事ですか」
「あぁ」
土方は頷くと、身を起した。褥の上に胡座をかくと、僅かに乱れた黒髪を片手でかきあげた。
片頬を歪め、薄く笑ってみせる。
「おまえなら斉藤と話していても疑われない。何しろ、あいつはおまえに惚れているからな」
「私は」
「おまえも危険に晒されるだろう。手を汚し、傷つき苦しむ事があるやも知れぬ。だが、それでも、おまえが必要だ」
「……」
「引き受けてくれるな?」
そう念押しするように見つめてくる土方に、総司は息をつめた。しばらくの間、その大きな瞳でじっと彼を見つめている。
だが、やがて、僅かに顔を俯かせた。じっと己の手元を見つめたまま、小さな声で答えた。
「……はい」
「総司」
土方の声音が柔らかくなった。手をのばすと、その腕を掴み、己の胸もとに引き寄せる。
華奢な躯を優しく抱き込んでやりながら、その髪に頬に口づけをおとした。
「……愛してるよ」
「土方…さん」
「総司、おまえだけを誰よりも愛してる」
「えぇ……土方さん……」
男に抱きしめられながら、総司はそっと目を閉じた。
彼の言葉に嘘はないだろう。心から、本当に愛してくれているのだろう。
だが、一方で、土方が今もって何よりも求めるのは大義だった。新撰組を最強の武力集団につくりあげ、それを統括し、京を制圧してゆくこと。その実現のためならば、彼は手段を選ばないに違いない。
たとえ恋人であっても、犠牲にするのだ。
裏切りを決して許さぬ彼が、伊東を許すはずがなかった。何としてでも斃さなければならないのだ。そのためには、愛する総司を犠牲にすることさえ、土方は厭わぬだろう。
それは──修羅の道だった。
最も愛するものだからこそ、道連れにするのだ。犠牲にするのだ。
もはや、穏やかな幸せなど望むべくもない。二人ともに、煉獄へ堕ちてゆく。
この先にある残酷な定めを、今この瞬間、総司は知らされた。
だが、不意に、ある言葉が耳奥に蘇った。
『おまえの優しさは、時には罪となる』
山南の言葉だった。
修羅の道を歩む事を彼への愛故と堪えても、それは逆に罪となる。確かに、生半可な覚悟の優しさは、罪となるだろう。
だが、今、土方が求めているのは、そんな生半可なものではなかった。命も、存在も、この躯も……すべてを捧げる覚悟なのだ。
それに応えるのは、罪なのか。否、罪ではないはずだった。
総司は視線を、夜空にある月へとむけた。そして、ゆっくりと庭に落ちる闇を見つめる。
月夜に、闇があるように。
土方の心にも、闇があるのだ。むろん、総司の心にも。
ならば、恐れることは何もなかった。
闇にとければいい。闇に堕ちればいい。
もう何もしてあげられる事はない……何もあげるものがないと、苦しんでいた。
そんな私を、この人は求めてくれたのだ。
ともに修羅になることを──煉獄へ堕ちることを、求めてくれた。そのためなら、幸せも不幸も、どうでもよかった。穏やかな幸せなどいらなかった。
この歓びに代えられるものは、何一つないのだから。
(土方さんに、私のすべてをあげられる……)
ゆるやかな笑みが、総司の唇にたちのぼった。
愛しいあなたが望むなら、この命をあげる。
全部、あげる。
あなたと一緒ならば、どんな闇へ堕ちてもいい。
「……土方さん」
総司は彼を見上げると、愛しい男の名を呼んだ。
そのまま男の肩に手をおくと、膝立ちになり自分から唇を重ねた。誘うように、深く唇を重ねてゆく。
土方も口づけを返し、その躯を褥の上に引き倒した。ふわりと艶やかな黒髪が白い褥にひろがる。
総司は潤んだ瞳で彼を見上げ、両手をのばした。見下ろす男と、視線が絡みあう。
無言で見つめ返す土方の頬に、そっとふれた。
「……愛してる……」
それは、永遠の誓いにも似ていた。
すべてを。
命さえも捧げる、誓い。
土方は何も答えなかった。深く澄んだ黒い瞳が、総司を見つめる。
やがて、彼は微笑んだ。
総司の想いも、この先に待つだろう残酷な定めも。
儚い夢の行方も。
すべてを、知っているかの如く。
「……総司」
最愛の恋人を抱きしめると、土方は、やさしく静かに微笑ったのだった。
月夜に闇があるように
[あとがき]
ラストまでお読み下さり、ありがとうございました。
ハッピエーンドかアンハッピーか、それぞれだと思いますが、私は、総司は幸せだと思っています。それがどんな修羅でも、愛する人と歩んでゆけるのなら、総司にとって、一番の幸せじゃないかと……。
連載中、応援して下さった多くの方々に、心からのお礼を申し上げます。これからも、土方さんと総司の恋愛を様々に書いてゆきたいと、思っております。よろしくお願い申し上げますね。
ご感想の一端など、お聞かせ下さいましたら、幸いに存じ上げます。
お読み下さり、本当にありがとうございました。
