まさか、大坂にいるとは思わなかった。
 否、斉藤の元にいるなどと、考えてもみなかったのだ。
 実際、考えたくもない故だったのかもしれない。
 土方は、斉藤が総司に恋慕の気持ちを寄せている事に、当然ながら気づいていた。だからこそ、自分から逃れた総司が斉藤の元へ駆け込むなど、想像もしたくなかったのだ。
 だが、考えてみれば、むしろ必然だった。
 江戸へも戻っていない以上、総司がこの京で頼りにできるのは斉藤ぐらいしかいないのだ。
 兄代りとして信頼してきた土方に、裏切られた今となっては……。





「……副長」
 斉藤は驚いたようだった。
「いつ大坂へ。こちらへ来られるとは思いもしませんでした」
「……」
 一瞬、土方は斉藤の言葉が耳に入らなかった。その斉藤の後ろで、青ざめた顔で身を竦ませている総司の存在が、彼の意識を占めていた。
 再度呼びかけられ、ようやく我に返った。
 だが、その形のよい唇からもれたのは、全く別の言葉だった。
「何故……ここに」
 言葉を発しかけてから、いや、と首をふった。一歩前へ踏み出し、手をさしのべる。
「総司」
 びくりと総司の肩が震えた。
 それに悲痛な想いを抱きつつも、土方は言葉をつづけた。
「話があるんだ、総司」
「……」
「少しでいい、話をさせてくれないか」
「……」
 だが、総司はより斉藤の背に隠れてしまった。そのまま、掠れた声で応えてくる。
「私は……話などありません」
「俺はあるんだ。頼むから、話をさせてくれ」
「お断りします。あなたと話など……したくない」
「土方さん」
 二人の間を遮ったのは、斉藤だった。
 すっと片手を広げて総司を庇いつつ、土方に鳶色の瞳をむける。
「総司も、子どもじゃないのですよ」
「そんな事、わかっている」
「なら、無理強いはやめるべきでしょう。強引すぎると思います」
 斉藤の言葉はもっともだった。だが、それが逆に土方を苛立たせる。
 怒りに燃える瞳で、総司をその背に庇う斉藤を見据えた。
「おまえには関係ないだろう」
「土方さん」
「俺は総司と話をしている」
「……私は……っ」
 不意に、総司が叫んだ。なめらかな頬が鮮やかに紅潮し、息を呑むほど美しい。
「私は、あなたと話などしたくない……!」
 そう云うなり、総司は身をひるがえした。建物の中へ駆け込んでゆく。
 思わずそれを追いかけようとした土方の前に、斉藤が立ちふさがった。
「どけ」
「いや、どきません」
「斉藤……」
「どかなければ、斬りますか」
 皮肉な口調で、斉藤は云い返した。
「副長と三番隊隊長が斬り合い、さぞかし話の種になるでしょうね」
 土方は形のよい眉を顰めた。だが、すぐ、剣呑なまなざしで斉藤を見据え、云い放つ。
「おまえには関係ない、と云ったはずだ」
「関係ありますよ。総司はおれの友人ですから」
 きっぱり云いきってから、斉藤は土方を見据えた。
「公の事ではなく、私事で総司を追っているのでしょう。なら、無理強いはできないはずだ」
「……」
「いくら昔からのつきあいでも、総司はあなたのものじゃない」
 斉藤の言葉に、土方はきつく唇を噛みしめた。
 一瞬、叫びそうになったのだ。
 あれは俺のものだ、と。
 だが、たとえどんなに恋いこがれ、望みつづけても、そうではない事はよくわかっていた。渇望するように求めても、永遠に手がとどかない。
 そして、今は──己の所業故に、より遠かった。


(……俺は……)


 押し黙ってしまった土方に、斉藤が背をむけた。ゆっくりと歩み去ってゆく。
 それを引き留める事もできぬまま、土方は固く瞼を閉ざした。












 一瞬、息がとまった。
 彼の姿を見たとたん、呼吸さえできなくなってしまったのだ。
 土方から逃れた総司が駆け込んだ先は、大坂に出張中の斉藤のもとだった。否、そこしか行くあてはなかったのだ。
 斉藤は驚いたが、すぐさま受け入れてくれた。それ程、総司の様子が尋常ではなかったのだろう。
 何を聞く訳もなく置いてくれる友人に、総司は心から感謝した。それと同時に、土方への悲しみ、怒り、絶望はより深まっていった。
 むろん、あの行為そのものも恐ろしかった。小紫の身代わりにされかけたなど、屈辱と悔しさで涙がこみあげそうだ。
 だが、何よりも総司を激しく打ちのめしたのは、自分自身の気持ちへの否定だった。
 ずっと、土方にとって自分は特別だと思っていた。京へのぼってからはより近くに寄らせ、心を開いてくれるようになった彼に、無邪気な喜びを覚えた。
 愛する男の心の一番近くにあれるのだ。それ程の幸せはなかった。
 自分が土方に認められているからこそ、だと思っていた。恋愛対象ではなくとも、総司として大切に想ってくれているからこそ、だと。
 だからこそ、生意気な事を云いもした、反抗もした。だが、それでも、土方は総司を拒絶しようとしなかった。いつも、苦笑しつつも受けいれてくれたのだ。それは、自分の存在を認めてくれているからこそだと、そう思っていたのに。
 なのに……違ったのだ。
 あの瞬間、土方は総司の存在を否定した。総司の想いも恋も何もかも、完全に否定したのだ。
 それが苦しくて辛くてたまらなかった。どうしても堪えられなかった。
 だから、逃げた。逃げ出し、屯所にも戻らず、ここにずっといたのだ。
 むろん、このままでいられるはずがない事は、よくわかっていた。だが、どうすればいいのかわからぬまま、日々は過ぎていったのだ。
 そして───


(土方さんが、ここに来るなんて……)


 総司を追ってきた訳ではないようだった。
 でなければ、あれ程、驚くはずもない。信じられぬものを見たかのような表情だった。
 話があると云った土方を、全身で拒絶した。これ以上、何も聞きたくなかった。いっそ、忘れてしまいたいのに。
 あの夜のことも、彼と過した日々も何もかも。
「……どうすればいいの……」
 総司は部屋で坐り込み、きつく唇を噛みしめた。膝上においた手は固く握りしめられている。


 どんなに忘れたいと願っても、忘れることなどできるはずもなかった。
 今でも、好きなのだ。好きで好きで、たまらないのだ。
 本当は、土方を見た瞬間、縋りつきたかった。優しく受けとめてくれる彼を、求めてしまいたくなった。
 もう何も云って欲しくなかった。
 だが、土方は話があると云ったのだ。あの夜の事を話そうとしている事は、明確だった。


「……いや」
 総司は両手で耳を塞いだ。
 子どものように首をふる。


 聞きたくなかった。
 あの夜の事も、自分の思い上がりも、これ以上剥き出しにされたくなかった。いっそ忘れてしまいたいのだ。
 叶わぬ恋の代りに求めた関係だった。彼の一番近くにいられるならと、そう固く信じていた。
 それが失われた今、どうして彼の元に戻ることができるだろう。
 もう二度と、時は戻せぬのだ。


 固く瞼を閉ざした総司は、不意に、はっとして顔をあげた。慌ててふり返る。
 だが、そこにいたのは、斉藤だった。気遣わしげな表情で、佇んでいる。
「斉藤さん……」
 総司は座り直し、小さな声で呼びかけた。
 それに斉藤は部屋へ入ってくると、障子を閉め、総司の前に腰をおろした。そのまま鳶色の瞳で、じっと見つめてくる。
 総司は視線をそらした。
「……何があったか」
 小さな声で云った。
「斉藤さんも、聞きたい…のでしょう?」
「総司」
「でも、ごめんなさい。云いたくない……もう忘れてしまいたいのです」
「……」
 しばらく黙った後、斉藤は静かに頷いた。
「わかった」
「斉藤さん……」
「おまえが云いたくないのなら、聞かない。おれは……総司、おまえに無理強いしたくないんだ」
 鳶色の瞳が静かに深まった。
「おまえが望むなら傍にいるし、望まないのなら手もさしのべない。それが、おれのやり方だと思っているから」
「……」
 何かに気づいたような表情で、総司は斉藤を見つめた。
 友人としてずっと傍にいた斉藤が、自分にどんな想いを抱いていたのか、気づいたのだ。だが、そうであっても、今の総司に受け入れる事など出来るはずもなかった。
 愛らしい顔に戸惑いの色をうかべ、そっと目を伏せてしまう。
「……」
 そんな総司を見つめ、斉藤は僅かに吐息をもらした。












 京に戻れば、また忙しい日々が始まった。 
 土方は副長の仕事に忙殺され、総司と話すことはおろか、顔をあわす事さえない日々だった。
 だが、それが偶然ではなく、故意だという事に、気づいていた。明らかに、総司に避けられていた。廊下ですれ違いそうになっても、すっと身をかわしてしまう。巡察の報告さえ伍長に任せ、決して副長室を訪れようとはしなかった。
 土方の世界から、総司は姿を消してしまっていた。これでは、行方知れずになっていた頃と変わらない。否、それ以上の苦痛が土方を襲っていた。
 この世の誰よりも愛しい者に、避けられ、嫌われているという苦痛。
 自業自得とはいえ、耐え難いほどの苦しみだった。
 その上、総司は斉藤との仲を深めていた。前は噂のみだったが、今は本当に念兄弟になったとしか思えなかった。
 二人はいつも共にあり、寄りそっていた。あの頑なな総司が、斉藤には本当に心を許しているようだった。
 その証に、斉藤の前では、愛らしい笑顔をみせるのだ。
 不器用ながら、斉藤は総司の気持ちをひきたてようとしていた。優しく見守り、面白い話を聞くと、すぐさまそれを総司に教えてやる。そんな斉藤の気持ちをわかっているのか、総司も素直に心を開いていた。
「本当に? それ、見てみたかったです」
 斉藤の話に、総司は鈴のような笑い声をたてた。花のような笑顔だ。
 それを眩しげに見つめながら、斉藤は目を細めた。近くにいた隊士たちも、珍しい総司の笑顔に見惚れてしまっている。
 土方はそんな彼らを遠目に見るたび、胸奥を抉られるようだった。激しい怒りと嫉妬に、気も狂いそうになる。
 だが、矜持の高い彼は、それらの感情を一切外に見せなかった。
 冷たく端然としている土方から、その胸奥にある激情を伺うことはできなかった。
 だが、近藤は別だった。
「──大丈夫か」
 局長室で不意に訊ねられ、土方は訝しげに近藤を見た。黒い瞳は冴え冴えと冷たく、端正な顔には何の表情もうかんでいない。
 それが逆に、彼の奥で燻る狂気にも似た感情を思わせるようで、近藤は嘆息した。
「最近のおまえを見ていると、おれも辛い」
「……何故」
「総司のことだ」
「……」
 近藤の言葉に、土方の表情がより掴み処のないものになった。男にしては長い睫毛が伏せられ、その瞳の色までも伺えなくなる。
 それに、近藤は話をつづけた。
「おれも、総司と斉藤の噂は聞いている」
「……」
「おまえは……本当に、あれでいいのか」
「いいも何も……」
 土方は、ふっと口許を歪めた。
「俺にどうしろと云うんだ。何もできるはずがねぇだろうが」
「歳」
「結局、俺は恋敵に手を貸しちまった訳さ。挙げ句、死ぬまで総司に嫌われつづける……」
 低く嗤った。
「愚かな俺には、当然の報いだよな」
 昏い光を双眸に湛えた友を眺め、近藤は嘆息した。懐手をしながらしばらく考えていたが、やがて、ゆっくりとした口調で云った。
「おまえ、正面からぶつかってみてはどうだ」
「正面?」
 訝しげな土方に、近藤は頷いた。
「堂々と己の気持ちを告げるのだ。総司に、ずっと想ってきたことを……」
「前も云っただろうが」
 土方は煩わしげに前髪を片手でかきあげた。吐き捨てるような口調で云う。
「云ってどうなるんだ。あいつが俺を受け入れてくれるはずがねぇのに、云っても仕方ない事だ」
「それはおまえの考えだろう。斉藤との仲も、ただの噂かもしれん」
「……」
「歳、しっかりしろ」
 不意に、近藤は語気を荒げた。
「おまえらしくもない。男なら、正面からぶつかっていけ」
「近藤さん……」
「己に逃げ道ばかりつくるな。総司と正面から向き合ってみるんだ」
 容赦ない近藤の言葉に、土方は目を見開いた。
 だが、すぐ、友の云うとおりだと思った。
 自分は逃げていたのだ。本気の恋だからこそ、傷つくのを恐れ、逃げていた。
 その結果、とり返しのつかぬ傷を、誰よりも大切に思っているはずの総司に負わせてしまい、それでも手をこまねいていた。総司の傷を癒す事も、弁明することも、告白することさえしなかった。
 これでは、逃げていると云われても反論できない。
「……」
 土方はきつく唇を噛みしめた。















 潔く頭を下げた土方に、総司は目を見開いた。
 斉藤と外出しての帰り道だった。
 ある小さな神社の前を通りかかった処で、突然、その鳥居の陰から土方が現われたのだ。
 とたん、総司は躯中が竦み上がるのを感じた。
「!?」
 反射的に、後ずさってしまう。
 だが、それは土方が思っているように、嫌悪のためではなかった。ただ怖いのだ。どうすればいいのか、わからないのだ。


 逃げれば逃げるほど、自分はもちろん、土方をも苦しめる事になるとわかっていた。
 それが己の弱さ故だとわかっていたが、今の総司にはどうしようもない事だったのだ。
 土方と面とむかっても、何を云えばいいのかわからない。どう振る舞えばいいのかさえ、わからない。
 そんな戸惑いが、総司に土方を避けさせていたのだが───


「……総司」
 己から後ずさる総司に、土方は端正な顔を歪めた。だが、すぐさま気持ちを切り替えたようだった。
 きっと唇を噛んでから、話しかけてくる。
「話を……させてくれないか」
「土方さん、総司は」
「頼む、少しでいいんだ」
 そう云って、頭を下げた土方に、斉藤も総司も目を瞠った。
 人一倍誇り高い彼が、ただ話をさせて欲しい──そんな事のためだけに、頭を下げているのだ。信じられないことだった。
 総司はいたたまれなくなった。
「そんな事しないで下さい」
「総司……」
「土方さんが、私などのために……そんな……」
 きつく両手を握りしめた総司に、斉藤は視線をやった。彼のすぐ傍で、総司は頬を青ざめさせ、微かに唇を震わせている。
 あの時と同じだった。だが、あの大坂の時のように、土方を退ける気には斉藤もなれなかった。
「……先に帰っているよ」
 そう云ってから歩み出した斉藤に、総司も何も云わなかった。ただ俯き、押し黙っていた。
 実際の話、斉藤と総司はただの友人だった。契りなど結んでもいない。だが、今ここで立ち去れば、それは尚遠くなる気がした。それでも、斉藤は背をむけた。
 それを見送る総司に、土方が促した。
「とりあえず、この神社で話そう」
「……はい」
 総司は頷いた。
 綺麗に掃き清められた神社の境内は、しんと静まりかえっている。
 土方は社のすぐ傍にある石段の上へ、総司を導いた。坐らせ、自分は少し離れた場所に腰をおろす。それが何を意味しているのかは、一目瞭然だった。土方は、総司が自分を恐れていると思っているのだ。
 しばらくの間、土方は無言のままだった。僅かに目を伏せ、黙り込んでいる。
 それに、口火を切ったのは、総司の方だった。沈黙に堪えきれなくなってしまったのだ。
「……話とは何ですか」
 はっとしたように土方が顔をあげた。とたん、深く澄んだ黒い瞳が総司を見つめる。
 黒曜石のような、きれいな瞳だった。
 どきりと心の臓が跳ね上がった。
 慌てて目をそらしながら、総司は言葉をつづけた。
「この間の事なら……もう忘れたいのです。何もなかった事にしたいと思っています」
「……」
「もちろん、誰にも云いませんから……安心して下さい」
 小さな声で云う総司は、やはり彼を恐れているようだった。細い肩がすくめられ、両手を握りあわせている。
 到底、言葉どおりになるとは思えぬ雰囲気だった。何もなかった事になど、できるはずもないのだ。
 そして、彼もそんなつもりはなかった。
 土方は一瞬きつく唇を噛んでから、答えた。
「俺は……何もなかった事にするつもりなど、ない」
「……土方、さん」
 総司の目が大きく見開かれた。