雪がちらついていた。
それを見上げ、総司は白い吐息をもらした。
まだ早朝だ。山南の脱走が知れ渡れば大騒ぎになるだろうが、隊は今静まりかえっていた。
人の気配さえない。
その中を歩いて厩にむかった総司は、一頭の馬を引き出した。門前まで連れていこうと、歩いてゆく。
自然と、目線が俯いた。
(……山南さん……)
急がなければならないとわかってはいた。だが、その足取りは重い。
年上の友人である山南を連れ戻せば、そこに死しかないのはわかっているのだ。戻ることを山南が拒否すれば、斬り合いになるだろう。
どちらにせよ、総司にとって、それは、向けた刃を己に突き立てるような行為だった。
傷は永遠に残るだろう。
どうしてわかってあげられなかったのか、という悔恨もあった。
先日話した時、山南は疲れていた。江戸へ帰りたいと云っていた。
あの時、もっと山南の話をよく聞いてあげ、支えになってあげられていたら、こんな事にはならなかったのではないだろうか。
(私はいつだってこうだ。無力で、後悔してばかりで……)
総司はゆるく首をふると、顔をあげた。
とたん、「……あ」と声がもれた。
玄関の前に、土方が佇んでいたのだ。こちらを静かな瞳で見つめている。
山南の脱走という事実を前にしながら、土方は全く動揺一つしていなかった。
近藤の前で淡々とそれを告げ、まるで通常の巡察であるかのように、総司に追手になることを命じたのだ。
その冷静さが信じられなかった。
この人には感情というものがないのか。
己の目的のためなら、何を失っても構わないのか。
それが仲間であっても友であっても、そのようなものに、感情を動かす価値もないという事なのか。
総司は土方の前を通り過ぎる瞬間、足をとめようとは思わなかった。
もしかすると、これが今生の別れになるかもしれない。山南と斬り合い、斃されるかもしれないのだ。
だが、それでも、自分にとってこの世の誰よりも愛おしい男を、その目にとどめておこうとは思わなかった。
いつでも、死はすぐ傍にあるのだ。
今更、こんな事泣く程のことでもない。
「……総司」
土方の前を通り過ぎたとたん、後ろから声がかけられた。
何の感情も読ませぬ、静かな声。
それに足をとめ、だが、ふり返らぬ総司の背に、土方はゆっくりと告げた。
「必ず帰ってこい」
「──」
次の瞬間、総司の目が大きく見開かれた。
言葉とともに、後ろから、男の腕が総司の躯をきつく抱きすくめたのだ。
息もとまるほど強い抱擁。
だが、一瞬の事だった。
全身に彼を感じたと同時に、それは離れ去った。とんっと軽く背を押され、前へ歩まされる。
「あ」
ふり返った時にはもう、土方は踵を返していた。まるで何事もなかったように、歩み去ってゆく。
その広い背は冷たく、遠かった。
だが、それでも。
彼の中にある真実に、一瞬ふれた気がした。彼の中にある熱が、総司の心の琴線を震わせたのだ。
深く静かに、狂おしく。
(土方さん……)
まだ己の身に残る彼のぬくもりを何よりも愛しく感じながら、総司は目をふせた。
そして、意を決したように顔をあげると、傍らの馬の鐙に足をかけた。ひらりと飛び乗る。
「!」
鐙で馬の腹を蹴れば、総司を乗せて、馬は勢いよく走り出した。
八の字に開かれた門から飛び出していきながら、総司はきつく唇を噛みしめた。
山南は総司を見た瞬間、微かに笑った。
それは、どこか悪戯が見つかった子どものような笑顔で、総司は小さく息を呑んだ。
悪戯っぽい笑顔と云えば、今の土方からは考えることも出来ないが、江戸にいる頃や京にのぼって間もない頃は、よくそんな笑顔を見せてくれた。
明るく朗らかで、優しい笑顔。
今、思えばそれはつくられたものだったのだが、それでも、少しは真実の彼もあったような気がする。
楽しそうに笑っている土方を見るたび、憎まなければと思う心と裏腹に、どうしようもなく惹きつけられる自分に戸惑ったものだった。
そんな土方と対するように、山南はいつも物静かで穏やかだった。皆で騒ぐよりも、一人静かに書見することを好んだ姿も、その印象をより強めた。
京にのぼり、土方とともに新撰組の発展に力を尽くしながら、山南は変わらぬままだった。いつも穏やかに意見し、着実な道を歩んできたのだ。
そんな彼が脱走した。
そして、今、大津の宿で総司に追いつかれ、悪戯が見つかった子どものような笑みをうかべている。
「案外……早かったね」
部屋の窓枠に寄りかかりながら、そう云った山南に、総司はこくりと頷いた。
「馬で来ましたから」
「そうか。寒い中、苦労をかけてしまった」
「山南さん」
あたたかな部屋の中、火鉢にかじかんだ手をかざしながら、呼びかけた。
「屯所に……一緒に戻ってもらえませんか」
「一緒に戻る、か」
山南は低く呟いた。目をあげ、総司をまっすぐ見つめる。
「その先に私を待っているものが何なのか、わかっているのかい」
「山南さん」
「私は疲れたから江戸へ帰ろうと思った。だが、それが死への旅である事も、よくわかっていた。私はここでおまえと斬り合って死ぬか、屯所に戻って腹を斬るか。どちらを選んでも死しかない」
「なら、どうして……!」
総司は思わず叫んだ。
「どうして、脱走などしたのです!」
「江戸へ帰りたかったからだよ」
「そんなの理由になっていません」
「なら、総司……おまえは」
山南は静かな瞳で総司を見つめた。
「おまえはそんな体で、新撰組に居続けたいという明確な理由を、云えるのかね?」
「……え」
総司は言葉をつまらせた。だが、すぐに、小さな声で答える。
「私は……土方さんがいるから……」
「そうだと、はっきり云い切れるのか?」
山南は鋭い口調でつづけた。
「駒であるのが嫌だと云いながら、彼を完全に拒絶せず、そのくせ受け入れもしない。おまえ自身、わからないのだろう。自分の衝動や望みが何故であるのか、わからないまま、そうして迷いつづけている」
「山南…さん」
「私もね」
山南は窓枠に凭れかかり、ふと視線を遠くへやった。
「隊を出た衝動がどんな理由に起因しているかなど、今となってはわからないのだよ。だから、どうしてと聞かれても答えられず、ただ、江戸へ帰りたいという理由づけしか出来ない」
「……」
「そうだね、もしかしたら……死を望んでいたのかもしれない。戦うことにも、抗うこと、嫉妬すること、羨望することにも疲れはてて……あそこから逃げ出したくなかったのかもしれない」
山南は目を伏せ、微かに笑った。
「結局、理由づけなど無理なんだよ。ましてや、自分の心の動きに理由をつけるなど、不可能だ。頭よりも、躯の方が正直に動いてしまうのだから」
「躯の方が?」
「そう。たとえば……恋の場合でも同じだ。ふれたい、抱きしめたい、口づけたいと願うその気持ちが、何よりもの真実ではないかと私は思っている」
再び、最初の悪戯っぽい笑みが、山南の頬にうかんだ。
「だから、今、私はおまえを抱きしめたいと思っているのだよ」
「え」
驚いたように目を瞠った総司に、山南は笑った。それに息を呑む。
男の笑い声は、清々しく澄んでいた。
この先にあるだろう死への恐怖も、隊内での争いごとゆえの悩みも、葛藤も苦しみも、何もかも綺麗に捨て去り、既にもう、山南の心は、どこか遠い処へ翔けあがってしまっているのだ。
それに、総司が抗えるはずもなかった。長年の友人だった彼は、もはや手の届かぬ処にいる。
総司は目を伏せ、呟いた。
「……何もできない、のですね」
「総司?」
「私は、山南さんにもしてあげられる事が……何もない」
「何かしてやりたいと思って、ここに来たのかね?」
そう優しく問いかけた山南に、総司は子どものようにこくりと頷いた。
それに、山南のまなざしが柔らかくなった。手をのばし、そっとその小柄でほっそりした躯を胸もとに抱きよせる。
「おまえは……いい子だ」
「山南さん」
「とても優しい、心のきれいな若者だ。だからこそ、私はおまえを手にいれた土方君が羨ましかった」
「……」
「先日、おまえは云ったね。土方君のためなら命を投げ出すと」
「えぇ」
「だが、今、おまえは、私のために何かしてやりたいと云ってくれる。なら……一緒に逃げてくれるかい?」
「……」
山南の問いかけに、総司は目を瞠った。
それに、そっと微笑みかけた。
「おまえが土方君との恋で苦しんでいるのは、よくわかっている。だからこそ、云うのだ。一緒に逃げようと」
「でも、追手が……」
「追手がかかっても、おまえと私なら斬り伏せることが出来るだろう。私と一緒にくれば、少なくとも今の苦しみからは逃れられるよ」
「……っ」
総司は山南の胸もとにぎゅっとしがみついた。
山南の言葉は、真実だった。この苦しく切ない恋から、逃げ出すことができるのだ。
(あの人から、逃げる……)
その先にあるものが何であれ、それは一つの救いだった。土方への恋に苦しみ、もがきつづける総司にさし出された、光明かもしれなかった。
「……」
総司は息をつめた。だが、やがて、ゆっくりと首をふった。
掠れた声が、その桜色の唇からもれた。
「……ごめん…なさい…っ」
「……」
「一緒には行けません」
総司は俯き、震える声で懸命につづけた。
「山南さんと一緒に逃げれば、土方さんの立場がなくなってしまう。あの人を裏切り、傷つけてしまう。そんなの許せないから、出来ないから……一緒に行くことはできません……」
「なら、そういう事は云うべきではない」
山南はそっと総司の肩を掴んで、引き離した。見上げると、穏やかな瞳が総司をじっと見つめていた。
静かな声で、諭された。
「何かしてやりたいなどと、そういう安易な言葉は口にしてはいけない。おまえ自身にそこまでの覚悟がないのなら、口にすべきではないんだ」
「あ……」
総司は頬を紅潮させた。
山南が本気で云ったという事は、わかっていた。
なのに、自分はただの成り行きで、あの言葉を口に出してしまったのだ。
自分でもわからない感情の動きだったが、それが生半可な覚悟であり、間違いだった事は理解できた。
「申し訳ありません」
居住まいをただし、総司は謝った。
「私が間違っていました……本当に、申し訳ありません」
謝意の言葉に対し、しばらくの間、山南は無言だった。だが、やがて、微かにため息をついた。
「総司、おまえは」
「はい……」
「先日のやり取りゆえに、私を、事ここに到るまでに理解し助けることができなかった事を後悔している。罪悪感をもっている。だからこそ、何かしてやりたいと口にしたのだろう」
「……そう、かもしれません」
「つまりは、贖罪という事だ。そして、それは……土方君との事も、同様なのではないのかね。いや、わかっている」
山南は手をあげ、何か云おうとした総司を遮った。
「おまえが今も、私のために何かしてあげたいと純粋に思ったこと。土方君のためにありたいと願っていること。それはよくわかっている。だが……」
静かな声で呟いた。
「おまえの優しさは、時には……罪となる」
「……」
大きく目を見開いた総司に、山南はもう何も云わなかった。
ただ淡々と、屯所に戻るための身支度を始める。
それを見上げながら、総司は何もかけられる言葉もないまま、膝上に置いた両手をきつく握りしめた……。
山南の死は、総司の心に暗い影を落とした。
何もしてあげられなかった、己の無力さ
一緒に逃げる気もないのに、安易な言葉を吐いてしまったこと。
挙げ句、山南の首を落としたのは、己自身の手なのだ。
その手に残った友を斬った感触に、総司は気が狂いそうな思いだった。
何度洗っても洗っても、血が滲むほど手拭いで擦っても落ちない、忌まわしい感触。
「……っ」
きつく唇を噛みしめ、総司は俯いた。
何度も冷たい水で洗ったため、その白い手は凍えてしまっている。血があちこちに滲み、痛々しい程だった。
これ以上洗うことを諦め、総司は井戸端から縁側にあがった。
襷をほどきながら歩いてゆくと、自室の前に土方が佇んでいた。総司を見て、微かに眉を顰めている。
「……」
総司は無言のまま、部屋に入ろうとした。
会話をするには、あまりにも疲れていた。
もう何も考えず、眠ってしまいたい。だが、一方でそんな事できはしないだろうとわかっていた。
山南の言葉が、ずっと総司の耳奥から離れないのだ。
障子に手をかけた処で、土方が低く呼んだ。
「……総司」
「はい……」
小さく答えたが、土方は言葉をつづけなかった。
見上げた総司を、静かな瞳が見下ろした。
黒曜石のような美しい瞳だ。
総司はそれを見つめ返し、やがて、微かに目を伏せた。一礼すると、黙ったまま部屋の中へ入る。
それを土方も追ってはこなかった。閉めきった障子の向こう、しばらく佇んでいたようだが、やがて、立ち去ってゆく気配がする。
「……」
遠ざかる男の気配を感じながら、総司は、そっと唇を噛みしめた。
───おまえの優しさは、時には罪となる
土方を恋しいと思っていた。
愛してると、信じていた。
だが、それは本当だったのか。
お光の事で誤解し、酷い仕打ちをしてしまった償いに、彼へ尽くそうと思っただけではないのか。
否……実際にそうなのだ。
真実を知ってから、彼に抱かれるたび、贖罪という言葉がいつも頭にうかんだ。償いの気持ちゆえに身をまかせてきたと云ってもいい。
それは、きっと土方にも伝わっていたに違いなかった。そんな自分を抱きながら、どれほど不快に思っていた事か。
嬌声をあげるのも、彼に奉仕するのも、全部、償いゆえならば、それは偽りとなる。
土方が愛だとか恋だとか、そういう気持ちを総司に対して一切もってないにせよ、それでも、褥の中では狂おしいほど求めてくれた。
男の欲情のまま抱いてくれた。
なのに、その抱かれる自分が、『これは償いのためなのだ』と、無意識のうちに云い聞かせていたなんて……。
(私は…なんて酷い……)
総司は堪えきれぬ想いに、きつく瞼を閉ざした。
