「どうして」
 総司は訊ねた。
「急に私を誘い出したのですか? 今まで……あんなふうに接していたのに」
「不快に思ったか」
 土方は皮肉げに唇の片端をあげた。
「当然だろうな。あれだけ、おまえを罵り傷つけた俺だ。今更、何を話したいのかと思って当然のことだろう」
「もしかして」
 総司はふと気づき、土方を大きな瞳で見上げた。
「江戸へ帰れ、という話ですか」
「……」
「そんなにも……私が邪魔ですか。子供だとあなたに疎まれているのはわかっています。私なりに頑張っても、あなたが思う処まで到底辿りつけないことも。だから、私は……っ」
 声が詰まった。
 言い募るうちに、胸がせまり苦しくなったのだ。涙があふれそうだった。


 どんなに頑張っても前へ進もうと努力しても、それでも、この人は決してふり返ってくれぬのだ。認めてくれることはないのだ。
 必要とされないことが、たまらなく辛かった。
 彼が自分に好意を持たなくてもいい。
 けれど、せめて隊士として、有効な駒としてでいいから、必要とされたかった。
 それも駄目だというのなら、いったいどうすればいいのか。この激しく切ない想いは、どこへもっていけばいいのか。


「……総司」
 土方は眉を顰めると、不意に手をのばした。その腕を掴み、路地裏へと連れ込む。
 人前で泣き出しでもすれば、総司に恥をかかせると思ったのだ。そのため、己の背で表からの視線を遮るような体勢をとり、総司の細い身体を柔らかく腕の中に引き入れる。
 久しぶりに抱いた身体は酷く華奢だった。こんなにも小さかったのかと思った。少し力をこめれば壊れてしまいそうな儚さが、男の胸に強い庇護欲を起こさせる。


 ……守ってやりたかった。
 どんな事をしても、己の何を失っても。
 この愛しい存在だけを。


「……っ」
 突然、男に抱きしめられ、総司は驚いたようだった。びくりと肩を竦ませ、身体を固くしている。
 土方はそれを宥めるように、柔らかくその背を手のひらで撫でた。髪や額、頬に、口づけを落としてやる。
「……邪魔なんか、じゃねぇよ」
「土方、さん」
「俺はおまえにさんざん酷い事を言ったが、邪魔になど思っていない。今更、江戸へ帰すつもりもない」
 その言葉に、総司は目を見開いた。
 信じられぬ言葉だった。あれ程、何度も邪魔だ、子供だと言われ続けたのだ。なのに、どうして今頃、こんなふうに否定するのか。
「総司」
 土方はかるく身をかがめると、視線をあわせた。濡れたような黒い瞳に見つめられ、頬が上気する。
 そっと、男のしなやかな指さきが頬にふれた。
「おまえは……よく頑張っているよ。頑張りすぎているぐらいだ」
「うそ……」
「嘘なんかじゃねぇ。おまえは本当によく頑張っている。だから、言うんだ。身体を大事にしろよ、と。無理は決してするな」
「だって、そんなの……っ」
 不意に総司が大きく身を捩った。男の腕の中からするりと逃れてしまう。
「そんなの一度だって、今まで言わなかったくせに。あんなに私を罵って傷つけて、莫迦にして……なのに」
「……そうだな」
 土方は目を伏せ、微かに苦笑した。
「俺が言う事じゃねぇよな。俺なんかに言われても、腹がたつだけか」
「そ、そうです」
 総司は大きな瞳で彼を睨みつけた。
「私、あなたなんかに言われたくない、気遣われたくない」
「……」
「土方さんなんて……大っ嫌いなんだから」
 そう言ったとたん、土方の黒い瞳に苦痛の色がよぎった。きつく眉根が寄せられる。
 だが、それを見たと思った次の瞬間には、顔を背けられていた。
「大嫌い……か」
 沈黙が落ちた。
 土方はきつく唇を噛みしめ、視線を落としている。それに、総司はつきりと胸が痛くなるのを感じた。


 大嫌い、なんて嘘だった。
 好きで好きでたまらない。
 いっそ、言葉どおり嫌いになれたら、どんなに楽だろう。
 なのに、想いはとまらないのだ。
 彼だけを愛してしまうのだ。


 ぎゅっと両手を握りしめた。顔をあげ、今の言葉を否定しようとする。
 その時だった。
「……そうだな」
 土方が苦々しげな口調で呟いた。
「おまえに嫌われて当然だ。俺は……本当に愚かな男だからな」
 俯き、片手で顔をおおった。喉奥から、くっくっと低い笑い声がもれる。
「全部、間違えちまったんだよな。結局の処、俺は何一つ上手く出来なかった。不器用さも、ここまでくれば滑稽だ」
「土方……さん?」
 男の話の意味がまったく掴めなかった。
 愚かなんて、土方には全く似合わない言葉であるため、尚更わからない。
 総司からすれば、これ程何でも出来る男はいなかった。なのに。
「何を言っているのですか? あなたがそんな……」
「いや、何でもない」
 土方はゆるく首をふった。すぐに己を取り戻したのか、深く澄んだ瞳でまっすぐ総司を見下ろしてくる。
「今のは全部、忘れてくれ。時をとらせて悪かったな」
「……」
「行こう、会所で皆が待っている」
 そう言うと、土方は踵を返した。着物の裾をひるがえし、歩き出してゆく。
 総司はその背を見つめた。
 何か、とても大切な事を見落としている気がした。だが、それが何なのかは、まったくわからない。
 小さく吐息をもらすと、総司は土方の後を追った。路地裏から出たところで、土方はこちらを振り向き、待ってくれている。
 それが江戸の頃の彼と同様の優しさに思えた。だが、一方で思いもするのだ。


(この人は、もう前の土方さんじゃないんだ。あの優しかった歳三さんは、どこにもいない……)


 心を許すべきではなかった。
 もしもまた、心を許したとたん裏切られれば、どうなってしまうのか。今度こそ、心が壊れてしまう気がした。
 それが、たまらなく怖い。
「……」
 総司は土方に歩みよったが、何も言わなかった。それに、土方も言葉をかけない。
 無言のまま歩き出した。宵山の雑踏の中を、つかず離れず歩いていく。
 それは、まるで今の二人の関係のようだった。


(……土方さん)


 そっと呼んだ声も伝わるはずがなくて。
 ただ、一瞬だけふれあった指さきを、とても熱く感じた……。













 暗闇だった。
 その中で、総司は刀を振るい続けていた。
 凄まじい激闘だ。それも少人数で斬りこんだため、尚更の事だった。
 浪士たちの集合場所が池田屋か四国屋か明らかでなかったため、やむなく新選組は二手に分かれたのだ。
「……っ」
 総司は闇を見据えた。
 もはや、総司にとって、浪士たちは人ではなかった。闇なのだ。斬り倒すべきモノに過ぎない。
 いつから、そんなふうに思うようになったのか、己自身でもわからなかった。土方に拒絶され絶望した時からなのか、多くの浪士たちを斬るようになってからなのか。
 どちらにせよ、総司にすれば、斬らなければ自分が死ぬ。重要なのは、その事だけだった。
 相手が人だろうと闇だろう魔物だろうと、構わないのだ。
 初めて人を斬った時にも、思ったことだった。斬らなければ自分が終わるのだ。だから、刃を振り下ろすのだ。
 とても単純なことだった。
 そこには、誰かのためにとか、大義のためにとか、そんな思考など何もない。
 本能のまま野生の獣のように、戦いつづけるだけだ。
 生きるために。
「!」
 後ろで、ぶわりと闇がふくれあがった。それを振り向きざま、斬り捨てる。断末魔の悲鳴があがり、大きく倒れる音がした。
 それに構うこともなく、総司は血濡れた刀を手にしたまま、歩き出そうとした。
 次の瞬間だった。
 喉奥に違和感を覚えた。突然、生温かいものが口にあふれ、吐き出される。
「……ッ!?」
 慌てて口をおさえた総司は、呆然と目を見開いた。血、だった。
 今、自分は血を吐いたのだ。
 身体が凄まじい勢いで重くなり、力が入らなくなっていく。斬られたのかとさえ思った。だが、痛みはない。
 膝が折れ、そのまま床に倒れ込んだ。それでも吐血はとまらない。
 総司は激しく咳き込み、血を吐いた。このまま身体中の血を吐いてしまうのかと思った。
 恐ろしさと混乱で、身体が震える。無意識のうちに床上で身体を丸め、胸もとを掴んだ。
 必死に止めようとするが、止まらない。怖さのためか、苦しさのためか、涙がぽろぽろとこぼれた。


(……土方…さん……!)


 呼んでいた。
 もしかすると、声に出ていたかもしれない。


(土方さん……助け、て。助けて、お願い……っ)


 あの頃の彼はもういないのに。
 自分を愛し、慈しんでくれた彼は、もう消えてしまったのに。
 なのに、それでも呼んでしまうのだ。彼に助けを求めてしまうのだ。
 それは無意識のことだった。胸奥から突き上げるような、激しい想いだった。
 不意に、足音が迫った。
「!」
 敵かと刀の柄を握りしめる。その身体が突然、抱きしめられた。
 血まみれなのに、その手は刀を握りしめているのに、それでも、構わず彼は総司を抱きしめてきたのだ。両腕で細い身体をすくいあげ、胸もとに引きこむ。
「……総司!」
 愛しい男の声が名を呼んでくれた。
 薄く目を開けば、霞んだ視界の中、土方が青ざめた顔で見下ろしていた。
「総司、しっかりしろッ」
「……」
 総司はのろのろと、力の入らない手をあげた。土方の頬にふれようとする。
 だが、それまでだった。
 男の腕の中に、ぐったりと倒れこんでしまう。
「総司っ!」
 自分を呼ぶ彼の声を聞いたのが、最後だった……。













 ひらひらと蝶が飛んでいた。
 夏の昼日中、蜜を求めて飛ぶさまが痛々しいほどだ。
 それを、総司は床に横になったまま、ぼんやりと眺めていた。
 遠く屯所内の喧騒が聞こえる。自分がいなくても、新選組は普段どおり動いていくのだ。
 それはむしろ当然の事だったが、今の総司にはたまらなく辛い事実だった。


(労咳、だなんて……)


 池田屋で倒れた後、総司は会所まで土方の手によって運ばれた。というより、気がつけば、会所に寝かされていたのだ。
 その時は、起き上がることが出来た。目眩はしたし気分も悪かったが、屯所へ戻る列へ加わった。歩く地面が柔らかく感じていたことを、覚えている。
 傍を歩いている土方が時折、手をのばして総司の腕を掴んでいたことも。
 屯所が見えてきた途端、ふっと気が途切れた。そのまま気を失ってしまったのだろう。地面へ叩きつけられなかったのは、傍にいた土方が抱きとめてくれたからだ。
 斎藤の話では、土方が総司を抱いて自室まで運んでくれたのだという。
 だが、今の総司にはもう関係のない事だった。何もかもが終わってしまった、そんな気持ちだったのだ。
 労咳はこの時代、不治の病だった。死が必ず迫ってくる病であり、薬もないのだ。血を吐き、少しずつやせ衰えていき、死んでしまう。
 そんな姿をこれから、周囲に見せなければならないのかと思うと、大声で泣きたくなった。その上、この病は人にうつる。忌み嫌われる病であることは確かだった。
 試衛館時代からの仲間たちは皆、誰も嫌な顔をしたりしなかったし、きちんと見舞いに来てくれたが、それでも、一つのことだけは強く勧められた。


 江戸へ帰った方がいい。


 当然のことだろうと思った。
 病もちの総司がここにいても、役にたつはずがないのだ。
 ましてや、隊士たちに労咳をうつしたらどうなるのか。
 総司にとって、池田屋事件を境にして世界がすべて色を変えてしまったようだった。今まで、色々な辛いことなどもあったが、総司は世界を柔らかな色あいで見ていた。世界は総司をそっと見守ってくれる存在だったのだ。
 だが、今、世界は総司の敵となった。これからは、この敵と一人戦っていかなければならないのだ。
「……っ」
 総司はきつく唇を噛みしめた。
 その時だった。廊下を刻むような特徴のある足音が近づいてくるのを、聞いた。
 びくりと肩が跳ねあがる。
 土方、だった。


 池田屋の後、土方は仕事に文字通り忙殺されていた。
 息つく暇もなく仕事に追われ、寝ることさえあまり出来ていないという噂だった。
 そのためか、総司が休んでいる部屋へ彼が訪れてくる事はなかった。もっとも、総司にすれば、それは当然の事だった。いくら池田屋の前に少し話をしたからといって、あんなにも仲の悪い人が自分を見舞ってくれる訳がないのだ。
 もしも彼がこの部屋を訪うとすれば、話がある時に決まっていた。そして、その話の内容も、わかりきっていたのだ。


「……入るぞ」
 廊下で一度佇んで断ってから、土方は部屋に入ってきた。それに丁寧な人だなと思う。
 夏場なので障子は開かれている。なのに、断ってから入るあたり、彼の本質が出ているのだ。
「調子はどうだ」
 入ってきた土方は、麻の濃紺の着物をさらりと着流していた。布団の傍に腰をおろす仕草さえも、流れるようで綺麗だ。
 水際立った男ぶりに、思わず見惚れてしまう。
「総司?」
 訝しげに問いかけられ、はっと我に返った。慌てて身を起こし、きちんと布団の上に端座する。
「だいぶ、いいです。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかじゃねぇが……」
 土方は言葉を濁した。そのまま腕組みをして、黙り込んでいる。
 だが、やがて、目をあげると、総司を黒い瞳でまっすぐ見つめた。
「話がある」
「はい」
 総司はぎゅっと両手を握りしめた。


 やはり、という思いが強かった。
 彼が話をしてくることもわかっていたし、その内容もわかりきっている。
 今度こそ江戸へ帰れと、言われるのだ。
 それを総司が断ることは出来なかった。以前とは違う。歴然とした理由があるのだ。追い返されても仕方がなかった。
 恐らく、それも辛辣な調子で言われるだろう。この人が一番辛くあたるに違いない。
 他の皆と違い、土方は以前から総司に江戸へ帰るよう言っていたのだ。ここぞとばかりに、彼がもっとも傷つけてくるに違いなかった。


 それに身構えるため、総司はきつく唇を噛みしめた。覚悟して、彼の言葉を待つ。
 土方は、俯いている総司を、しばらくの間、黙ったまま見つめているようだった。やがて、ゆっくりと話し出す。
「医者の話では、おまえは労咳だという事だった。労咳は身体の力を奪う病だ。隊士として戦うことも大変だろうし、この京は療養に向いているとは決して言えない気候だ。この暑さにくわえて、冬は冷えるからな」
「……」
「それで、俺は聞きたい」
 一度、言葉を切ってから、土方は静かな声で訊ねた。
「総司……おまえはどうしたいと思っている」
「……え」
 思わず目を瞬いた。
 信じられぬ言葉を聞いた思いで、彼を見上げる。
 だが、土方はごく当然の言葉を告げたという表情で、総司を見つめていた。呆然としている総司に、繰り返す。
「おまえはどうしたいのか、と聞いたんだ。おまえにはおまえの気持ちや考えがあるだろう。京に残りたいのか、隊に残りたいのか、それとも、江戸へ帰りたいのか。それを俺は聞きたい」
「だって……」
 総司はゆるゆると首をふった。
「私の意思なんて関係ないでしょう? こんな体なのに……労咳なのに、ここに置いておく理由が」
「だから、理由とかそういう事ではなく、おまえの気持ちを聞いているんだ。総司、おまえはどうしたい」
 信じられない言葉だった。
 ずっと今まで総司の意思を無視して、江戸へ帰れと言い放ち、侮蔑してきた男の言葉だとは到底思えなかった。
「そんなこと、言ってどうなるのです」
 思わず反抗的な口調で言い返していた。
「私がこうしたいと言って、その通りにさせてくれるの? 結局は、私の気持ちなんて」
「おまえの気持ちどおりにさせる」
 きっぱりと言い切った男に、目を見開いた。