恋という気持ちを知ったのは、十の時だった。
その日、宗次郎は運命の相手とめぐり逢ったのだ。
彼と初めて逢った瞬間の事を、今もよく覚えている。
近藤に紹介され、少し身をかがめ、微笑いかけてくれた彼。
黒い瞳が誰よりも綺麗で、どきどきした。手がふれると、頬がかぁっと熱くなってしまった。
一目惚れだったのだ。
それは、その後も変わる事なく、それどころか、知れば知るほど彼のことがどんどん好きになっていった。
だい好きでだい好きで仕方なくて、いつも「歳三さん、歳三さん」と後をついて回ったものだ。それをまた、彼も厭う事なく、相手をしてくれた。九つも年下の少年を、本当に可愛がってくれたのだ。
そして、今、だい好きな「歳三さん」は、総司の愛する恋人「土方さん」となって、傍にいてくれる──
「……土方さん」
副長室を覗き、総司はそっと声をかけた。
それに、ぼんやり考え事をしていたらしい土方が、はっとしたようにふり返った。
「何だ」
その瞬間、彼の手が素早く、広げられてあった地図の下に何かを滑りこませた事に、総司は気がついた。
何だろうと気にはなったが、おそらく自分には知られたくない隊の機密事項なのかと、訊ねない事にした。
「あのね、今度の非番ですけど……一緒にとれませんか?」
総司の問いに、土方はかるく目を見開いた。が、すぐに、優しい笑みをうかべる。
「珍しいな、おまえからの誘いとは」
「そうじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
「土方さんと……一緒にいたいと思ったから」
恥ずかしそうに云った総司に、土方は喉奥で笑いながら手をのばした。指さきで頬を撫で、悪戯っぽく顔を覗き込む。
「それが誘っているって云うんだろうが。けど、嬉しいよ。おまえが俺を誘ってくれるなんて、初めてじゃねぇのか」
「え、そうでした?」
不思議そうに総司は小首をかしげた。
「子どもの頃、何度もねだった気がしますけど」
「祭とか行った事か? あれは誘うって云わねぇよ」
「でも、あの頃と同じ気持ちですよ。お祭へ行きたかったんじゃなくて、土方さんと二人きりでいたかったから」
そう素直に云った総司を、土方は驚いたように眺めた。呆気にとられた顔で、見つめている。
しばらくたってから、総司が「何です?」と小首をかしげると、「いや」と首をふりながら苦笑した。
「……おまえには叶わねぇよ」
「?」
「何の構えもなく、そういう事云っちまうんだものな。天性の男殺しかもな」
「男殺し?」
びっくりして聞き返すと、くすくす笑いながら、土方は答えた。
「男を虜にしちまうって事さ。溺愛させて虜にして、とことん惚れ込ませてしまう。何でもしてやりたいと思ってしまう。けど、そういうのは俺相手だけにしてくれよ。俺相手なら、幾らでもやってくれて構わねぇから」
「じゃあ、土方さんは」
総司は思わず訊ねてしまった。
「私の虜になっているという事? 惚れてくれているという事、なの?」
「今更、何を云っているんだ」
土方は総司の手首をつかんで引き寄せると、その華奢な躯を膝上に軽々と抱きあげた。思わず、障子が閉まっているか確かめてしまう総司に笑いながら、なめらかな頬に、ちゅっと口づけをおとす。
「俺はおまえの虜だよ。おまえだけのものだ」
「私……私も、です」
総司は土方の胸もとにぎゅっとしがみつき、云った。
「私も、あなたの虜だから……ずっとずっといつまでも、あなただけのものだから」
「総司」
「こんなにも人を好きになるなんて、怖いぐらいなの。私は、あなたがいなければ、生きてゆけない。土方さん、お願いだから、ずっと傍にいてね」
「……」
すぐに応えが返ると思っていた。だが、意に反して、土方は押し黙ったままだった。
それに不安を覚え、顔をあげようとすると、きつく抱きしめられた。息がとまるほど抱きしめられる。
「……土方、さん……?」
「……」
「ね、どうしたの……?」
訊ねる総司に、土方は固く瞼を閉ざした。そして、掠れた低い声で答えた。
「……何でもねぇよ」
「でも」
「何でもない。ちょっと……考え事をしていただけだ」
明らかに様子がおかしかった。
だが、利発な総司は、男を問い詰めようとしなかった。
きっと何か事情があるのだと己に云い聞かせ、土方の広い背に両手をまわした。ぎゅっとしがみつく。
彼のぬくもりが心地よかった。だい好きな彼だった。
自分たちが今身を置いている殺伐とした日々から考えれば、ずっと傍にいてなど、戯言なのかもしれない。
だが、それでも、本心だったのだ。
この人がいなければ生きてゆけないほど、命がけで愛している。
そのことは紛れもない真実なのだと、総司は心から思った。
その数日後の事だった。
稽古を終え、部屋に戻ってきた総司は驚いた。
友人である斉藤が難しい顔で、部屋の前に佇んでいたのだ。
「……斉藤さん?」
おずおずと声をかけた総司に、斉藤は、はっと我に返ったようだった。驚いた顔でふり返り、「あぁ」と鳶色の瞳の色を和らげる。
三番隊組長であり、総司と並び称される剣の腕をもつ斉藤は、総司の大切な友人だった。いつも穏やかで飄々とした感じが、人見知りしがちな総司の心をときほぐしてくれるのだ。
「何か、私に話でも?」
そう訊ねた総司に、斉藤はうーんと唸った。
「話というか、どう云えばいいかわからないんだけどなぁ」
「?」
総司は小首をかしげた。
「私もよくわかりませんけど、とりあえず、部屋の中に入りませんか?」
「あぁ」
二人は部屋に入り、向き合って坐った。
斉藤はしばらく何か考え事をしていたが、やがて、ゆっくりと云った。
「話っていうのは、土方さんの事なんだ」
「土方さんの?」
だい好きな人の名に、どきりとした。
これじゃ駄目と思いはするのだが、彼の事になると普段どおりでいられなくなるのだ。
頬を染めながら問い返した総司に、斉藤は少し切なげな表情になった。
斉藤自身、この若者に恋をしている。
ずっと長い間、見つめてきたのだ。
だが、だからこそ、総司の想いがどこにあるか、わかっているつもりだった。
総司の澄んだまなざしの先にあるのが誰なのか、よくわかっていたのだ。
「今朝の事なんだ」
斉藤は、ゆっくりとした口調で話した。
「巡察へ行く前、土方さんと会ったんだが、妙な事を云われた。大徳寺の門前は気をつけろと」
「気をつけろ?」
総司が不思議そうに小首をかしげた。
「それは妙ですね。巡察はもともと危険だし、なのに、場所を指定してなんて」
「だろう? とりあえずオレは頷き、隊士たちにも告げておいた。それで、大徳寺の門前にさしかかった時はやはり身構えていたのだが、そこへ暴れ馬が突っ込んで来たんだ」
「暴れ馬?」
「あぁ。浪士たちの差し金だったらしく、すぐ斬り合いになった。幸い、こちらが警戒していたため、怪我人もなく済んだが……」
斉藤は鳶色の瞳で、総司を伺うように見つめた。
「妙だと思わないか?」
「何が、です」
「まるで、土方さんは、事あると知っていたみたいじゃないか」
「たぶん……知っていたんですよ」
総司は考えつつ、答えた。
「あの人は、色々な情報を手にしていますし、それで……浪士たちの動きも知っていたのかも」
「それにしても、詳細すぎるだろう。だいたい、そこまでわかっているなら、詳しく指示するはずだ。ただ、気をつけろと云うだけなんて」
「……」
総司は目を伏せ、黙り込んでしまった。
確かに、おかしいと思う。
いつも明確に、はっきりと告げる土方にしては、ひどく曖昧なもの云いだった。斉藤の言葉どおり、情報を掴んでいるなら、それを明かし対応するよう指示するだろう。
「土方さんには報告したのですか?」
「あぁ、むろん」
「それで……どう云っていました?」
「何も」
「何も?」
驚いて聞き返した総司に、斉藤は難しい顔で頷いた。
「黙って頷いて、それから、何かひどく考えこんでいるようだった。ちょっと声をかけられない雰囲気だったから、そのまま出て来たんだが」
「そう……ですか」
斉藤の言葉に、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
斉藤の話に、応えを出すことはできなかった。
総司自身、理解できない土方の言動だったのだ。
翌日、副長室を訪れてみたが、あいにく土方は留守だった。
「……」
総司はちょっと躊躇ったが、少し待ってみる事にした。
外出したとは聞いてないから、おそらく近藤と話でもしているのだろう。広大な西本願寺の屯所中を探しまわるのも、何だか気恥ずかしかった。
しばらく、ぼうっと外を眺めていた総司だったが、風が強くなってきた事に気づいた。あっと思った時には、文机の上に置かれてあった紙が飛ばされる。
「!」
慌ててその一枚を掴んだ。自然と視線がそこへ落ちたのだが、思わず細い眉を顰めてしまう。
「……何、これ」
紙には、ただ日付だけが書かれてあった。それも、毎日ではない。ごく最近から始まり、この先の日付も書かれてある。
とくに総司の目をひいたのは、昨日の日付だった。それだけ墨で線引きされてある。黒々とした墨の濃さは、丁寧というより、彼の苛立ちが表れている気がした。
「これって、もしかして」
先日、土方が隠していたものではないのだろうか。そう思ったとたん、総司はきゅっと唇を噛んだ。
昨日と云えば、三番隊が襲撃された日だ。
他の隊士ならば内通を思ってしまう処だろうが、土方の場合は全く論外だった。
ならば、何なのか。
これは、何を意味しているのか。
総司が紙を見つめたまま考えこんでいると、不意に、横合いから手がのびた。
はっと息を呑んだ瞬間、紙は手荒く奪われた。
「……土方、さん」
見上げたそこには、鋭い瞳でこちらを見下ろす土方が立っていた。怯えた表情の総司を見据えたまま、ぐしゃりと手の中のものを握りつぶす。
「あ、あの……っ」
「人のものを勝手に見るな」
「ご、ごめんなさい。私は……」
「……」
慌てて謝る総司に、土方はすっと視線をそらした。部屋を横切り文机の前に坐ると、手にしていた紙をぴりぴりと細かく切り裂いてしまう。
そのまま一つ息をつくと、書類を取り上げた。総司の存在は全く無視したまま、仕事を始めてしまう。
完全に拒絶している男の広い背に、総司はきつく唇を噛んだ。男の押し殺された怒りに、泣きそうになる。
兄代りとして接してくれている時はもとより、恋人になってから、土方は総司に誰よりも優しく甘かった。
拒絶することも、他の者に向けるような冷たいまなざしも見せた事はなかったのだ。
だが、今の土方は怖い程だった。どうしていいのかわからなくなる。
「……土方さん」
そっと呼びかけてみたが、返事はかえらなかった。
総司は躊躇いつつも、ゆっくりと男に近づいた。細い指さきで彼の肩にふれると、書類をめくる土方の手がとまる。
無視されなかった事にほっとしつつ、総司は男の広い背に頬を寄せた。後ろから抱きつき、小さな小さな声でくり返す。
「ごめんなさい……」
「……」
「見てはいけないとわかっていたのに……風で飛ばされて、それでつい……本当にごめんなさい」
総司の言葉に、土方が僅かに俯いた。それから、ため息をもらすと、低い声で答えた。
「すまない……俺も悪かった」
「土方さん」
「つまらん事で、かっとなった。おまえを怖がらせちまったな」
「いいえ、私こそ、すみませんでした」
土方の背中に抱きついたまま、総司は謝った。おずおずと手を前にまわせば、優しく手の甲を撫でてくれる。
それに、総司は安堵の吐息をもらした。
どうして、何故、あんなにも怒ったのか。
あの捨てられた紙は、何だったのか。
土方さんは、まさか……。
重い疑念に、指さきまでしんと冷える気がした。愛する男の真実を見誤っているのかという不安が、胸奥に突き上げる。
(……土方さん)
何一つ言葉に出せぬまま、総司は男の背を抱きしめ、きつく目を閉じた。
土方と総司は恋人同士であったが、契りはまだ結んでいなかった。
言葉では何度も愛の契りを交わしたが、総司の躯はまだ清らかなままだったのだ。
それを先延ばしにしているのは、土方の方だった。
そういった話や雰囲気になると、何故か、避けてしまうのだ。百戦錬磨の彼なら馴れたものだろうに、やはり娘相手でなければその気にならないのかと、総司はひどく気に病んでいた。
そうして、誰にも相談する訳にもいかず悩んでいた処にわき起こったのが、土方への疑惑だった。
(私は、あの人の何を知っているのだろう)
出逢ってから十年以上の時が流れていた。
だい好きで憧れで、誰よりも愛しい存在で。
江戸の頃、いつも明るい笑顔で話しかけてくれた。大きな掌で頭を撫でてもらった嬉しさは、今でも忘れない。
京にのぼってからも、土方はいつも総司を可愛がってくれた。仕事上では厳しい副長だったが、二人きりだけの時は江戸の頃のままの優しい彼だったのだ。
だが、一方で、土方が一筋縄ではいかない男である事も確かだった。総司に見せている顔も、複雑な彼の内の一つなのだ。
今回の事も、どんな思惑からなのか、総司には見当をつける事もできない。
聡明な若者ではあるが、そういった謀には全く関わってこなかったのだ。否、ある意味、土方がふれさせぬよう守ってきたと云っても良かった。
新撰組という様々な男たちの思惑が行き交う隊の真っ只中にいながら、総司が剣術だけに目を向けていられたのは、すべて土方のおかげだった。土方の力強い庇護のもとに、総司はいるのだ。
それを総司もよく自覚している。今の自分が幸せでいられるのは、彼のおかげなのだと。
だからこそ、彼のことをもっとよく知りたかった。知って、一人孤独な闘いを続けているだろう土方の支えになりたいと、心から願っていたのだ。
なのに。
「……そんな簡単な事じゃないよね」
総司は縁側で呟いた。
非番の日だったが、あいにく土方は黒谷に外出だった。出来る事ならもっと一緒にいたいのだが、状況がそれを許さない。
ため息をつき、膝を抱え込んだ。
その時だった。
「何が簡単ではないのですか?」
不意に、傍らから声をかけられ、驚いて顔をあげた。
ちょうど通りかかった処なのだろう。新撰組参謀である伊東甲子太郎が、鳶色の瞳で総司を見下ろしていた。
伊東先生登場! 泥沼にはなりませんが、微妙な三角関係……?
