月夜に闇があるように












「……あ」
 小さく、声をあげた。
 目の前で笑みをうかべていた男が「え?」と小首をかしげる。
 不思議そうにこちらを見つめてくる黒い瞳に、どぎまぎして、宗次郎はちょっと目を伏せた。
 ……泣きほくろ。
 なんて、あるんだ。
 色っぽいの。
 切れの長い目に、男にしては長い睫毛。
 その右目の下にある、小さなほくろを見つけて、どきどきした。


 こんな大人の男の人でも、泣いたりするのかな。
 それとも、あれは嘘なのかな。
 泣きほくろがある人は、よく泣くって話。


 そんな事を思いながら、宗次郎は男を見上げた。自分より九つ年上の、今敬愛する師匠近藤の親友だと紹介されたばかりの男を。
 真夏の暑い日だった。
 ぎらぎらと太陽が照りつけ、晴れわたった青空には入道雲がわき出ている。蝉の鳴き声がより暑さを煽り、今、総司が見上げている男もその暑さのために水浴びしてきたばかりなのだ。
 まだ僅かに濡れている艶やかな黒髪。それを片手で煩わしげにかきあげた仕草に、たまらなく男の色香を感じた。
「歳三……さん」
 躊躇いがちに、宗次郎はそう男の名を呼んだ。それから、ちょっと微笑んでみせる。
「そう呼んでも、いいですよね?」
「あぁ、もちろん」
 歳三はきれいな顔で微笑んでみせた。まるで夏の空のように溌剌とした、朗らかな笑顔だ。
 いかにも皆に愛されてきた人、という気がした。いくら武家の出と云っても、幼くして道場に出された宗次郎からすれば、こんなにも明るく優しい笑顔をうかべる人がいるのかと、ちょっと驚きだった。
 この人にはきっと、闇など存在しないのだろう。


(……私とは違って)


 思わず視線をそらしてしまった宗次郎の頭に、ぽんっと男の大きな掌がおかれた。びっくりして見上げると、優しく頭を撫でられる。
「宗次郎……俺も、そう呼んでいいだろう?」
「え……あ、はい」
 慌てて頷いた宗次郎を、歳三は深く澄んだ黒い瞳で見つめた。それから、ぽんぽんっと軽く叩いてから、手をはなす。
「じゃあ、これからよろしくな」
 そう云って微笑いかけた歳三に、宗次郎は「はい」と返事した。それに頷いた歳三は、ゆっくりと踵を返す。近藤がいる道場の方へ歩み去ってゆくそのすらりとした長身を見送り、宗次郎はちょっとため息をついた。
 何だか妙に緊張していた自分に、戸惑いを覚えた。だが、すぐに、ふるりと首をふると、箒の柄を握りなおし掃除のつづきを始めた。
「……」
 歩み去ったはずの歳三がふり返り、まるで別人のような鋭い視線をあてていた事に気づかぬまま。
















 ざぁーっという雨音に目を覚ました。
 宵口から降り出した雨はやむどころか、強さをましている。
 京の町をしめやかに濡らしてゆく雨。
 総司は薄く目を開いたまま、しばらくの間、その雨音をぼんやりと聞いていた。だが、はっと気づくと周囲を見回した。
「!」
 慌てて起き上がろうとしたが、それを横合いからのびてきた腕が抱きとめ、引き戻した。
 それに総司が抗う。
「……だ、め……っ」
「いいから」
「だって、遅れ……」
「大丈夫だ。まだ、夜明け前だよ」
 押え込まれ耳もとに低く囁かれて、抵抗がやんだ。
 見上げれば、薄闇の中で男が優しく笑っている。
「土方…さん……」
「相変わらずそそっかしいな。まだ夜明け前だし、今日は非番だったはずだろう?」
「そう……でした。でも」
 総司は土方の逞しい胸もとに寄りそうと、甘えるように、その白い寝着から覗いた褐色の肌を指さきでたどった。
「副長が遅刻するのはまずいのではありませんか……?」
「さぁ、どうだろう。俺なんかがいてもいなくても、同じだと思うが。山南さんがうまくやってくれるよ」
「土方さん、相変わらずですね」
 くすくす笑う総司に、土方はかるく肩をすくめると、その唇に甘い口づけを落とした。









 試衛館一派が京にのぼり、新撰組という隊を発足させてから数ヶ月がたっていた。
 浪士組を抜けて芹沢一派を一緒に新撰組を発足させ、屯所をさだめ、会津藩お預かりとなって───様々な事があまりにも短期間に次々とおこり、それは土方と総司も否応なく巻き込んでいった。
 組織づくりのため、近藤は局長の一人となり、土方も副長、総司も副長助勤という役職についた。
 だが、今一つ実感がない。





「副長助勤って、具体的に何をするのですか?」
 総司は土方の手をもてあそび、指さきに時折歯をたてたりしながら、訊ねた。それに、「痛いだろ」と云いつつも、好きなようにさせている土方が答える。
「まぁ、書いて字のごとく。副長を助け勤めるって奴じゃないか」
「助け勤める、ですか」
 総司は呟いてから、ちょっと潤んだような瞳で彼を見上げた。
「確かに、そうですね。女遊びも出来ない副長のために、私……助けてあげていますよね」
「ほう。すると、これも仕事の一環という訳か?」
「そんなの……知りません」
 ちょっと拗ねたように答えた総司に、土方はくすっと笑った。
 あの初めて逢った夏の日、見せてくれたのと同じ優しい笑顔だ。
 褥の上に肩肘をつき、総司の髪を柔らかく指さきで撫でた。さらさらした髪を指さきで梳いてやりながら、話しかける。
「おまえとこういう夜を過ごすの……何度めかな」
「数えた事ないから」
「そうだな。数えきれないぐらい、夜を重ねてきたんだな」
「じゃあ、初めてのこと覚えています?」
「あたり前だろ」
 土方はちょっと呆れたように、総司を見下ろした。
「おまえが俺の恋人になってくれた夜だ。そう簡単に忘れるはずねぇだろうが」
「夢みたいな夜でしたね。京にのぼってきたばかりで、二人っきりでお月さま見て……」
「あの時の月、覚えているか?」
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」
 不意にそう詠ってから、総司は小さく笑った。
「きれいな朧月夜でしたものね。夜はあまり好きではないけれど、月が出ている夜は好きです」
「夜が好きではない?」
 土方は不思議そうに訊ねた。それに、総司が僅かに長い睫毛を伏せた。
「えぇ、あまり好きではありません。夜は……闇だから」
「当然のことだろう。月があればまた別だが、夜は闇だ」
 そう笑ってから、土方は不意に悪戯っぽい光を目にうかべた。
「夜は嫌いか? 俺とこうして二人きりで逢えても?」
 囁きざま抱きすくめた土方に、総司はゆるく首をふった。
「それは……違いますけれど」
「何だか、意味深な答え方だな」
 苦笑しながら、土方は総司の躯から手を離した。怒ったのかと見上げてみたが、別に表情はかわっていない。
 そのまま身を起し、褥の上で胡座をかくと、己の乱れた黒髪を片手でかきあげた。その仕草も何もかも、江戸で遊びまわっていた歳三そのままだった。
「もう起きるのですか」
「あぁ、何だか完全に目が覚めちまった」
「ごめんなさい。私のせいですね」
「違うよ」
 そう答えてから、土方は手をのばし窓を細く開けた。雨音が静かに部屋の中へ忍び込んでくる。
 闇に降りしきる雨を、土方はぼんやりと眺めた。端正な顔には何の表情もなく、彼が本当にくつろいでいるのがわかる。
 それを、総司は黙ったまま見つめた。


 幾度めかの閨だった。
 もう何度もこうして夜を重ねた。
 愛してると囁かれ、総司も愛してると応えた。
 彼は総司の事を恋人として大切にし、愛しんでくれている。
 だが、違った。
 総司は、土方のことを愛していなかった。それどころか。


(私は、この人を憎んでいる……)


 総司はふと息ひそめるような思いで、心に呟いた。
 こんなにも憎んでいる男に、身をまかせる屈辱。だが、相手の懐へ入り込むには、これが好都合だった。
 土方は明るく優しいため、誰にでも好かれていた。だが、そのくせ、意外にも警戒心の強い男だったため、本当の意味で心を許すところがなかったのだ。そんな彼につけいるにはどうすればいいか、迷っていた総司に手を出してきたのは、土方の方だった。
 優しい声で「愛してる」と囁きかけ、抱きしめてきたのだ。
 好機だと、思った。
 彼の懐へ入り込み、完全に信用させるには、躯の関係を結ぶのが一番手っ取り早かった。その証拠に、土方は今、恋人だと思っている総司の傍で、ゆったりとくつろいでいる。何の警戒心も持っていない。
 すべて思い通りに運んでいるのだ。
「……」
 端正な横顔を見つめたまま、総司はそっと目を細めた……。







 総司が土方を憎むには、理由があった。
 話は二人の出逢いよりも前に遡るのだ。
 総司の姉であるお光は、一時期、熱烈な恋に落ちていた。総司は相手の事を知らなかったが、どうやら相惚れのようで、幸せそうな姉の様子を微笑ましく思っていた。
 だが、突然、お光の様子が変わった。
 日々、宙を見つめてぼんやりしている事が多くなり、まともに返事さえせぬようになってしまった。何を訊ねても、暗い表情で男の名らしきものを呟き、はらはらと涙をこぼすばかりだった。
 母などは放っておいておやりと云っていたが、総司は──その頃、まだ幼い少年だった宗次郎は心配でならなかった。
 そして、ある日、破局が訪れた。
 お光は刃を持ち出して、それで己の喉を突いて自害を計ろうとしたのだ。幸いにして、それは人目につき妨げられたが、お光の憔悴と嘆きの様は凄まじかった。まるで狂ったようだったのだ。
 しばらくたった後、お光は林太郎のもとへ嫁いだ。それが、お光の恋した相手でない事は明らかだった。しかも、お光はやはりまだあの男の事が忘れられないらしく、そのためか夫婦仲もあまりうまくはいってないようだった。
 宗次郎は、こんなにも想っているお光を捨てた男を心から憎んだが、それが誰であるかなど全くわからなかった。お光も口が固く、何度宗次郎に訊ねられても一切答えなかったのだ。
 だが、ある日突然、真実が明かされた。
 道場から家に戻った宗次郎が、何気なく、最近知り合ったばかりの歳三の名を出したとたん、お光の顔色が変わったのだ。それは、もう間違いようのない程の動揺ぶりだった。
 頬が青ざめ、その瞳が一気に色を失った。きつく爪が食いこむほど握りしめられた細い手に、宗次郎は目を見開いた。


(姉上をあんな酷い目に合わせたのは、あの男だったの……!?)


 一気に激しい憎しみがこみあげた。
 どれほど姉が苦しんできたか。男に捨てられ、どれほど惨めな有様で、地獄のような日々を送ってきたか。そのすべてを見ていた宗次郎にすれば、歳三は到底許し難い仇だった。
 憎んでも憎みきれない男だった。
 お光は歳三に捨てられてから、人が変わったようだった。いつも笑顔をたやさず明るかったのが、伏し目がちに憂い顔ばかりを見せるようになった。
 口数もぐんと少なくなり、人の影にさえどこか怯えたような表情を見せた。
 だい好きな姉だった。病がちな母よりも、宗次郎はお光によく懐いていた。宗次郎を心から慈しみ、愛してくれた優しい姉だったのだ。
 なのに───


 歳三は恐らくお光の事など覚えてもいないだろう。
 気まぐれに相手にし、遊び、捨て去った女のことなど覚えているはずもない。
 くるくると女をかえて遊ぶ男の姿に、宗次郎はより確信した。
 明るく優しいが、歳三は女に関してはかなり奔放で移り気だった。次々と女をおとしては、また別の女にうつってゆくのだ。
 それは、幼い宗次郎の目に、ひどく自堕落に見えた。あぁやって遊んで捨てた女の一人がお光だったのだと思うと、到底許せなかった。
 だが、どうすればいいのかもわからなかった。復讐してやりたいと思ったが、何をどうすればいいのかわからなかったのだ。
 そして、今。
 宗次郎は──否、総司は、彼の恋人となっている。


(こんな術があるなんて、思いもしなかった……)


 総司は土方の腕に抱かれながら、ひっそりと笑った。
 いったいどこがいいのかわからないが、土方は総司に夢中のようだった。あれだけ激しかった女遊びもぴたりとやめ、総司だけを大切にし、愛してくれる。
 それに気づいた時、総司は哄笑してやりたいぐらいだった。


 私を愛させて、私に溺れさせて。
 ぬきさしならぬ状態まで追い込んで。
 その後、切り捨ててやる。
 さんざん愛した挙げ句、捨て去られる悲しみと惨めさ。
 姉上が味わった地獄を、思い知ればいい……!












「……総司?」
 気がつくと、土方がこちらをふり返っていた。
 しらじらと明けはじめた部屋の中、切れの長い目がどこか探るように見つめてくる。
 それに、総司はゆっくりと目を瞬いた。小首をかしげ、にこりと可愛らしく笑ってみせる。
「何ですか」
「いや……何でもない」
 土方は褥に戻ってくると、総司の躯をそっと抱きおこした。優しい手つきで膝上に抱きあげ、髪に額に首筋に口づけをおとしてくる。
「愛してるよ」
「えぇ、私も」
「本当に……?」
 そう訊ね、土方は総司の顔を覗き込んだ。せつなげな憂いを帯びた黒い瞳に見つめられ、総司はどきりとした。慌てて顔をふせようとするが、大きな掌で頬を包みこまれ、啄むような接吻をあたえられる。
「本当に……決まってるじゃないですか」
「俺のこと、好きか? 愛してるか?」
「もちろんです。誰よりも愛してます」
 そう答えた総司に、土方は安堵したらしく笑顔になった。とてもきれいな、優しい笑顔。
 それをぼんやり見上げていると、また唇を重ねられた。深く重ねられ、甘やかにすべてを求められる。
 ゆっくりと褥に押し倒されながら、総司は小さくむずかるように首をふった。だが、男の手はもう裾を割り、中へ忍び込んでしまっている。しなやかな指さきで白い腿の内側を撫であげられ、総司は「あっ」と声をあげた。
 少しずつ少しずつ、躯がとろかされてゆく。
 それをどこか遠い処で感じながら、総司は甘く喘いだ。ふわりと抱きすくめられ、耳もとに唇を寄せられる。
「……愛してるよ」
 男が囁いた。
「二度と離さない……」
 こくりと頷き、総司は土方の背に両手をまわした。縋るように抱きつき、目を閉じる。
 それを抱きしめ、土方は腕の中の若者を見下ろした。
「……」
 夜明けに近い、部屋の中。
 恋人を見つめる男の瞳は、ぬば玉の夜の闇のようだった……。