しばらくの間、重い沈黙が落ちていた。
 総司は黙ったまま目を伏せてしまい、土方も無言のまま鋭い視線をあてている。
 二人とも、身動き一つしなかった。息もつまるような空気が張りつめる。
 それを破ったのは、土方だった。
「……ちょっと待てよ」
 低い、押し殺された怒りさえ感じさせる声で、土方は云った。
「いったい何を云ってるんだ」
「……」
「何を云う資格もないだと? 愛人だと? おまえは……そんなふうに思っていたのかよッ!」
 突然、声を荒げた土方に、総司は目を見開いた。思わず窓ガラスに背をつけてしまう。
 そんな総司に、土方は苛だったように舌うちし、立ち上がった。大股に部屋を横切ってくると、総司の頭の両側に手をついて閉じこめてしまう。
 総司は目を瞠ったまま、小さく彼の名を呼んだ。
「土方…さん?」
「ったく、勝手に自己完結しやがって。冗談じゃねぇよ、いったい、俺がいつおまえと別れると云ったんだ」
「だ…って……っ」
「俺は確かに、今日おまえに話があったさ。けど、別れ話なんざじゃねぇ。君菊との離婚が駄目になった話をするつもりだったんだ」 
「……」
 総司は物問いたげに、土方を見上げた。微かに、その澄んだ瞳が揺れている。
 それを見下ろし、苦々しげな口調で土方は答えた。
「君菊は妊娠しているんだ」
「え……」
「今、8ヶ月らしい。二人目の子を身ごもっている」
「──」
 鋭く、総司は息を呑んだ。
 呆然とした表情で、土方を見上げている。
 それを聞いた瞬間に感じたのは、冷たい程の疎外感だった。
 決して妻にも家族にもなれない、己自身の存在。
 どんなにこの人を深く愛しても愛されても、自分は永遠にその輪から弾かれたままなのだ。
 淘汰されるべき存在。
 何も生み出さないこの躯で彼と繋がり、身も心も愛しあって。
 だが、それが何になるのか。
 ささやかな幸せ一つ、彼にあたえる事さえできないのに───……
「……それじゃ、同じ事です」
 やがて、総司は小さな声で云った。かるく身を捩ると、土方の腕の檻から抜けだそうとする。
 それを土方は訝しげに眉を顰めつつ、見下ろした。
「同じ事?」
「そう。同じ事なのです……やっぱり、ぼくとあなたは別れた方がいい」
「おまえ、何を云って……っ」
「だって……そうでしょう?」
 総司は大きな瞳で、まっすぐ土方を見つめた。
「あなたは、君菊さんが妊娠したからと、離婚をやめた。ぼくとの事より、子供を選んだのです」
「ちょっと待てよ。俺は……」
「責めてる訳じゃないんです」
 どこか疲れたような口調で、総司はつづけた。
「それは当然のことなのですから。あんなにも桜子ちゃんを愛してるあなたです。子供を身ごもった君菊さんに懇願されたら、別れる事などできるはずがない。あなたは優しい人だから……」
「その事は悪いと思っているんだ。俺はどうしても、君菊を突き放す事ができなかった。だが、今だけの話だ。子供が生まれれば、俺はきっと……」
「離婚できると? そんなこと無理ですよ」
 くすっと笑った。
「あなたには絶対に出来ない。子供が生まれたら、尚の事です。桜子ちゃんはともかく、次のお子さんの親権まで君菊さんが手放すはずがないでしょう。それに、あなたは耐えられないはずです。あなたは桜子ちゃんを愛したように、その子も愛するはず。自分の子が可愛いのは当然なのですから」
「……」
「絶対に、あなたは離婚なんかできない」
「……なら、おまえは俺にどうしろって云うんだ」
 低い声で問いかけた土方に、総司は長い睫毛を伏せた。
 しばらく黙ってから、静かな声で云った。
「別れて……下さい」
「総司」
「ぼくと別れてください。その方がお互いのためにいいのです」
「断る」
 きっぱりと、土方は断言した。
 壁についていた手をずらし、総司の髪にふれる。
「俺は絶対におまえと別れない」
「別れて下さい」
「だめだ」
「そんなの勝手です」
「勝手なのはどっちだッ!」
 土方の声音に怒気がこもった。バンッと壁に手のひらを叩きつけ、激しい瞳で総司を見据えた。
 それを総司もきつい表情で、まっすぐ見返した。なめらかな白い頬が紅潮した。
「あなたは、ぼくを愛人扱いするのですか。永遠に、その立場でいろと?」
「今の状況の方がいいと、云ったじゃねぇか」
「それは君菊さんの妊娠なんて知らなかったから……状況は変ったし、ぼくの気持ちも変ったんです。お願いですから、別れて下さい」
「断ると云っているだろう。それに、俺はおまえを愛人扱いなんざする気はねぇ」
「その気がなくても、愛人じゃないですか!」
 たまらず、総司は叫んだ。
 それに、土方は思わず総司の躯を抱きすくめた。背中と腰に腕をまわし、きつく抱き寄せる。
「いや…! 離して……っ」
 総司は身を捩ると、土方の胸に両手を突っぱねた。激しく睨みつける。
「離してと云っているでしょう!?」
「絶対に離さねぇよ」
「離さないなら、舌を噛んでやりますよ。あなたと別れられないなら、いっそ死んでやる……!」
 そう叫んだ総司に、土方は鋭く息を呑んだ。黒い瞳に、怒りと屈辱、苦痛の色がみちる。
 喉から絞り出すような声で、訊ねた。
「そんなに……俺と別れたいのか。死にたいぐらい、俺といるのが嫌なのか」
「今、そう云ったでしょう!? 一生、あなたの愛人だなんて、真っ平御免です。ぼくはあなたなんか……もう望まない!」
 そう叫んだ瞬間、総司の躯は荒々しく抱きよせられていた。
 そのまま浮遊感が襲ったかと思うと、気がついた時には男の両腕で抱きあげられてしまっている。
「な……何っ?」
 驚く総司を抱え、土方は大股に部屋を横切った。彼がむかっている先を知り、総司は青ざめた。
「い…や! いやぁっ、降ろして!」
「……」
 抵抗する総司を無視し、土方は寝室に入った。そのまま、ベッドの上へ総司の躯を乱暴に放り投げる。
 慌ててベッドの端に身をよせる総司を昏い瞳で眺めながら、土方は鬱陶しそうにネクタイを緩めた。シュッと音をたてて引き抜き投げ捨てると、そのままベッドにあがってくる。
 逃げようとしたが素早く腕を掴まれ、あっと思った時には、男の逞しい躯の下に組み敷かれていた。
「……おまえが誰のものか、思い知らせてやるよ」
「土方…さん……!」
「ふざけた事ぬかしやがって。おまえとは絶対に別れねぇからな」
「なら、死んでやると云っているでしょう!? 舌を噛み切って、死んでやる……っ」
 睨みつけてくる総司に、土方はゆっくりと唇の端をつりあげてみせた。
 その手がのばされ、突然、細い項を掴まれた。ぐいっと荒々しく引き寄せると、噛みつくように口づける。
 思わず抗う総司の唇を、甘く激しく蹂躙した。
「んっ、んんぅ……っ」
 喘ぐ総司に薄く笑いながら、より深く唇を重ねた。甘い舌をたっぷり貪ってやる。
「…ふっ、ぅ…んっ……っ」
 総司の眦から、涙がこぼれた。 
 それに、土方はやっとキスをやめてくれた。だが、身をかがめ、総司の耳もとにキスで濡れた唇をよせる。
 白い耳朶に甘く歯をたてながら、低い声で囁きかけた。
「……舌を噛んで死ぬって云うなら、先に、俺の舌を噛み切っちまえ」
「──」
 総司の目が大きく見開かれた。
 それを見下ろし、土方は喉奥で低く笑い声をたてた。
 彼の黒い瞳は、まるで獰猛な獣のような光を帯びていた。
「そんなに死にてぇならな、俺を殺してからにしろよ」
「……土方…さん……っ」
「総司……おまえはこの俺に繋がれているのさ。どんな事があっても、逃がすものか……」
 そう囁いた土方は、愛おしそうに総司の頬を手のひらで包み込んだ。
 昏く翳った瞳で見つめてから、再び唇を重ねてくる。彼の舌が、まるで誘うように舌を歯を探ったが、それを噛むことなど到底できなかった。
 この人を殺すなんて、そんなこと恐ろしいこと───
(できるはずがない……!)
 固く瞼を閉ざした。
 男の手が荒々しく、そのくせ優しく、総司の躯を開かせ快楽をあたえ始める。
 それを何処か遠くで感じながら。
 総司は、狂気じみた男の愛に堕とされてゆく自分を、痛いほど思い知らされていた……。








 昼下がりの陽光の中、彼の車は静かに停まっていた。
 歩み寄りながらロックを解除すると、微かな機械音が鳴る。
 土方はドアを開け、運転席へしなやかに躯を滑り込ませた。キーを差し込み、エンジンをかけたが、シフトレバーを動かそうとした処で、不意にきつく唇を噛みしめた。
「……畜生……ッ」
 思わず荒々しくドアへ拳を打ちつけた。
 怒りで躯中が熱く、気がおかしくなってしまいそうだった。どうしても感情がゼーブできない。
 土方はため息をつくと、シートに凭れかかった。
 この先、どうすればいいのかさえ、もうわからなかった。
 自分でもよくわかっていたのだ。
 あんな事をして、何の解決になるはずがないと。
 躯を繋げることで、総司の心を引き留められると思ったのか。自分のものだと再認識できると思ったのか。
 だが、そんな事、ありえるはずもなかった。
「……最低だ」
 低く呟き、瞼を閉ざした。
 先ほどの行為が、土方の脳裏に蘇った。
 まるで──レイプだったのだ。無理やり躯を開かせ、繋がって。
 確かに苦痛は与えなかっただろう。快楽しか与えなかったはずだ。
 だが、総司はずっと唇を噛みしめ、青ざめた顔で堪えていた。声一つたてなかったのだ。
 その強情さが憎らしく──また一方で、たまらなく愛おしくて。
 どうする事もできない激情のまま、より狂おしく抱いてしまった。こんな事が何の解決にもならない、そればかりか、総司の心を一層閉ざすだけだと、よくわかっていながら……。
「……」
 土方は目を開き、窓外を眺めやった。
 この駐車場からは、総司の部屋がよく見える。まだ、総司は眠っているのだろうか。いや、眠るというよりは失神だったが───
 己の腕の中で総司が気を失った瞬間、彼の胸を突き上げたのは、悔恨とより深い絶望だった。
 こんなにも愛しているのに。大切にいつまでも愛して、この手で幸せだけをあたえてやりたいと、そう心から願っていたのに。
 なのに。どうして、こんなふうになってしまうのか。
 自分自身が悪いのだという事も、よくわかっている。
 あんな愛のない結婚をしたこと自体が、間違いだったのだ。愛もないのに年に一度東京へ帰るたび、君菊をただ義務感だけで抱いていた事も。
 そして、今。
 君菊とは離婚せず、その上で総司との関係をつづけようとしている自分は……。
(なんて狡いんだろうな……最低の男だ)
 苦笑がもれた。己自身の狡さに、吐き気さえする。 
 だが、それでも、総司と別れる気などさらさらなかった。どんなに非難されても罵られても、構わないのだ。この恋が己を破滅に導いたとしても、後悔など一切しない。
 愛しい、愛しい恋人。
 総司と別れることなど、できるはずもなかった。それぐらいなら、いっそ───
「……殺された方がマシだ」
 低い声で呟き、土方はゆっくりと身を起こした。
 しばらく総司の部屋を見つめていたが、やがて、シフトレバーに手をのばした。ドライブに入れると、静かにアクセルを踏み込む。車が緩やかに車道へ滑り出した。
 疾走する車の中、土方はきつく唇を噛みしめた……。








 不意に、声が厨房に響いた。
「!」
 それに総司は、びくっと肩を震わせた。慌てて見ると、斉藤が厨房に入ってきた原田へ歩み寄り、何か云っている処だった。
 ほっと吐息をもらし、手元に視線を戻す。
 作りかけのケーキ。今日は時間があれば新作ケーキを試作しようと思っていたのだが、とても出来るものではなかった。先ほどから何度も、失敗ばかりをくり返していたのだ。
 理由などわかりきっていた。
 土方のことだ。
 愛しい彼のことばかり考えてしまい、どうにも手がつかない。
 こんな事は初めてだった。今までも昼間、彼の事を想う瞬間はあったが、仕事に入ればすぐ集中できたのに。
 今回ばかりは駄目だった。
 昨日の事ばかりを頭の中にリフレインさせてしまうのだ。
 きつく激しく貪るような──だが、それでいて優しい情事に、とうとう失神してしまった総司。
 次に目覚めた時、部屋に土方の姿はなかった。ただ、「すまなかった また連絡する」というメモだけが残されていたのだ。
 しばらくの間、総司はそれをぼんやりと見つめていた。
 正直な話、怒りは全くなかった。あの情事は彼に謝られるようなものではなかったから。
 恋人を抱いて謝る男が、いったいどこにいるのか。
 むろん、いつもと違う彼が怖かったし、激しい情事に今も躯中が重く気怠かった。だが、それでも、彼は優しかったのだ。
 何度も何度も総司に甘いキスを落し、「愛してる」と掠れた声で囁いてくれた彼。
 そんな彼に怒りなど覚えるはずもなかった。
 むしろ、それよりも──
(……土方さん……)
 総司は長い睫毛を伏せ、きつく唇を噛みしめた。
 昨日から電話が何度から掛けられていた。メールも送信されてくる。だが、それらを総司は完全に拒絶していた。
 だが、そのくせ、彼のことばかり考えているのだ。
 別れを告げながら、それでも尚、彼が恋しくて恋しくてたまらなかった。今も、この瞬間でも、世界中の誰よりも愛おしい。
 彼のためなら、どんな犠牲を払ってもかまわないと思うほど───
(だから……別れなくちゃ駄目なんだ)
 そう。
 彼のためを、本当に、彼の幸せを願うなら。
 その傍にあるべきなのは、自分でなく、君菊であり桜子であり、そして今度生まれてくる子供なのだろう。
 土方に、あたたかい家庭をあたえてあげられるのは、自分でなく、君菊であるはずだった。
 そうだと実感したから、辛かったけれど痛いほど感じたから。だから、彼に別れを告げたのだ。
 なのに、土方はその別れを拒絶し、逃がさないと強く抱きしめてきて───
(あぁ……ぼくは……!)
 総司は思わず固く瞼を閉ざした。
 土方に、逃がさないと抱きしめられた瞬間、感じたもの。
 それはまぎれもなく──歓喜、だったのだ。
 思わず泣いてしまうほど嬉しかった。罪の意識に怯えながら、己自身の狡さに震えながら、それでも嬉しくて嬉しくてたまらなかったのだ。
 この人はこんなにも、ぼくを愛してくれている。
 別れると告げても尚、愛し執着してくれる。
 それがたまらなく嬉しくて。
 だが、一方で頭の片隅で、誰かが囁いていた。
 本当に、これでいいの──?
 この人と許されえぬ関係をつづけてゆく、その罪深さを、本当にわかっているの? と。
(ぼくは……どうすればいいの……?)
 爪が食い込むほど手を握りしめ、総司は俯いた。
 その時だった。
「……総司」
「──」
「総司」
 幾度か呼ばれ、総司はのろのろと顔をあげた。見れば、調理台の向こうから斉藤がじっと見つめている。
 その何も見逃さぬ鳶色の瞳に、思わずたじろいだ。
「な……何、ですか」
「昼飯に行こう」
「え」
「ちょっとオレが行きたい店があるんだ。ほら、急いで」
 半ば無理やり厨房から連れ出され、総司は驚いた。こんな強引さ、いつもの斉藤には似つかわしくなかったのだ。
「斉藤…さん?」
 レストランへの道筋、何度か呼びかけたが、斉藤は固く唇を引き結んだままだった。無言で歩いてゆく。
 総司はため息をつき、仕方なくそれに従った。
 レストランは、ベーカリーショップに併設されたものだった。吹き抜けのガラス越しに見える街路樹がとても瑞々しい。
 二人はそれぞれ日替わりランチを注文し、食事を始めた。
 そうしながら、総司は問いかけた。
「こんな処でゆっくり食事してて、いいのですか?」
「いいんだ。原田さんにも云ってある」
「え?」
「とりあえず朝のうちに、問題ないようにしておいた」
 そう答えてから、斉藤はまっすぐ総司を見つめた。
 どきりとした総司に、低い声で云った。
「仕事場に私情を持ち込むなんて、おまえらしくないな」  
「!」
 総司の目が大きく見開かれた。
 それに斉藤は視線を落とすと、フォークを動かした。そうしながら、言葉をつづける。
「朝から、仕事になっていなかっただろう。あれじゃ、パティシエとして失格だし、周りにも迷惑だ」
「……すみません……」
 思わず俯いた。
 自分の感情にだけ追われ、仕事を疎かにしてしまった自分が恥ずかしかった。斉藤の言葉どおりなのだ。仕事場に私情をもちこむなど、あってはならない事だった。
「本当に……ごめんなさい」
 そう小さな細い声で云った総司に、斉藤は苦笑した。
「別に謝ってほしい訳じゃない」
「でも……」
「昼から、いつものおまえに戻ってくれ。お客さんたちのためにな」
「はい」
 こくりと総司は頷いた。
 そうなのだ。自分がつくったケーキは、お客んたちに食べてもらうためのものなのだ。皆を幸せにするために、つくっている。それを自分ことのせいで、疎かにしてしまうなんて……。
「昼からは、ちゃんとやります。原田さんにも謝っておきます」
「その方がいい。随分、心配してたからな」
 斉藤はそう云うと、僅かにため息をついた。
 不意にフォークを置くと、手をのばし、そっと総司の手に重ねた。
「……いったい、何があったんだ」
「……」
「吐き出した方が楽になるのなら、オレが全部聞くよ」
 総司は思わず瞳が揺れてしまうのを感じた。
 いつもあたたかく寄り添ってくれる斉藤の存在が嬉しかった。もうどうしたらいいのかわからず、誰かに頼りたかった、縋りたかった。
 自分の事を好いてくれている彼に、土方との事をするなど残酷だとわかっていたが、総司も限界だったのだ。
「……聞いてくれます…か?」
 そう訊ねた総司に、斉藤は静かに頷いた。








 話が終わった後、しばらくの間、斉藤は黙っていた。
 その前で、総司も黙ったまま俯いている。
 やがて、斉藤が低い声で問いかけた。
「……それで、おまえは?」
「え」
 顔をあげた総司に、斉藤は言葉を重ねた。
「おまえ自身は、どうしたいんだ……?」
「……」
「過去や今の状況はわかった。あの男がどう云ってきたのかも。だが、一番大事なのは、おまえの気持じゃないのか。今も、おまえはあの男を好きなんだろう?」
「……好き、です」
 掠れた声で、総司は答えた。俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。
「今も好きです……愛してます」
「なら、別れなければいい」
「! だって……っ」
 弾かれたように顔をあげると、総司は叫んだ。
「だって、そんなの許されるはずがない」
「誰に」
「皆からです。世の中の人からです。何よりも、ぼく自身が許せない。あの人から家庭も幸せも奪って、愛人として暮らしてゆくなんて……そんなこと……」
「総司、おまえはさ」
 斉藤は微かにため息をついた。
「おまえは、愛人である事が嫌なんだよ。不倫という許されざる恋愛をしている自分自身が、許せない」
「……」
「潔癖で、真っ直ぐで清らかなおまえだからな」
「……清らかでなんか……」
「清らかさ」
 斉藤は静かな声で云った。
「おまえは清らかで純粋で、無垢だ。まるで小さな花みたいにな」
「──」
 その言葉に、総司は目を見開いた。
「……それ、土方さんも云っていた……」
「だろうな。オレがおまえを愛するように、あの男もおまえを愛しているのだから」
 小さく笑ってから、斉藤はナフキンをテーブルに置いた。椅子をひいて立ち上がりながら、総司にむけて云った。
「どちらにしろ、決めるのはおまえだ。総司」
「斉藤さん……」
「だが、これだけは云わせてくれ」
 斉藤はまっすぐ総司を見つめ、静かな声で云った。
「絶対に、自分自身の心にだけは嘘をつくな。それがどんなに許されない、周囲から指弾の的になるだろう事であったとしてもな」
「……」
「自分自身にだけは嘘をついたら、駄目だ」
 そう云った斉藤は勘定をとりあげると、ゆっくりとレストランを横切っていった。その後ろ姿を総司は見送り、小さく吐息をもらした。友人の言葉を噛みしめ、一瞬だけ目を閉じる。
 やがて、斉藤の後を追って立ち上がり、レストランの外へ出た。
 店へ戻る道すがら、斉藤はもうその事には一切言及しなかった。先ほどのレストランで出されたデザートについて、様々に評しあう。とてもおいしく綺麗なデザートだっただけに、パティシエ同士の会話は熱がこもった。
 午前中とは違い、午後からは気持ちもあらたに仕事が出来そうだった。
「やっぱり旬のフルーツとの組み合わせが、大事ですよね」
 総司はちょっと弾んだ声で云った。
 それに、斉藤は小首をかしげた。
「今の旬といえば、やっぱり苺か」
「それにどれを組み合わせるかが、大事。さっきのチョコ味のスポンジとの組み合わせも良かったですね」
「けど、あれは定番だろう。もっと斬新な形でやってみたいな」
「斉藤さんは新しいもの好きだから」
「チャレンジ精神豊かと云ってくれ」
 そう云った斉藤に、総司は声をたてて楽しそうに笑った。
 あと少しで店という処だった。
 だが、その前に、すっと誰かが立ちふさがった。
「……?」
 顔をあげた総司は、鋭く息を呑んだ。
 目の前に立っていたのは、スーツ姿の土方だったのだ。僅かに眉を顰め、冷たく底光りする瞳で総司を見下ろしている。
 恐ろしいほど凄味のある、嫉妬と怒りの色を含んだ表情だった。
「……土方…さん……っ」
 思わず後ずさってしまった総司に、土方は形のよい唇の端をつりあげてみせた。
 ちらりと総司の後ろに佇む斉藤に視線をむけてから、嘲るような口調で云った。
「随分と楽しそうだな」
「……っ」
「人の電話もメールもさんざん無視しておいて、自分は他の男と楽しくお食事か」
「ぼ、ぼくの勝手でしょう……っ?」
 思わず叫んだ総司に、土方はかるく肩をすくめてみせた。そのまま手をのばすと、ぐいっと細い腕を掴んだ。
 いやがり逃れようとしたが、軽々と抱き寄せられてしまう。
 耳もとに唇を寄せ、土方は低い声で囁いた。
「話がある」
「……」
「車で来ているんだ。場所を移そう」
「そんな……店があるのに!」
「休めばいいさ」
「勝手に決めないで! あなたはぼくを何だと思ってるの!?」
 それに、土方は喉奥で低く笑った。それは思わず総司が息を呑んだほど、残酷な笑い声だった。
「俺のもの、だろう?」
「──」
 男の言葉に、総司は思わず息をつめた。 
 昏く翳った瞳が冷ややかに見つめてくる。
「なぁ、総司?」
 どんなにいけない事だとわかっていても。
 行ってはいけないと理性が叫んでいても。
 それでも、愛しい男をこれ以上拒絶することなど出来なくて────
「……」
 黙ったまま男の腕へ身をゆだねた総司を、土方は優しく狂おしく抱きしめた……。














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