ふり返った総司は、目を見開いた。
 薄闇の中、同じように肩で息をしながら、土方が立っていたのだ。黒い瞳だけが獣のように光っている。
 まるで情事の後のようだと思ったとたん、先程の光景が脳裏に蘇った。
「!」
 手をふり払うように、大きく身を捩った。そのまま、叫ぶ。
 夜空に、総司の声が響いた。
「離して!」
「総司」
「この手、離して下さい」
 総司はきつい瞳で、土方を見上げた。それに、一瞬怯んだようだが、それでも彼は手を離さなかった。
 切なげな表情で、眉を顰める。
「……離したら、逃げるだろう」
「そんなの……私の勝手です」
「総司、怒るのはわかる。だが、俺の話を聞いてくれないか」
「何を?」
 総司は酷く醒めた表情で、男を見やった。桜色の唇が、嘲笑をうかべる。
「私が何を怒っていると……?」
「……」
 思わず、土方は言葉に詰まった。
 聞いてくれと云ったが、何をどう話せばいいのかわからなかったのだ。弁明すべきなのか、誤魔化すべきなのか、明晰な彼にしては珍しく何も云えなくなってしまう。
 そんな土方の手をゆっくりとふり解き、総司は一歩離れた。それから、静かな声で云った。
「私が怒っているというのなら、その理由を教えて下さい」
 黙っている土方に、くすっと笑う。
「私が怒る理由などない。あなたが島原で馴染みの女といた、ただそれだけの事じゃないですか」
「……」
「それを、どうして私が怒る必要があるの?」
「……なら」
 土方は吐息をもらしてから、ゆっくりと訊ねた。
「何故、逃げる」
「……」
「それだけの事だと云うのなら、逃げる必要がないだろう」
 総司の頬に、さっと赤みがさした。明らかな怒りに、その瞳が燃えあがる。
 思わず叫んだ。
「その理由を私に云えと? あなたはそう云うのですか!」
「総司」
「よくもそんな事が云えますね。でも、なら、云ってあげます」
 一瞬言葉を途切らせてから、つづけた。
「土方さんが云えないのなら、私が云ってやる」
 そして、叫んだ。
「私とうり二つの女を抱いて、あなたは楽しかった!?」
「……総司」
「この…私が……っ」
 総司は片手をあげ、ぎゅっと胸もとを掴んだ。今にも泣き出しそうな顔で、言葉をつづけた。
「どんな気持ちになるか……あなたは考えた事がなかったの? どんなに惨めで、傷つくか、あなたは何も……っ」
「総司」
 悔恨と罪深さで、土方は胸が詰まった。たまらず手をのばしかけるが、総司はそれを荒々しく払いのけた。
「いや、さわらないで!」
「!」
 鋭く息を呑んだ。
 目を見開き、呆然と総司を見下ろす。
 その前で、総司は激しく彼を罵った。
「あの女を抱いた手で、私にさわらないで!」
「……」
「私と瓜二つの女を抱くなんて、あなたは狂っている! おかしくなければ、あんなこと出来るはずがない……っ」
 そう叫んだ総司は、土方を見るのも嫌だとばかりに激しく顔を背けた。青ざめた顔のまま、血が吹きでそうなほど唇を噛みしめている。
 重苦しい沈黙が落ちた。
「……」
 総司は、泣き出してしまいたかった。みっともなく、恥も外聞もなく泣いてしまいたかった。


 ずっと愛していた。
 叶わぬ片恋だとわかっていたが、それでも、彼の事だけを愛していた。
 そんな総司に対し、土方は兄代わりとしての態度を崩さなかったが、それでも大切にしてくれた。いつも傍に置き、優しく笑いかけてくれたのだ。
 京にのぼってからは、尚の事だった。他の人々が彼から離れるのと逆に、土方と総司の関係はより親密なものとなっていたのだ。
 その理由を、総司は、彼が自分を認めてくれているからだと思っていた。愛してくれていなくても、弟代りとしてでも大切に思い、心を開いてくれている。そう信じていたのだ。
 だが──それは、違った。
 土方は、総司が自分の愛する娘と瓜二つだからこそ、傍に置いたのだ。優しくしてくれたのだ。
 そんな事も知らず、自分が彼にとって特別だと自惚れていたなど、どこまで思い上がっていたのか。
 それでも、今も尚、彼のことが好きで好きでたまらない自分が、惨めだった。大声で泣き出したかった。彼を非難する事でしか、感情の始末ができそうになかった。
 いっそ……嘘だと云って欲しいのに。
 あの小紫と瓜二つであっても、総司は総司として認めていたからこそ傍に置いてきたのだと、そう云って欲しかった。一番近くにいるのはおまえだよと、そう云って欲しかったのだ。
 だが、そんな総司の想いは、土方に伝わっていなかった。


「……狂っている、か」
 突然、低い声が呟いた。
 その声音に異常なものを感じ、総司が訝しげに見やると、土方は僅かに目を伏せていた。うっすらとした笑みが、その口許にうかべられている。
 くっくっと喉を鳴らし、嗤った。
「確かに異常だ。狂っている。全部……おまえの云うとおりだよ」
「……土方…さん……?」
「あぁ、そうさ。俺は狂っているんだ」
 土方は形のよい唇を歪め、ゆっくりと顔をあげた。その瞳を見たとたん、息を呑む。
 昏い闇のような瞳だった。
 底冷えするほどの怒りと苦痛を湛えた、双眸だ。
「だからこそ、小紫を抱いた。おまえと瓜二つの娘を、何度も抱いてやったのさ」
「……っ」
 総司は信じられないものを見たように、目を見開いた。そのまま、ゆるゆると首をふった。
「……どう…して?」
「……」
「どうして、そんな酷い事が云えるのです」
「総司」
「わから…ない。私はあなたの事が何も……わからない!」
 そう叫ぶなり、総司は背を向け、走り出そうとした。白い月明かりが射す道を、駆け出していこうとしたのだ。
 だが、それは叶わなかった。
 不意に、後ろから手がのびたかと思うと、総司を捉えた。
 あっと目を見開いた瞬間、その躯は男の腕の中だった。息もとまるほど、抱きしめられる。
「!」
 声を呑んだ総司を、土方は後ろから狂おしく抱きしめた。
 耳もとに男の息づかいを感じ、総司の躯は竦みあがった。
「……わからない、だと?」
 くっと、土方が喉奥で嗤った。
 獣じみた、低い笑い声だった。
「なら、教えてやるよ」
「……土方、さ……っ」
「俺が何を考えてきたのか、どんなふうにおまえを見てきたのか……全部教えてやる……!」
 突然、総司の躯を浮遊感が襲った。
 抱きあげられたのだと気づいた時は、もう遅かった。
 土方は総司を抱きあげ、雑木林の中へ歩み入ってゆく処だった。それに、目を見開いた。
「な、何……下ろしてッ!」
「……」
「土方さん……っ」
 訳がわからぬうちに、雑木林の中へ連れこまれた。そのまま、枯れ葉の上へ押し倒される。
 のしかかってくる男に、総司は混乱した。だが、すぐに後ろ髪を掴まれ、仰向かされた。
 見上げたとたん、唇が重ねられた。目を見開いた総司に一瞬離れ、すぐまた口づけられる。息もとまるほどの口づけだった。
 深く唇を重ね、舌で咥内を探ってくる。舌先を突かれ、びりっとした甘い疼きに躯を震わせた。
「……ゃ……ッ」
 口づけの合間に、総司は首をふって抗おうとした。だが、その細い手首も掴まれ、地に押しつけられる。
 総司は信じられない行為に、ただ震えるばかりだった。何が何だかわからない。
 いったい、自分が今、何をされているのか。
 誰に口づけられているのか。
「ぃ、や……ッ」
 男の唇が首筋に這わされ、ぞくりと背筋が震えた。耳裏から首筋を何度も口づけられ、男の大きな掌が躯中を撫でまわしてゆく。
 性急な求め方だった。獣じみた、それだけを目的とするような行為だ。
 土方が着物の袷に手をさしいれ、押し広げた瞬間、総司はようやく我に返った。
 これから何をされるのか、やっと理解できたのだ。


(この人は、私を小紫の身代わりにしている……!)


 とたん、かっと頭に血がのぼった。
 男の肩に両手を突っぱね、激しく身を捩る。だが、体格の差はあまりにも明らかだった。まったく歯がたたないのだ。
 必死になって何度も、男の肩や胸を拳で叩いた。
「いや! 離して……いやあ!」
「……っ、総司」
「やめて……怖いっ、こんなの嫌だ……ッ」
 半ばもう泣き出しかけていた。
 突然、土方が見知らぬ男に変わったような気がした。否、それは事実だった。
 ここにいるのは、総司が愛してきた彼ではない。
 総司と同じ顔の少女を平気で抱き、挙げ句、その身代わりの行為を強いてくる身勝手極まりない男なのだ。
 こんなにも愛しているのに、ずっと恋してきたのに。
 その想いを知ろうともせず、何もかも壊してしまおうとしている彼。
 信じられなかった。酷すぎると思った。
「や、いやっ……」
 総司は泣きながら抵抗し、暴れた。
 だが、それでも、土方はその細い躯を組み伏せ、肌に男の所有を刻んでゆく。なめらかな白い肌のあちこちに口づけられ、花が咲いたような痣は、夜目にも艶やかだった。
「……」
 土方は、自分が組み敷いた総司を見下ろした。
 総司は怯えきった様子で、啜り泣いている。それを哀れにも思ったが、今更引き返せるはずもなかった。
 唇を引き結び、着物の帯に手をかける。
 その瞬間、だった。
「!」
 不意に、横腹を激痛が襲った。
 総司が身を捩ったかと思うと、そこへ膝頭を叩き込んだのだ。
 的確に傷跡を狙った反撃だった。
「ッ……」
 低く呻き、土方は思わず傷痕を庇った。とたん、その体の下から総司が逃げ出す。
 あっという間に立ち上がった総司は、その場から走り出した。
 むろん、着物は乱れに乱れ、膝も震えていたが、とにかくここを離れなければならない、それしか考えられなかった。
 よろめきつつも走り去ろうとする総司に、土方が叫んだ。
「……総司……ッ!」
 苦痛と切なさを孕んだ獣のような叫び声だった。
 それを聞いた瞬間、総司は胸奥が苦しくなった。大声で泣き出したくなる。
 だが、ふり返らなかった。ふり返ってはいけないと思った。
 そして、雑木林から抜け出した総司は、懸命に駆けつづけたのだ。
 白い月明かりの中を。














「いったい、何があったのだ」
 そう問いかけた近藤に、土方は目を伏せた。
 翌朝の事だった。
 屯所へ戻らぬ総司を案じている近藤の元へ、一通の文が届けられた。総司からのものだった。
 そこには、しばらく隊を離れたい事、しかし、必ず戻る故心配しないで欲しいと、簡潔に書かれてあった。
 だが、局長室で、その文を見せられた土方が沈痛な表情になったため、近藤が問いただしたのだ。


 仕事上でならば冷徹な態度を貫ける土方も、総司の事となると、ただの若い男になってしまう。
 昔からそうだった。
 それが総司への恋慕に起因していると知っていた近藤は、気づかいと心配のまま二人を見守ってきたのだが……


「何があったか、話せんのか」
 静かに問いかける近藤に、土方はゆるく首をふった。片手で煩わしげに前髪をかきあげ、吐息をもらす。
「……いや、話すよ」
 土方は僅かに膝をくずすと、低い声で云った。
「あんたも、小紫のことは知っているだろう」
「あぁ。その……総司に似た娘だな」
 頷いてから、近藤は、はっとしたように目を見開いた。
「まさか、総司に露見したのか!」
「あぁ」
「歳」
「いや、話はそれだけじゃねぇ」
 土方は苦しげに眉を顰めた。一瞬、唇を噛んでから、言葉をつづける。
「小紫の事を罵られた俺は、逆上して……総司を手込めにしかけた」
「……何、だと?」
 一瞬、近藤は理解できなかったようだった。
 しばらく呆然と土方を見ていたが、やがて、彼の云った意味が理解できたとたん、かっと顔に血をのぼらせた。
 思わず声を荒げる。
「歳! おまえは……ッ」
「わかっている」
 近藤の言葉を遮った。
「幾ら罵られても仕方ねぇよな、俺は最低の事をしちまったんだ」
「本当なのか、それは」
「あぁ。途中で総司は逃げ出したが、それでも、屯所に帰ってくるはずがない。男に襲われたんだ、それも……兄代りとしてきたこの俺に。戻ってくるはずがねぇよ」
 目を伏せ、自嘲の笑みをうかべた。
 その端正な顔には、憔悴の色が濃い。そう云いつつも、やはり総司を待っていたのだろう。昨夜屯所に帰ってから一睡もしてないようだった。
 近藤はそんな男を眺めつつ、訊ねた。
「一つ聞きたいが、おまえは総司に己の想いを告げたのか」
「……いや」
「まさか、何も云わず手込めにしようとしたのか」
「あぁ……」
 頷いた土方に、近藤は信じられぬという顔で首をふった。懐手をしつつ、ため息をつく。
「それでは総司が逃げ出して当然だろう。何故、告げなかったのだ」
「告げて……それでどうなるんだ」
 低い声で、土方は呟いた。ふっと口許を歪める。
「初で潔癖で、男女の事さえ嫌悪する総司だぞ。あいつが俺を受け入れるはずがねぇだろうが」
「……」
「だからこそ、俺は堪えてきたし、兄代りとして振る舞ってきた。なのに、昨夜……」
 ふっと言葉が途切れた。
 近藤が見れば、土方はきつく唇を噛みしめている。その思い詰めたような表情に、思わず手をのばし、宥めるように膝を叩いてやった。
「歳、あまり思い詰めるな」
「……」
「おまえは総司が受け入れられるはずもないと云ったが、それはわからんだろう。総司の気持ちは、総司自身にしかわからんのだ」
「近藤さん」
 土方は目を伏せたまま、低く笑った。
「慰めはいらねぇよ」
「歳」
「だいたい、あんただって、総司が俺を受け入れるはずもないと思ったからこそ、あの縁談を進めたんじゃねぇのか」
「……あれは」
 近藤の厳つい顔に、苦渋の色がうかんだ。
「あれは、おまえに思いきらせる為だったのだ。総司が妻を娶れば、おまえも吹っ切れるだろうと。だが……」
「吹っ切れるどころか、総司に似た女へ走っちまった訳だ。その挙げ句……」
 言葉が途切れた。
 土方は膝上に置いた拳を固めた。


『私と瓜二つの女を抱くなんて、あなたは狂っている!』


 耳奥に蘇った叫び。
 鋭い錐に貫かれたような苦痛。
 あんな事をしたかった訳ではなかった。
 だが、総司に罵られた瞬間、堪えに堪えてきたものが爆発してしまったのだ。
 長い年月の間に、土方が総司に抱く気持ちは少しずつ凝り固まっていった。初めは淡く優しいものだったそれは、やがて、叶えられぬからこその狂気じみた執着へ。
 それは、もはや愛情と呼べるものではなかったのかもしれない。
 愛と憎しみがない混ざる狂気にも似た激情は、土方の奥深くで、黒く燃える焔と化していた。そして、それは、最愛の者に拒絶された瞬間、総司へと一気に襲いかかってしまったのだ。
 叶わぬ想いならば、黒い焔で互いを灼きつくしてしまいたかった。たとえ煉獄の炎に灼かれたとしても、総司となら、それは至福だ。
 そこまで願ってしまう程、彼は追いつめられていたのだ。
 だが、そんな土方を、総司は一人置き去りにした。彼の手から逃れ、駆け去ってしまったのだ。


「歳……」
 昏い色を双眸に湛える友人を心配したのか、近藤が静かに呼びかけた。
 それに微かに笑ってみせながら、土方は、総司はもう戻ってこないのかもしれないと思った。













 数日後、土方は大坂の街を歩いていた。
 出張してきたのだ。先に、大坂入りしている斉藤がこの先の宿で待っているはずだった。
 土方は空を見上げ、目を細めた。
 あれから、数日がたっていた。だが、依然として、総司は帰ってこない。文もあれきりだった。
 隊内には出張中という事にしてあるが、いつまでもそれが続く訳もなかった。どうすればいいのかと、近藤も考えあぐねているようだった。


(全部、俺のせいだな……)


 土方は今更ながら、あの夜の事を悔いた。
 だが、悔いても何をしても、戻ってこないものは戻ってこないのだ。
 彼自身、あの夜の己を思い出すと、殴りつけたいぐらいだった。いくら逆上したからといって、あんなにも大切に愛してきた総司を手込めにしようとするなど、気が狂ったとしか思えなかった。
 だが、そう考えたとたん、ほろ苦い想いが一方でこみあげる。
「……もともと狂っているか」
 小紫を抱いた時から、狂っていたのだ。皆、総司の云うとおりだった。
 狂っていなければ、あんな事ができるはずもない。
 だが、それでも、偽りだ、形代だとわかっていても抱かずにはいられなかった。見つめずにはいられなかった。
 それ程、絶望の淵に追いつめられていたのだから……。
「……」
 土方はゆるく首をふると、宿の門をくぐった。
 門から飛び石と庭がつづき、その奥に玄関がある。そこから、ちょうど斉藤が出てくる処だった。
 だが、その後ろにいる若者に気づいた瞬間、土方は息を呑んだ。


(……総司……!?)


 思わず足が止まった。呆然と見つめる。
 立ちつくす彼に気づいたのか、総司がこちらを見た。とたん、その愛らしい顔がさっと青ざめる。
 その目が見開かれ、桜色の唇がわなないた。
「……っ」
 次の瞬間、総司は激しく顔を背けた。まるで、目にするのも嫌だと云わんばかりに。
 そして、呆然と立ちつくす土方の前で、総司は斉藤の背に身を隠した……。