桜子が彼の腕をきつく握りしめた。
まるで──縋りつくように。
それに、土方はようやく我に返った。
桜子の小さな肩を守るように抱きよせてやりながら、低い声で訊ねた。
「……どうしたんだ、急に」
そう訊ねた夫に、君菊は小首をかしげてみせた。
「来てはいけませんでしたか」
「そんな事はないが……こっちへ来るのは初めてだろう」
「えぇ」
頷いてから、君菊は桜子に視線をむけた。が、反抗的な目つきで睨みつけてくる桜子に、すぐ顔をそむける。
そんな君菊に、土方は問いかけた。
「だが、何でここに来たんだ? マンションを訪ねればいいじゃないか」
「タクシーであなたのマンションに向かっていましたら……」
ゆっくりとした口調で、君菊は云った。
「あなたの姿を見かけたので、この店へ入りました」
「……そうか」
「あなた」
静かな笑みをうかべ、君菊は土方を見つめた。
「少しお話があるのですが」
「……」
土方の目が僅かに細められた。
しばらく黙ってから、答えた。
「どこかホテルでもとってあるのか? そこへ行って話を聞こう」
「あなたの部屋には入れてくれないのですか」
「あれは、俺と桜子の部屋だ。俺が許しても、桜子が許さないさ」
彼の言葉に同意をしめすように、桜子はよりきつく彼の躯にしがみついた。きっとした表情で、母親を見据えている。一歩もひかぬ、桜子らしい勝ち気な表情だった。
君菊は嘆息し、手帳を取り出すと走り書きした。その紙を手渡した。
「では、ここで待っていますので、後で来て下さいますか?」
「わかった。桜子を家に連れ帰ってから、すぐに行く」
「お待ちしています」
しとやかに頭を下げてから、君菊は踵を返した。静かに店を出てゆく。
妻の姿が視界から消えるまで、土方は固い表情のままだった。鋭い視線をむけ、唇を引き結んでいる。桜子も黙ったまま彼に縋りついていた。
それは、まるで、獣の親子のようだった。襲いかかる天敵から身を守るため、懸命に互いを支えあい戦いつづけてきた獣たちの───
「……総司」
気がつくと、土方が総司の方を見つめていた。濡れたような黒い瞳に含まれた憂いに、一瞬どきりとする。
「何…ですか」
「おまえは何も気にするなよ」
土方はじっと総司を見つめたまま、云った。
「事が早まっただけだ。前にも云ったとおり、心配する事はねぇんだ」
「……はい」
こくりと頷いた総司に、土方は安堵したようだった。ちょっと笑いかけてから、桜子を連れて出ていこうとする。
それに、総司は慌てて呼びとめた。
「あの、土方さん……!」
「え?」
ふり返った土方に、総司は躊躇いながらも訊ねた。
「今から、その……奥さんと逢うのでしょう? その間、桜子ちゃんはどうするのです」
「部屋で留守番させるつもりだ。連れてはいけねぇよ」
「じゃあ、ここで預かったら駄目ですか?」
驚いた顔になった土方に、総司は懸命になって云った。
「桜子ちゃん、こんな時に一人ぼっちなんて……淋しいと思うんです。辛いんじゃないかと」
「けど、ここで預かるって、いったいどうするんだ」
「厨房の横に、今度お菓子教室を開く予定の部屋があるんです。そこで……あ、ぼくもちゃんと見てますから」
「それじゃ、おまえの迷惑になっちまう」
土方はきっぱり云いきると、桜子に両手をのばした。小さな娘の躯を片腕で軽々と抱きあげながら、言葉をつづけた。
「気持ちは有り難いが、これは俺たちの問題だ。おまえには関係ない事だから、迷惑をかけたくねぇんだ」
「……」
ずきんっと胸奥が痛くなった。
俺たちの問題。関係がない。
その言葉はきっと彼自身のスタンスの問題として吐かれたものなのだろう。
だが、総司にとって、それは疎外感を知らしめるものだった。
家族とか、絆とかから、弾き出された──淘汰されるべき存在である事を、思い知らされた気がして……。
「……」
きつく唇を噛みしめ俯いていると、それを見かねたのか、まさ子が助け船を出してくれた。
「でしたら、あたしが預かります」
まさ子はにこにこと愛想よく云った。
「桜子ちゃんはうちのお得意さんですし、うちの子の茂とも仲良く出来ると思うんですけど」
「いえ、そんなご面倒は……」
断りかけた土方に、まさ子はにっこりと桜子にむかって笑いかけた。
「ね? 桜子ちゃんだって一人ぼっちでお留守番より、おばちゃんたちといる方がえぇよね?」
「うん!」
元気よく、桜子は答えた。
「桜子、ここにいる方がいい。一人ぼっちは嫌いだもの」
「……」
しばらく黙った後、土方は嘆息した。そっと桜子をおろすと、総司たちの方へ優しく押しやる。
「じゃあ……ちょっとだけ頼みます」
「はい」
「1時間ぐらいで戻ってくると思いますから」
そう云ってから、土方は桜子の前に身をかがめた。目線をあわせ、云って聞かせる。
「いいか? ちゃんといい子にしてるんだぞ」
「わかってるわよ。……パパも頑張ってきてね」
桜子の言葉に、土方は苦笑した。くしゃっと娘の柔らかな髪を撫でてから、立ち上がる。
もう一度だけまさ子と総司に黙礼してから、土方は足早に店から出ていった。その姿が雑踏の向こうに見えなくなると、総司はため息をついた。
あまりにも突然の出来事に、思考がまだついていっていないのだ。
何をどう考えていいのかわからなかったが、ともかくも、土方は心配するなと云ってくれた。その言葉を信じようと思った。
「……桜子ちゃん、行こうか」
とりあえず奥へ連れていこうと、総司は桜子の手を握った。子供特有のあたたかくて、小さな手。
桜子はまだ店の外を見つめていたが、ぽつんと呟いた。
「……パパ、大丈夫かなぁ」
「大丈夫って、何が」
「パパ、あの人と仲良くないから。桜子も、あの人のことだいっ嫌いだけど」
「……あの人って、もしかして、桜子ちゃんのお母さんのこと?」
問いかけた総司に、桜子はきっぱりと首をふった。握りしめた手に、ぎゅっと力がこもる。
「違うわ! あんなの、お母さんじゃない。年に1回だけ東京で会う決まりなんだけど、桜子、あの人と口きいた事もないし」
「口きいた事がないって……そんな」
「あの人が話しかけてこないの。桜子にはパパがいるから、いいんだけど。桜子は、パパさえいてくれれば、それでいいの」
そう云ってから、ふと気がついたように、桜子は総司を見上げた。
にっこりと無邪気に笑ってみせる。
「もちろん、総司さんも一緒にいてくれたら、もっともっと嬉しいな」
「……そ、そう」
ちょっと慌てたが、総司は小さく笑い返した。
本当は、総司も同じ気持ちだった。
土方と桜子と。三人一緒に、これからも生きることが出来たなら、どんなに幸せだろう。
だが、それは見果てぬ夢のように思えた。
総司はふり返ると、店の外へ見つめた。
(……土方さん……)
そっと彼の名を呼んでから、踵を返す。桜子の手をひき、優しく笑いかけながら店の奥へと歩んでいった。
そんな総司の後ろで、春の黄昏が街に舞い降り始めていた……。
土方は僅かに嘆息した。
君菊が指定したホテルへ来たのだ。フロントで訊ねると、部屋にいるという事だったので上へあがった。
神戸の海が一望できる一流ホテルだ。客室に招き入れられると、窓一面に煌めく海が広がっていた。
「眺めのいい部屋だな」
そう云った土方に、君菊は「えぇ」と小さく答えた。それきり沈黙が落ちてしまう。
二人逢えば、いつもこうなのだ。会話が弾んだ事など一度もない。
土方はソファに腰を下ろしながら、鋭い視線を妻に向けた。
「……で、何の話だ」
「あなたの方こそ、お話があるのではありませんか」
切り返され、思わず苦笑した。ゆっくりと足を組みながら、ソファの背に凭れかかる。
「調べたのか」
「自然と、噂は耳に入ってきます」
「浮気を責めにきたって事だな。だが、あれは浮気じゃない」
土方は低い声で云いきった。
「俺は本気だ。おまえとは離婚するつもりでいる」
「……わたしは承諾しません」
そう答えた君菊に、土方は僅かに目を細めた。
「おまえ自身、ずっとそれを望んでいたんじゃないのか。俺に愛情などないだろう」
「ないと思います。ですが、離婚はお断りします」
「どうして」
「あなたと、やり直そうと思っているからです」
「──」
それに、土方は瞠目した。
しばらく無言のまま君菊を見つめていたが、やがて、乾いた笑い声をたてた。
「まさか……今さら?」
「確かに、今更ですが。遅くはないと思うのです」
「遅いさ。5年間も桜子を放っておいて、今更何を云っているんだ。別居状態が5年も続けば、立派な離婚条件になる。知らねぇのか」
「知っています。でも、わたしは今、あなたとやり直す事を望んでいるのです。東京に戻ってきて下さいませんか」
「断る」
土方は立ち上がると、冷たく澄んだ瞳で君菊を眺めた。
「俺はおまえとやり直すつもりはない。おまえが桜子を見殺しにしようとした時、すべては終わったんだ」
「終わった……ですか。あなたは、女の気持ちというものを理解できないのですね」
「女の気持ち?」
「母親の気持ちと云えば、おわかりになります?」
君菊は少し青ざめた顔で、土方を見つめた。美しいだけに、その瞳がきらきらと異様に輝いている様は、無視できぬ迫力があった。
「女なら皆、子を産んですぐ母性本能が芽生えると思っておられるのですか。母親になったら、すぐ子供を愛せると」
「……」
「わたしは、桜子を愛する事が出来ませんでした。努力はしました。でも、どんなにあやしても夜泣きをくり返し、乳さえ飲んでくれぬあの子に、愛情をもつ事など到底できなかったのです」
「だが、それでも、おまえが産んだ子供だ。愛して当然じゃないのか」
「それは男の論理です。愛情は自然とわき起るもので、つくり出すものではないでしょう。わたしは桜子を愛せなかったのです。それどころか、憎いとさえ思いました。泣きわめくあの子を嫌悪しました。いっそ目の前から消えてくれたらいいと……」
「いい加減にしろ!」
土方は思わず一喝した。
この母親に嫌われ疎まれた桜子が、悲惨な子供時代をおくった自分自身と重なり、可哀想でたまらなかった。これ以上、桜子の存在を無視するような言葉を聞きたくなかったのだ。
「桜子の気持ちも考えてみろ。母親に見殺しにされかけた桜子は、いったいどうなるんだ。愛せないからと云って、放り出していいはずがねぇだろう」
「放り出させたのは、あなたではありませんか。わたし一人を東京に置き去りにし、桜子だけを連れて出ていったのは、あなたの方でしょう」
「おまえが桜子を愛さないからだ。あのままでは、桜子は死ぬ処だった」
「……わたしより、あなたは桜子を選んだ。そういう事なのですね」
君菊の言葉に、当たり前だと答えかけ、土方はさすがに踏みとどまった。
だが、彼にとって、桜子は大切な愛おしい娘なのだ。その娘を傷つけようとする者は、たとえ妻であっても桜子の母親であっても、土方にとっては敵だった。到底許す事ができなかったのだ。
押し黙った土方の前で、君菊は目を伏せた。
「あなたの気持ちはよくわかりました。でも……わたしの気持ちは変りません」
「君菊」
「わたしは、やり直したいのです。桜子ともやり直し、母親としてきちんと育てるつもりです」
「……」
「今までの事は謝ります。ですから、東京に戻ってきて下さい。兄もそう望んでいます」
「駄目だ」
土方はため息をつき、煩そうに片手で前髪をかきあげた。君菊に視線をむけ、はっきりと云いきった。
「悪いが、俺の気持ちも変らない。早急に離婚手続きに入るつもりだ」
「……」
「後日、また連絡する」
そう云った土方は、静かに踵を返した。大股に部屋を横切り、出てゆこうとする。
その後ろで、君菊が不意に小さく嗚咽をあげた。
驚いてふり返った土方の前で、君菊はこちらに美しい横顔を見せ、俯いていた。その長い睫毛に涙がたまり、ほろほろと零れ落ちてゆく。
「君菊……?」
初めて見る妻の涙に、土方は戸惑った。それに、君菊は涙に濡れた声で云った。
「……あなたに…捨てられたら、わたしはどうすればいいのか……わかりません」
「君菊、おまえは俺を愛していないのだろう。だったら……」
「わたし……妊娠しているのです」
「──」
土方の目が大きく見開かれた。
愕然とした表情で、君菊を見つめている。
やがて、掠れた声が部屋に響いた。
「……何…だって……?」
信じたくない。
偽りだと云って欲しいと、男の表情は雄弁に語っていた。
だが、君菊は容赦なく言葉をつづけた。
「妊娠8ヶ月だそうです。標準より小さな子供なので……あまりお腹もめだちませんが」
「8ヶ月……じゃあ、この間、東京へ帰った時の……」
「そうです。あの時に授かったのだと思います」
君菊はハンカチで涙をぬぐうと、静かに立ち上がった。歩み寄ってくると、そっと土方の手を握りしめる。
まだ涙で潤んだ瞳のまま、夫を見上げた。
「お願いです……わたしはこの子を父親のない不幸な子にはしたくありません。生まれる前に、両親が別れているなんて……そんなこと、可哀想すぎると思われませんか」
「……ちょっと待ってくれ」
土方は混乱しきった様子で、ゆるく首をふった。
どこか怯えたような瞳で、君菊を見つめてしまう。声が喉にからんだ。
「本当…なのか? 妊娠していること……それは本当の事なのか」
「こんな事で嘘をつけるはずがありません」
君菊はそっと土方の手を、己の腹にあてさせた。帯下のおはしょり辺り。そこに確かな膨らみを感じ、土方は深く息を呑んだ。
「……君…菊……っ」
「わたし、この子がとても可愛いのです。桜子の時と違い、生まれる前から、こんなにも愛おしく思ってしまう。今度こそ、ちゃんとした母親になれますわ」
「性別は調べたのか。おまえ、桜子の時に性別を調べて、男の子でなかったら堕ろすと云っただろう。今度の子が男だから、おまえは……」
「そんなことしていません」
静かに君菊は首をふり、微笑んだ。
「超音波検査でも聞かないようにしているのです。どちらか分らないのも楽しい事ですし……それに、わたし、もう男でも女でも構いませんわ」
「……」
「今こんなにも愛おしいのですもの。どちらが生まれても、可愛いと思うはずですわ」
「親なら当然の事だろう。なのに、おまえは桜子を……」
「ですから、桜子のことは謝ります。これからは、母親として接します。ですから、東京に帰ってきて下さいませんか。わたしとやり直して頂けませんか」
縋るように、君菊は土方の胸へ身を寄せた。
「わたしも悪かったと悔やんでいるのです。心から、やり直したいと思っているのです。あなたと桜子と、わたし……そして、生まれてくるこの子と四人で、もう一度やり直したいと」
「……」
押し黙ったままの土方の胸もとに、君菊はそっと顔をうずめた。
そして、静かな声で囁いた。
「お願いです、あなた」
「……」
「どうか、わたしたちを捨てないで……」
「!」
一瞬、土方は目眩を感じた。
己の足下から、すべてが崩れ落ちてゆくような気がしたのだ。
総司への想いも。
愛も。
未来も。
すべてが───……
(……総…司……!)
固く瞼を閉ざした土方は、その心の奥深くで、恋人の名を祈るように呼んだ……。
水曜日だった。
総司が勤めるケーキ店の定休日だ。
前々から、今日は総司のアパートで逢おうという約束になっていた。午前中そこで過ごしてから、午後は土方のマンションに戻り、桜子が帰宅を待って三人で出かける。そんな予定だったのだ。
そのため、総司は朝早くから部屋を綺麗に掃除していた。
もっとも手は動かしているが、頭の中は違う事ばかりを考えてしまう。
(……土方さん)
あの日、結局、土方は1時間半後に桜子を迎えに来た。
だが、問いかけるように見つめた総司に、何ら言葉をかける事もなく、視線さえあわさず帰ってしまったのだ。冷たいとも云える男の態度に、総司は不安を覚えずにはいられなかった。
考えてみれば、土方と総司の関係は、まるで糸のように細い繋がりなのだ。世間的には何の保証もなく、堂々と公表する事さえできない。
もしも土方が総司を切り捨てると決めれば、それはとても容易な事であるはずだった。
「ぼくは……愛人だもの、ね」
微かな痛みを感じながら、総司は小さく呟いた。だが、すぐに、ふるっと首をふる。
彼を信じようと決めたはずなのだ。
6年もの間、ずっと愛しつづけてくれていた彼が、今さら裏切るはずもなかった。彼の愛を疑うこと自体、冒涜のような気がした。
「信じよう。あの人を信じるべきなんだ」
自分に云い聞かせるようにくり返し、総司は手を動かした。沸かしたお湯をポットへ注いでゆく。土方が来てくれたらすぐ、彼の好きな珈琲を入れてあげたかったのだ。
時計を見れば、もう一時間も約束の時間は過ぎていた。それに不安そうに瞳を揺らしたとたん、インターホンが鳴った。
「はぁい」
総司はできるだけ明るい声で返事をすると、玄関へ走った。扉を押し開ける。
思ったとおり、そこには土方が立っていた。
だが───
「!」
一瞬、思わず息をつめてしまった。
見上げた男の端正な顔は、ひどく怜悧なものだったのだ。
冷たく澄んだ瞳で総司を一瞥したかと思うと、低い声で「……遅れてすまなかった」とだけ告げ、中へ入ってゆく。
土方が傍をすり抜けた瞬間、総司は大きく目を見開いた。
(……この香り……!)
覚えがあるものだった。
先日、店にきた女──君菊がつけていたものだ。品が良く甘さのない香りは、匂い袋独特のものだった。それも珍しい香りだっため、総司もよく覚えていたのだ。間違えるはずがなかった。
総司はふり返り、土方を見つめた。
部屋に入った土方は、ソファに腰をおろしていた。僅かに乱れた黒髪を指さきでかきあげ、疲れたようにため息をつく。
服装さえも全く違っていた。いつも総司と逢う時は仕事帰りでない限り、シャツやジーンズのラフな装いなのに、今日はきっちりスーツを着込んでいたのだ。いったい、どこへ行って来たと云うのだろう。
総司はぎゅっと両手を握りしめた。
必死に堪えてないと、問いただしてしまいそうになる。
今まで誰といたの──? と。
否、そんなこと聞かなくてもわかっている。
この人は、君菊といたのだ。
それも。
もしかして、愛人と逢う前に、その腕に妻を抱いていた……?
「……っ」
嫌な想像までしてしまい、総司は思わず目を閉じた。
だが、土方はそんな総司の様子に何も気づかぬようだった。彼は彼で何か思考を追っているのか、ぼんやりと宙へ視線を投げている。
総司は一度深呼吸をしてから、静かに目を開いた。ゆっくりと歩み寄りながら、話しかけた。
「……土方さん」
そっと呼びかけると、土方は驚いたようにふり返った。
「え?」
「珈琲……飲みます?」
「あ、あぁ。そうだな……頼む」
頷いた土方に目を伏せ、総司はキッチンへ戻った。手早く珈琲を入れ、カップに注ぐ。芳ばしい香りが室内に広がった。
総司が珈琲を運んでゆくと、土方は「ありがとう」と微笑み、受け取った。傍に坐り、珈琲を飲んでいる男の端正な横顔を見つめた。
愛おしい人。
6年もの間、忘れようとして思いきろうとして。
それでも、ずっとずっと愛しつづけてきた人。
そんな彼とようやく恋人同士になれた春。
だが、それは短い春だったのだろうか。花は散ってしまうのだろうか。
あなた自身の手で、あなたがそう呼んでくれた小さな花は、散らされてしまうの──?
「……総司」
低い声で呼びかけられ、総司はゆっくりと目を伏せた。僅かに視線をそらし、両手を握りしめる。
懸命につとめたが、それでも微かに声が震えた。
「わかって…います」
掠れた声で、総司はつづけた。
「あなたが何を云おうとしているのか……わかっているつもりです」
「総司……?」
「土方さん、あなたは、ぼくと……別れるつもりなのでしょう?」
「──」
土方の目が大きく見開かれた。
それに、総司は静かに微笑んだ。
涙は見せないで。
決して泣かないで。
この人の重荷にだけはなりたくないから。
せめて綺麗な思い出として、この人の中に残っていたいから……。
総司は立ち上がると、ゆっくりと部屋を横切り窓辺へと歩み寄った。ガラス窓にうつる自分を見つめながら、言葉をつづけた。
「この間、桜子ちゃんを迎えに来た時のあなたの表情……本当は、あの時からわかっていたんです」
「……」
「あなたの事は愛してるけど、だい好きだけど……でも、あなたがそう決めたなら、ぼくは何を云う資格もありません。だって、ぼくはただの……あなたの愛人だから」
そっと吐息をもらした総司は、静かにふり返った。
そして。
柔らかな声で、こう告げたのだった。
「……さよなら、土方さん」
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