「私……相手の男を殺したのです」
 総司は静かな声で言った。
 まるで何でもない事のような、淡々とした口調だった。それが土方には酷く痛ましく感じられた。
「手ごめにされたと言っても、途中で殺したから。あの男が私と交わろうとした時、斬りつけてやったのです」
「総司……」
「血をいっぱい浴びて、私の上で冷たくなっていく男に、吐き気がしました。ならず者だったみたいで、私は罰せられなかったけど、でも……あの時、私は初めて人を殺したのです」
 そう言ってから、総司は小さく笑いかけた。
「だから、言ったでしょう? 江戸から上ってきた時、道場剣術など役にたたないと言ったあなたに、人を斬ったことがあると。あれは本当の事だったのです」
「……いつなんだ」
 土方は問いかけた。声が喉に絡み、掠れた。
「事があったのはいつなんだ」
「土方さんが江戸にいない時ですよ。つまり、私が江戸を発つ直前……だから、私は余計に辛かったのです。あなたに助けて欲しかったから、私の身にあった事を聞いて、受けとめてくれることを願っていたから。でも……」
 総司は目を伏せた。
「あなたは、私を……」
「総司!」
 不意に土方が叫んだ。座り直すと、床に両手をつき、深々と頭を下げる。
「すまない、本当に……すまない。おまえに酷い事をした、俺は……おまえになんて酷い事を……っ」
 悲痛な声だった。
 悔やんでも悔やみきれない事を、今なお、悔みつづける男の苦しみに満ちた声音だった。
「おまえが俺を憎むのは、当然のことだ。その上、俺はおまえに自分の気持ちを押し付け、あんな事まで無理強いしようとした。本当に……最低の男だ」
 土方は言葉を切ると、きつく唇を噛みしめた。膝の上にある拳は固く握りしめられている。
 悔恨の表情で目を伏せる男の姿に、たまらなくなった。胸をこみあげるものに、泣きたくなる。
「土方さん……」
 総司は思わず身をのりだし、彼の手に手をかさねた。それでも顔をあげようとしない土方に、言った。
「あなたは最低なんかじゃない。何も知らなかったあなたを責める私が最低なのです。挙句、優しくしてくれるあなたを、私は今なお信じることが出来ない」
 縋るように握りしめた。
「ごめんなさい。私は自分の意固地さが憎いのです。あなたに言葉の礫を投げつけ、八つ当たりしている私自身が一番嫌い……」
「総司、そんなふうに言わないでくれ」
 不意に、土方が顔をあげた。深く澄んだ黒い瞳がまっすぐ見つめた。
「俺はおまえが好きだ。おまえの素直さも優しさも弱さも、全部が愛しい。だから、そんなふうに己を貶めないでくれ。おまえは何も悪くない」
「だって、私はあなたを傷つけてばかりいます」
「それは俺が間違っていたからだ。酷い事をしちまったから、おまえは俺を信じられない。当然の事なんだ。なのに、俺はそれを責めようとした、おまえから愛されないからと言ってあんな酷い事をしようとした……」
「もう言わないで」
 総司は土方の手をもちあげ、それを頬にあてた。驚いたように見下ろす彼に、微笑みかける。
「あなたは止めてくれたのでしょう? 私をちゃんと助けてくれた。優しいあなたが私を傷つけるなんて、そんな事できるはずがない。だって、あなたは私の大好きな歳三さんなんだもの」
「総司……!」
 思わず土方は総司の身体を抱きしめていた。その細い身体を腕の中におさめ、固く瞼を閉ざす。


 優しいのは、この腕の中の若者だった。
 あんな酷い事ばかりをした彼に、優しくあたたかな言葉をかけてくれる。彼の罪悪感を少しでも拭おうとしてくれる。
 腕の中の存在が、心の底から愛しかった。
 このぬくもりがあるから、総司がいてくれるからこそ、自分は戦ってゆけるのだ。


 本当は一緒に京へ連れていきたかった。
 だが、病になってしまった総司を置いてくる他なく、どれだけ後ろ髪ひかれる思いだったことか。
 見送ってくれた時のことは、今も覚えている。
 幾度もふりかえるたび、総司は手をふってくれた。それが少しずつ遠ざかり、いつかその姿が見えなくなった時、胸奥にぽっかりと穴があいてしまった気がした。
 自分がとてつもなく大切なものを失った事を、思い知らされたのだ。


 京で彼らを待っていたのは、血みどろの闘争だった。
 まさに地獄だった……。
 近藤が言ったことを覚えている。連れていきたいと思いはしたが、結局の処、総司を置いてきてよかったのではないか、と。それに頷く他なかった。
 だが、一方で思いもしたのだ。


 ここに総司がいてくれたら、と。


 諸刃の剣の上を渡るような日々の中、疲れきった夜、総司のぬくもりを求めた。
 あの愛らしい笑顔を見たいと思った。
 細い指さきで肩にふれ、「土方さん」と甘く澄んだ声で呼ばれたかった。


 だからこそ、総司が京へのぼってくる事になった時、その身の安全について危惧する一方、嬉しさもあったのだ。
 愛しい者に逢えるという喜びが全身を満たした。
 しばらくの間、原田などにも「えらく機嫌がいいんだね」とからかわれた程だ。
 だが、あと数日で総司が着くという時だった。
 一通の文が彼のもとへ届けられたのだ。
 それは総司の姉であるお光からのものであり、病がちな総司の身を案じ引き止めたが無理に京へ向かってしまったこと、そちらで追い返してもらえないかという頼みが切々と綴られてあった。


(俺は従う他なかった。いや、当然のことなのだ。身体が弱いだけではない、こんなにも心優しく感じやすい総司が京にいて、傷つかぬはずがなかった)


 むろん、悩んだ。
 本当は傍におきたかった。ようやく一年ぶりに逢える愛しい想い人なのだ。優しく笑いかけ、抱きしめてやりたかった。
 だが、一方で、本当に総司を想うのなら、拒絶するべきだとわかっていた。彼が悪者になってでも、江戸ヘ帰さなければならなかったのだ。
 だからこそ、土方は冷たく己を装い、総司を拒絶した。


 ……今でも覚えている。
 あの時、呆然と彼を見ていた総司の表情を。
 泣き出しそうな、縋るような瞳を。
 それに土方は冷たく背を向けたのだ。己の中にある、優しくしたいという激しい衝動と恋情を、必死に押し殺しながら。
 あの行為が正しかったのか間違っていたのか、今でもわからない。
 結果だけを見れば、明らからに間違っていたのだろう。
 だが、今更悔いても仕方がない事だった。それよりも、これ以上、総司を傷つけないようにすべきだった。
 総司の傷は深いのだ。それを更に抉るような事だけはもうしたくない。
 土方は自分が総司の傷を癒せるなどと、思っていなかった。
 総司が他の誰か──斎藤に救いを求めるのは、ある意味、当然のことなのだ。
 それを妨げる資格が彼のどこにあるのか。





「総司……俺が間違っていたんだな」
 不意に、そう言った土方に、総司は驚いたように顔をあげた。
「土方、さん?」
 大きな瞳で不思議そうに見上げてくる。それをこの世の何よりも可愛いと思いながら、言葉を続けた。
「もう二度と、おまえの気持ちを乱さない。これ以上、近づかないようにするよ」
「え……」
 総司は戸惑っているようだった。彼の意図を知りたい様子で、じっと見つめている。
 そんな総司から、土方は視線を外した。
「優しいのはおまえだ。おまえは前の自分を捨てたと言ったが、おまえは何も変わっていない。今も、素直で優しい総司だ」
「……」
「俺はそんなおまえを二度と傷つけたくない」
 決意が変わらぬうちにと、口早につづけた。
「仕事では副長として接するし、公では言葉を交わすこともあるだろう。だが、私的に逢うのはこれが最後だ」
「……え」
 呆然としている総司に気付かず、土方はその身体を離した。立ち上がり、部屋をゆっくりと横切っていく。
 襖を開け、出る寸前にふり返った。こちらを見つめている総司に、笑いかける。
「身体だけは大事にしろよ、総司」
「土方さ……」
 手をのばす総司から視線をそらし、土方は部屋を出た。襖を閉め、歩き出していく。
 襖の向こうで、小さな泣き声を聞いた気がした……。












 再び日々が流れ始めた。
 だが、それは総司にとって、今までとはまるで違う日々だった。
 土方は別に冷たく接してくる訳ではない。仕事で幾度も顔をあわせ、言葉をかわすこともあったが、口論になったり嫌な思いをしたりすることは全くなかった。
 甘やかす訳ではないが、総司が意見を述べればきちんと聞くし、それが最善の策であれば取り入れてくれる。土方は総司を一番隊組長として大切に扱ってくれた。
 だが、それだけなのだ。
 それ以上の事は何もなかった。というより、消え去ってしまっていた。
 土方はあの時の言葉どおり、総司から完全に手を引いていた。私的なことで言葉を交わすことは全くなかったし、報告に行っても仕事のことのみで終始した。
 それが総司には堪らなく辛かった。


(どうして? 私が望んだとおりになったんじゃない……)


 総司は樹木に凭れ、唇を噛んだ。
 西本願寺の庭だった。もう冬が近い。少しずつ冬が近づいてきているのが、肌寒さで感じられた。見上げた空も鈍い薄墨色だ。
「……」
 両手を後ろに組んだ状態で樹木に背を凭せかけている若者の姿は、一枚の美しい絵のようだった。桜色のふっくらとした唇を噛みしめ、長い睫毛を伏せている横顔は愛らしくも艶めかしい。
 だが、本人は自分の魅力にまったく気づいていなかった。土方ほどの男に愛されていても、自覚がないのだ。
 総司はため息をついた。


 土方からの愛情を拒むことに悩んでいたはずだった。
 なのに、今、彼から求愛されなくなった途端、それを切なく思うなど、身勝手極まりない話だった。土方が聞けば、侮蔑するだろう。
 本当は信じたかった、愛されたかったのだ。
 彼のためになんて、嘘だった。彼の立場も自分の病も何もかもどうでもいいから、なりふり構わず彼の腕の中へ飛び込みたかった。それが出来なかったのは、自分の意固地さのせいだ。いや、弱さと言った方がいいのか。
 信じたい、信じられない。そうではなかった。
 信じることが怖かったのだ……。


 また裏切られたら?
 彼からの愛情が想いが、ただの気まぐれや同情故の錯覚だったら?


 怖いのだ。
 再び、あの京へのぼってきた時のように、冷たいまなざしを向けられる事を思っただけで、怖くてたまらなくなる。
 総司にとって、土方はただ一人の愛する男だった。幼い頃からずっと夢中で憧れ、恋してきたのだ。
 京にのぼって再会してからは、その愛情に憎しみや怒り、不安、恐れなどが混じり込んできたが、それでも、総司にとって彼は誰よりも愛しい男だった。
 彼以上に愛せる存在など、あるはずがないのだ。
 その彼から向けられる冷たさは、刃となって総司の胸を鋭く切り裂いてしまう……。


「私は本当に弱い。もっと強くなりたいのに」
 そう呟いた時だった。
 近づいてくる気配に、はっと顔をあげた。そんなことありえるはずがないのに、土方かと思ってしまったのだ。
 振り向いた総司は、歩み寄ってくる斎藤を見つめた。
「こんな処で何をしているんだ」
 斎藤は歩み寄ってくると、ぐるりと周囲を見回した。それに微笑む。
「ここはあまり人も通りかからないから、一人でいられる場所なのです」
「……邪魔した?」
「大丈夫ですよ、斎藤さんならいいです」
 にこりと笑ってから、総司は小首をかしげた。
「何か、私に用でしたか」
「いや……もし暇なら一緒に出かけないかと思ったんだ」
「一緒に?」
「今日、市がたっているんだ。気晴らしになるか、わからないけど」
「斎藤さん……」
 彼の気遣いに、心があたたかくなった。
 土方とのことを話した訳ではないが、総司の様子から察したのだろう。こうして斎藤はさり気なく寄り添い、優しく包み込んでくれるのだ。
「誘ってくれてありがとう。一緒に行きます」
 こくりと頷き、総司は歩き出そうとした。だが、途中、岩にでも引っ掛けたのか大きく身体を傾げてしまう。
「危ない」
 慌てて斎藤が抱きとめてくれた。それに、ほっと息をつく。
「ありがとう」
 礼を言って身を起こそうとしたが、斎藤は腕の力を緩めなかった。それどころか、ぎゅっと抱きしめてくる。
 総司は目を瞬いた。
「……斎藤、さん?」
「オレの後ろ、見えるか」
「え」
 総司は斎藤の肩越しに、渡り廊下の方を見やった。とたん、息を呑んだ。
 そこには、土方が佇んでいたのだ。鋭いまなざしをこちらに向けている。
 端正な顔にあるのは明らかな怒りの表情だった。切れの長い目の眦がつりあがり、固く唇が引き結ばれている。
 どうすればいいのか、わからなかった。愛しい男の前で斎藤を突き放せばいいのか、それとも身を委ねればいいのか。
 呆然としていると、斎藤がより強く総司を抱きしめた。頬に、首筋に口づけられる。
 そうしながら、耳元に囁かれた。
「どうすればいいんだろうな」
「斎藤さん……」
「オレもわからないんだよ。おまえの幸せを願うなら、土方さんのもとへおまえをやるべきだとわかっている。そう願ったはずだ。けど、あの人の前で、こうしておまえを抱きしめると、手放したくなくなってしまう」
「……っ」
 総司は怯えたような瞳で、斎藤を見上げた。それに、斎藤が微かに笑った。
「オレたち、念兄弟になるって約束したよな」
「で、でも……」
「契り、今度こそ結ぼうか。市などへ行かず、このままオレの部屋へ行く?」
「……」
 総司は何も言うことが出来なかった。突然、豹変した斎藤の態度に混乱し、彼の腕に縋りつくだけだ。
 だが、不意に、斎藤が腕の力を緩めた。総司の身体を離して背を向け、土方がいる渡り廊下とは反対側へ歩き出してゆく。それを追うことも出来ず立ち尽くしていると、斎藤がふり返った。
「総司」
 はっきりとした声だった。渡り廊下にいる土方にも届く声。
「おいで、抱いてやるから」
「!」
 総司の目が見開かれた。
 もはや土方の方を見ることも出来なかった。身体中が震えだしてしまう。
 おそらく斎藤は総司を本気で抱くことはないだろう。
 だが、二人の間に楔を打ち込もうとしていることは、明らかだった。総司に対して、きっぱり決断しろと迫っているのだ。
 それは、斎藤なりの思いやりかもしれなかった。
 このまま悩みつづけていても、何も事は進まないのだ。土方にとっても総司にとっても、そして、斎藤にとっても、辛い日々が続くだけだった。ならば、今、ここではっきりと答えを出してしまった方がよかった。
「……」
 長く思えたが、もしかするとほんの僅かな時だったのかもしれない。
 立ち尽くしていた総司が、ゆっくりと歩き出した。斎藤の方へむかって。
 手をのばすと掴まれ、引き寄せられる。斎藤の腕の中におさまりながら、総司は固く瞼を閉じた。
 もう土方をふり返ることもしなかった。いや、彼はもう立ち去っているに違いない。
 土方を拒絶しながら斎藤に抱かれる自分を侮蔑して、立ち去ったに違いないのだ。
「……斎藤さん」
 小さな声で呼んだ総司に、斎藤は頷いた。肩を抱き、そのまま歩き出そうとする。
 だが、次の瞬間だった。
 荒々しい足音が近づいたかと思うと、乱暴に総司の腕が掴まれた。驚いて振り返れば、土方が見下ろしている。
 あっと思った時には、土方の腕の中へ総司の身体は倒れこんでいた。無理やり引き寄せられたのだ。
 二度と離さないとばかりに、その小さな頭を己の肩口に手のひらで押しつけ、細い腰には腕をまわして抱きしめた。
「土方さん、何をするんです」
 声をあげた斎藤に、土方は鋭い瞳を向けた。凄みのある声で答える。
「総司は渡さん」
「渡さないって、あなたのものじゃないでしょう」
「こいつは、俺のものだ」
 きっぱりと言い切った土方に、その腕の中で総司は息を呑んだ……。



















次、お褥シーンがありますので、苦手な方はご注意下さい。あ、もちろん、土沖です。