「……伊東先生」
 総司は慌てて座り直した。
 縁側に端座し、大きな瞳で伊東を見上げる。





 本来、土方と対立している事が明らかな伊東と、その土方の恋人である総司が、親しく言葉を交わすなどありえぬ事だった。
 実際、伊東が入隊して来て以来、ほとんど顔をあわせる事もなかったのだ。
 それが変化したのは、山南の事の後だった。
 山南の墓参りで偶然出会い、言葉を交わしたのだ。派閥への引き入れや政治的思惑からかと身構える総司に、伊東は静かな瞳をむけた。
 屯所への道すがら、彼が口にしたのは、剣術の事や学問の事のみだった。
 屯所内でも何度か会話をするようになったが、伊東の態度は変わらなかった。年長の友人としてのみ接してくれる伊東に、総司は少しずつ心を開きはじめている。





「少し……考え事をしていましたので」
 そう答えた総司に、伊東は微笑んだ。
「また剣術の事ですか。確かに、きみの突きを破るのは容易ではない」
「伊東先生にそう云って頂けると、光栄です。でも……まだまだ私は未熟ですから」
 いつも控えめな総司に、伊東は柔らかなまなざしを向けた。


 初めは、土方の腹心であり、隊士たちの憧憬を集めるこの美しい若者を、手にいれたいという思いがあった。
 己の思惑、立場、力関係のためだったのだ。だが、いつしか、伊東は、総司自身に惹かれつつあった。
 話してみると、意外なほど素直で優しく、気どらない笑顔が愛らしい。
 あの土方が己の腕の中に抱えこむようにして守りつづけるのも、当然だと思った。


「伊東先生は、お出かけだったのですか?」
 そう訊ねる総司に、伊東は「えぇ」と頷いた。総司の傍に腰をおろしながら、手にしていた包みを見せる。
「あ……水菓子ですね」
「京菓子です。さすがに、美しく品が良い」
 伊東は包みから一つ取り出すと、それを総司にさし出した。
「きみも一つどうです」
「え、宜しいのですか?」
「もちろん」
 優しく応える伊東に、総司は嬉しそうに水菓子を受けとった。さっそく口に含めば、心地のよい甘酸っぱさが広がる。
「おいしい……」
「それは良かった」
 伊東は総司と並んで坐ったまま、自分も水菓子を口にはこんだ。そうしながら、様々な事柄を話す。
 総司は、機知に富んだ伊東の話に、楽しそうに笑った。肩をすくめるようにして笑い、自分も色んなことを話す。
 その姿は、まるで昔からの友人同士のようだった。否、見るものが見れば、仲睦まじい恋人たちのように見えただろう。
「──」
 不意に、総司は言葉を途切らせた。
 中庭を挟んで向こうに、一人の男の姿を見たのだ。
 思わず息を呑んでしまう。

(……土方…さん……!)


 黒谷から帰ってきたばかりのため、一糸乱れぬ正装姿だった。
 黒の羽二重に小袖、仙台袴を、すらりとした長身に纏う様は、惚れ惚れする程だ。
 だが、総司が息を呑んだのは、男の表情だった。
 端正な顔に明らかな怒気をうかべ、こちらを真っ直ぐ睨みすえている。形のよい眉は顰められ、唇も固く引き結ばれていた。
「……」
 総司の視線を追い、土方の存在に、伊東も気がついた。ちらりと一瞥し、かるく目礼する。
 だが、それに土方が応えることはなかった。すっと視線をそらすと、そのまま踵を返して歩み去っていってしまう。
 総司は慌てて立ち上がった。伊東に頭を下げてから、彼の後を追って駆け出す。
 まずい事をしたのだとわかっていた。土方が伊東と対立しているのは、周知の事実だ。
 それ故、総司も、なるべく土方の前では伊東と接しないよう気をつけていた。伊東もそれを察しているらしく、土方がいる処では声をかけて来なかった。
 なのに、今、親しげにしている処を見られてしまったのだ。
 副長としての土方の立場を考えぬ行動に、彼が怒るのは当然だと思った。
「……土方さん……!」
 追ってゆくと、土方は自室に入る処だった。総司が来ているのを知りながら障子を閉めようとするのに、必死になってその腕にしがみつく。
「土方さん、話を聞いて」
「……」
 土方は顔を背け、だが、障子を閉めるのは諦めたようで、そのまま部屋の奥へ歩を進めた。手荒く羽織や袴を脱ぎすて始める。
 それに、総司は慌てて目を伏せた。いくら馴れているとはいえ、やはり気恥ずかしいのだ。逞しい胸もとや腕に、頬が熱くなってしまう。
「あ、あの……」
 土方が着流し姿になると、総司は口を開いた。
「すみませんでした。伊東先生と話したりして……」
「……」
「土方さんの立場も考えず、軽率だったと思います」
「俺の立場?」
 低い声で、土方は問い返した。畳に視線を落としたまま、帯を締め直しながら訊ねる。
「俺の立場とは、どういう意味だ。おまえは、俺が何を怒っているのか、わかっているのか」
「わかっています。土方さんは伊東先生と対立していて、なのに、一番隊組長であり、試衛館一派である私が……」
「そういう事を云っているんじゃねぇよ」
 土方は総司をふり返り、苛立った口調で訊ねた。
「おまえは俺の何なんだ」
「私は、あなたの……恋人です」
「なら、俺の怒っている理由がわかるだろう」
「はい。土方さんの立場がないと思ったから、なるべく人目のない処で、伊東先生と話すようにしていたのです。伊東先生も気づかって下さっていましたし。でも、さっきはつい……」
「総司ッ!」
 とうとう、土方が声を荒げた。眉が顰められ、切れの長い目の眦がつりあがっている。
「おまえ、俺を莫迦にしているのか」
「そんな……」
「俺がいない隙に、伊東と話していただと? そんな事をされて、喜ぶ男がどこにいるんだ俺はおまえの恋人だぞ。おまえを愛している、おまえだけが好きなんだ。他の男に心奪われるおまえなんざ、見たくもねぇよ」
「……っ」
 総司の目が見開かれた。驚きにみちた表情で、彼を見上げている。
 いつもは可愛いと思うその幼さ、あどけなさに、たまらない腹立ちを覚えた。土方はきつく唇を噛みしめ、総司の細い躯を抱きしめた。とたん、総司が僅かに抗う。
 それが男の怒りに火をつけた。
 ダンッ!
 鈍い音をたてて、総司の背が畳に打ちつけられた。押し倒されたのだ。痛みと驚きに息をつめて見上げれば、のしかかってきた男に両手首を掴まれる。
「ッ、ん……っ」
 深く唇を重ねられた。
 噛みつくような口づけだった。今までされた事のない乱暴さだ。
「……ゃっ、ぅ……っ」
 口づけの合間に、拒絶の言葉を発しようとしたが、それさえ許されなかった。
 男の手が乱暴に着物を肌けた。袷の間からすべりこみ、大きな掌が肌のあちこちを撫でまわす。
 それに息を呑んだ時には、唇を押しあてられていた。むしゃぶりつくように口づけくる男に、その意図を知り、総司は目を見開いた。
 彼は今、自分を抱こうとしているのだ。
 もともと望んでいた事だった。どうして求めてくれないのかと、思い悩んでさえいたのだ。だが、こんな形を望んだ訳ではなかった。まるで手込めのような、暴力まがいの愛など望んでいなかった。
「いやあ!」
 思わず悲鳴をあげていた。
 狂ったように暴れ、男の躯の下から逃れ出ようともがく。
「土方さん、ゃ…い、やだぁっ!」
「……っ」
 一瞬、男の力が緩んだ。その隙に、総司は彼の躯を思い切り突き飛ばした。
 本来なら力で叶うはずがなかった。体格差もあるのだ。だが、総司は難なく逃れる事ができた。這うようにして、部屋を出る。
 障子に手をかけるまでの間が、ひどく長く感じられた。土方をふり返る余裕などなかった。だからこそ、彼がどんな表情で自分を見つめているか、知る由がなかったのだ。
「総司……」
 掠れた低い声が、後ろで響いた。だが、総司は立ち上がると、障子を開いた。ふり返ることなく、部屋を飛び出してゆく。
 躯が細かく震えていた。きっと顔も真っ青だったのだろう。
 自分の部屋へ駆け込む寸前で、斉藤と出会った。総司を見たとたん、驚いた顔になる。
「どうしたんだ」
 そう問いかけてくる斉藤に、総司は首をふった。震える手で襟元をかきあわせる。
「何も……何もありません」
「何もないって顔か。おまえ、まっ青だぞ」
「いいんです。放っておいて下さい」
 総司は口早に答えると、部屋に入った。斉藤を拒むように、ぴしゃりと障子を閉めてしまう。
 悪いとは思ったが、誰とも逢いたくなかった。言葉をかわしたくなかった。
「……っ」
 膝から崩れるように、総司は坐り込んだ。両手で己の躯を抱きしめ、きつく目を閉じる。
 まだ、男の大きな掌の感触が残っていた。
 押しあてられた熱い唇の感触も。
 それが怖さなのか、喜びなのか、わからぬまま、総司は先程の出来事を思い出した。
 自分も悪かったのだとわかっていた。
 土方は副長として怒っていたのではなかった、初めから、恋人として怒っていたのだ。
 なのに、それを理解できぬまま、総司は彼を傷つけた。
 挙げ句───
「好きなのに、愛しているのに……」


 どうして、こんなふうになってしまうのだろう。
 ただ、睦みあっていたいだけなのに。
 幸せでありたかったのに。


 恋は、ただ幸せなだけではない。甘くて優しいだけではない。
 苦しく、そして、切ないものなのだと、思い知らされた瞬間だった。












 どうすればいいのか、わからなかった。
 幼い頃からずっと一緒にいたのだ。当然ながら、喧嘩もした事があった。
 だが、恋人になってからの、それも──こんな仲違いは初めてだ。どんな顔をすればいいのか、何と云えばいいのか、まるでわからなかった。
 総司は寄る辺ない子どもになったような気持ちで、翌朝、広間へ足を運んだ。朝の食事を皆がとっている。土方がそこにいるかはわからないが、いればいたで、いつもどおりふるまえる自信がなかった。
「……!」
 広間に入り、おずおずと目をあげた総司は、とたん、どきりと鼓動を跳ねあがらせた。
 大勢の隊士たちで広間はごった返している。皆、男らしい旺盛な食欲を見せて、勢いよく飯をかきこんでいた。その中で、まだ食事に手をつけぬまま、膳を前に胡座をかいている男がいた。
 その黒い瞳は、まっすぐこちらに向けられている。
「……ぁ」
 声が喉にからんだ。
 どうすればいいか、わからなくなる。
 今すぐ身をひるがえし、逃げ出してしまいたくなった。だが、そんな事をすれば、彼が傷つく。どうしたのかと、他の隊士たちの不審を買ってしまうだろう。
 総司はぎゅっと両手を握りしめると、ゆっくりと歩き出した。こちらを見つめる男のもとへと。
 その傍に坐りながら、小さな声で云った。
「……おはようございます」
 土方は何も云わなかった。押し黙ったまま、微かに眉を顰め、総司を見つめている。
 それは、総司の気持ちを推し量っているようだった。自分を怖がっているのか、嫌ってしまったのか、それとも、まだ気持ちがそこにあるのか。
「……!」
 総司は思わず声をあげそうになった。
 突然、土方が、総司の手を握りしめてきたのだ。他の隊士たちからは見えない角度で、きつく指を絡める。ひんやりした指の感触に、胸がどきどきした。
 たまらず引こうとしたが、それを男は許さない。
「……土方、さん……っ」
 哀願するように呼んだ総司に、土方は唇を固く引き結んだ。切れの長い目で総司を見つめたまま、ゆっくりと力を緩める。すぐさま、総司は手を引っ込めた。袖の中に隠し、顔をそむける。
 そのまま席を立とうとしたが、土方の言葉に息を呑んだ。
「すまない」
「……」
 ふり返れば、土方は深く澄んだ黒い瞳で、総司だけを見つめていた。喧噪の中でぎりぎり、総司にだけ聞こえる低い声で、話しかける。
「昨日はどうかしていた。本当にすまない」
 しばらく黙った後、総司は小さな声で答えた。
「……私も」
「……」
「ごめんなさい。土方さんの気持ちもわからないで、勝手な事ばかり云って」
「総司……」
「あの……私を許してくれますか?」
 そう訊ねた総司に、土方は息を呑んだ。その黒い瞳に、恋人への愛しさがあふれる。
「当然だろう」
 思わず、土方は声を強めた。周囲を気にしてすぐに低めたが、その表情は真剣そのものだ。
「許すも何も、俺が悪かったんだ。おまえは何も悪くない」
「土方さん」
「すまない。俺の方こそ……許してくれ」
 そう云って頭を垂れた土方に、総司は慌てた。ただでさえ、食事にも手をつけず、ずっと小声で話している二人に、周囲はちらちらと視線を送ってきているのだ。
「そんな事しないで、土方さん。顔をあげて……ね?」
 懇願するように云った総司に、土方は顔をあげた。視線があうと、小さく気恥ずかしげに笑ってみせる。
 男らしい精悍な顔だちが少年っぽくなり、とても魅力的だった。
 どぎまぎしながら、総司は膳の方へ向き直った。両手をあわせて「いただきます」と云うと、食事を始める。
 そんな総司を、土方はしばらくの間、見つめていたようだったが、やがて、彼も食事を始めた。視界の端に、椀をとりあげる彼の手が映る。
 その事に、ほっとしながら、総司は食事をつづけた。












「今度、大坂へ出張する」
 躊躇いがちに、土方が切り出したのは、その夜の事だった。
 総司の部屋を訪れた彼は、総司を見つめ、云ったのだ。
「おまえも一緒に来ないか」
「え……」
 総司は目を瞬いた。それに、土方は慌てたようにつづけた。
「いや、おまえが嫌ならいいんだ」
「嫌なんて、そんな。私は土方さんと一緒にいたいです」
「なら……一緒に来てくれるか」
 念押しするように訊ねてくる土方に、総司は細い眉を顰めた。何だか、彼らしくない気がしたのだ。
 もしかして、何かあるのだろうか。
 それとも、昨日の事がまだ尾を引いているのか。
「嫌な……予感でもするのですか。私が京に残ることに。浪士たちに襲撃され、手傷を負うとか?」
「それはねぇよ。ただ、俺は……」
「なら、どうして? どうして、そんなにも私を連れていきたいの?」
「……」
 土方は押し黙ってしまった。形のよい眉を顰め、目を伏せている。
 男にしては長い睫毛が頬に翳りを落とすのを見つめながら、総司はきゅっと唇を噛んだ。
「もしかして……」
 ゆっくりと言葉をつづけた。
「土方さんは、私の気持ちを疑っているの……?」
 静かに問いかけた総司に、土方は顔をあげた。切れの長い目が、まっすぐ総司を見つめる。
 それを見返しながら、言葉をつづけた。
「昨日の事で……私が伊東先生といたから、あの時、抵抗したから、だから……私を残したくないのですか? 私がまだ、あなたのものになっていないから」
「……確かに、おまえは俺のものではない」
 低い声で、土方が答えた。
「俺がどんなにおまえを愛しても、求めても……叶わぬ願いなのかもしれない」
「叶わぬ、なんて」
 思わず遮りかけた総司に、土方はゆるく首をふった。
 そして、微かな自嘲とともに呟いた。
「おまえは、やはり、伊東のものなんだ。何があっても、あいつにしか心を開かない」
「……何を、云っているの?」
 総司は目を見開いた。

















次の舞台は大坂です。お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいませね。