土方の視線が怒りの色を帯びているのは、明らかだった。
だが、叱責されるような事は何もしていないのだ。
土方は総司の恋人でも何でもない。一度として、総司はそれを認めた事がない。
怒る資格など、彼にはないはずだった。
「……離して」
総司は必死に自分を奮い立たせ、大きな瞳で土方を見上げた。
「離して、下さい」
土方は僅かに眉を顰めた。
「……離せば逃げるだろう」
「逃げません。だから、離して下さい」
そう云った総司を、土方は鋭く一瞥した。だが、すぐにふっと視線をそらすと、突き飛ばすように手を離した。
不意を突かれ、華奢な躯が縁側の上に倒れこむ。
それに一瞬、土方は手をさしのべかけたが、慌てて抱きおこす斉藤の姿に、手を握りこんだ。
短い沈黙の後、口を開いた。
「斉藤」
「はい」
「悪いが、席を外してくれないか。総司と話がある」
「……」
男の言葉に、総司は不安げな表情になった。だが、そこには僅かだが喜びもある。
片恋している男と二人きりになれるのだ。いくら避けていたとは云っても、やはり、こうして目の前にすると心がうきたつのだろう。
なめらかな頬がうっすらと紅潮していた。
それに目をやりながら、斉藤は黙ったまま立ち上がった。
二人の間のことなのだ。自分が立ち入れる事ではなかった。
その上、見下ろせば、総司が懇願するような表情で見上げてくる。
「……わかりました」
一瞬だけ総司を見つめてから、斉藤は低い声で答えた。踵を返し、歩み去ってゆく。
それを見送ってから、土方は総司に部屋へ入るよう促した。病のため、西本願寺に移ってきてからは、一人部屋をあたえられている。
きちんと端座した総司の前に腰をおろしながら、土方は云った。
「明日、少し二人で出かけよう」
「……え」
総司は驚いて顔をあげた。
そんな事を云われると思っていなかったのだ。だが、彼がつづけた言葉に顔を強ばらせる。
「大事な話がある」
「──」
心の臓を鷲掴みにされた気がした。すうっと血の気がひいていくのを感じる。
(別れ話だ)
そう思った。
あの明里を手にいれた以上、総司はもう用済みだった。後腐れないよう、始末をつけておこうという事なのか。
身を引けと云われるのは当然だったが、悲しくて辛くて惨めで、涙がこぼれそうになった。
いくら必要な駒だったとしても、総司を傍においていたのはお光の身代わりだったのだと、そう云われた気がしたのだ。
否、実際そうなのだろう。
より本物に近い存在が手に入った以上、まがい物はもういらなかった。捨て去られるのだ。
それは、当然のことだった。むしろ、今まで待っていてくれた事に感謝しなければならない。
何もできない、こんな病もちの自分が傍にいてよい相手ではなかったのだ。
この人のためにも別れなければ。何もできない自分から、一刻も早く解放してあげなければ。
明日まで待つ必要もなかった。
この部屋は離れに近い程の場所であるし、今、周囲の部屋には誰もいない。
話をつけるのは今だと思った。
「……私も…お話があります」
ともすれば声が震えそうな己を叱咤し、総司は云った。
立ち上がりかけていた土方が眉を顰めた。黒い瞳が、訝しげに総司を見やる。
それをまっすぐ見つめた。
「明日でなく今、お話したいのです」
「明日では駄目なのか」
「はい」
頷いた総司に、土方は嘆息し、腰を下ろした。総司に視線をあてたまま、問いかける。
「何だ」
「私は……」
総司は、一瞬唇を噛んだ。
だが、ぎゅっと両手を握りしめ、一気に告げる。
「あなたとはもう二度と、躯を重ねません。これからは副長として接して下さい。私も……」
「いったい、何を云っている」
「別れたいのです」
きっぱりと云いきった総司に、土方は息を呑んだ。目を見開き、総司を見つめている。
それに、小さく笑ってみせた。
「別れるも何も、初めからつきあっていなかったのだから……必要ないでしょうけれど」
「……」
「さっきも見たでしょう? 私、斉藤さんのものになると決めたのです。だから、もう土方さんとは別れます」
総司は沈黙をつづける男の前で、頭を下げてみせた。
「今までお世話になりました。でも、あなたも私も、このあたりが潮時だと……」
「……潮時だと?」
低い声が上から降ってきた。
見上げたとたん、ぐっと腕を掴まれる。そのまま引きずるように抱きよせられ、総司は思わず彼を見上げた。
激しい怒りを湛えた双眸が、総司を睨みすえていた。
暗く燃える瞳に、息を呑む。
「土方、さ……っ」
「勝手なこと云うんじゃねぇよ。そんな事、誰が許すと思っているんだ」
「でも、私は」
「おまえは俺のものだ。他の男になんざ渡すものか」
男の言葉に、総司は胸が熱くなった。だが、一方で、やるせない程の切なさも感じる。
たとえ、駒としてであってもいい。
それでも、まだこの人は自分を求めてくれているのだ。
だが、それがただの気まぐれだとよくわかっていた。
明里を手にいれた今、自分など必要ないはずなのだ。なのに、それでも手元に置こうとするのは、一端己のものとした存在が他の男に奪われるのが、不快なのか。
明里を手にいれながら、今までどおり己のものとしておきたいのか。
そんな事、我慢できるはずがなかった。
自分にも、矜持というものがあるのだ。
「離して下さい」
総司は自分の腕を掴む彼の手を離そうと、必死に身を捩った。だが、より強く引き寄せられただけだ。
喘ぎながら見上げると、土方は燃えるような瞳で総司を見つめていた。
「何があっても離さない。おまえは俺だけのものだ」
「土方…さん」
「誰にも渡さない……!」
そう云いざま、土方は総司の細い躯を抱きすくめてきた。逞しい胸もとに引き込まれ、息もとまるほど抱きしめられる。
熱い抱擁に、思わず吐息がもれた。
愛しい男の腕の中なのだ。いけないとわかっているが、そのまま流されてしまいそうになる。
総司は震えながら目を閉じ、躯の力を抜いた。その胸もとに、躊躇いがちに身を寄せかける。
その瞬間だった。
(!? この香り……!)
土方の躯から、女の匂い袋の香りがしたのだ。しっとりとした上品な甘い香りだ。
総司は大きく目を見開いた。
その香りが誰のものなのか、考えるまでもなかった。
こうして自分を抱きしめる前、土方はあの明里といたのだ。もしかしたら、この腕に抱いていたのかもしれない。
そして、今。
彼は、愛しい女を抱いた手で、自分を抱こうと───
「……いやッ!」
総司は、激しく叫んでいた。渾身の力で、土方の胸を突き返す。
突然、狂ったように暴れ出した総司に、土方は驚いた。
彼が思わず怯んだ隙に、その躯を思いっきり突き飛ばした。喘ぎながら畳の上を後ずさった。
「総司」
驚いて目を瞠る土方に、総司は激しく首をふり叫んだ。
「私に……私にふれないでっ」
「総司、おまえ」
思わず土方は手をのばし、総司の腕を掴もうとした。だが、それから再び身をすらし、大きな瞳で睨みつけた。
「わ、私にだって矜持というものがあるのです」
「総司」
「なのに……酷い、どうしてこんな事ができるの!?」
泣きながら云いつのる総司に、土方は眉を顰めた。
きっと彼自身は残り香に気づいてもいないのだろう。だが、それでも到底許せなかった。我慢できなかった。
目の前に、先日見た寄り添う二人の姿がちらつき、嫉妬と怒りに呼吸がとまりそうになる。
「出ていってッ!」
切り裂くような声で、叫んだ。
「ここから出ていって! あなたなんか……土方さんなんか、だいっ嫌いだッ!」
「……」
半ば泣きながら叫んだ総司に、土方は呆然としているようだった。
だが、総司が本気だとわかったのだろう。
躊躇いがちにだが、黙ったまま立ち上がると、踵を返した。静かに部屋を出てゆく。
「……っ」
遠ざかる足音を聞きながら、総司は深く俯いた。
初めて、自分の愛する人に逆らったのだ。
その行動が自分自身でも信じられなかった。だが、どうしても我慢できなかった。
明里を抱いた後、そのまま総司を抱こうとした彼。
後塵を拝せという事なのか。
それは、彼だけを愛している総司にとって、あまりにも酷すぎる仕打ちだった。
「……っ、ぅ…っ……」
総司は両手で顔をおおった。堪えようと思っても、涙がこみあげてくる。
悔しくて情けなくて、切なくて辛かった。
屈辱と怒りに躯中が震えた。
こんなにも愛しているのに、どうして、こんな思いをしなければならないのか。これも彼を傷つけた罰なのか。
彼が明里を一緒になったと知ったからこそ、潔く身をひこうとした。綺麗に終わらせたかった。
何があっても、こんな無様な真似だけはしたくなかったのに。
それなのに───
「土方さん……っ」
誰よりも愛しい男の名を口にし、総司は固く瞼を閉ざした。
土方との酷い別れは、総司の心に傷を残した。
別れは覚悟していたが、せめて、綺麗に別れたかった。あんな惨めな姿を見せたくなかったのだ。
もともと誇り高い若者である総司は、いつも自分を律しようとしていた。凜とした姿しか見せず、たとえ病に苦しんでも、その姿を人に見られる事を酷く嫌った。
なのに、一番見られたくない人に、己の醜い部分を吐露してしまったのだ。
彼への愛と執着ゆえに、嫉妬に狂った惨めな姿を……。
(いっそ、どこかへ消えてしまいたい)
総司は心から、そう願った。
情けないとは思うが、どこか遠くへ逃げてしまいたかった。だが、一方でそんな事できるはずもないとわかっている。
今ならばきっと江戸へ帰ると申し出ても、土方は許可を与えるだろう。冷ややかな一瞥さえ与えず、好きにしろと云い捨てるに違いなかった。
だが、そこまで彼に見捨てられた存在だとわかっていても、まだ彼の傍にいたいと願ってしまう自分が、たまらなく悲しかった。
逃げたいのに、消えたいのに、そのくせ、彼を少しでも近くに感じたいと願ってしまう。
こんなにも彼だけに囚われている自分が辛かった。思いきることの出来ない自分が情けなかった……。
土方と事があった、翌日だった。
巡察から戻ってきた総司は、屯所の門前に立つ一人の女に気づいた。鋭く息を呑み、立ちつくしてしまう。
(明里さん……!)
冷や水をあびせられたようだった。
土方に逢いに来たのか。
これから、二人で道行きでもするのか。
総司は、どす黒い感情が己の中で渦巻くのを感じ、たまらず唇を噛みしめた。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
恋仇を前にして。
あれほど恋焦がれても得られなかった男を、易々と手にいれた彼女が憎かった。
激しい嫉妬のため、気が狂ってしまいそうだ。
総司は顔をそむけ、明里を無視して門の中へ足を踏み入れた。
だが、傍らから細い声がかかった。
「……沖田様」
「──」
仕方なくふり返ると、明里の綺麗に澄んだ瞳がこちらを見つめていた。それがまるで姉のお光に見つめられたようで、思わず息をつめる。
「あの、申し訳ありませんが……」
「何でしょう」
できるだけ平静を装ったつもりだったが、声音は冷たかったかもしれない。
明里のきれいな顔が強ばり、怯えが走った。無意識のうちにか、身を縮めるようにする。
それを見たとたん、罪悪感に胸を抉られた。
彼女に、いったい何の罪があるというのだ。
私はただ横恋慕しただけなのに、明里さんへ云われもない憎しみをむけている。
あぁ、なんて私は身勝手な人間なの──?
総司は一瞬だけ瞼を閉ざした。
そして、次に開いた時は、いつもどおりの表情になっていた。明里を怖がらせないよう、柔らかく微笑みかける。
「すみません、巡察の帰りで少し気がたっていました。こちらにご用ですか?」
「え、えぇ」
明里は頷き、周囲に視線を走らせた。
それに気づき、総司は一番隊士たちに解散を命じた。門外へ彼女を連れだしてやると、明里がやっと用件を云いだす。
「あの、土方様に伝えて頂けませんでしょうか」
「……」
彼女が口にする名に、ずきんっと胸が痛んだが、頷いた。それに、明里がつづけた。
「今までお世話になりましたと。ようやく里へ帰れる事になりましたので宜しくと、お伝え下さいませ」
「……え」
総司は驚き、彼女を見つめた。
いったい何を云っているのか。明里は土方と一緒になったのではなかったのか。
「里へ帰るって……どうしてです」
「山南さんのおかげで落籍させて貰いましたけど、このままに京にいても仕方がありません。里の親元へ帰ろうと支度をしていたのですが、ようやく片付けの方もつきましたので」
「ですが、あなたは土方さんと」
「え?」
不思議そうに、明里は小首をかしげた。
「土方様がどうかされましたか」
「あなたは土方さんと……一緒になったのではないのですか」
「? おっしゃられる意味がよくわかりませんが」
明里は歯切れのいい言葉つかいで、答えた。
「土方様とは山南さんの言づてなどの事で、二度程お会いしただけです。山南さんに頼まれたからと、落籍の事から今後の事までご相談にのって頂きましたが、それが何か……?」
不都合でもあったのかと不安げに問いかける明里を、総司は呆然と見つめた。
