土方の傷は、それ程深くはなかった。
むろん、浅手と云える程のものでもなかった為、暫しの安静を医者に云い渡されたようだった。
玄関口で一時意識を失った彼だったが、すぐに自分を取り戻した。支えてくれる総司の手を借り、何とか自室へ戻ったのだ。傷の手当てはしばらくかかり、総司や近藤を心配させたが、翌日には起き上がれるようになっていた。
そう聞いても心配でたまらなく、総司はそっと副長室を訪れた。
驚いた事に、安静にと云われたにもかかわらず、土方はいつものように隊務をとっていた。むろん、無理せぬよう外出は控えているが。
「……本当に大丈夫なのですか?」
そう訊ねた総司に、土方は苦笑した。片手で脇腹をおさえながら、答える。
「大丈夫だから、こうして起きているのだろうが」
「ですが……」
「これぐらいの傷で、休んでいられるか」
忙しいと云わんばかりの口調に、総司は唇を噛んだ。
これ以上、云っても仕方ないだろう。彼はいつもこうなのだ。
まるで、傷を舐めて癒す獣のようだ。
獰猛で気高い獣は、誰の助けをも撥ね付けてしまう。
「土方さん」
呼びかけた総司に、土方は僅かにふり返った。訝しげな表情だ。
「何だ」
「あの……縁談の事なのですが」
「……またその話か」
土方が形のよい眉を顰めた。不機嫌そうな口調に、思わず怯んだが、言葉をつづけた。
「そうではなくて……あの話、やはり断りました」
「え?」
土方は驚いたように、総司を見た。本当に驚いたらしく、切れの長い目が僅かに見開かれている。
「本当に……断ったのか?」
「えぇ」
「……俺に云われたからか」
「違います」
総司は小さく首をふった。
「ただ、その気になれなかったので断ったのです」
「そうか……」
「土方さんは?」
「え?」
首をかしげる土方を見つめ、総司は唇を噛んだ。だが、躊躇いがちに訊ねる。
「土方さんは……妻を娶らないのですか?」
「何だ、いきなり」
土方は文机に肘をつき、苦笑した。
「おまえの話が終ったと思ったら、俺の事かよ。仲人でも始めるつもりか」
「まさか」
総司は、どうしてこんな事を云い出してしまったのだろうと思った。
だが、どうしても知りたかったのだ。
もしかすると、彼自身の口から、否定の言葉を聞きたかったのかも知れない。
「最近、島原に通われるようになったと聞いたので。天神の小紫さん、でしたか……」
最後まで云えなかった。思わず声を呑む。
「──」
総司が「小紫」の名を出したとたん、土方の顔から、一切の表情がかき消されてしまったのだ。
黒い瞳が昏く燃えるような光を帯びた。まるで、親の仇でも見るような冷たい表情で、こちらをじっと見据えている。
総司は、見た事もない土方の様子に、竦み上がった。
「……その名を」
土方は総司を見つめたまま、ゆっくりと訊ねた。
「その名を……どこで聞いた」
「え……」
「どこで聞いたと、訊ねている」
低い声で問いを重ねられ、総司はおずおずと答えた。
「あの……近藤先生に……」
「……」
「土方さん……」
総司はどうしたらいいのかわからず、何を云えばいいのかもわからなかった。
だが、このまま去る事も出来ず、躊躇いがちにだったが、訊ねてしまう。
「私は……何かいけない事を云ったのですか?」
「……」
土方は、ふと目をそらした。だが、昏く翳った瞳のまま、押し黙っている。
冷たいほど整ったその横顔は、先程まで総司の相手をしてくれていた彼とは、まるで別人のようだった。
総司はそんな土方に、拒絶の壁を感じた。
小紫の事には、ふれられたくないのか。それ程、彼女を大切に想っているという証なのか。
そう思ったとたん、胸の奥が疼くように痛んだ。思わず泣き出しそうになる。
「……申し訳ありませんでした」
総司は小さな声で謝り、ゆっくりと立ち上がった。返事はない。静かにそっと障子を閉めた後、総司は吐息をもらした。
無意識のうちに息をつめていたのだろう。
ゆっくりと廊下を歩いていきながら、身の内が冷えるような悲しみに、涙がこぼれそうになった。
……総司が悪い訳ではなかった。
いけない事を、云った訳でもない。
ただ、総司が小紫の名を口にした瞬間、目前に己の罪を突きつけられたような気がしたのだ。
気も狂わんばかりに愛する者がありながら、想いを告げる事すらせず、その形代を抱いて己を偽っている。否、偽る事などできはしないのに。
小紫は、どれほど姿形が似ていようと、総司自身ではありえぬのだから。そして、その事を、土方は誰よりもわかっている。どうしようもない程感じていながら、それでも、小紫を形代として抱きつづける愚かさは、何故なのか。
「……俺は、最低だな」
土方は視線を落とし、ほろ苦い笑みをうかべた。
先程、小紫の名を総司が口にしたとたん、己のすべてを晒してしまいそうになった。後ろめたさに、声を失った。
なのに、まるで叱咤するように総司を問いつめて───
「……」
青ざめた顔で、怯えたように彼を見ていた総司を思い出すと、胸が痛んだ。
決して、傷つけたい訳ではなかった。
むしろ、守りたいと思ったからこそ、己から遠ざけたのだ。その形代として小紫を求めた。
なのに──何故、あんな態度をとってしまったのだろう。
常ならば、どんな事にも冷静に対処できる彼だが、総司の事になると、つい本音が出てしまう。取り繕うことができない。
それは、総司が、土方にとって、心の内のもっとも柔らかい部分に存在している事を意味していたが、ならば尚、どうする事もできなかった。
十年もの年月をかけて、総司という存在は、土方の中にもはや抜きがたいほど食い込んでいたのだ。
総司を失えば、一瞬にして、心の均衡が崩れてしまう程に……。
「俺は……狂うか」
薄く嗤った。
失えば、狂う。
ならば、手に入らなければ?
他の者に奪われたなら──
「どのみち、狂うだろうさ」
そう呟いた土方は、物憂げな仕草で文机に肘をついた。脇腹の傷が疼く。
だが、それ以上に、総司を傷つけたやもしれぬという悔いの方が、遙かに苦痛だった……。
巡察から戻った総司は、着替えをしながらふと目を伏せた。
なめらかな頬に長い睫毛が翳りをおとすさまは、見ている者がいない事がもったいない程の、愛らしさだった。まさに可憐な花菫だ。
だが、己自身は全く自覚のないまま、総司はそっと吐息をもらした。
(……土方さん)
彼の事を想うと、気持ちが沈んだ。
総司にとって、土方は愛しい男であり、それは新撰組副長として冷徹な顔を見せるようになってからも、変わることはなかった。否、変わらぬはずだった。だが、最近の彼の態度には、戸惑ってばかりだったのだ。
土方との関係は、均衡のとれたものであるはずだった。土方は総司をより近くに寄せ、総司は、彼の心の最も近い場所にいる事が許されていた。
だが、最近は違う。わからないのだ。
つい先程まで、昔どおりの明るく優しい笑顔で接してくれていたかと思えば、不意に冷たく刺すような視線をむけられる。その表情の怜悧さは、総司の心をすっと冷えさせるものがあった。
そのくせ、時折、息をつめてしまうほど熱っぽい瞳で見られている事に、気づくこともある。それはごく稀な事だったが、総司が息を呑んでふり返る前の一瞬、土方から向けられる熱だった。
その熱がどんな感情を意味しているかは、わからない。ただ、生半可な気持ちで近寄れば、只ではすまなくなる──そんな予感がした。
総司は着替えを終えると、畳に坐り込んだ。明け放たれた障子から庭を眺めやる。
ふと、その細い眉が顰められた。
茜色の光が射し込みはじめた、庭先。その遠く向こうに見える廊下を、一人の男が歩いてゆく処だったのだ。
すらりとした長身に、黒い着物を着流している。
後ろ姿でも、すぐわかった。あれは。
「……土方さん」
総司は思わず立ち上がった。
彼が外出するのだとわかった。それも、私用だ。
とたん、胸奥がざわめいた。打ち鳴らすように、総司を酷くせき立てる。
「島原へ行く、の……?」
そう呟いた己の声が、狂おしく掠れたものである事に、気づいていなかった。きつく唇を噛みしめる。
総司は廊下に歩み出ると、土方の後を追った。気づかれぬよう、かなり距離をあけて屯所の中を歩いてゆく。
「……」
案の定、土方は外出した。無造作に草履へ足を突っ込み、歩き出してゆく姿が様になっている。
屯所の門を出ると、一陣の風が走り、黒い着物の裾を翻らせた。
土方は真っ直ぐ島原へ向うようだった。それに総司は唇を噛みしめると、後を追った。
どうこうしようなどと、考えていなかった。見とがめられた時のことも考えていなかった。
ただ、後を追ってしまったのだ。
それは、浅はかだったのか。愚かだったのか。
いずれにしろ、総司の行為は、すべての引き金となった。
この夜、二人は、戻りえぬ岐路を迎えたのだ……。
島原を訪れたのは、久方ぶりだった。
怪我の事もあったが、総司に小紫の名を出された事で、気が削がれてしまったのだ。
久々に訪れた土方を、小紫は常代りない態度で迎えた。総司とよく似た、大きな瞳でじっと見つめてくる。
この娘は、言葉は語らぬくせに、瞳が雄弁に語りかけるのだ。
ただ、それは淋しいと告げていなかった。
久し振りに来てくれた客を、歓迎している。それだけの事だった。
掴みどころのない淡々とした様も、小紫は総司によく似ている。どこか、浮世離れした感じがあるのだ。
結局、その夜、土方は、小紫に酒の相手をさせただけだった。何とはなしに、褥を共にする気にはなれなかったのだ。
そう告げた土方に、小紫は微かに小首をかしげた。
飽きたのかと、そう問いかけられている気がして、土方は答えた。
「……気が乗らんだけだ」
それに、小紫はちいさく頷いた。淡く微笑んだ。
どきりとした。
まるで、見透かされているような気がしたのだ。
思えば、小紫は不思議な存在だった。
総司の形代として求めたはずなのに、最近、その性質までも似ているような気がしてしまう。だが、土方は、それだけ追い詰められているという事かと、己を自嘲した。
愛しいものが手に入らず、その形代である小紫に、少しでも総司と似た処を見つけだそうとあがいている。だからこそ、似ている部分があれば、愚かなほどそれを見つめてしまうのだ。
むろん、小紫は総司ではなかった。
少女であるし、また、総司ほど残酷でもない。
総司は……ある意味、残酷だった。
花菫のように愛らしく可憐でありながら、どこか無邪気なまでの残酷さがあった。無意識のうちに男を惑わし、翻弄するのだ。それに男たちが引きずり回され苦しんでも、関心さえ向けなかった。全く気づいていないのだろう。
実際、それを土方は見た事があったし、自分自身も同じようなめにあわされてきた。
総司にとっては、ただの微笑みや親しさであっても、男にすれば虜にされてしまう。己の魅力を知らぬからこその行為だと、土方は眉を顰めていた。それ故、総司が手痛いめにあわぬよう気をつけ、人知れず守ってきてやったのだ。
だが、そんな土方自身も、総司の残酷さに翻弄されている。その気もないくせに身を寄せ、時折、彼にだけ見せてくれる愛らしい笑顔。挙げ句、抱きしめようとした瞬間、するりと逃げ、不思議そうに見上げてくる瞳。
気が狂いそうだった。
頭がおかしくなって、そのうち総司を手込めにしてしまいそうで、どうにもならぬ処にまで追いつめられていた。
だからこそ、小紫を形代として抱くようになったのだが……
一通り酒を飲んだ後、店を出た。
外はむろん、まだ賑わっていた。華やかで艶めかしい花街独特の雰囲気に、酒もあってか、くらりと酩酊されそうになる。
小紫は店の外まで、土方を見送りに出てきてくれた。彼女にとって一番の馴染みの客であるのだから、当然のことだろう。
長い睫毛を瞬かせ、じっと見上げてくる小紫に、土方は手をのばした。そこにいるのが異なる者だとわかっていても、こうして見つめられると、おかしいほど胸が騒ぐ。
白い頬を手のひらで包みこみ、彼にしては優しい声で囁いた。
「また来る、小紫」
黙って頭を下げる彼女に頷き、土方は踵を返した。
その時、だった。
突き刺すような鋭い視線を感じ、眉を顰めた。敵かと、一瞬思う。
さり気ない仕草で、すっと視線を周囲に流した土方は、とたん、息を呑んだ。
「……!」
目を見開いた。一瞬、声さえでなかった。
だが、それは───
「……総…司……っ」
確かに、総司だった。
色街の艶やかな光景の中、一人、そこに立ちつくしている。
その目が見開かれ、桜色の唇が何かもの云いたげに僅かに開かれていた。
土方と視線が絡みあう。
とたん、総司はゆるゆると首をふった。信じられないものを見たように、首をふりながら後ずさる。
否、実際、信じられないものを見たのだろう。
自分と同じ顔をした娘を抱いていた、男の姿を。
「……っ!」
不意に、総司が身をひるがえした。
まるで何かから逃れるように、人波の中へ駆け出してゆく。
「……総司ッ!」
土方は、思わず叫んでいた。
自分が見たものが信じられなかった。
土方を追い、辿り着いた先にあった島原の華やかさ。
だが、そこで、総司は信じられないものを見てしまったのだ。
(あれは……何?)
頭の奥が激しく痛んだ。
目の前がすうっと霞んでゆく。
それでも何故か、土方とその少女の姿だけは浮かびあがるように、まざまざと見えた。拒絶してしまいたい総司に、容赦なく真実を突きつけてくる。
土方が微笑みかけていた。
少女の白い頬を掌で包みこみ、何か囁きかける。
見つめあう二人は、絵のようだった。
だが、総司が衝撃を受けたのは、それではない。
少女の顔、だった。
美しく化粧した少女の───
(見たことがある。よく似ている、誰に……?)
感情が拒絶していた。
だが、現は変わらない。真実は容赦ない。
総司は息を呑み、目を見開いた。かたかたと躯中が細かく震えはじめた。
「……っ」
あれは、自分なのだ。
自分とうり二つの娘だった。
その少女と、土方は睦み合っていたのだ。
自分とうり二つの娘を抱いていた。
頭が混乱し、感情が激しく渦巻いた。息ができなかった。なのに、叫びだしそうになった。
このままでは、悲鳴をあげてしまう!
そう思った瞬間、土方がこちらをふり返った。訝しげに眉を顰め、とたん、大きく目を見開く。
それを見たのが、最後だった。もう我慢できなかった。
「……総司ッ!」
男の叫びを耳にしながら、総司はその場から逃げ出した。文字通り、逃げ出したのだ。
怖くて恐ろしくて、逃げたかった。
どうしたらいいのか、何をどう考えていいのかさえ、わからなかった。いったい、何が起こったのか、理解できなかったのだ。
無我夢中で駆けるうち、島原から抜け出していた。不夜城である島原を抜ければ、町には夜の帳が降りている。家も田畑も雑木林も、何もかもが闇にひっそりと沈んでいた。
その中を駆けていた総司は、はぁはぁと息を弾ませながら、不意に立ち止まった。
周囲には、雑木林と荒れた道しかなかった。家々の明かりは遠くに見えている。
躯中が熱くて、なのに、指さきだけが冷たかった。耳奥できんと音が鳴る。
「……」
見上げると、夜空に満月が浮かんでいた。白い光が辺りに降り注ぐ。
きつく唇を噛んだ。
何も……考えたくなかった。
どうして、彼が自分とうり二つの娘を抱いたのか。
何故、馴染みにしていたのか。
彼が自分を見た時の表情は、何を意味していたのか。
総司は固く瞼を閉ざした。
その時、だった。
突然、背後から気配が迫り、乱暴に腕を掴まれた。
