「土方さんのことなんて、全部信じられない」
そう言った総司は、奇妙なぐらい明るい笑顔を斎藤にむけた。
大きな瞳が熱をおびたように、きらきらと光っている。まるで油断なく毛を逆立てている仔猫のようだった。
「だってね」
さらりと、片手で髪をかきあげた。
「また、裏切られそうじゃないですか」
「総司……」
「あんなに信じていたのに、好きだったのに、あの人は私を拒絶し裏切ってみせた。むろん、あれに理由があった事はわかっています。でもね、一度裏切られたのに、そんな簡単に信じられると思う方がどうかしている。私は、土方さんのことを全く信じることが出来ないのです」
「……」
斎藤は息を呑む思いだった。
傷は、こんなにも深いのだ。
土方からの弁明を聞いても尚、じくじくと痛み、血を流しつづけている。
総司にとって、土方はこの世でただ一人愛する男だった。それも初恋の激しさと一途さで慕い、愛していたのだ。尊敬し、信頼もしていた。
だからこそ、傷はより深くなったのだろう。
土方という男がまったくわからなくなったに違いない。彼の何を信じていいのか、どれを見ていいのか、何を思えばいいのか、総司は完全に見失ってしまったのだ。
それが最大の問題なのかもしれないと、斎藤は思った。
総司が彼を拒絶したのは、もともと土方を守るためだった。病持ちの自分が彼の傍にあることで、彼を損なうことを恐れたのだ。
だが、理由はそれだけではない。総司は、土方の言葉が信じられないのだ。京に総司が上ってきた時、拒絶した理由も、そして、土方が告げた想いの深ささえも。
愛されていることが、信じられない。
それが最もたる理由なのだ。
「土方さんは……」
斎藤は掠れた声で言った。
「あの人は、総司を愛しているよ」
恋敵の味方をする自分に呆れつつ、言葉をつづけた。
「それこそ、狂ったように愛している。溺れこんでいる。それは確かな事だ」
「どうして確かなことだなんて言えるの?」
総司は小首をかしげ、訊ねた。
「土方さんが私のことをどんなふうに思っているかなんて、目に見える訳じゃないし、わかるはずもない。それに、人の気持ちなんてすぐに変わるものでしょう。土方さんは確かに、江戸にいた頃の私を可愛がってくれました。でも、京にのぼってきた時、言ったのです。子供だと、足手まといだと。そんなふうに簡単に変わってしまうんですよ」
「けど、あれは」
「わかっています。あれは私を江戸へ帰すための偽りだった。でもね、あれは今更嘘だった、でも、今度は本当だ、愛しているなんて言われても、はい、そうですかと信じられると思いますか? どれが本当なのか、嘘なのか、そんなの私にわかるはずがないのに……なら、何もかも信じたくなくなるのは、当然のことでしょう」
「総司……」
「なんて意地っ張りなんだと、呆れています?」
総司はくすっと笑った。
「私って、本当はこんなにも狡くて身勝手で、依怙地なんですよ。病もちの私が土方さんの傍にいたら、あの人のためにならない。それは一番の理由です。でも……私があの人を拒絶するのは、何よりも信じられないから。あの人の言葉も行動も信じられなくて、ずっと疑ってしまうのです。そんなの」
切なげに目を伏せた。
「そんなの、あの人にとっても私にとっても、全然幸せなんかじゃない。愛してるってことさえ信じられない関係なんて、恋人だと言えないでしょう? だから、私はあの人を拒絶しつづけるのです」
その言葉に、斎藤はもう何も言うことが出来なかった。黙ったまま、俯いている総司の綺麗な横顔を見つめている。
木陰で休む二人の髪を、晩夏の風が柔らかく撫でていった……。
季節がうつり秋となっても、状況は全く変わらなかった。
江戸へ降っていた近藤が新入りの隊士たちを連れて帰営したが、それがまた隊内に波紋を投げかけた。
伊東甲子太郎という人物が一派を率いて入隊し、いきなり参謀という大幹部についたため、一勢力としての力をもってしまったのだ。それを当然のことながら、土方は不愉快に思っているようだった。
総司は、ますます土方の傍に寄れなくなる自分を感じていた。
伊東との対立で、土方の立場はより危険なものになってしまった。ここで病もちの同性、しかも隊士という自分を念者とすれば、どうなるか。それを思うと、総司はぞっと身震いする思いだった。
自分のせいで彼が貶められる、指弾される。
絶対に、あってはならないことなのだ。
そんなある日のことだった。
秋晴れの美しい日、総司は近藤に呼び出された。局長室にではない、一軒の料亭に呼ばれたのだ。
(何のお話だろう……)
京に来てから隊務に明け暮れていた総司には、料亭など行ったこともない場所だった。そのため、入る時も躊躇ってしまう。
美しく整えられ、敷居の高そうな料亭だったが、案内してくれた女将は愛想もよく親切だった。言葉からして江戸の者のようで、それゆえ、近藤はここを選んだのかと思った。
「おう、総司。来たか」
総司が部屋に入ると、近藤は鷹揚に笑いかけてくれた。
きちんと端座して挨拶した総司に、かるく手をふる。
「ここでは隊のことは無しだ。昔ながらの師弟関係として話したいと思ってな」
「近藤先生……」
「そう、それでいい。食事はまだだろう? ここの料理はなかなか美味いぞ」
確かに、近藤の言葉どおりだった。
美しく盛られた料理は見た目も綺麗だったが、味もかなりのものだった。病のために食欲が落ちている総司でも、美味しく食べられる。
総司は食事の最中、ぐるりと周囲を見回した。
「こんな綺麗なところがあるのですね。私、初めてです」
「おれも二度目だ。一度目は接待でそれどころではなかったが、いい店だろう」
「はい」
部屋も小奇麗に整えられ、だが、どこか優しい感じがした。離れの部屋であるため、庭が広がり、とても瑞々しく美しい。
食事を終えると、近藤は口火を切った。
「総司」
「はい」
「今日、ここへ呼んだのは他でもない。歳、の事なのだ」
「……」
総司は黙ったまま、目をあげた。表情が固くなっている。
それを眺めながら言葉をつづけた。
「京へのぼってきたばかりのおまえに、歳が辛くあたっただろう。その事について話すべきだと思ってな」
「あれは……もういいのです」
総司は目を伏せた。
「土方さんから理由を聞きましたし。私を江戸へ帰すためだったと、私のためだったと」
「それで、おまえは納得することが出来たのか」
近藤の言葉に、総司は肩を震わせた。俯くと、子供のように首を横にふってしまう。
それに、近藤が苦笑した。
「だろうな。あいつは結構不器用だ……いや、本気の相手に関しては、か。総司、おまえにとって歳は兄代わりだったかもしれんが、あいつは……ずっとおまえを男として見ていたのだよ」
「……」
「こんな事を言えば、おまえは嫌悪するかもしれん。が、おれはあえて言う。男として見ることが穢らわしいことだとは思わんからな。人を想う気持ちは己でも止められんものだ。ましてや、歳はあの気性だ。おれが危うく思うぐらい、おまえに夢中だった……」
「でも」
総司は首をふった。思わず言ってしまう。
「あの人はいつも苛立っていました。江戸の頃から、私といる時、何かに苛立っていた。それはきっと、私が子供だったから、あの人の期待に応えられなかったからなのです」
「そうではない。おまえは男の気持ちがわからんのだな」
近藤は目を細めた。
「おまえは本質的に、どこか優しい娘のような処がある。男の衝動や苛立ちが理解できんのだろう。歳はいつも嫉妬していたのだよ。おまえが他の誰かと、このおれと話すことさえ、不愉快に思っていた。おまえを独占したくてたまらなかった。だから、おまえが他の男の話をするたび、苛立っていたのだ」
「え……」
信じられない話に、総司は目を見開いた。
だが、考えてみれば、思い当たることだった。
土方が苛立つ時、それは大抵の場合、総司が斎藤や原田などと出かけたことなど、話している時だった。
ふと表情を翳らせたかと思うと、微かに顔を背けていた。
僅かに伏せられた瞳、固く引き結ばれた唇に、自分の未熟さに苛立っているのかと思っていたが、あれは……
「歳は本当に不器用な男なのだよ。京に来てから己を変えていったが、根本的な処では何も変わっておらん。相変わらず身勝手だし、傲慢だ」
「そ、そんな事はありません!」
総司は思わず抗弁した。
「あの人は優しい人です。身勝手なんて、傲慢なんて。昔から、土方さんは優しくて、いつも私を……」
本当に、愛してくれた。
まるで花びらの中にうもれるように、愛してくれたのだ。
だからこそ、悲しかった。怖かった。
彼に拒絶された時、世界が真っ暗な闇につつまれてしまったのだ。
「歳はおまえを愛しているよ。心から大切に思っている」
近藤は静かな声で言った。
「だから、おまえを江戸へ帰そうとしたんだ。だが、あの時も、かなり悩んでいた。おまえに嫌われ恨まれるのは当然だが、江戸へ帰ろうとしないおまえに、どうすればいいのかわからんと言っていた」
「近藤先生……」
総司は微かに小首をかしげた。
「もしかして、これは……土方さんに頼まれたのですか。私を説得するように」
「いや、違う」
近藤はきっぱりと首をふった。
「一度、おれも言ったことがあるのだ。おまえに説明しようかと。だが、歳は、自分がまいた種だと断った。あれはそういう男だ」
「はい……」
総司は俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。
そのとおりだった。
彼はとても真摯で、潔かった。誰よりも強く、そして、常に真っ直ぐだ。
それは、冷徹な副長として振舞っている今でも変わらなかった。
彼の本質はまったく変わらないのだ。
そんな事をぼんやり考えていると、不意に襖の向こうに人の気配がした。
「お連れさまがお越しになりました」
仲居の声と共に、襖が開かれる。
すぐさま、一人の男が大股に部屋の中へ入ってきた。
引き締まった長身に黒い着物を着流し、斜めに刀を差しているさまが粋だ。
「近藤さん、いきなりこんな所に呼びだすなんざ……」
言いながら入ってきた男は、総司の姿を見たとたん、ぴたりと足を止めた。呆気にとられた顔で見てから、不意に眉を顰める。
疎まれている気がして、総司は思わず俯いてしまった。そんな総司の頭上で、二人が言葉をかわす。
「何で、ここに総司がいるんだ」
「おれが呼んだ」
「まさか、あんた、話したのか」
「ある程度はな」
「何でだよ。俺は放っておいてくれと言ったはずだ。余計なお世話だろう」
土方は忌々しげに舌打ちすると、乱暴に刀を外し、腰を降ろした。胡座をかき、膝上に頬杖をつく。
「あんた、いつからそんなお節介野郎になったんだ」
「今朝からではないか」
「近藤さん」
「そんなに怒るな。このままでは色々と隊務にも支障が出ると思った。だから、おれが動いたのだ。……もっとも」
近藤は立ち上がりながら、言った。
「ここからは、おまえの番だ。おまえ自身の言葉で、総司との関係を改善しろ」
「近藤さん」
「逃げは許さんぞ」
そう言うと、近藤はさっさと部屋を出ていった。足音が遠ざかっていく。
それをぼんやり聞いていた総司は、こちらへ向けられる土方の視線の鋭さに、はっと我に返った。思わず身を竦めてしまう。
重い沈黙が落ちた。それが息苦しくてたまらない。
こんな事なら帰った方がよかったのかとさえ思った。今、彼と何を話せばいいのか、まったくわからないのだ。
「……」
長い沈黙の後、土方がため息をついた。それにも、びくりと肩を震わせてしまう。
「そんな……怯えるなよ」
ほろ苦い男の声音に、おずおずと顔をあげた。すると、土方は切れの長い目でこちらを眺めやっていた。唇の片端を微かにあげる。
「言っただろう? おまえのことは弟としてしか思わないと。二人きりになったからって、無体な事なんざしたりしねぇよ」
「そ、そんな」
慌てて首をふった。
「私、そんなふうに思っていません。土方さんが私に無体な事をするなんて……」
「なら、何で怯えているんだ」
「怯えて……いません」
「へぇ」
土方が形のよい唇をゆがめた。いきなり片膝をたてたかと思うと、総司の手首を掴みとってくる。
強靭な男の力と、感じた男の大きな手のひらに、総司は目を見開いた。かぁっと頬が熱くなる。
「は、離して」
「ほら、見ろ。怯えているだろうが」
「そうじゃなくて……だって、土方さん、……痛い」
総司が言ったとたん、だった。はっとしたように土方が息を呑んだ。すぐさま手を離してくる。
目を伏せ、唇を噛みしめた。
「……すまねぇ」
「土方さん」
「俺自身がおまえに酷い事をするから、怯えられるんだな。自業自得だよな」
「……」
「ここにいても、おまえに嫌な思いをさせるだけだ。失礼させてもらうよ」
そう言って、土方は立ち上がろうとした。それに、総司は息を呑んだ。
「違う、違うのです……!」
必死になって言いつのった。無意識のうちに彼の袂を掴み、皺になるまで握りしめてしまう。
「私……土方さんと逢うの、久しぶりだったから。二人だけで話すの、久しぶりで、何を言ったらいいのかわからなかったから」
「……」
「だから、帰らないで下さい。私、土方さんと……話がしたいのです」
「総司……」
土方の目が見開かれた。信じられぬことを聞いたという表情で、総司を見下ろしている
やがて、吐息をもらすと、ゆっくりと腰を降ろした。座り直し、自分の袂を掴んでいる総司の手に手を重ねてくる。
引き離されるのかと思ったが、優しく包みこまれた。
「わかったよ。ありがとう……」
「え」
「俺と話がしたいと言ってくれたことだ。嬉しいよ」
「土方さん……」
そんな些細な事で嬉しいと言ってくれる土方は、以前と同じ彼だった。江戸の頃と同じように、とても優しい。
総司は安堵する思いで、こくりと頷いた。
土方は柔らかく総司の手を握りながら、訊ねてくれた。
「食事は済んでいるのか」
「えぇ。先ほど、近藤先生と一緒に。その……土方さんは?」
「あぁ、俺は先に済ませてきた。ちゃんと、おまえ、食ったか? また痩せた気がするぞ」
「正直な話、最近、あまり食欲がないのです」
「それは……」
僅かに眉を顰めた。
「もしかして、俺のせいか。俺が余計な事を言ったから、おまえに負担をかけているのか」
「ち、違います」
慌てて首をふった。
むろん、わかっている。確かに彼の言葉どおり、一端は彼にもあるのだ。精神的に辛くて食欲が落ちてしまっていることは、大きい。
だが、当然ながら理由はそれだけではなかった。やはり、労咳が総司から体力も意欲も失わせている。
「病の……せいだと思います」
そう言ってから、はっと気がついた。慌てて顔をあげ、言い募る。
「で、でも、大丈夫ですから! しっかりと食べて体力をつけます。副長に迷惑はかけません、だから」
「総司」
土方は一生懸命に言いつづける総司の言葉を遮った。辛そうな表情で見下ろす。
「そんな必死に言わなくても、わかっているよ。言っただろう? 俺はおまえの意思を尊重すると、大事にすると。だから、無理をするな」
「土方さん……」
「辛い時は休めばいいし、調子がいい時には動けばいい。おまえが好きなようにすればいい。俺はもう二度と、おまえに江戸へ帰れなどと言わねぇよ」
「でも、療養は……した方がいいと思っているのでしょう?」
「それは」
一瞬、口許を引き締めた。だが、すぐに言葉をつづけた。
「確かに療養については、望んでいる。けど、腹を切るまで言われたら、無理強いできねぇだろう」
「すみません……」
「俺に謝るよりも、身体を労れ。その方が俺は嬉しいよ」
そう言って笑いかけてくれる土方に、泣きそうになった。彼の優しさに心が揺れた。
思わず、彼の手を縋るように握りしめてしまう。そのまま抱きしめて欲しいとさえ、願った。
自然と彼に吸い寄せられていくような、感覚だった。自分のすべてが彼を求めてしまうのだ。そのぬくもりを、彼の鼓動を、感じたいと願う。
だが、身を寄せかけた瞬間だった。すっと、土方が身体を引いた。総司を避けるような仕草をしたのだ。
「……」
男の拒絶を感じ取った総司は、目を見開いた。
どんどん展開していきます。