小さな声がもれた。
「どうして……」
「……」
「どうして、そんな事を言うの? あんなに私の意思なんて無視してきたのに、酷くしてきたのに」
 それに、土方は視線をおとした。
「今度こそ……俺は間違えたくないんだ」
「今度こそって……」
「おまえが江戸から来た時のことだ」
 土方は胡座をかいた膝上に置いた手を握りしめた。
「俺は、おまえを守りたかった……」
 ふり絞るような、声だった。苦悩にみちた男の声だ。
 総司は、信じられぬ思いで彼を見つめた。その前で、土方は言葉をつづけた。
「おまえは素直で、幼くて……そんなおまえを守りたくて、俺は江戸へ帰そうとした」
「……」
「こんな京にいれば、必ずおまえは傷つくし酷いめにあう。それを止めたかったんだ、俺が……おまえに恨まれても」
「……そんな」
 総司は息を呑んだ。のろのろと両手で口許をおおう。
「じゃあ、あれはわざとだったのですか? 私を嫌ったのではなく、本当は、私を守るために?」
「今更、だよな」
 ほろ苦い笑みが男の口許にうかべられた。
「今更、こんな事を言っても信じられねぇよな。俺は……おまえを守りたかった。なのに、結局、こんな風になっちまったんだからな。あの時の行動を何度も悔いてきた。傷つき、変わってゆくおまえを見ながら、あんな風に突き放さなければよかったと、後悔した……」
「土方さんが?」
 小さく聞き返した。
「あなたでも後悔することがあるの? 土方さんはいつも毅然としているから、悔いることなんてないと。それに……私があなたに反抗しても、全然傷ついていないように見えたから……」
「すまない、本当に」
 土方は潔く頭を下げた。
「俺が悪かった、間違っていたんだ」
「土方さん……」
「だから、今度こそ間違わねぇ。おまえを守らせてくれ、頼むから」
「それは療養しろということですか。今度こそ、江戸へ帰れと?」
 どこか揶揄するような口調で訊ねる総司に、土方は首をふった。
「いや、そうは言わない。あくまで、おまえの気持ちを大切にしたいんだ。今度こそ、俺は正直になって、おまえと向き合いたい」
「土方さん……」
 総司はまだ信じられない思いだった。


 何しろ、あれ程、酷いめにあわされたのだ。どれほど泣いたことか、どれほど絶望したことか。
 愛する人に裏切られた傷は深かった。これが真実だと告げられても、信じることが出来ないほどに。
 

総司は長い睫毛を伏せた。しばらくじっと黙っていたが、やがて、静かな声で問いかけた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「あぁ」
「あなたは、私のことを……どう思っているのですか? 前のように、本当は、弟のように思ってくれているのですか? 大切に思ってくれている?」
 深く息を吸い込んだ。
「それとも、やっぱり、私のことを子供だと莫迦にしている? あの言葉どおり蔑み、疎んじているのですか?」
「違う」
 土方はすぐさま否定した。手をのばし、総司の小さな手を握りしめた。彼のしなやかな指さきを絡められ、身体が熱くなる。
「俺はそんなふうにおまえのことを思ったことはない。あんな酷い事ばかり言っちまったが、あれはおまえを江戸へ帰すためだった」
「……」
「いや、全部今更だな。だが、これだけはわかってくれ。総司、俺は……おまえを愛しているんだ」
「……っ」
 総司の目が見開かれた。はっと息を呑んで、彼を見上げる。
 こちらを見下ろす男の真摯な表情に、どきりと心の臓が跳ね上がった。少し躊躇いがちに訊ねる。
「愛してるって、それは、弟として……?」
「弟じゃない。俺はおまえに惚れているんだ、男として愛しているんだ」
「……」
 しばらくの間、総司は何も言わぬまま、土方を見つめていた。
 長い沈黙が落ちる。
 やがて、総司はゆっくりと目を伏せた。そのまま、くすっと笑う。「総司?」と訝しげに顔を覗きこむ土方を見上げた。
「嘘ばかりつかないで」
「総司」
「そんな嘘をつかなくても、私、あなたの命令に従いますよ、副長」
 冷ややかな声音だった。
 どこか蔑むような、総司らしくない笑みをうかべながら、男を見つめる。
「それに、そんな事を言って、どうするつもりだったの? あなたは私の兄代わりだったはずでしょう? なのに、男として愛している? じゃあ、何? あなたは今まで、私をそんな目で見てきたんだ」
「!」
 土方の顔が強張った。びくりと手が震える。
 呆然と見ている男の前で、総司はゆっくりと手を引きぬいた。その手で髪をはらいながら、言葉をつづけた。
「愛してる、なんて。そういうの、女の人に言うことでしょう? 私に言うことじゃないはずです」
「……」
「土方さん……いいえ、副長、あなたは私を新選組隊士として扱ってきた。長年時を共にした弟として扱わず、挙句、今度はその思い出までも汚すのですか。あなたは、そこまで酷い事をするの?」
「総司、俺は……」
「あなたは私を大切だと言いましたよね。なら、今すぐ訂正して下さい。私のことは弟としてしか思っていないと。隊士としてでもいい。でも、あなたの口から、私を愛してるなんて言葉、二度と聞きたくありません」
 総司の目がきらりと光った。
 花のように可憐で愛らしい顔に、酷く冷たい表情がうかぶ。
 それに、土方はしばらくの間、何も言わなかった。切れの長い目で総司をじっと見つめている。
 重苦しい沈黙が落ちた。
 やがて、土方は視線を落とした。眉を顰め、きつく奥歯を食いしばった。
 一瞬だけ瞼を閉じた彼は、掠れた声で言った。
「……わかった」
「……」
「おまえの言葉に従おう。俺は……おまえを弟としてしか思っていない」
「……」
「これでいいか」
 そう問いかけた土方に、総司は微かに頷いた。そして、ゆっくりと布団に身を横たえながら、言う。
「話がこれで終わりなら、出ていって頂けますか。もう休みたいのです」
「……」
「ここに残るか否かは、少し考えさせて下さい」
 言うことだけ告げると、総司は彼に背を向けた。黙ったまま、眠りに落ちるように目を閉じる。
 後ろで、土方はその背を見つめているようだった。やがて、低い声が言った。
「わかった……ゆっくりと考えればいい」
「……」
 返事をしない総司に、土方は黙ったまま立ち上がった。静かに部屋を出ていく。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、総司は自分を守るように身体を丸めた。奥歯を食いしばり、それでも足りずに両手で唇をおさえる。 
 こみあげる嗚咽を必死にこらえた。


 今頃、愛されていた事を知るなんて……。


 江戸から京にのぼってきた頃なら、良かった。
 だが、今は、あまりにも様々なしがらみが二人に纏わりついていた。土方だけではない、総司も一番隊組長としての立場があるのだ。その上、労咳におかされた身体だった。愛する男にその身をまかせる事など、出来るはずがない。
 彼の何かを損なうことが恐ろしかった。彼の立場、地位、名誉、その身体すべて、何もかも少しでも損ないたくなかったのだ。たとえ、そのために、彼の心を傷つけることになっても。
 総司は土方をすべてから守りたかった。己自身からも、彼を守りぬきたいと決意していたのだ。


 本当は、このまま彼の腕の中に飛び込んでしまいたかった……。
 ずっとずっと長い間、憧れ恋してきた男に、告白されたのだ。愛していると言われた。
 それだけでも舞い上がってしまうのに、その上、あの時の言葉はすべて、総司自身を守るためのものだったと聞かされれば、心が揺れないはずがなかった。
 だが、だからこそ、総司の中で、強く引き止めるものがあった。


 決して、彼に応えてはいけない──と。


 それは愛しているからこそ、だった。
 心の底から、それこそ命がけで、狂いそうなほど愛している。冷たくあしらわれ、拒絶され、泣いて苦しんで、それでも断ち切ることが出来なかった恋心。この人を愛しいと思う気持ちだけは、決して変わらないのだ。


 死ぬ瞬間まで、私はこの人しか愛せない。


 総司にとって、初めての恋が、最後の恋だった。
 土方は、総司のすべてであり、命そのものだったのだ。だからこそ、応える訳にはいかなかった。
 ただの恋であるのなら、飛び込めばいい。思う存分、愛されればいい。
 だが、相手は彼だった。すべてを背負い、戦いつづける男だ。危険な刃のような日々を送る男に、これ以上の負担をかけたくなかった。
 彼の何かを少しでも損ないたくなかったのだ。
 愛する男のためなら、すべてを捨てる覚悟が出来ていた。
 己の心も想いも幸せも、すべて。


(土方さん、身勝手な私を許して下さい……)


 こんな想いを知れば、土方は怒るだろう。
 矜持を傷つけられ、その程度の男だと思っているのかと、激怒するだろうことはわかっていた。
 だが、それでも、総司は彼の腕の中へ飛び込むことが出来なかったのだ。


(愛してる、土方さん……愛してる)


 決して告げられぬ言葉を胸に抱いて、総司はきつく唇を噛みしめた。布団を口許に押し付け、堪える。
 それでも、白い頬を涙がこぼれ落ちていった……。














 池田屋事件の後、土方は仕事に忙殺されていた。
 副長室の文机には書類が山積みになり、その処理に追われつづけている。
 否、むしろ、土方はそれを望んでさえいた。仕事に追われていれば、他のことを考えずに済むのだ。あの愛しい若者のことを考えなくていい。
 だが、それでも一日中仕事だけをしている訳にはいかない。食事もとれば、眠りもとる。
 土方は敷かれた布団の上に身を横たえながら、きつく唇を噛みしめた。片腕で目元をおおう。
「……ざまぁねぇよな」
 思わず呟いた。


 自分の無様さ、情けなさに、吐き気がしそうだった。
 どれだけ総司を苦しめ、傷つければ気が済むのか。江戸へ帰すという名目のために総司を傷つけ泣かせて、挙句、今度はあんな病を得てしまった総司に、男の想いを押し付けてしまったのだ。
 初な総司が拒絶し、嫌悪するのも当然のことだった。


『あなたは今まで、私をそんな目で見てきたんだ』


 総司の言葉が耳奥に蘇った。
 あの時、総司が見せた蔑みにみちた表情も。
 今度こそ、間違えたくないと思ったのに。今度こそ、総司を守りたいと願っていたのに。
 なのに、結果はどうだ。結局は、総司をまた傷つけてしまった。否、もっとも堪えているのは、より嫌われてしまったことだ。
 明らかに、総司は彼を嫌っていた。憎み、蔑んでいたのだ。
 わかっていることだった。今更であるはずだった。


『土方さんなんて、大っ嫌い』


 池田屋の日も、そう言われた。
 面と向かって言われた時、胸奥を鏃で抉られたようだった。
 挙句、今日の出来事だ。弁明などみっともないと思いつつ、言わずにはいられなかった。総司を守りたかったのだということを告げ、本当は許してほしかったのだ。
 身勝手さはよくわかっている。酷い男だということも。
 だが、総司に嫌われるのが辛かった。これ以上、総司との関係が酷くなっていくことに、堪えられなかったのだ。そして、何よりも総司をこの手で守りたかった。今度こそ、あのきれいな身体も心も守りぬきたいと思ったのだ。
 だからこそ、総司に冷たく拒絶された瞬間、絶望した。挙句、総司自身に、愛しい若者への想いを否定させられたのだ。
 それこそ出会った時から、気も狂いそうなほど愛してきた若者……。






 初めて逢った時のことは、よく覚えている。
 まだ宗次郎と名乗っていた十の少年。小さな身体で、一生懸命素振りをしていた宗次郎に、話しかけたのが始まりだった。自分でも不思議だった。決して土方は子ども好きではない。だが、妙にこの少年のことが気にかかり、声をかけてしまったのだ。
 その時、宗次郎はびっくりしたように目を見開いた。人見知りの性質なのだろう。突然、現れた男を警戒し、怯えているようだった。
「……誰、ですか」
 小さな手で竹刀を握りしめ、警戒心いっぱいに訊ねてくる。
 それが可愛らしくて、思わず笑いだしそうになった。だが、すぐに地面に膝をつき、少年と目線をあわせた。
 自分は長身なので、小さな宗次郎は見上げることになってしまう。より怖いだろうと思い、跪いたのだ。
「俺か? 俺は、土方歳三だ。かっちゃ……いや、若先生の友人だよ」
「若先生の?」
 とたん、宗次郎の緊張がとけた。ほっとしたような表情になっている。
 そのことから、この少年が近藤に寄せる信頼や慕わしさがわかる気がして、土方は微かに眉を顰めた。初めての感情が胸奥に湧き起こったのだ。それは嫉妬だった。
 土方は女にもてる男だった。それこそ、靡かなかった女はいない程だ。黙っていても向こうから寄ってくる女たちに、嫉妬心など覚えた事がなかった。ましてや、恋愛もしたことがない。惚れたと思ったことがないのだ。
 色恋沙汰は、土方にとって遊びだった。だからこそ、嫉妬したり独占したりする事など、愚かそのものだと軽蔑していた。
 なのに、今、土方は明らかに嫉妬していた。この少年が近藤によせる純粋な感情に、嫉妬したのだ。


(俺は、何を考えているんだ)


 ゆるく首をふり、土方は言葉をつづけた。
「剣術の稽古をしていたのか? 俺も少しは出来るから、相手してやってもいいぜ」
「本当ですか」
 宗次郎は、ぱっと顔を輝かせた。
 だが、すぐに長い睫毛を瞬かせると、俯いてしまう。
「でも……逢ったばかりだし、私、あなたのことよく知らないし」
「俺が怖いのか」
「そうじゃなくて、申し訳ないと思ったのです。逢ったばかりの人に、そんな……」
 幼い、まだ子供特有の高い声で、たどたどしく、だが、丁寧に言ってくる宗次郎に、思わず微笑んでしまった。
 この少年は姿形だけでなく、心根もきれいだった。素直で純粋で、優しいのだ。常に自分のことよりも、人のことを考える性質なのだろう。


(俺とは大違いだな)


 そんな事を苦笑しながら思い、土方は手をのばした。ぽんっと宗次郎の頭をかるく叩いてやる。
 びっくりしたように顔をあげる宗次郎に、とびきりの笑顔をむけた。とたん、頬を紅潮させる宗次郎が可愛らしい。
「子供がそんな気を使うんじゃねぇよ。ほら、道場へ行こうぜ。ちゃんと相手してやるから」
「あ」
「おいで」
 さし出された手を、宗次郎は信じられないものを見るように見つめた。だが、土方がもう一度笑いかけると、おずおずと躊躇いがちに手をのばしてくる。
 握りしめた手はとても小さく、柔らかだった。己の大きな手の中で、とけ消えてしまいそうだ。
 見下ろした土方を、宗次郎は大きな瞳で見上げた。小さく、にこりと笑いかけてくれる。
 その花のような笑顔に、思わず見惚れた。
 なんて可愛いのかと思った。心が清らかだからか、とても純真で愛らしい笑顔だった。





(その笑顔を、俺はこの手で奪ったんだ……)


 土方はきつく唇を噛みしめた。
 江戸から京に来た総司を拒絶した日から、総司は彼の前で笑顔を見せなくなった。心も遠ざかっていき、やがて、視線さえあわせなくなった。
 心配でたまらず遠目に見守っていたが、総司から明るさが失われている事は明らかだった。むしろ当然なのだ。新選組の仕事は過酷だ。京の治安を守ると言えば聞こえがいいが、ようは人斬りだ。浪士たちを追い詰め、殺すのだ。素直で心優しい総司が傷つかぬはずがなかった。その上、彼との関係は悪化している。総司からは逃げこむ場所さえ、奪われていた。
 そう仕向けたのは己だとわかっていても、もはやどうする事も出来なかった……。