ずっと、彼のことを優しい兄代わりだと思っていた。
 だが、一方で、感じてもいたのだ。時折、土方の瞳をよぎる翳りに。
 焦燥なのか、苛立ちなのか、侮蔑だったのか。
 いつも優しい彼だったが、時折、不意に冷たくなる瞬間があった。それを総司は感じ続けていた。


 土方は何でも出来る男だ。
 人と会話することも上手く、剣術も出来て、頭も切れる。その上、あの際立った端麗なまでの容姿だった。
 その彼からすれば、総司は歯がゆいほど取り柄のない少年だったに違いない。
 剣術は天才的だったが、それ以外は、人と接するのも苦手でおとなしい。総司にすれば、痩せっぽっちで容姿も優れていない、病気がちな自分に彼がどうして構ってくれるのか、不思議な程だった。
 総司の言動が、土方を苛立たせていることは明らかだった。総司はおとなしく人見知りだったが、その分、逆に人の気持ちを察することに関しては敏感だったのだ。
 昔から、彼の苛立ちを感じ、いつか飽きられるのではないかと、心ひそかに恐れていた。
 そして、今、それは現になった。
 自分のような子供の相手をする事に嫌気がさし、とうとう見捨てられてしまったのだろう。
「……っ」
 総司はきつく唇を噛みしめた。


 むろん、だからと言って、江戸へ帰ろうとは思わなかった。
 自分でもおかしいと思うが、それでも、彼が好きなのだ。嫌われても侮蔑されても、好きという気持ちが消えることはない。
 冷たい瞳でしか見られなくても、傍にいたかった。
 わかっている、己が選んだのは辛く厳しい道だということも。
 土方が自分をふり返ってくれることは、二度とないだろうことも。


「それでもいいなんて、私……どうかしているよね」
 総司は小さく呟き、ぎゅっと目を閉じた。
 たった一つの願いだけでも、叶えられるように。
 どうか、神様。
 お願いだから、これだけは。


 あの人の傍にいさせて下さい――。


 その事だけを、心から願った。













 総司は新選組の隊士となった。
 京に残ることを選んだ総司に、近藤は、一番隊組長、筆頭師範代という大幹部の地位を与えた。
 それに応えるように、総司は懸命に働いた。いくら一度人を斬ったことがあると言っても、浪士たちを相手にするのは違う。
 屯所の外でも中でも、人の死を目にせざるを得ない殺伐とした日々は、総司の柔らかな心を苛んだが、それにも必死に堪えた。


 一方で、土方との関係は完全に断ち切られていた。
 公では言葉を交わすことがあるが、ほとんど冷たい応酬ばかりだった。私的では当然ながら全く会話などない。顔をあわすことさえ、稀だった。
 そんな関係がつづく中、総司は、土方が変わった訳ではないということを、理解していった。
 今、表に出ている冷酷な部分も、江戸の頃から彼の中にあったのだ。それを江戸の頃、土方は表に出すことがなかった。あれほど策を弄し、人の死を冷徹に断じる姿など、想像もつかなかったのだ。
 だが、それもまた、彼の一面だった。
 総司は彼との応酬の中で、何度も傷つけられた。失敗をすれば、酷く叱責されたし、当然のように侮蔑された。
「江戸へ逃げ帰ればいい」と、嘲りにみちた声音で言われた事もある。だが、それを総司はいつしか、きつい瞳で睨み返すようになっていた。
 むろん、想いが消えた訳ではない。
 ただ、総司はおとなしい性格だが、ある一面、ひどく勝ち気な処もあるのだ。人から侮蔑されたり嘲られたりして、それに甘んじるような性格ではなかった。
 もっとも、総司がいくら反撃しようとしても、かなう相手ではなかった。土方は総司より九つも年上であり、弁も立つ。叶う訳がないのだ。


(いっそ嫌いになれたら、いいのに)


 口論の後、総司は何度もそう思った。
 だが、出来るはずがないのだ。彼を嫌うなど、出来るはずがない。
 どんなに酷い事を言われても、酷い仕打ちを受けても、それでも好きでたまらない。愛しいと、つい目で追ってしまう、彼だけを求めてしまう。昔のように笑いかけてほしい、優しくしてほしいと願ってしまう。
 そんなこと、ありえないのだとわかっていても尚、願ってしまう自分が切なかった。莫迦みたいだと、思った。


 土方は多くの者に憎まれたり嫌われたりしていたが、その一方、彼に心酔しきっている者も数多くいた。監察の山崎もそうだったし、恐れつつも斎藤も彼を認め尊敬している。
 彼は否応なく人の心を惹きつけるのだ。中途半端という言葉が全くなかった。彼に対する時、人は拒絶するか、惚れ込むか、そのどちらかだったのだ。
 江戸にいた頃から、それだけの力量を持ってはいたが、それでも目立たぬものだった。それが、京に来てから、土方はまるで殻を脱ぎ捨てるように、変わったのだ。
 優しさなど欠片もない。冷酷で、人を人と思わぬ態度は傲慢そのものだ。
 だが、魔のように人を惹きつける魅力がある男。


(それに、私も惹きつけられている……)


 江戸にいた頃よりも、京に来てから、総司はどうしようもないほど彼に惹かれていく自分を感じていた。
 踏みとどまろうとしても、より好きになってしまう。狂ったように求めてしまう。
 報われぬ恋だと、一縷の望みもないのだと、何度己に言い聞かせても、それでも己のすべてが彼だけを求めた。


(どうしてなの……どうして、求めてしまうの)


 あんなにも酷い男なのに。
 江戸にいた頃、とろけそうなほど優しくしたくせに、甘やかしたくせに、それが全部偽りだったのだと思い知らせた男。
 冷たくて身勝手で傲慢で、いつも自分を子供だと見下し嘲笑ってくる。事あれば、江戸へ帰れと命じ、それを断ると冷ややかに侮蔑する。
 そんな男を、どうして好きだと思うのか。惹かれてしまうのか。
 自分でもわからなかった。
 怖い、とさえ思った。彼に溺れこむように恋してしまう自分が、恐ろしかった。
 ただ、総司はその想いを一切表に出さぬように気をつけた。
 あんなにも疎まれているのに、彼に恋してしまっている。そんな自分を知られたくなかったのだ。
 相手にされるどころか、嫌われているのに恋してしまう自分が、情けなくて辛くて惨めで、彼はもちろん、他の誰にも絶対に知られたくなかった。
 そのため、総司は土方に対する時、次第に冷たい態度をとるようになった。もともと、それ程言葉数が多い方ではなかったが、より言葉数が減り、土方と視線をあわせることさえ避けた。
 公で話さなければいけない時も、常に視線を落とした。
 総司が彼の姿形や、顔を見るのは、遠く離れている時のみだった。遠目にそっと見ることだけを自分に許していたのだ。
 だからこそ、まったく気づいていなかった。
 視線をむけられぬようになった土方が、どんな表情で総司を見つめているのか、まったく知らなかったのだ……。













「あれでは総司が不憫すぎるだろう」
 近藤が低い声で言った。
 それに、土方は目をあげた。
 局長室だった。梅雨時であるため、雨音が障子ごしに届く。
 隊についての話をしていたのだが、それが一段落した時、不意に言われたのだ。
 その言葉に、土方は僅かに眉を顰めた。その黒い瞳が暗く翳る。
「不憫とは?」
「わかっているくせに、聞くな。おまえのやりようが酷すぎると言っているんだ」
「そんなもの、俺自身が一番わかっているさ」
 土方は手にしていた書類を投げ出し、ため息をついた。
「あれは、俺自身、覚悟の上の行為だ。総司に嫌われ恨まれるだろうこともな」
「歳……」
「わかっているさ、あんたの言いたいことは。結局の処、俺の意図した事とは全く反対の状況になっちまった。あれでは総司を傷つけただけではないかと、言いたいのだろう」
 土方は胡座をかいた膝上に片肘をついた。頬杖をつきながら、目を伏せる。男にしては長い睫毛が頬に翳りをおとした。
「今更、悔いてもどうしようもねぇよ。何度言っても、あいつは意思を変えない。それに、もう……隊から出してやることもできねぇ」
「一番隊組長にしたことを、悔いているのか」
「いや……あれは、俺が言い出した事だ」
 土方は首をふった。
「むろん、あいつの力量があったからこそだが、総司を守るためでもあった。一番隊組長という、あんたの親衛隊隊長にも等しい地位につけておけば、少しでも守ることが出来ると思ったんだ」
「総司は頑張っているよ。頑張りすぎる程にな」
「それが気がかりなんだ」
 眉を顰めた。
「あいつは身体が弱い方だ。江戸から出立するのが遅れたのも、結局は病のせいだ。なのに……」
「江戸から何か言ってきたのか」
「あぁ。ついこの間も、やはり帰してもらえないのかと、訊ねてこられた。けど、今の俺には……もう手の打ちようがねぇよ」
 土方は何を思い出したのか、ふと、顔を歪めた。
「あいつに俺は徹底的に嫌われちまった。憎まれていると言ってもいいだろうな。最近は目さえあわさないどころか、俺の顔も見たくねぇようだ」
「歳……」
「たまらねぇよな。あんなに可愛がってきたのに、あんなに……大切だったのに」
 男の声が僅かに掠れた。
 近藤が見やると、土方は目を伏せ、きつく唇を噛みしめていた。焦燥と苦痛、切なさが入り混じった表情だった。
 その心情がわかるだけに、やるせなかった。
 黙りこんだ近藤の前で、土方はため息をついた。やがて、気持ちを切り替えるように、前髪を片手でかきあげ、目を細めた。
「とにかく、あんたの忠告は受けるよ。これ以上、俺もあいつを傷つけたくない」
「そうだな……その方がいい」
「近藤さんも、いったんこの事は棚上げにしておいてくれ」
「わかった」
 そう言ってから、近藤はしばらく迷っていたが、やがて、言った。
「なぁ、歳」
「何だ」
「おれから、その……伝えた方がいいのではないか。総司に、おまえの本当の意図を」
「いや、それは断る」
 土方は首をふった。
「俺がまいた種だ。総司に憎まれても恨まれても、自業自得だ。あんたには関係ないことさ」
「関係ない事ではないだろう」
「気持ちだけ、受け取っておくよ」
 そう言った土方は一度投げ出した書類を取り上げた。これで話は打ち切るとばかりに、目を通し始める。
 その端正な横顔は厳しく引き締まり、新選組副長そのものだった。先程まで見せていた、若い男としての葛藤や苦悩の表情など、どこにもない。
 土方は自分を切り替えることが出来る男であり、そして、感情を押し殺す事にも慣れていた。その奥にどれほど深く激しい想いがあっても、他者に見せることは決してないのだ。
 これでは、総司が彼の想いを知ることなど、ありえるはずがない。


(……どうしたものだろうな)


 近藤は、すれ違う二人を思い、深く嘆息したのだった。












 季節がめぐっていった。
 梅雨が明けたばかりだというのに、暑い日々が続いている。とくに、総司にとっては初めての京の夏だ。酷く応えた。
「ごめんなさい、斎藤さん」
 丁寧に、総司は謝った。それに、斎藤は黙ったまま首をふった。
 巡察の帰り、総司は気分が悪くなってしまったのだ。たまたま一緒にいた斎藤が目的地まで隊を率い、解散させた。
 その後、すぐさま近くの神社に入り、木陰に総司を座らせた。いつも持ち歩いている竹筒に井戸で水を汲み、手渡す。
 総司は冷たい水を呑むと、ほっとしたように息をついた。
「ありがとう、だいぶ良くなりました」
「本当か? 無理はするなよ」
 斎藤は心配そうに、総司を眺めやった。


 京に来てから、総司はかなり痩せてしまったようだった。
 食欲もあまりないようで、広間で食事をしている時もほんの少ししか口にしない。華奢な身体はよりほっそりとし、今にもとけ消えてしまいそうだ。
 その大きな瞳はいつも潤んだようで、黒い隊服を着ていても、まるで美しい少女のような儚さだった。これで隊随一の剣士なのだから、人は見かけによらない。
 だが、実際、総司は仕事になると厳しい若者で、容赦なく隊士たちを叱責し、的確に指示した。むろん、戦闘となれば真っ先に突っ込んでいき、獅子奮迅の働きを見せる。
 そのため、総司のことを年若だと侮っていた隊士たちも、今では完全に心酔していた。


「最近、食も進んでいないだろう。もっと食べた方がいいと思うけどな」
「あまり食欲がないのです。とくに……その屯所ではあまり食べたくなくなって……」
「料理が口にあわないか」
「そんな事ないのです。ただ、あまり……」
 総司は口ごもってしまったが、その理由はよくわかっていた。
 土方がいるため、食事が進まないのだ。それは明らかなことで、土方が出張などでいない時は食も進んでいるようだった。それを知っている斎藤は出来るだけ、総司の傍にいてやれるように気をつけていたのだが。
 最近、土方と総司の関係は再び変化していた。
 京に来た当初、侮蔑しきつい言葉を投げていた土方だったが、今は他の隊士たちに対するのと変わらぬ態度をとるようになっていた。淡々と命令すべき事柄や連絡事項を告げ、視線さえ向けない。
 土方にとって、総司は、その他大勢と一緒なのだと言わんばかりの態度だった。それはそれで総司には堪える態度だった。
 完全に無関心になってしまったのだ。土方の中で、総司は関心がない、切り捨てられた存在であることは明らかだった。
 総司はそれが酷く辛かった。むろん、侮蔑の言葉を投げかけられる時も辛かったが、それでも、相手にはされていたのだ。なのに、今は関心さえない。


(私、いったい何をしているのだろう……)


 そんな事ばかり考えるようになっていた。
 恋しい男の傍にいたい。それだけのために京で戦って手を血まみれにして、心折れそうになって。
 こんなにも傷つく辛い日々なら、いっそここを去ってしまえばいいのに。否、わかっている。今更、後戻りなど出来ないのだ。
 新選組隊士になって数ヶ月の時が過ぎていたが、総司は、現の厳しさを思い知らされていた。京は一見すれば優雅で艶やかな町だが、その実、これ程殺伐とした血みどろの場所はない。
 心穏やかに過ごせる場所など、何処にもなかった。屯所でさえ、いつ間者に斬りかかられるかわからない。
 それでも、この地に残ったのは土方のためだった。
 今、自分をまるで道端に転がっている石ころを見るような目で眺める、冷たい男のために、この地獄の地へ残ったのだ。
 なのに……。


「私って、弱い人間ですよね」
 小さな声で呟いた。膝上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
「わかっていたはずなのに、ちゃんと自分で決めたことなのに、今更、辛いと思うなんて。こうなる事も全部、わかっていたくせに」
「総司、おまえは強いよ」
 斎藤は思わず言っていた。
「おまえは本当に強い。よく頑張っていると思うし、辛いと思うことも当然だ」
「でも、私、なんか時々、逃げだしたくなってしまうのです」
「江戸へ?」
「そうじゃなくて、どこかへ。私のことなんて誰も知らないどこかへ逃げ出したくなる。こんな事、江戸にいた頃は思ったこともなかったけれど……」
「少し休んだ方がいいんじゃないのか」
 気遣わしげに、総司の顔を見つめた。
「顔色が悪いし……近藤さんに言えば、休ませてくれるだろう」
「近藤先生に甘えたくはないのです。近藤先生にお願いするなんて、また、あの人に莫迦にされてしまいます」
「……」
「私はもともと遅れてきたのだから、その分を取り戻すためにも働かないといけないのです。まだまだ若くて駄目な処も多いし、だから」
「おまえ、自分を追い詰めすぎるよ」
 斎藤は思わず手を伸ばし、総司の細い肩を抱いた。守るように、そっと抱き寄せた。
 その行為に総司は少し驚いたようだが、おとなしく胸もとに凭れかかっている。それをたまらなく愛しく感じながら、言葉をつづけた。
「少しだけでいいんだ、もう少し楽に息をしてみないか。そのためなら、オレ、何でもしてやるから。たまらないんだ。おまえが傷つき、苦しんでいるのを見るのが辛い」
「斎藤さん……」
「おまえは人に助けをいつも求めないよな。けど、これだけは覚えていて欲しい。おまえがふり返った時、オレはここにいるから。いつでも、おまえのためにあろうとしているから」
 彼の心のこもった言葉に、総司の瞳が潤んだ。細い指さきで、ぎゅっと斎藤の胸もとに縋りつく。
 こくりと頷いた。
「ありがとう、斎藤さん……」
 そのぬくもりを感じながら、斎藤は目を閉じた。だが、次の瞬間、鋭い視線を感じた。
 はっとして振り向いたとたん、息を呑んだ。
「……」
 神社の鳥居のすぐ傍に、一人の侍が佇んでいた。黒い着物を着流し、刀を斜め差しにしている様に、大人の男の色香が匂いたつようだ。
 その姿に、総司はまったく気づいていなかった。
 だからなのか、その端正な顔には、日頃見られぬ激しい感情が剥き出しになっていた……。




















次でどーんと展開します。