山南の葬儀が終わってしばらく後だった。
 土方は屯所から離れたある料理茶屋で、一人の女と落ち合った。
 憂い顔の彼女は土方を見ると、静かに頭を下げた。
「……ご面倒をおかけします」
「山南に頼まれたことだ。あんたが頭を下げる必要はない」
 女は、山南の恋人だった明里だった。
 以前、総司がお光に似ていると妬いた女だ。
 切腹の前に、山南から頼まれていた。そのため、土方は彼から受け取った金で明里を落籍させた。
 まだ少し残った金は明里に渡されるが、それを元に彼女がこれからどう生きてゆくかは、土方自身は知る処ではない。
「あの方がわたしを気にかけて下さっているとは、思ってもいませんでした」
 もともと京の出ではないらしく、明里はいつも歯切れのいい言葉使いで話した。
 そんなあたりもお光に似ているかなと思うが、土方自身はよくわからない。今では、お光の面影さえ、おぼろげなのだ。その理由が総司であることを、むろん彼はよくわかっていた。
「まさか、わたしを落籍させるよう頼んでくださるなんて」
「どうして、そう思う」
 土方の問いかけに、明里は微かに目を伏せた。哀しげな笑みがうかぶ。
「山南さんのお心は……いつも、どこか遠い処にありましたから」
「……」
「他の誰か、もっと綺麗な何かを想っておられる。そう感じていたのです。もちろん……わたしは、そんな事構いませんでした。あの方がわたしの傍にいて下さるなら、それだけでいい。そう思っていましたから……」
「……」
 明里はむろん、山南と総司、土方との間にあった、複雑に絡んだ関係など知る由もないだろう。
 山南がどんな思いで総司を見ていたのかも。
 だが、それでも恋しい男の事となると、女の勘は鋭い。
 山南の心が己にないことを知りながら、それでも尽くしつづけた明里を、土方はふといじらしく思った。
 そして、同時に総司の事を思いだした。


 総司は、そんなふうに誰かを愛する事があるのだろうか。
 ただ傍にいるだけでいい──と、そんなふうに誰かを愛するようなことが。
 総司の姉であるお光はそうではなかった。彼に身分を地位を求め、それを得られない彼の傍にはいられないと、背をむけた。
 だが、今、あの時に感じた屈辱は遠い。
 それは自分が出世したからでも、過去の事だからでもなかった。
 総司が傍にいるからだ。
 自分を愛してくれなくても、ただ傍にいてくれるだけでいい──生きてさえいてくれればと、そう思うからだ。



 明里を見送り、別れた土方は歩き出そうとして、ふと空を見上げた。
 夕闇があたりにみち始めていた。
 薄紫色の夜空に、淡い月がかかっている。
 儚くも美しい、清らかな月。
 まるで、総司のようだと思った。


(……総司……)


 山南と共に帰ってきた総司の姿に、土方は心から安堵した。
 失うかもしれないと危惧していたのだ。
 山南が求めたからこそ、隊の体面のためにも総司を追手としてさしむけたが、あの時に云ったとおり、道連れにされるのではないかという不安は常にあった。
 だが、こうして総司は帰ってきてくれたのだ。彼のもとへ。
 そう安堵した土方の前で、山南は総司の介錯により見事切腹して果てた。
 最後に二人きりで逢った時も、山南は恨み言一つ云わなかった。
 ただ、明里にはすまない事をした、後を頼むと云われただけだった。総司の事も一切口にせず、山南は逝ったのだ。
 総司とは、山南の死後、全く言葉をかわしていなかった。
 むろん、公の場では顔をあわせ、副長、一番隊隊長として対する事はあったが、その他では避けられている気がした。


 山南は、総司の心だけを道連れにしてしまったのではないか。


 そんな考えが、土方の頭にうかんだ。
 駒としてだけ扱うのなら、むしろ歓迎すべき事だった。自分の意のままに動く駒に、感情など必要ない。
 だが、そう、頭で理解しながら、堪らぬ程の空虚さを覚えた。
 抜け殻となった総司を、抱きしめる事はできるだろう。生きてさえいてくれればとも思った。
 けれど、心はそこに在って欲しかったのだ。
 夜空にある月のように清らかで優しく、時に、燃えあがる青白い焔のごとく激しさを見せる、総司の心。
 どれほど愛していることか。
 その気性を、そのすべてを、表にあらわさぬだけに尚のこと、深く激しく狂おしく愛していた。



 土方はきつく唇を噛みしめると、もう一度、夜空にある月を見上げた。
 薄紫色の黄昏の中、透きとおるよう月は、まるであの愛しい存在のように思えた。













「あ」
 思わず声が出た。
 だが、すぐにそれを掌でおおうことで、おさえた。
 総司は目を見開いたまま、後ずさり、傍の水茶屋へと走り込んだ。奥の席に坐れば、往来からは見えない。
 そうして様子をうかがっていると、往来をゆっくりと一人の侍が通り過ぎていった。
 すらりとした長身は見間違えるはずもない。
 黒い小袖に袴姿の彼の容姿は水際だち、今もすれ違う女のほとんどがふり返っていた。
 誰も、その端正な姿形の男が新撰組副長だとは思いもしないのだ。
「……っ」
 総司は息をつめたまま、その背を見送った。
 見つめることで気配を悟られてはいけないと思うが、どうしても目が追ってしまうのだ。心が求めてしまうのだ。
 この瞳に彼を映したい──と。
 償いゆえだったかもしれない、山南の言葉で晒された真実は、もう隠しようがなかった。
 だが、それでも気持ちは変らないのだ。
 傍にいたい、見つめたい、彼に愛されたいと願ってしまうのだ。
 こんな偽りばかりの自分だが、それでも。


(愛してる、あの人だけを愛してる……)


 今にもこぼれてしまいそうな言葉が、怖かった。
 泣いて縋って、捨てないでと叫んでしまいそうな自分が恐ろしかった。
「……」
 総司は小女に頼んでもってきてもらった茶を飲みながら、そっと目を伏せた。
 その脳裏には、先程見た光景が焼付いている。





 女だった。
 それも一度見た事のある、お光に面差しがよく似た女──山南の恋人だったという明里と、土方は今、料理茶屋から出てきたのだ。
 親しげに言葉をかわす二人は、あの時と変らず見事なほど似合いの一対だった。
 噂で聞いた話では、明里を落籍させたのは土方だという。
 そのまま囲うつもりではないかという話もあったが、総司は信じられなかった。否、信じたくなかった。
 だが、今見てしまった二人は、総司の目から見ても似合いだった。
 冬の黄昏の中、柔らかく微笑みかけた明里を、静かな瞳で見つめていた土方。それを見た瞬間、胸の奥が鋭く抉られた気がした。
 いや、今も思い出すだけで、きりきりと痛むほどだ。
 たとえ山南の恋人だったとしても、今はもう彼はいないのだ。
 土方がお光と面差しの似た明里を求め、己のものとしても、誰も咎めないだろう。
 そうなれば、総司は用済みだった。
 お光の代わりとして、総司を傍に置いておく必要も消え失せるのだ。望んだ存在が得られるのだから。
 女であること、お光と面差しが似ていること、病もちでないこと。
 どれをとっても、総司が彼女に叶うはずもなかった。叶うどころか、比べものにもならない。


(どうして、私はあの人を愛したの。どうして、こんな苦しい恋をしてしまったの……?)


 総司はきつく目を閉じると、こみあげる涙をこらえるように掌に爪を食いこませた。 













「……まるで抜け殻だな」
 土方は吐き捨てるような口調で、呟いた。
 帯を締めながら、うち捨てられたように褥に横たわる総司を見下ろした。男の言葉にも何の反応も見せない若者に、深く嘆息する。
 あの宿の離れだった。
 そこで、久しぶりに落ちあい、二人抱きあったのだ。だが、以前とあまりにも違う総司の反応に、土方は眉を顰めた。
 ほとんど声をあげず、その手も彼の背にまわされる事はなかった。何か別の事を考えているようで、全く心ここにあらずだったのだ。
「……」
 土方は昏い光を宿した瞳で、総司を見下ろした。


 自分に抱かれる時、初めは彼を虜にするため、そして、最近は償いのためだと、総司が思っていることは、よくわかっていた。
 だが、そんな事どうでもよかった。
 土方にとって、総司は愛しい若者だった。狂おしいほど欲した、恋人だったのだ。
 むろん、彼には心に決めたものがあった。
 新撰組を最強の武力集団に育てあげるという、大義が。
 本来なら、愛だとか恋だとかに関わり合っているべきではなかった。総司も、駒であるべきだった。
 恋人であっても、心を許したが最後、隙が出来てしまうだろう。弱みが出来てしまうだろう。
 それだけは避けなければならなかった。
 だが、愛しいと想う心はとめられないのだ。どうしても、愛さずにはいられないのだ。
 だからこそ、抱いた。狂おしいほど欲したからこそ、抱いたのだ。
 それなのに。


 やはり、山南は総司の心を奪っていったのか。


 土方はきつく唇を噛みしめると、纏った小袖の裾を払うようにして総司の傍らに跪いた。
 決して視線をあわせない総司の細い顎を掴み、強引にこちらをふり向かせる。
「……俺を見ろ」
「……」
 彼の言葉に、のろのろと総司が顔をあげた。美しいが、どこか力ない瞳が彼を見上げる。
 それを覗き込むようにして、土方は訊ねた。
「総司、おまえを抱いたのは誰だ」
「……」
「誰だ、答えろ」
「……土方さん…です」
「躯はな」
 苦々しげに唇を歪めた。
「だが、心はどこにある。俺が抱いたのは、抜け殻だけだろう」
「それは……」
 総司は何か云いかけ、そっと唇を引き結んだ。長い睫毛を伏せ、黙り込んでしまう。
 青ざめた顔がぞっとするほど美しく、また、艶やかだった。白い首筋に纏わりつく黒髪が、この若者特有の色香を感じさせる。
 土方は胸が締め付けられるような焦燥を覚えつつ、総司の細い躯を抱きおこした。
 そのまま抱きすくめれば、従順に身をまかせてくる。抗いなど一つもしない。
 なのに、その表情は固く、ふれた指さきは驚くほど冷たかった。
 土方はため息をつくと、不意に投げ出すようにして総司を手放した。褥に、華奢な躯が倒れこみ、黒髪が波うつ。
 だが、それに視線をむける事なく、土方は立ち上がった。部屋を大股に横切る。障子が開かれ、再び閉じられた。
「……」
 無言で出ていってしまった男に、総司は固く瞼を閉ざした。


(心がないのは、あなたも同じなのに……)


 償いとして抱かれていた事は、確かに間違っていた。
 だが、それでも、明里を手にいれた今、それでも抱こうとしてくる土方に、躯はともかく心を開く気には到底なれなかった。
 ふれる指さきに、腕に、唇に、つい思ってしまうのだ。
 この躯に、彼女の白い手がふれたのだろうか。
 この人は、彼女をどんなふうに愛したのか。
「……私なんか、もう放っておいてくれたらいいのに」
 用済みになった駒を未だに構ってくる彼の心情が、まったく理解できなかった。愛されていないどころか、関心さえ持たれていないはず。
 なのに、どうして。
「私を……抱くの……?」
 きつく目を閉じると、総司は彼の香りが残る躯を両手でそっと抱きしめた。












 ある日、斉藤に問いかけられた。
「大丈夫なのか」
 と。
 縁側から見上げた空はとても清々しく、きれいに晴れわたっていた。春先だからか、日射しがとてもあたたかい。
 総司は縁側にきちんと端座した姿で、聞き返した。
「何が、です」
「土方さんとの事だよ。うまくいっているのか」
「……」
 黙り込んでしまった総司に、斉藤は嘆息した。
「前にも云っただろう? おまえが誰かといる事で幸せならいいし、もし不幸でもおまえが望んだ事では仕方ない。けれど、もしおまえが望まぬ関係を強いられているのなら……」
「斉藤さん」
 その先を聞くのが怖くなり、総司は思わず遮った。立ち上がり、ふるりと首をふる。
 細い肩先で柔らかな髪が揺れた。
「私、望まぬ関係など強いられていません。ただ、みんな終わったはずなのに、私の方が……思い切れないだけなのです」
「思い切れないって……」
「皆、私が悪いのです。勝手にあの人を誤解して恨んで、酷い仕打ちをして、挙げ句……」
 そのまま黙り込んでしまった総司の表情は、見ている斉藤が苦しくなるほど切なげだった。長い睫毛が微かに濡れ、桜色の唇はきつく噛みしめられている。
 斉藤は立ち上がり、思わず手をのばした。
「……総司」
 細い躯を、静かに抱きすくめた。
 総司も黙ったまま素直に身をゆだね、斉藤の胸もとに凭れかかった。
 土方とは違う男の腕の中、だが、それでも安堵感がこみあげた。
 病を得てから、どうしても心が脆くなってしまっている。
 いつも自分の足下が揺らいでいるようで不安でたまらなく、何か強いものに縋りたくなった。
 そのような事を願うのは男としてどうなのかと思うが、人間、一人で生きてゆけるはずもないのだ。ましてや、死の病にかかってから、総司はいつも人恋しかった。
 こんな事をしてはいけないと思いつつも、斉藤の腕から逃れる気になれない。
「……」
 微かな吐息をもらした時、小さく音が鳴った。床が軋んだのだ。
 斉藤の腕に抱かれたまま、総司はほんやりと視線をめぐらせた。とたん、はっと息を呑んでしまう。
「……っ!」
 慌てて身をおこした総司に気づき、斉藤もふり返った。目を見開く。
「土方さん」
「……」
 いつのまに来たのか、そこには土方が佇んでいた。昏く冷たい双眸で二人を見据えている。
 黒い焔が、彼の身を包みこむようだった。
「あ」
 総司は思わず躯を後ずらせ、斉藤の腕から抜け出た。後ずさり、その場から逃れようとする。
 だが、それは許されなかった。
 歩みよってきた土方の手によって、荒々しく腕を掴まれる。
「……!」
 はっとして見上げた総司を、鋭い視線が見下ろした。