その花に命をあたえたのは、土方だった。
 たとえ、それがどんな歪んだものであれ、総司に生きることを教えたのは彼だったのだ。
 土方は時折、己が命をあたえた花を、不思議と眩しいような感覚で眺めた。
 美しく咲いた花は凜とし、清らかで、だがどこか儚げだった。きつく抱きしめれば、今にも淡雪のようにとけ消えてしまいそうだ。
 手にいれたかった。己の掌中におさめたかった。
 だが、この美しい花は、彼が命をあたえてやったのにも関わらず、彼のものにはならなかったのだ。
 もしかすると、永遠に。
 それを今、土方は思い知らされていた。






「……総…司……!?」
 池田屋の二階だった。もう既に、あらかた斬り合いは済んでしまっている。
 遠くでまだ怒号が響いていたが、後はもう今後の始末だけだろう。
 階段をあがってみたとたん、暗がりの中に横たわる一人の若者の姿に気づいた。
 駆け寄った土方の全身を激しい衝撃が走ったが、その上下する胸もとに杞憂だった事を知った。思わず安堵の吐息をもらす。
 だが、その白い顔は口許から胸にかけて真っ赤だった。血を吐いた事が一目でわかった。
 それ死の病と呼ばれるもの故であることも。
 恐らく、労咳ゆえの吐血だろう。ならば、いつか病み衰えてゆく。儚く散ってしまう。
 だが、それを知っても、気の強い総司だ。
 彼のものになるくらいなら──と、そう云いきるかもしれなかった。
 微かな笑みをうかべるその姿が目にうかぶようだった。


 彼の存在など気にもかけず、淡く微笑む総司。
 すべてを永遠に拒絶し、散ってゆく儚い花。


 それらを脳裏に思い浮かべた瞬間、ふつふつと腹の底から鈍い怒りがこみあげてきた。
 憎しみにも似た、怒りだ。
「……そんな事」
 奥歯をくいしばった唇から、低い呻きがもれた。
「許すものか……っ」


 これは、俺のものなのだ。
 俺だけのものなのだ。
 今更逃げることなど、絶対に許さない。
 俺とともに修羅の道を歩むのは、おまえだ。
 総司、おまえは俺だけのものだ……!


 乱暴に総司の肩を掴むと、ぐいっと抱きおこした。がくりと仰け反った綺麗な顔を覗き込む。
 青白い顔は儚く、今にも息絶えてしまいそうだった。だが、それを許す気など全くなかった。
「……総司、しっかりしろ!」
 頬をかるく叩いたが、総司は目を覚まさなかった。それがまるで拒絶されているようで、たまらなくなる。
 独占欲とも執着とも愛情ともつかぬ、激しい何かが彼の胸奥を突き上げた。
 土方は総司の躯を両腕に抱きあげると、立ち上がった。そのまま階段を下りてゆくと、永倉が驚いたように走りよってきた。
「どうしたんだ、いったい」
「総司が倒れていた」
「えっ」
「いや、怪我はない。ただ昏倒したようだ」
「どうして、また」
 問いかける永倉に首をふり、土方は総司の躯を土間の一角に横たえた。指さきで乱れた髪をはらい、濡らせた手拭いで丁寧に口許から首筋の血を拭ってやる。
 そうこうするうちに、傍らから影がさした。見上げてみると、斉藤が佇んでいた。
 鋭く一瞥した土方に構わず、総司だけに視線をあて問いかけてくる。
「……斬られた、のですか」
「いや、傷はない」
「なら……どうして」
「医者に聞いてみればいい」
 そっけなく云い返した土方に、斉藤はきつい視線をむけた。互いに一歩も譲らぬ様子で睨みあう二人に、傍らの永倉が戸惑ったような表情になる。
 きんと張り詰めた空気を遮るように、永倉が云った。
「とりあえず会所に運ぶかい」
「その方がいいだろう」
「じゃあ、誰かに」
「オレが運びます」
 そう云った斉藤に、土方は鋭いなまなざしを向けた。黒い瞳が薄闇の中で光る。
「……俺が運ぶ」
「けど、土方さん、あんたは……」
「構わん。すぐの事だ」
 土方は身をかがめ、総司の躯を再び抱きあげようとした。とたん、総司の長い睫毛が震え、目が開かれる。
「……ぁ」
 ぼんやりとした表情で見上げてくる総司に、土方は拒絶される事を予期し怯んだ。思わず手を引いてしまう。
 だが、それを留めたのは総司自身だった。
「……っ……」
 唇を震わせ、まるで縋るように、彼へと手をのばしてきたのだ。
 それを見た瞬間、狂おしいほどの歓喜と愛しさが、土方の胸にこみあげた。
「総司」
 思わずその手をとり、優しく握りしめた。
 総司は熱があるのか潤んだ瞳で彼を見上げ、むずかるように首をふった。それを柔らかく抱きおこしてやると、土方の胸もとへ身をすり寄せてくる。
 そうして、安堵したように小さく吐息をもらした。
 覗き込んでみると、総司はまた気を喪っていた。いや、もしかすると眠ってしまったのかもしれない。
「やっぱり、あんたじゃねぇと駄目みたいだね」
 苦笑まじりに云った永倉に、土方は「あぁ」と短く答え、その華奢な躯を抱きあげた。きつい視線をむけてくる斉藤の前を、足早に通り過ぎる。


(俺のものだ)


 総司を腕に抱いたまま、池田屋の外へと歩み出してゆく土方の背には、強い意志の力が漲っていた。












 池田屋から、しばらくたったある日の事だった。
 その日、総司は久しぶりに外出した。長い間、床についていたが、このところは何とか隊務にもつけるようになっている。
 自分の病が労咳であると知らされたのは、池田屋の後しばらくたってからだった。訪れた先の医者にそう告げられたのだ。
 池田屋で倒れ気がついた時から、薄々感じていた事だった。労咳という文字がすぐ脳裏をよぎり、覚悟を決めたのだ。
 そこまで思ってから、総司は俯き、小さく笑った。


(覚悟? どんな覚悟が出来ていたって云うの)


 病はしっかり受け入れるつもりだった。否定しても泣いても、どうしようもないこと。この身が死の病に冒され、いつかは死んでゆく。
 日々、死の危険と隣合わせの総司にとって、それは大きな衝撃ではなかった。今までも、死というものは、常に総司の傍で禍々しく光る鎌を構えていたのだ。
 だからこそ、それ自体には何も驚かなかった。
 だが、一方で、総司はある不安に揺れていた。どこまでも心が沈んでゆく。


(……土方さん……)


 彼はもう知っているはずだった。気づかぬはずがないのだ。
 なら、いったいどうするつもりなのか。病もちになった自分をどうするのか、土方が何も云わないだけに不安がつのっていた。
「……」
 総司はきつく唇を噛みしめ、顔をあげた。再び、歩き出そうとする。
 とたん、自分の行く手にあるものを見つけ、息を呑んだ。
「……え……?」
 まだ暑い夏の日射しを浴びながら、総司は目を見開いた。
 総司の視線の先で、道ばたの樹木の下に佇んだ土方が、一人の女と話していた。綺麗な顔だちで、ほっそりした躯つきの女だ。
 だが、何よりも、総司を驚かせたのは、その女の顔だちだった。


(……姉さん……!)


 総司の姉であるお光によく似ていたのだ。
 姉弟でありながら、総司はお光に全く似ていない。本当に姉弟なのかと思う程だった。
 だが、その女の面差しは、お光によく似ていた。
 花街の者なのか、どこか華やいだ印象があるその女に、土方は静かな笑みをみせていた。何か親しげに言葉をかわしている。
 どこから見ても、似合いの一対だった。自分などより余程似つかわしい。
 ふと視線を感じたのか、土方がこちらの方をふり返った。
「……っ」
 総司は慌てて後ずさり、建物の角に身を潜めた。
 見ていたことを、彼に知られたくなかったのだ。まるで覗き見したような罪悪感と、羞恥心が込みあげた。
 二人の話し声が遠ざかってゆくのを感じながら、のろのろとその場に蹲った。


(私はもう、用済みってこと……?)


 隊の中で、総司の病は秘密にされているようだった。
 だが、いつかは暴かれる日もくるだろう。
 そうなれば、土方は容赦なく総司を切り捨てるに違いなかった。江戸へすぐ帰れとも云われるかもしれない。
 病持ちになってしまった以上、いつ池田屋の時のように倒れるともしれぬのだ。そんな隊士など、不要に違いない。手にいれる価値もないはずだった。
 むろん、褥を共にする理由もなかった。
 いったい誰が、労咳もちを抱きたいものか。死の病をうつされる事を恐れ、誰もが忌み嫌い、避けるはずだった。
 今や、総司の代わりはいるのだから。
 あの美しい女と親しく言葉を交わしていた土方を見た瞬間、わかったのだ。
 彼にとって、総司はもう獲物でも何でもない。道ばたに転がっている石ころ程度の存在に成り下がったのだ。
 土方は、今度こそ、お光の代わりを手にいれた。自分を裏切った恋人。だが、あんなにも面差しの似た女を選ぶという事は、まだ情を残しているのだろう。
 そして、あの女を手にいれたからには、もう総司はいらない。
「……っ……」
 総司はきつく唇を噛みしめ、抱えた膝上に顔をふせた。
 たまらなく切なかった。
 捨てられたこと、彼に見向きもされないこと。
 だが、それよりも何よりも。


(……あの人にあげられるものが、もう何もない……)


 悲しく切なかった。












「医者へは行っているのか」
 そう訊ねる斉藤に、総司は小さく笑った。
 稽古の後だった。久しぶりに道場に立った総司は、以前と変わらぬ姿だった。
 そのため、誰も総司が労咳だという事に気づいていない。ただの暑気あたりだろうと云われていた。
 だが、斉藤は知っている。
 一度、総司に寄り添って医者へ行った事もあるが、何よりも池田屋で見た総司の顔色、口許の血に、明敏な彼はすぐ気づいたのだ。
 しかし、だからと云って、斉藤が抱く総司への気持ちは変わる事なかった。否、より深くこまやかな情愛にみちたものになっている。
 斉藤にとって、総司はいつまでも美しく清らかな存在であり、そこに病という影がくわわった事で、胸をしめつけるような愛しさに息とまる思いさえしたのだ。
 儚げに目を伏せる総司は、今や、何にも代え難く守るべき存在だった。
 もっとも、そんな事を口にすれば、この凜とした芯の強い若者は怒りに頬を紅潮させるだろうが。
「薬をきちんと呑まないと、いけないぞ」
「……この病に効く薬なんて、ありませんよ」
 総司はくすっと笑い、手拭いで汗をぬぐった。襟もとから覗く白い肌が眩しくて、斉藤は目をそらせてしまう。
「なるべく躯は動かさず、安静にして……そればかりです。この隊にいたのでは、どうしようもない事ですけど」
「なら……」
 江戸へ帰って養生すればいい──。
 そんな言葉が喉元まで出かかったが、結局、呑み込んだ。


 この総司が江戸へ帰るはずなどないのだ。
 どんな事があっても、新撰組から抜けようとは思わないだろう。
 あの男がいる限り、とどまり続けるのだ。
 その身が病に冒され、どんな苦しみや痛みに苛まれる事になっても、彼の傍にいられる代償ならばと、その苦痛さえも乗り越えてしまうに違いない。


 そんな事を考えた斉藤を、ふと気づいたように、総司がふり返った。綺麗に澄んだ瞳が彼をまっすぐ見つめる。
 しばらく見つめてから、やがて、くすりと笑った。
「……斉藤さんは、本当に優しいから」
「オレは」
「そんな気を使わなくても大丈夫ですよ。江戸へ帰って養生した方がいい……その事は、近藤先生にも云われていることです。でも、まだ……」
 総司は僅かに小首をかしげた。そっと片手を胸に押しあてる。
「この想いの行方がわからないうちは、どこにも行けない」
「想い……片恋という事か」
 そう訊ねた斉藤に、総司は目を伏せ、ゆっくりと首をふった。その細い肩さきで、やわらかく髪がゆれる。
「自分自身の想いさえ、その行方がわからないのです。どうしたいのか、何を望んでいるのか、わからなくて……こうして立ち止まっている」
「時には立ち止まる事も必要さ」
 斉藤は柔らかな口調で、総司を慰めた。
「オレからすれば、おまえはずっと走り続けてきたように見える。たまには一息つくのもいいんじゃないのか」
「そう…かな」
 総司は小さく笑い、視線を空へむけた。
 薄い青空に、秋の細い雲が柔らかくたなびいてゆく。それは美しくもあり、どこか哀愁をおびた光景だった。
「もう、秋…ですね」
 小さく呟いた総司の綺麗な横顔を見つめながら、斉藤は今以上にその存在を守ってゆきたいと、心から願った。













 その数日後の事だった。
 一番隊を引き連れ巡察に出ていた総司は、路上で倒れた。
 血を吐かなかった事は幸いだったが、最近の無理が祟ったのだろう。青ざめた顔はぞっとするほど美しく、儚げだった。
 黒谷からの帰りだった土方と永倉が、その場を通りかかったのは、そのすぐ後だった。
「───沖田先生ッ!?」
 悲鳴のような声を聞いて土方がふり返った時には、もうその華奢な躯は路上に倒れ伏していた。
 一瞬、斬られたのか!? と背筋を悪寒が走ったが、周囲には一番隊隊士の姿しかない。
 気がつけば、躯が勝手に動き走り寄っていた。総司の躯を抱きおこす。
 袴が汚れるのも構わず地面に膝をつき、細い躯を抱きおこした土方の姿に、永倉はむろんのこと一番隊隊士たちも目を瞠った。
 だが、周囲の事などまったく意識の外だった。
「総司っ!?」
 抱きおこした躯に、素早く視線を走らせた。どこにも傷はなく、むろん血の痕もない。
 その事に、思わず安堵の息をもらした。
「気ぃ失っているみたいだね」
 永倉が心配そうに傍らから云った。
 それに頷き、土方は総司の躯をそっと抱きあげた。ふわりと袂がゆれ、艶やかな髪が男の腕にひろがる。


 腕の中で気を喪っているその顔は、とても一番隊隊長には見えなかった。
 病のためか青白い頬といい、紅をさしたような唇といい、どこか刹那的な艶を漂わせていた。
 なめらかな妖艶さを纏った、幼くも美しい少女のようだ。
 皮肉にも、病は、総司をより美しく羽化させていた。
 少しでも目を離したら最期、手の届かぬどこか遠い処へ羽ばたいていってしまいそうだ。


「近くで少し休ませてから、帰る」
 そう云った土方に、永倉は「あぁ」と頷いた。
「一番隊の方は、おれが連れて帰っておくよ」
「頼む」
 頷いた土方に、永倉は僅かな躊躇いの痕、言葉をつづけた。
「ここの処さ、かなり無理しているようだったぜ。池田屋で倒れた事も気にしているみたいだったし」
「……」
「しばらく休ませた方がいいいと思うよ」
「……そうだな」
 土方は低い声で答え、総司の顔に視線を戻した。
 抱き上げた瞬間の軽さも、驚く程だった。あの池田屋での時もそう思ったが、今はより軽くなってしまった気がする。
 それとも、それはこの青白い頬のせいか。
 長い睫毛が翳りをおとし、その綺麗な顔はうっすらと青ざめて見えた。まるで淡雪のように儚く美しいこの若者は、己の腕の中からとけ消えてしまいそうだ。
「……」
 そんな事を考えながら見下ろす土方の傍らから、永倉が云った。
「……あんたがいて良かったな」
 その言葉に、永倉が、二人の関係を薄々察している事を感じた。
 ただ、彼が思っているものとは少し異なる。愛憎が絡みあい歪みきった関係なのだと、その事を自嘲気味に考えながら、土方は黙然と頷いた。


(……総司……)


 土方は腕に抱いた総司をそっと抱きなおすと、静かに踵を返した。ゆっくりと歩き出してゆく。
 若者を抱いた男の肩に、はらはらと紅葉の葉が舞い落ちてきた……。