最近、総司は息がとまるような感覚をよく覚えるようになった。
しかし、それは病のせいではない。この隊全体に張り詰めている緊張感の為だった。
「……総司」
後ろから声をかけられ、総司はふり返った。その人物を見たとたん、顔が強ばってしまったのは仕方がない。
嘘のつけない若者に、山南は苦笑した。だが、素知らぬふりで話しかけた。
「今から医者の元へ出かけるのかい?」
「いえ、非番ですので……少し散策に」
「じゃあ、同道しても構わないかね」
山南の問いかけに、総司は咄嗟に答えられなかった。言葉をつまらせてしまう。
微かな揶揄するような光が、山南の双眸をかすめた。
「私と話すのがそんなに嫌かい」
「いえ、そんな」
「なら構わないだろう。そこまでの事だ」
山南は微かに笑ってみせると、すっと先にたって歩き出した。
それに総司も仕方なく従った。だが、思わずその背を見てから、周囲に視線をやってしまう。
向こうで監察の山崎がこちらを見ている事に気づき、きつく唇を噛みしめた。
(見張られている……?)
誰が、とはわからなかった。
山南かもしれないし、自分かもしれない。
それを命じたのが土方だとわかっていながら、総司は纏わりつくような糸を払いのけられないでいた。お光のための復讐を誓っていた頃なら、すぐさま土方に対して、嘲笑と侮蔑の言葉を投げつけられただろう。
だが、今はそんな事到底できるはずもない。
何の罪もない彼を傷つけ、身勝手な復讐心でふり回してきた。
今もって、土方は何も言及してこないが、少なくとも知っている事は確かだ。
そして、あんなにも何度も躯を重ねながら、愛されているどころか──憎まれていることも。
それを思うと、総司の胸は錐で貫かれたような痛みを覚えたが、どうする事もできなかった。
ただ黙ってその身をさし出し、彼に抱かれるより他なかったのだ。何もかも、彼の意のままに従う他はない。だから、今も見張られているとわかっていながら、黙っていた。何も云わなかった。
それが恋だとか嫉妬だとか、そんなものではなく、隊の中の力関係に発しているとわかっていたから、尚の事だった。
「……」
視線を前に戻せば、少し痩せたような山南の背があった。
彼の立場も複雑だ。
江戸へ行った近藤が同じ流派の伊東甲子太郎を連れてきたあたりから、少しずつ何かが狂い始めた。
初めから、土方と伊東は明らかな対立状態になったが、山南は決してそうではなかった。中立的な立場を保ってきたのだ。だが、屯所移転の話が出てから、その立場は明確になった。
伊東についたというよりも、土方と初めて対立したのだ。
総司には何もわからなかった。まるで綱引きのような力関係のせめぎあいも、遠い処の出来事のようにしか感じられなかった。
(どうでもいい、そんな事)
総司は立ち止まると、空を見上げた。
清々しいほどの青空が広がっていた。
ゆっくりと、つがいらしい鳥が二羽わたってゆくのが見える。
とても自由で、仲良さそうで美しかった。
それを羨ましく思いながら眺めていると、いつのまにか山南が隣に佇んでいた。同じように空を見上げながら、呟く。
「……江戸に帰りたい、ね」
「え」
驚いてふり向くと、山南は少し照れたように笑ってみせた。
「いや、最近よく見るのだよ。江戸の夢を」
「そう…ですか」
「総司は帰りたいと思わないのかい、江戸へ」
「江戸……」
総司はちょっと戸惑ったように呟いた。
自分の育った場所であるはずなのに、そこは酷く遠く感じた。帰りたいとも思わない。
その理由を、自分自身はよく知っている気がした。
「……思いません」
ぽつりと答えた総司に、山南は小さく笑った。
「あっさりしているね」
「えぇ。でも、帰りたいとは思わないのです」
「今、隊内があんな状態なのに?」
「そういうの……関係ありませんから」
「関係ない、か」
山南は微かにため息をつき、懐に手をいれた。考えこむように目を伏せながら、言葉をつづける。
「それは……土方君が関わっていても、そう云えるのかい」
「え」
「もしも、隊内の争い事で、土方君が命を落とすような事になっても……」
「そんな事……!」
総司は頬が強ばるのを感じた。激しい口調で云いきってしまう。
「あの人には、私がいます。病もちの躯だけど、まだ戦える」
そう叫んだ総司の頬は、鮮やかに紅潮していた。澄みわたった大きな瞳が息を呑むほど美しい。
山南はそんな総司をしばらく眺めてから、そっと目を伏せた。微かな苦笑が口許をかすめる。
「土方君が羨ましいね」
「……あ」
静かな彼の声に、総司はようやく我に返った。思わず俯いてしまった総司に、山南は言葉をつづけた。
「その言葉を聞いたら、彼も喜ぶと思うよ」
「私…は……」
まだ戸惑ったふうでいる総司に、山南はくすくす笑った。
「おかしな総司だね。あんなふうに激しく己の想いを吐露したかと思えば、今は羞じらい戸惑っている」
「想いを吐露……?」
「命がけの恋をね」
「──」
総司は大きく目を見開いた。ただ呆然とその場に立ちつくし、山南を見返す。
笑って否定しようとしたが、できなかった。
そんな事あるはずがないと、云えなかった。
全部、真実だったから。
この命も何もかも捧げていい程、彼を愛している。
この世で、彼しか欲しくなかった。
他の何を失ってもいい。彼さえいてくれれば、それでいいのだ。
それだけで……幸せなのだ。
その事を今ようやく知り得た総司は、躯の奥底から泣き出したいほどの悲しさと歓喜を覚えた。
奇妙に矛盾したその感情は、だが、総司にすれば、当然のことだった。
やっとわかった自分の想い。
そして、一縷の望みもない恋。
(私の恋は、永遠の片恋だ……)
それを思い知った瞬間、涙がこぼれそうになった。堪えるように、きつく唇を噛みしめる。
俯いてしまった総司を、山南は見つめた。それから、ゆっくりとした口調で云った。
「……以前、覚えているかい?」
「え……?」
顔をあげた総司に、山南は静かな瞳をむけた。
「池田屋の事の前だ。嫉妬しているのかと、聞いた事があっただろう?」
「……え、あ。はい」
「私はね、逆に、土方君にずっと嫉妬してきたのだよ」
微かな吐息をもらし、山南は青空へ視線をむけた。
「彼は私のように学がある訳でもないし、剣術に優れている訳でもない。だが、彼には私にない力があった。自らの夢を叶える力があった。私はそれが羨ましく、妬ましかったのだ」
「そんな」
総司はふるりと首をふった。
「山南さんにも力があります。羨む事なんて……」
「私は土方君ほど強くないのだよ。彼は己の目的を達成するためなら、たとえ自分の手足でも切り落とす事ができるだろう。それも、何の躊躇いもなく。だが、私にはそんな事はできない。そこが違うのだと思うよ」
そう云ってから、山南は総司を見つめた。
「彼がおまえを手にいれた……その事も、嫉妬の一つかな」
「山南さん……」
「おまえが彼のために守ろうと戦うように、彼もまた、総司のためならすべてを賭けて戦うだろう。それだけの関係を築けた二人が、正直羨ましいね」
「ちが…違います!」
思わず総司は叫んでいた。
彼が自分のために命を投げ出すなんて、そんな事あるはずもないのだ。
愛されていない。
それどころか、関心さえない。
彼は自分が死んでも、眉一つ動かさぬだろう。
駒を失っただけと、見向きもしないに違いない。
そんな関係──羨まれる理由など、どこにもなかった。
「山南さんは誤解している! あの人は……土方さんは、私のことをただの駒だとしか思っていないのです。使い勝手のいい、飽きればすぐにでも捨てる事のできる駒だと」
「駒?」
山南は微かに笑った。 否定するかと思ったが、小さく頷く。
「確かにそうだね。土方君はおまえを駒だと思っているよ。何としてでも手にいれたいと云っていたからね」
「……」
総司は息を呑んだ。
自分で切り出した言葉だったが、逆に、深く傷つけられてしまったのだ。
第三者である山南から見ても明らかな、歪んだ関係
所詮、駒の一つだと、容赦なく切り捨てる冷たい男に恋してしまった虚しさが、胸奥を突き上げた。
「……っ」
きつく唇を噛みしめる総司を、山南は見つめた。その切なく苦しそうな表情に、目を細める。
しばらく黙ってから、やがて、ゆっくりとした口調で問いかけた。
「だが、駒であってもいいとは……思わないのかね」
「え」
驚いて顔をあげた総司に、微笑んだ。
「彼のためならば、命も捨てられるのだろう? なら、矜持や誇りなどもっと簡単に捨てられるはずだ。彼に利用される駒であっても、構わないじゃないか」
「……」
「もっとも、土方君がおまえを駒としてだけ欲しているかどうか……私は違うと思っているけどね。駒同然に思っているのなら、池田屋の時点で切り捨てられていたはずだ。今頃、おまえは帰りたくもない江戸に戻されていただろう」
黙ったまま再び俯いてしまった総司に、山南は手をのばした、そっと肩をたたいてくれる。
「彼の気持ちは、明確だと思うがね」
その言葉を最後に、山南は踵を返した。一人散策をつづけるつもりなのか、ゆっくりと歩み去ってゆく。
遠ざかる足音を聞きながら、総司は祈るように瞼を閉ざした。
屯所に戻ってすぐ、総司は土方と行き会ってしまった。
感情が揺れている今、一番逢いたくない男だったが、仕方がない。総司は僅かに身をひき、目礼した。
そのまますれ違いかけたが、不意に、手首を掴まれる。
「!」
はっと息を呑んだ総司を、土方は切れの長い目で見下ろした。僅かに眉を顰めている。
「……顔色が悪いな」
戸外にいた故だろう。土方に云われて気づいたが、躯が酷く冷えていた。
それでも、土方に弱音を吐く気などなれなかった。
「大丈夫です」
そう云って男の手をふり払おうとしたが、土方はより手に力をこめた。男の胸もとに引き寄せられる。
「……あ」
突然、感じた彼のぬくもりに、総司は躯が熱くなった。思わず彼を見上げてしまう。
「無理をするなと云っただろう」
「土方さん……」
「早く部屋に戻って休め」
そう云った土方は、ふと口許に笑みをうかべた。
「それとも、俺が連れていってやろうか?」
「……っ」
かっと頬が火照った。
この間の事を云われているのだと、わかったのだ。
彼の腕に抱かれ、運ばれた宿。そこで、甘くとろける蜜のような一時を過した事は、今も忘れていない。
羞じらうように長い睫毛を伏せた総司に、土方は苦笑した。周囲に人気がない事を確かめてから、掠めるような口づけを落とす。
「そんな顔するな。今すぐ抱いてしまいたくなる」
「……土方、さん……」
「ほら、早く部屋に戻れ。あたたかくして休むんだ」
そう云うと、土方は総司の背に手をあて、優しく促した。総司は黙ったまま俯き、ゆっくりと歩き出す。その背を彼が見送ってくれているのはわかったが、ふり返る事はできなかった。
こうして、見せられる彼の優しさが辛かった。
駒だと思っているのなら、そのまま駒として扱って欲しかった。なのに、時折、こうして気まぐれのように優しくされる。
その事に、総司は戸惑い、泣き出したくなった。
いっそ縋りついてしまいたい。甘えてしまいたい。
決して許される事ではないのに、そんな事を願ってしまう己の弱さが、総司は切なかった……。
夜半のことだった。
突然、部屋を訪れてきた山南に、土方は驚いた。
まだ明かりを灯し文机にむかっていたが、山南の訪れは最近では珍しい事だったのだ。
「きみに云っておきたい事がある」
文机にむかう土方の前に坐ると、山南はきっぱりとした口調で云った。
それに、土方は僅かに眉を顰めた。
「何だ。穏やかじゃねぇな」
「あぁ、穏やかな話ではない」
「聞こう」
「今から、私は隊を出る」
「……」
土方は無言だった。切れの長い目でまっすぐ山南を見据え、押し黙っている。
だが、その黒い瞳は彼の内に生じた様々な感情をうつし出し、かき消した。それに、山南が僅かに苦笑する。
「きみは……隠し事ができない」
「そんな事を云われたのは、初めてだな」
「わかる者にはわかるさ。きみは嘘がつけない性格だ」
「俺の性格の事なんざよりも、さっきのあんたの言葉は何だ。どういう意味だ」
「そのままだ」
山南は肩をすくめ、穏やかな口調で答えた。
「私も疲れたのだよ……江戸へ帰りたい」
「局中法度を忘れたのか」
「忘れるものか」
そう答えてから、しばらくの間、山南は黙っていた。やがて、夢想するような表情で、ゆっくりと呟いた。
「私は……きみの夢に共感していた」
「……」
「きみが叶えたいと願った夢を、共に叶えようと思った。それができると信じていた。だが、無理だった」
微かな笑みが、山南の口許にうかんで消えた。
「夢は、所詮、きみだけの夢だ。他の誰かが、共に見ることなど初めから無理だった」
「当然だろう」
土方は静かに答えた。
「俺の夢は俺のもので、山南さんの夢は……あんたのものだ」
「そうだね。その当然の事がわからず、必死に見続けようと、あがけばあがく程、崩れ落ちていった。……私が願った夢も諸共に」
山南は疲れたようにため息をつき、膝元に視線をおとした。
それに、土方は云った。
「隊を出るなどと……本気なのか」
「戯れで、こんな事は云えないだろう」
「……追っ手を出すぞ」
「出せばいい」
「屯所に連れ戻されれば、切腹だ。それは承知の上だろな」
「むろん」
山南はくすっと笑った。
まだ何の表情もうかべていない、土方の端正な顔を眺めてから、ゆっくりと告げた。
「追手は……そうだな、総司がいい」
山南の言葉に、土方の目が見開かれた。
それに、言葉をつづけた。
「総司以外の隊士をよこせば、それが誰であろうと斬り捨てる。追手は総司だけだ」
「……」
答は返らなかった。
土方は、珍しいほど感情を露にしていた。激しい怒りを湛えた瞳で、じっと山南を睨みつけている。
やがて、問い返したが、その声は押し殺され、彼らしくもなく掠れていた。
「総司を追手に……だと?」
「あぁ」
「道連れにするつもりか」
「嫌かね」
そう云ってから、山南は薄く嗤った。彼にしては珍しい、どこか歪んだ笑みだった。
「それとも……怖いのか、と訊ねた方がいいのかな」
「……何が云いたい」
「私に聞かずとも、きみ自身、よくわかっていると思うがね」
ゆっくりと山南はつづけた。
「きみは、総司が私と道連れになるのを選ぶことを、心の底で死ぬほど恐れている。追手になどしたくない。総司を一時も手放したくない。そう思っているのだろう」
「……」
「江戸行なのか、それとも、二人ともに死ぬのか。どんな形であれ……きみは総司を失うのだから」
「失うはずがねぇだろう」
低い凄味のこもった声で、土方は云い切った。獰猛な獣が敵を威嚇するような声音だった。
「あれは、俺のものだ。あんたのものではない」
「そう、私のものではない。だが、きみのものでもないよ、土方君」
さらりと云い捨てると、山南は立ち上がった。そのまま部屋を出ていこうとして、障子に手をかけふり返る。
「追手の件、よろしく」
その言葉を最後に、山南は静かな足取りで立ち去っていった。
遠ざかる足音を耳奥にためながら、土方は唇を噛みしめた。
追いかけようとは思わない。
かと云って、山南が本気でないとも思わなかった。
恐らく、土方の部屋を出たその足で、屯所を出てゆくのだろう。
江戸へ戻るか、死を選ぶのか。
隊内での争いや対立が理由というよりも、土方の夢に同調できなくなった──その事が原因である気がした。
また、土方と総司の関係が深まっている事も、恐らく原因なのかもしれない。
昔から、山南は総司に特別な感情を抱いているようだった。
夜空にある月のように清らかで儚く、美しい存在。
まるで、手にすれば壊れてしまう玲瓏な珠のように、山南は総司をいつも遠くから見守ってきた。
だからこそ、土方が総司を手にいれようと画策するのに、あまりいい顔はしなかったのだ。反対はしなかったが、賛同する事もなかった。
そして、今、己が死を選ぼうとするこの時になって、総司を道連れにしようとしている。
江戸へ去るのか、死を選ぶのか。
どちらにせよ、総司はこの手の中から奪い去られてしまうのだ。
「……そんな事許すものか」
土方は底光りする目で宙を睨みすえた。固めた拳を畳に荒々しく打ちつける。
ぎりっと奥歯を噛みしめた瞬間、口の中に、鉄の味が鈍く広がった……。
