「……江戸へ帰りたい?」
 土方は杯をもつ手をとめ、聞き返した。
 突然の申し出に、さすがの彼も驚いたようだった。
「はい」
 総司は静かに頷いた。


 小料理屋の二階だった。
 小綺麗な部屋はあたためられ、とても居心地がよい。
 話があるからと誘い出したのだ。昼食を一緒にとりましょうと云った総司に、土方は珍しいなと笑いつつ、ついて来てくれた。
 そして、一通り食事を終えた後、話を切り出したのだ。屯所で出来る話ではないと思っていた。
 新撰組は脱退を許さない。なのに、いきなり江戸へ帰りたいなど、許されるはずもなかった。
 土方と口論になるかもしれない。
 それを覚悟した総司は、屯所の外で話をしようと思ったのだ。


 杯を卓に置く音が響いた。
「それは……」
 土方は僅かに眉を顰めつつ、訊ねた。
「しばらくの間……という事か」
「いいえ」
 僅かに躊躇ったが、言葉をつづけた。
「京へ戻ってくるつもりはありません」
「総司」
「隊自体を脱したいのです」
 土方はしばらく押し黙った。総司の意図を計りかねているのだろう。
 やがて、顔をあげると、総司をまっすぐ見つめた。黒い瞳に見つめられ、知らず知らずのうちに頬が上気する。
「……そんな事」
 僅かに苦笑まじりの声音だった。
「できるはずがねぇだろう」
「何故ですか」
「今更、聞くなよ。隊規を忘れたのか」
 どこか困った子どもを宥めるような口調に、きっと唇を引き結んだ。
「忘れていません」
「なら、わかりきった話だ。江戸へは帰れん」
 それで話を打ち切るつもりか、土方は再び杯を取り上げた。酒を注ごうとする。
 総司は思わず膝をすすめた。手をのばし、彼の腕を掴む。
「私は江戸へ帰りたいのです」
「……」
「お願いです、帰し……」
「江戸へは帰さない」
 鞭打つような鋭い口調だった。
 びくりと目を見開いたとたん、土方がふり向いた。躯ごと向き直り、両手をのばしてくる。慌てて逃げようとしたが、すぐさま両腕で抱きすくめられた。
「や」
 膝上に抱きあげられ、思わず抗った。男の胸に両手を突っぱねる。
 土方が、ちっと短く舌打ちした。
「おまえは時々、可愛げがなくなるな」
「そんな……っ」
 かっとなった。叫んでしまう。
「そんな言葉は、女の人相手に云えばいい!」
「俺はおまえ相手にしか、こんな事は云わねぇよ」
「……っ」
 嘘つきと思った。
 あの小紫にも囁いているに違いないのだ。優しく抱きよせ、話しかけてやっているのだろう。
 それを思っただけで胸を灼く嫉妬に、堪らなくなった。抑えきれぬ嫉妬に、嫌だと思ってしまう気持ちに、どこかへ逃げ出してしまいたくなる。
「江戸へ……帰して下さい」
 小さな声で懇願する総司に、土方は唇を引き結んだ。端正な顔に、苛立ちの色がうかぶ。
 それでも、声音を抑え訊ねた。
「そんなにも嫌か」
 黙り込んでしまった総司に、土方は目を細めた。
「俺のせい……なのか?」
「……」
 総司は答えられなかった。黙ったまま、俯いてしまう。
 その様子に、土方は何事かを察したようだった。苦痛を覚えたように眉を顰めると、総司の躯をきつく抱きしめる。
 首筋に顔をうずめてくる男に、総司は唇を噛んだ。甘い疼きが走る。
「土方さ……っ」
 抗い、身を捩りかけた総司に、土方が低く囁いた。
「……逃げるのか」
「え?」
 腕の力がゆるめられた。おそるおそる顔をあげれば、冷たく澄んだ黒い瞳が見つめている。
 その瞳の奥に昏い情念を見た気がして、息を呑んだ。そんな総司を見つめたまま、土方はゆっくりと問いかけた。
「おまえは、また俺から逃げるのか」
「土方…さん」
「あの時のように、俺から逃げるつもりなのか。今度こそ、俺の手の届かぬどこかへ」
「……」
 あの時の事を云っているのだと、わかった。土方に手込めにされかけ、大坂にいた斉藤の元へ逃げた時のことだ。
「土方さん、私は……」
「逃げたいなら……逃げればいいさ」
 薄く笑った。
 笑みをうかべたまま、言葉をつづける。
「だが、俺はどこまでも追ってゆくぞ。地の果てまでも追いかけ、おまえをこうして……抱きしめる」
 そう告げざま、もう一度総司の躯を抱き寄せた。腕の中におさめ、その頬に、首筋に、愛おしげに唇を押しあてる。
 甘く掠れた声が耳もとで囁いた。
「……愛してる、総司」
「土方…さん……」
「おまえだけを、誰よりも愛してる」
「……っ」
 躯が震えた。
 こんなにも愛されている怖さと、不安と、切なさを感じた。だが、それでも切り捨てなければならないのだ。
 思いきらなければ、私もこの人も壊れてしまう……。
「……私は……」
 声が震えた。だが、それでも告げた。
「労咳…なのです」
「……」
「もって、あと数年。人にうつす病だし、徐々に剣もふるえなくなってゆく。私は労咳に罹っているのです……」
「……」
 総司の言葉に、土方は何も云わなかった。無言のまま、総司の細い躯を抱きしめている。
 驚きのあまり言葉もないのだろうと思った。だが、おそるおそる見上げた総司は、息を呑んだ。
「……土方…さん……?」
 土方の顔に、驚きの色は全くなかった。それどころか、どこか辛いような切ない表情で、総司を見つめている。
 その瞬間、理解した。


 この人は知っていたのだ。
 私の病のことも皆、初めから知って……


「……っ」
 総司は喘ぎ、身を捩った。だが、その細い躯はすぐさま男の腕の中に引き戻される。
 ぎゅっと抱きしめてから、土方はその髪に唇を押しあてた。
 低い声が訊ねた。
「それが……どうした」
「土方…さん」
「おまえが労咳だろうが何だろうが、俺がおまえを愛してるという事に何の関係がある」
「……」
 息を呑んだ総司を、土方は黒い瞳で見つめた。僅かに目を細める。
「確かに、俺は知っていた。池田屋でおまえが喀血して倒れた時から、病の事を知っていたさ。だが、おまえが必死に隠しているから、黙っていた方がいいと思っていたんだ。それとも、云った方がよかったのか」
「そんな……っ」
 総司は激しく首をふった。思わず叫んでしまう。
「なら、私があなたを受け入れられない理由……わかっていたはずでしょう!? どんなに求められても、応えられるはずがないのに」
「何故だ」
 土方は形のよい眉を顰めた。
「おまえが病だからか? それが何で……」
「私は労咳なのですよ……!」
 総司は半ば泣き出しそうになりながら、叫んだ。
「こんな私、何の役にもたたないし、あなたに相応しくない。あなたは私を愛してると云ってくれるけど、そんなの今だけの気持ちに決まっている」
「……」
「労咳もちで、しかも男の私なんて、醜聞沙汰になって、すぐ飽きられ、別れを告げられるに決まっているのに! 応えられるはずが……っ」
 不意に、ぱんっと音が鳴った。
 頬を襲った熱に、総司は目を見開いた。いきなり頬を平手打ちされたのだ。
「……土方、さん……」
 彼からの初めての暴力に呆然と見上げると、土方はもの凄い目で睨みつけていた。切れの長い目の眦がつりあがり、食いしばる奥歯の音が聞こえそうだ。
「……おまえは……っ」
 唇から、呻くような声がもれた。
「俺を、莫迦にしているのか……っ」
 土方は、総司の肩を強く掴んだ。
「この俺を何だと思っているんだ!」
「ひ、土方さ……」
「俺が、おまえが病だからってすぐ別れるような、飽きたり簡単に捨てたりするようないい加減な男だと、本気で思っているのか! ずっとおまえを愛してきた俺の気持ちを、そんないい加減なものだと思っていたのか……ッ」
「……っ」
 総司は息を呑み、彼を見つめた。それに、土方は激しく言葉をつづけた。
「俺は、おまえだけを愛してる。おまえのためなら何だって出来るし、この命をくれてやっても構わねぇ。なのに、おまえはそんな俺の気持ちを理解しようともせず、最低の男だと決めつけていやがる。病もちになったからと、愛した恋人を簡単に捨てるような男だと!」
 土方はきつく唇を噛みしめた。
 暗く燃える視線を総司にむけていたが、不意に顔を背けた。荒々しい口調で吐き捨てる。
「やってられるか……ッ!」
 土方は総司の躯を乱暴に突き放すと、立ち上がった。太刀を取り上げ、そのままふり向きもせず、部屋を出ていってしまう。
 ぴしゃりと閉められた襖を、総司は呆然としたまま見つめた。
 追いかけるべきだと思った。
 追いかけて、謝るべきだった。だが、頭の中が混乱し、ただ遠ざかる足音を聞くばかりだった。
 病を知られていた事、自分の彼への気持ち、愚かさ。
 何よりも、彼の矜持を傷つけた事が衝撃だった。
 あんなにも怒った土方は、見たことがなかったのだ。
「……っ……」
 のろのろと手をあげ、総司は自分の頬にふれた。
 彼に叩かれた頬が痛かった。
 だが、それよりも、心の方がもっと痛かった……。












 その数日後の事だった。
 久々に島原で宴が開かれた。気が進まなかったが、隊士は全員出席とあり、総司は仕方なく角屋へ向った。
 あれから、土方とは顔を合わせていなかった。逢ってもどう云えばいいのか、わからなかったのだ。
 あの時の、自分を怒鳴りつけた彼の顔を、何度も思い出した。怒っていたが、傷ついてもいる表情だった。
 そんな男だと思われていたという事実が、土方の矜持を深く傷つけてしまったのだ。
「……私は、なんて莫迦なの」
 総司は両手を握りしめた。


 どんなに愛してくれているか、どんなに大切に思ってくれているか。
 信じられないと思いはしたが、それでも、土方は少しずつ総司の気持ちをとかしていった。
 優しく愛してくれていたのだ。
 その彼が、病になった自分を捨てるなどするはずがないと、今ではわかっていたのに。
 なのに、病の事を知られていたとわかったとたん、頭に血がのぼり、思わず叫んでしまったのだ。
 病になった自分を簡単に捨てるだろう、と。
 それは──或る意味、真実だった。
 恋人であろうとなかろうと、総司はずっと不安だったのだ。病である事が暴かれれば、江戸へ帰される。彼の傍から追い払われ、去らなければならない。
 それが不安で堪らなかった。だから、必死に隠そうとしていた。まさか、土方が総司の病を知っていて尚、愛してると告げてくれていたとは、思いもしなかったのだ。
 だが、ならば、彼は未だ自分をここに置いてくれるつもりなのだろうか。江戸へ帰さず、このまま。


(でも、それはいつまで……?)


 そっと目を伏せた。
 たとえ今は許されても、いつかは江戸へ帰される。土方も守りきれなくなるだろう。
 否、それ以前に彼の手を煩わせてしまう事が怖かった。こんな役にたたぬ自分を隊に置いておくなど、土方自身が微妙な立場に追い込まれる。
 それがたまらなく怖かった。
 やはり、自ら先に江戸へ去るべきなのか。


 ため息をついた総司の肩に、誰かがそっと手を置いた。
 見上げると、斉藤が隣に腰をおろす処だった。
「あまり食べてないな」
 そう云われ、視線を自分の前にある膳へ落とした。確かに、さして減っていない。
 困ったように笑ってみせた総司に、斉藤はため息をついた。
 宴はまだ始まったばかりだが、相当な賑わいだった。何しろ大所帯だ。どこに誰がいるのか、わからぬ程の騒ぎだった。
 総司はそれをしばらく眺めていたが、やがて、小さな声で斉藤に呼びかけた。
「……斉藤さん」
「何だ」
「病の事……土方さんは知っていました」
「……」
 突然の言葉に、斉藤が僅かに目を見開いた。驚いたように、総司を見やる。
「……それで?」
 一拍の間を置いてからの問いに、総司は小さく笑った。
「こんな病もちの私なんて、今好きと云っていてもすぐ捨てるでしょう?って云ったら、頬をひっぱたかれました」
「……」
「とても怒って……当然ですよね。私も、酷い事を云ったと思います」
 斉藤は僅かに吐息をもらした。
「酷い事だとわかっているなら、何故、そんな事を云ったんだ。あの人を拒絶するためか」
「わかりません。でも、結果的にはそうなってしまいました」
 そう答えた総司は、微かに笑ってみせた。どこか諦めたような表情に、斉藤は眉を顰める。
 気持ちを聞きだそうとした斉藤から、総司は視線をそらした。すっと立ち上がり、歩き出してゆく。
「総司」
 思わず呼びかけた斉藤に、総司は少しだけふり返った。小さく笑う。
「近藤先生に挨拶してきます」
 その言葉は嘘ではなかった。実際、総司は上席へと向っていたのだ。
 実は、この場で近藤に江戸へ帰りたいという希望を申し出ようと思っていた。傍に土方がいるだろう事はわかっている。
 それはむしろ望んだ事だった。
 土方もこの場では反対できないに違いない。
 だが、向った上席に、土方の姿はなかった。女と何か話していた近藤が顔をあげ、総司に笑いかける。
「総司か。どうした」
「近藤先生……あの、土方さんは」
「歳か。少し遅れているようだが、何か用だったのか」
「いえ」
 総司はそれでも構わないと思った。近藤に許可を得てしまえばいいのだ。
 誘われるまま近藤の隣に坐った総司は、広間の中を見回した。皆、自分たちの事に夢中になっていて、誰もこちらには注目していない。
 それを確かめてから、総司は近藤の方へ向き直った。口火を切ろうとする。
 その瞬間だった。
「……江戸へ帰りたいと云ったそうだな」
 酒の杯を口に運びながら、近藤が云った。
 不意打ちをくらわされ、思わず声を呑んでしまう。唖然とした表情で近藤を見ると、おかしそうに笑われた。
「なんて顔をしている。歳に聞いたのだ」
「……そう、だったのですか」
「歳がいない間に、おれの許可を貰うつもりだったのか?」
 笑いを含んだ言葉に、総司はかっと頬を赤らめた。自分の狡さを指摘されたような気がしたのだ。
「土方さんは……反対していますから」
「まぁ、それは当然だろうな」
「私が労咳に罹っていても……ですか。その事も、近藤先生もご存知なのでしょう?」
「むろん、知っている。池田屋の時からずっと知っていたよ、おれも歳もな。心配し、二人で随分と話しあったのだが、おまえが望んでいるのなら黙っていてやろうと決めていたのだ」
 穏やかな口調で云われた事実は、あらためて総司の心に深く食い込んだ。


 彼はずっと知っていたのだ。
 知っていて尚、自分を抱いてくれた。
 愛してくれた。
 その事が泣き出したいぐらい嬉しく、そして──切なかった。


「……そう云えば、知っているか」
 近藤が大騒ぎしている隊士たちを眺めながら、云った。
「歳が贔屓にしていた天神……小紫のことを」
「……え?」
 意味がわからず、総司は小首をかしげた。小紫を確かに知っている。だが、それがどうしたのだろう。
「知っていますが……それが……」
「身請けされるそうだ」
「──」
 一瞬、総司の顔が強ばった。必死に自分を抑えようとするが、躯中が震え出す。
 覚悟していた事だった。自分でそれを彼に薦めた事さえあるのだ。だが、実際、目前に突き出されてしまうと、こんなにも苦しいなんて。
 血が吹きでそうなほど唇を噛みしめた総司に、近藤はすぐさま気づいた。
「総司、相手は歳ではないのだよ」
「え……」
「歳ではない。何処ぞの大店の旦那らしい。旦那と云っても、まだ若いそうだが、小紫とは島原へ入る前からの長いつきあいだそうだ」
 それを聞いたとたん、あの時の事を思いだした。
 小紫を庇い、優しい瞳で見つめていたあの男。彼がその旦那なのかもしれない。
 だが、ふと気づいて、眉を顰めた。島原へ入る前からの長いつきあいだと、近藤は云ったのだ。だが、土方とは? 土方と恋仲だったのではないのか。
「近藤先生」
「何だ」
「小紫さんは、島原へ入る前から、土方さんとつきあっていたのではないのですか」
 近藤は訝しげに、総司を眺めやった。
「そんな話は聞いておらんぞ。歳は、島原で小紫と初めて逢ったと云っていた。総司と似ているので、随分驚いたらしいが」
「……」
 では、土方が以前、話した事は本当だったのか。小紫とは島原で逢ったのが初めてであり、総司と似ているからこそ、贔屓にした。


 彼は、真実、総司だけを愛してくれていた……?


「ずっと惚れていた男の許へいけるのだ」
 近藤は静かな声で話していた。
「小紫も随分と喜んでいるらしい。苦界にいても、己を見失わなかった故の幸せかもしれんな」
「……」
 総司は思わず目を伏せた。
 きっと、小紫はその男に恋していたのだ。本当に愛しているのだろう。
 なんて強いのか──と思った。
 苦界に身を置き、声も出せない身でありながら、堂々と恋をし、人を愛している。彼女は、決して自分を卑下する事がないのだ。真っ正面から自分に向き合い、強く生きている。


(なのに、私は……)


 きつく唇を噛みしめた。
 恥ずかしいと思った。自分の弱さを心から恥じた。
 病を理由にしていたのだ。どこまでも己を卑下し、彼を傷つけ、逃げ回っていた。彼との恋とも、向き合う強さをもっていなかった。
 その弱さが彼をも、自分をも、傷つけたのだ。
 俯いてしまった総司に、近藤が穏やかな視線をむけた。
 しばらく黙っていたが、やがて、静かな声で話しかけてくる。
「……人は、それぞれだな」
「え……」
 顔をあげると、近藤は慈しむような表情で、総司を見ていた。厳つい顔をほころばせる。
「小紫には小紫の、おまえにはおまえの生き方がある。それぞれの強さもある。守りたいと願うものが違えば、おのずと生きる道も違ってくるだろう」
「……」
「総司、あまり己を追いつめるな。おまえは己を厳しく戒めすぎる。もう少し自分を許してやっても構わんと思うのだ」
「近藤先生……」
「江戸へ帰る事も」
 ふと、近藤が顔をあげた。
 襖が開き、土方が入ってきたのだ。騒ぐ隊士たちの間をすり抜けるようにして、こちらへ歩み寄ってくる彼に、総司も気がついた。はっと息を呑む。
 そんな総司に苦笑しつつ、言葉をつづけた。
「おまえが本当に辛いのなら、そうすればいい。自分に嘘をつくべきではないからな」
「……はい」
 総司は、歩み寄ってきた土方を見上げた。それに眉を顰めつつ視線を返した土方は、総司のすぐ傍に腰を下ろした。
 酒の杯をとりあげながら、近藤に訊ねる。
「何の話だ」
「別に、たいした事ではない」
「そうとは思えねぇけどな」
「おまえの思い過ごしではないのか」
 飄々とした様子の近藤に舌打ちし、土方は総司の方を見やった。切れの長い目がすうっと細められる。
 濡れたような黒い瞳に間近で見つめられ、知らず知らずのうちに頬が上気した。いたたまれなくなり、思わず立ち上がる。
 とたん、素早く手首を掴まれた。
 男の大きな掌の感触に、どきりとする。
「総司」
 どこか切羽詰まったような声音に、息をつめた。だが、すぐに周囲を見回し、総司は小声で囁いた。
「土方さん、離して下さい」
「嫌だ」
「そんな……隊士たちが見ています。お願い、離して」
 くり返し懇願する総司に、土方も諦めたようだった。渋々ながら手を離す。
 とたん、総司はさっと手を引っ込め、身をひるがえした。ほとんど駆けるようにして広間から出ていってしまう。
 思わず追いかけようとした土方を、近藤が引きとめた。僅かに首をふってみせる。
「少し……時をくれてやれ」
 近藤の言葉に、土方はきつく唇を噛んだ。だが、やがて、微かに自嘲するような笑みをうかべると、友の助言を受け入れた。