その朝、総司は一人で屯所に戻った。
土方は先に戻っている。二人の関係が不安定なものである以上、そうする他なかった。否、総司がそうしてくれと懇願したのだ。
渋々ながらそれを承知した土方は、部屋を出る際、総司の腰をさらうように抱きよせた。耳もとに唇を寄せ、低い声で囁きかける。
「今回は引き下がるが、これからもそうだと思うなよ?」
「……っ」
半ば脅しめいた言葉に、総司は息を呑んだ。
そのくせ、抱き寄せてくれる男の手は優しい。見上げた男の瞳も、どこか悪戯っぽく笑っていた。
驚いた顔になると、土方はくすくす笑いながら、額に口づけを落としてくれた。
「すげぇ可愛い」
そう云いざま、男の手が総司の着物の袷をすべる。
「土方さ……っ」
慌てて身を捩ったとたん、不意に押し広げられた。土方が顔をうずめてくる。
ちくりとした痛みが走り、総司は思わず声をあげた。
「……っ」
驚いて見ると、白い肌に鮮やかな朱が散っていた。それを満足そうに眺めながら、土方は呟いた。
「この痕が、証だな」
「証……?」
「おまえが俺のものになったという、証だよ」
「……」
黙ったまま顔を赤らめた総司に、土方はくすっと笑った。
「早めに帰ってこいよ」
そう一言だけ声をかけると、すっと身をひるがえした。総司の躯を離し、そのまま滑るように部屋から出ていってしまう。
あっという間の出来事に、総司は呆然と立ちつくした。慌てて障子を開けてみたが、その姿はもう何処にもない。
「風みたい……」
そう呟いてから、今朝方、嵐みたいだと感じた事を思いだした。
風のように、総司の心を翻弄し、そのくせ、優しく包みこんでくれる彼。
縋ってはいけない、受け入れてはいけないとわかっているのに、あんなふうに優しく甘く愛されると、決意が挫けてしまいそうだ。
「でも……」
総司は目を伏せ、きゅっと唇を噛みしめた。
「私は……あの人にふさわしくない……」
病もちで何の役にもたてない自分より、艶やかで美しい小紫のような女性の方がふさわしかった。
しかも、自分は男だ。彼の妻になる事も、妾になる事さえも出来ない。
そんな自分が彼に愛されるなど、許されるはずもないのに……。
屯所へ戻った総司は、人の目を避けるように自室へ足早に向った。
誰も彼もが土方との情事を知っている、そんな錯覚に襲われてしまったのだ。
だが、自室の前まで来たとたんだった。
すぐ傍の壁に凭れて佇む男の姿に、鼓動が跳ね上がった。
「……斉藤、さん……」
目を伏せていた斉藤は、総司の声に顔をあげた。鳶色の瞳がまっすぐこちらを見つめてくる。
彼に似合わぬ鋭いまなざしに、息を呑んだ。
「随分、遅い帰りだな」
そのくせ、声音はいつもどおり穏やかで優しかった。総司は少しだけ安堵しつつ、答えた。
「ちょっと……用事があって」
答えながら、部屋の中にするりと入った。斉藤もゆっくりと後を追ってくる。
「用事で、一晩泊まってきた訳?」
「え、えぇ……」
目を伏せてしまった総司を、斉藤はしばらくの間、眺めていた。だが、やがて、ふいっと視線をそらすと、さり気ない口調で云う。
「さっき、土方さんに会ったよ」
「え……」
躯中から血の気が引くような気がした。
どう応えればいいか、わからず、唇を震わせてしまう。足もとから忍び寄るような罪悪感に、指さきが冷たくなった。
「あの……それで……?」
「何が」
「土方さん、何か……云ってましたか?」
「……」
斉藤は視線を総司に戻した。そうして、俯く総司を見つめていたが、不意に手をのばした。
「!」
肩を掴まれ、ぐっと力をこめられる。痛いと悲鳴をあげそうになった。
顔をあげると、斉藤が鳶色の瞳で見つめていた。その瞳の奥にある感情の激しさに、息がとまりそうになる。
「昨日、土方さんといたのか」
低い声が問いかけた。
「あの人と夜を共にした……そうだろう?」
「……っ」
何も答えることができなかった。
否定することは勿論、肯定することも、斉藤を深く傷つけてしまう。それを知っているから尚のこと、総司は俯く他なかった。
ぎゅっと両手を握りしめる。
「斉藤さん、私は……」
「総司」
そっと名を呼ばれ、顔をあげた。だが、不安で怖くて悲しくて、唇が震えてしまう。
斉藤はそんな総司をじっと見つめてから、微かに笑った。
それは、見た事もない笑みだった。どこか諦めたような、哀しげな笑顔だ。
戸惑っていると、静かな声が呟いた。
「おまえ……いつも、そんな顔ばかりだな」
「え……?」
「最近、オレの前で、おまえは悲しそうな顔ばかりしている。笑った顔を見せてくれた事がない」
「……」
「今にも泣き出しそうで、苦しそうで……けど、オレがそうさせているんだな。おまえから笑顔を奪ったのは、このオレなんだよな」
「斉藤…さん」
総司は思わず両手を握りしめた。小さな小さな声で、謝ってしまう。
「ごめん…なさい」
「……」
「本当に……ごめんなさい……っ」
細い肩を震わせる総司に、斉藤は微かに顔を歪めた。
一瞬だけ、総司の躯を強く抱きしめると、不意に引き離した。身をひるがえし、歩み去ってゆく。
「……」
総司はその遠ざかる足音を聞きながら、固く瞼を閉ざした。
折しも、新撰組が変わろうとしている時期だった。
近藤が江戸から連れ帰った新入り隊士たちは、大きな波紋を広げていた。正確に云うなら、その中にいた伊東甲子太郎という人物がだ。
伊東は、新入り隊士でありながら隊の中で大きな影響力を持ちつつあった。それがいずれ、大きな軋轢を呼ぶのではないかという危惧を、隊内の争いに興味のない総司でさえ薄々感じていた。
だからこそ、副長として難しい立場にある土方を煩わせたくなかった。これ以上、自分のことでふり回したくなかったのだ。
完全に彼を拒絶するべきだったのに、どうしてあの夜、受け入れてしまったのだろう。
(……あの人を愛してるから)
答えは簡単に出た。
子どもの頃から、ずっと恋してきた。あれほど愛おしい人に求められ、拒めるはずがないのだ。
だが、それでも、彼の重荷になりたくなかった。病もちの自分など、彼の重荷になってしまう。頼るばかりの甘えるばかりの関係など、絶対に嫌だった。総司の矜持が許さなかったのだ。
支えたいと思っていた。せめて剣で彼を守りたいと思っていた。
なのに、今はそれすら出来なくなりつつある……。
「……っ」
きゅっと唇を噛んだ瞬間、だった。
不意に、後ろから腰に腕がまわされたかと思うと、ふわりと抱きあげられたのだ。
驚いてふり返った総司は、目を見開いた。
「土方…さん!」
今の今まで想っていた相手が突然現われ、頭の中がまっ白になった。だが、そこが屯所の庭先だという事を思いだし、慌てて周囲を見回す。
「お、降ろして下さいっ。こんな処、人に見られたら……っ」
「見られても構わねぇよ」
そう囁きながら、土方は総司の白い首筋に唇を押しあてた。ぞくりとするような痺れが走る。
土方は総司の躯をたて抱きにしたまま、くっくっと喉を鳴らし笑った。
「こんな人気のない処で、誘うように佇んでいるおまえが悪いんだぜ?」
「誘ってなんか……」
「けど、俺のことを考えていただろ?」
あまりに図星な言葉に、思わず絶句してしまった。それに、くすっと笑い、土方は総司の躯をぎゅっと抱きしめた。
「面白くねぇ事でも何でも、おまえが俺の事を考えてくれるなら、それでいいさ」
「わ、私は……」
総司は土方の手に置き、僅かに躯をそらした。すぐさま男の大きな手が背にまわされ、しっかりと支えてくれる。
「私は、あなたなど無視しようと思っていたのです」
「ふうん」
「もう口もきかないで、絶対に相手しないと……」
言葉が途切れた。
突然、唇を塞がれたのだ。啄むような口づけをあたえられ、頬が真っ赤になってしまう。
「……土方さん!」
「憎まれ口をきく処も可愛いな」
きれいな笑顔が、総司にむけられた。もう一度だけ口づけてから、ようやく地面へ降ろしてくれる。
名残惜しげにあちこちさわってくる男の手から逃れ、総司は土方を睨みつけた。
「私を可愛いなどと云うのは、土方さんぐらいです」
「そうかな? おまえはすげぇ可愛い。昔から、可愛かったよ」
「いつも生意気ばかりの私が?」
呆れたような総司に、土方はくっくっと喉奥で笑った。
「もちろん。生意気な口をきいても、おまえは可愛いさ。可愛くてたまらねぇ」
「……」
総司は冷ややかな表情になると、ついと顔を背けた。彼を残し、歩み去ろうとする。だが、それはすぐさま引きとめられ、後ろから抱きすくめられた。
一瞬、息がとまる。
総司は躯を反転させ、男の胸をすげなく突き返した。きつい瞳で土方を見上げる。
「聞いてました? 私の云ったこと」
「あぁ」
土方は平然と頷いた。
「無視する、絶対に相手しないだろう?」
「そうです」
「けど、俺は変わらねぇよ。おまえを奪うと云ったはずだ」
不意に、瞳の色が真摯なものになった。一瞬だけ、男の声音が激しいものを孕む。
「……」
息を呑んで見上げた総司に、土方はすぐ表情を和らげた。そっと小さな頭を引寄せ、髪に口づける。
「怖がらせちまったな」
「土方さん……」
「夕方になって冷えてきた。部屋に戻った方がいい」
総司の細い背に手をあて、土方は優しく促してくれた。それに頷き、素直に従う。
縁側から上がりながら、総司は土方に話しかけた。
「あの……土方さん」
「何だ」
「隊の中、色々と大変なのでしょう? 新しい人たちが入って来たりして」
「珍しいな」
少し驚いたように、土方は総司を見下ろした。
「おまえが隊の事を気にするなんざ」
「色々噂も聞こえてきますから……」
「まぁ、屯所の移転の事もあるしな」
そう呟いた土方の端正な横顔を、総司は見上げた。
西本願寺への移転話は、総司の耳にも届いている。暗礁にのりあげているという話だった。
隊内でも議論の的だ。
「私は……あまり強引な事は、よくないと思います」
「……」
総司の言葉に、土方がふり返った。不快に思ったのか、形のよい眉を顰めている。
その表情に怯むものを覚えたが、総司は懸命に言葉をつづけた。
「近藤先生のお気持ちは聞いていませんが、山南さんや伊東先生は反対されているのでしょう? そんな中で、無理に推し進めても……」
「おまえは、俺の考えに反対だと云うのか」
「違います」
「だが、おまえの云っている事は」
「反対とかじゃなくて、ただ……」
総司は両手を握りしめた。そして、この話を聞いた時から、ずっと感じていたことを口にした。
「隊の為だとわかっています。あなたが隊の為に戦っていることは、よくわかっている。ですが、今回の事で、あなたがまた辛い立場に立たされるのではないかと……」
「たとえ」
土方は前髪を煩わしげに片手でかきあげ、ふと目を細めた。
「そうだとしても、俺は別に構わねぇよ。非難される事には慣れているしな」
「でも……!」
総司は俯き、両手で胸もとをおさえた。
「あなたが辛い目にあうと、私は胸が痛いのです……」
「総司……」
驚いたように、土方は目を見開いた。
まるで、愛の告白のようだった。
その人の痛みを己の痛みのように感じるなど、そこに何らかの感情がなければありえぬ事だろう。
思わず見つめてしまった土方の前で、総司は長い睫毛を伏せた。
「もちろん……わかっています。あなたをふり回し傷つけてきた私に、こんな事を云う資格などないと」
「総司、俺は」
「申し訳ありませんでした」
頭を下げると、総司は素早く背をむけた。足早に歩み去ってゆく。
その愛しい姿を見送り、土方は唇を引き結んだ。傍らの柱に背を凭せかけると、腕を組む。
何事かを考える男の表情は、厳しいものだった。
「……あ」
思わず声をあげた。
それに、相手は不思議そうに顔をあげ、小首をかしげた。
冬の昼下がりだった。
医者からの帰り、石段を上っていた総司は、一人の娘と行き会ったのだ。
小紫だった。
江戸の吉原と違い、島原は客と一緒ならば外へ出る事も許されている。小紫も客らしい男と一緒だった。
小紫は自分とよく似た顔の総司に、何の感慨も覚えなかったようだった。もともと、おっとりした性質なのだろう。ちょっと小首をかしげただけで、石段を下りてゆく。
むしろ、連れの男の方が驚いたように総司をふり返っていた。
「……」
爪が掌に食いこんだ。
土方が小紫との関係を続けているのかどうかは、わからない。
ただ、近々身請けされるらしいという噂は聞いていた。あの日も、土方は訊ねた総司に否定はしなかったのだ。
土方は小紫と、自分は斉藤と。
その方がいいのだ、これが望んだ形なのだとわかっていた。だが、何度そう己に云いきかせても、叫び出したい程の苦痛が胸を裂く。
彼の気持ちを一度として受け入れた事がないのに、抱いてくれまでした彼を拒絶したくせに。
こんなふうに嫉妬する事さえ、恥ずべきことなのだ。
だが、実際、小紫を目の前にして、総司は到底平静ではいられなかった。殺意にも似た憎しみを覚える。
その時だった。
不意に、小紫の躯が傾いだ。足をすべらせたのだ。
長い石段から、娘の躯が落ちそうになる。
「!」
総司は思わず躊躇った。
胸奥にある暗い情念が、小紫を助けることを押しとどめたのだ。だが、すぐ我に返った。
(いけない……!)
手をのばし、小紫の腕を掴んだ。傍にいた男も支えたおかげで、彼女は石段から落ちずに済んだ。
礼を云う男の傍で、小紫は僅かに唇を開いた。だが、言葉は出ない。
訝しげに眉を顰めた総司に、男が云った。
「すんまへん、小紫は声が出せへんのです」
「え……」
「病で、喉がやられてしまいまして」
総司は目を見開いた。愕然とした表情で見つめる総司に、小紫はそっと微笑んでみせた。
苦界に身を置く女であるはずなのに、その笑顔はとても清らかだ。
「……」
総司は思わず視線をそらすと、そのまま背をむけた。
石段をのぼり、一刻も早く小紫から離れたいと足を速めた。そのため、息ぎれがしてしまったが、今の総司にはそんな事二の次だった。
(声が出ない、なんて)
その事が、小紫をより儚く思わせた。土方も、そのいとけなさ、儚さに惹かれているのかもしれない。
だが、そんな──石段から落ちても悲鳴一つあげられぬ彼女を、見殺しにしようとした己の酷さに、総司は胸を掻きむしりたくなった。
小紫には何の罪もないのに。ただ、勝手に自分が嫉妬しているだけなのに。なのに、かよわい彼女を見殺しにしようとしたなんて、自分の行為が信じられなかった。
結局は助けられたとはいえ、一瞬でも躊躇った自分が許せない。そんな醜い感情が己の中にあるなど、思いもしなかったのに。
「……っ」
総司は道ばたに佇み、きつく目を閉じた。
病を得たことで、心まで病んでしまったのだろうか。
否、そうではない。
土方を愛したからだ。
こんなにも深く愛してしまったからだ。
池田屋で死の間際まで追いやられ、極限の状態の中で知った、狂おしいほどの情念。あの時、感じた熱く灼けるような焔は、今尚、総司の胸奥に燻りつづけている。
だが、それは総司も、周囲の人々をも苦しめ、傷つけつづけているのだ。
「……土方さん」
愛しい男の名を口にし、総司は樹木に凭れかかった。
見上げれば、透きとおるような冬の空が広がっている。それは、どこか江戸の空を思い起させた。
病であっても隠しとおせると、剣を振るえるうちは彼の傍にいたいと。
そう願っていたが。
(これ以上、私は自分を貶めたくない……)
総司は長い睫毛を伏せると、唇をきつく噛みしめた。
