店に行ってみれば、総司はまだ帰ってないという事だった。
昼食をとるため、斉藤と出かけたのだと。おそらく少し時間をかけて帰ってくるはずだと教えられ、土方の苛立ちはより増した。
斉藤は、総司を愛しているのだ。
友人としてではない。総司に恋し、深く愛していることは明らかだった。
それを薄々感じとっていた土方は、正直な話、斉藤と同じ職場にいること自体許せぬ気持ちだった。だが、まさか今の店をやめろとも云えず、黙って我慢していたのだ。
そこに、今度の事だった。
楽しそうに笑いながら帰ってくる二人を見た瞬間、土方の全身が激しい嫉妬と怒りにかっと熱くなった。
その激情を堪えるため奥歯をぎりっと噛みしめたが、無意識のうちに拳を固めてしまった。
総司の前に立ちふさがった瞬間の、その表情を忘れる事はできない。
彼を見たとたん、目を見開いて。
一気に、笑顔がかき消されてしまったのだ。
後に残ったのは、怯えと不安、垣間見える冷ややかな拒絶──。
そして、今。
土方が無理やり連れこんだ車の中、総司はその冷ややかな拒絶の表情でシートに坐っていた。
メリケンパーク近くの海が見える一角に、車を停めていた。ここならば、あまり人も通らないので、きちんと話し合えると思ったのだ。
本当はマンションに連れていきたかったが、総司が昨日の行為故に彼を怖がっているだろうと思ったので、車にしたのだった。
「……昨日はすまなかった」
低い声で謝った土方に、総司は何も答えなかった。黙ったまま、こちらに綺麗な横顔を見せて目を伏せている。
聞いているのか聞いてないのかわからなかったが、それでも土方は言葉をつづけた。
「あんな事をして悪かったと思っているんだ。おまえに望まないと云われた瞬間、頭の中がまっ白になって、訳がわからなくなっちまった」
「……」
「けど、これだけはわかって欲しいんだ」
土方は黒い瞳で総司を見つめ、はっきりと云いきった。
「俺はおまえを愛しているし、別れるつもりなど全くない。6年間も離ればなれで生きてきて、ようやく逢えたんだ。おまえなしの人生なんて、俺には考える事さえできない」
「……」
「それとも、おまえはもう俺に心を残してないのか? 妻子と離婚もせず、おまえを引きとめつづける狡い男だと、嫌になっちまったのか?」
そう訊ねた土方に、総司はゆっくりと顔をあげた。
深く澄んだ瞳で、まっすぐ男を見つめた。
そして、静かな声で訊ねた。
「もし、そうだと答えたら?」
「……」
「あなたに想いなどないと。もう愛してない、それどころか嫌っていると……そう答えたら、あなたはぼくと別れてくれるのですか」
「……」
押し黙ってしまった土方に、総司は小さく笑った。まるで鈴を転がすような綺麗な笑い声だった。
「別れる気なんか全然ないくせに、そんな事を聞くなんて」
「……総司……」
「土方さん、あなたはね、ぼくに確かめたいだけなのですよ。自分がまだ愛されてるか、ぼくの想いがあなたにあるのかどうかを」
「……」
土方は黙ったまま顔をそむけた。それを眺めながら、言葉をつづける。
「なんて酷い男でしょうね。挙げ句、自分の思いどおりにならないとなると、ぼくが自分の云う事を聞かないと、酷い暴力をふるって……」
「暴力?」
そう問い返した土方に、総司はくすっと笑った。
「昨日の事ですよ。あれのどこが暴力じゃないと? ぼくはあれをセックスだなんて思っていない。あなたに暴力をふるわれたのだと思っているのです」
総司の言葉に、土方は鋭く息を呑んだ。
しばらく押し黙っていたが、やがて、低い声で云った。
「俺にとって、あれは……恋人とのセックスだった。だが、俺が謝ったのは、おまえの意思を無視したからだ。暴力だとは思ってねぇよ」
「だから、悪い事でないと? あんな事をして、ぼくの気持ちを繋ぎとめられると思った?」
「そんなこと思ってるはずがねぇだろ! 酷い事をしちまった、悪いと思ったから、こうして謝っているんだ」
「それで、謝って許されて、別れることもやめて?」
総司は顎をあげると、冷笑にみちた声音で云い放った。綺麗な顔に、侮蔑と嘲りの表情がうかんだ。
「そんな都合のいい話、あるはずがないでしょう? どこまで、あなたはぼくを見くびってるのです。ぼくになら、どんな酷い仕打ちをしても構わないと?」
「だから、俺はそんな事……」
「してるじゃないですか。奥さんと離婚せず、ずっと愛人でいろと云い放って、挙げ句、ぼくが拒絶したら躯で屈服させようとした。それのどこが、酷い仕打ちではないのです」
総司は一気に云いきった後、小さく吐息をもらした。自分の方を見つめている土方を一瞬だけ見上げてから、すっと顔をそむけた。
「……別れて下さい」
静かな声が車内に響いた。
きつい視線を外に向けたまま、総司は云った。
「ぼくはもう限界です。あなとはこれ以上いたくない」
「総司」
「お願いですから、別れて下さい」
「断る」
「別れて下さい」
「断ると云ってるだろう。絶対に、おまえと別れるものか!」
思わず声を荒げた土方を、総司はふり返った。
冷たく澄んだ瞳で男を見つめ、やがて、ゆっくりと笑った。
まるで──艶やかな花がほろりと零れ落ちてゆくような、妖しくも美しい笑み。
今まで見たこともない総司の表情に、土方は鋭く息を呑んだ。呆然とした顔で、それを見つめている。
「……じゃあ、ね」
総司はゆるやかに両手をのばすと、土方の首を柔らかくかき抱いた。そっと身をすり寄せながら、その耳もとに囁きかけた。
「これを叶えてくれたら、別れないであげますよ」
「何…だ」
「簡単な事です」
総司は身を起こすと、男の黒い瞳を覗き込んだ。
そして、甘やかな声で告げた。
「今すぐ……君菊さんと離婚して」
「──」
土方の目が大きく見開かれた。そんな事を総司が要求してくるとは、思ってもいなかったのだ。
黙り込んでしまった男に、総司はくすくすと楽しそうに笑った。
「できない? じゃあ、ぼくはあなたと別れますよ。それでもいいの?」
「総…司……っ」
「君菊さんと離婚したら、別れないでいてあげる。でも、離婚しないなら、あなたとは別れます」
そう云った総司は土方から躯を離すと、両手をのばし、かるく猫のようにのびをした。つやつやした桜色の唇に、愉しそうな笑みがうかんでいる。
どこか浮きたつような口調で、言葉をつづけた。
「あなたは、ぼくが好きで好きでたまらない。ぼく自身にもぼくの躯にも、溺れきっている。だったら、一つぐらい、ぼくの願いごとを聞いてくれてもいいんじゃない? 君菊さんと別れるぐらい、簡単な事でしょう?」
「おまえ! 俺の事情を全部知ってるくせに、よくも……っ」
「あなたの事情?」
聞き返し、総司は可愛らしく小首をかしげてみせた。
「そりゃ色々あるだろうけど、それはあなたの事情でしょう? ぼくの事情じゃないもの。関係ありませんよ」
「総司、おまえ、本気で云ってるのか」
「もちろん、本気です。こんなこと冗談で云うと思っていた?」
嘲りにみちた口調で云うと、総司はまた笑い声をたててみせた。
それから、かるく土方にキスをすると、ドアに手をかけた。するりと車から降り立ち、男をふり返った。
艶やかな笑みをむけてくる。
「じゃあね。離婚が決まったら、連絡して下さい」
「総司……!」
思わずその名を呼んだ土方を、総司は深く澄んだ瞳で見つめた。すうっと、その顔から笑みが消え去る。
一変した冷ややかさで、鋭く云い放った。
「それまで、ぼくの前に顔を見せないで」
「!」
バンッと音をたてて車のドアを閉じると、総司は背をむけた。さっさと足早に歩み去ってゆく。
それほど店から離れてないのだ。おそらく徒歩で帰るつもりなのだろう。バックミラーの中、総司は一度もふり返る事なく、歩み去っていった。
「……」
しばらくの間、土方はそれを見つめていたが、やがて、呻き声とともに拳をハンドルへ叩きつけた。
(……ふり返ったら、だめ! 絶対に駄目……)
何度も何度も、そう自分に云い聞かせた。
今、絶対に、ふり返る訳にはいかなかった。
もしもふり返ったが最後、彼のもとへ戻ってしまいたくなる。
戻って、彼の腕の中に飛び込んで、泣いて。
本当の気持ちを、告げてしまいそうだったから……。
(……土方さん)
総司は信号で立ち止まり、そっと目を伏せた。
あなたが妻帯者でも何でも、もう構わない。
どんな人であっても、土方さん……あなただけを愛してる。
どうか、あなたの傍にいさせて。
ぼくと別れたりしないで。
「……」
ぎゅっと手を握りしめた。
本当は、そう云いたかったのに。
彼だけへの愛を、心の中いっぱいに叫んでいたのに。
どうしても、云えなかった。本当の気持ちを告げるなんて、できなかった。
自分の本心を押し殺し、別れだけを突きつけて。
なのに、彼はその別れを完全に拒絶してみせたのだ。
総司と別れる事など、絶対にできないと。
そんな事をすれば、この先に何が待っているのか、もうわかりきっているのに───
「……だって」
総司は小さく笑った。
「それじゃ、土方さん……不幸になっちゃうよ」
総司を愛して、でも、君菊や子供たちを捨て去る事もできず。
双方の間で迷い、苦しんでゆく男の姿が、目にうかぶようだった。一見冷たく見えても、本当は優しい心をもつ彼だ。どれだけ傷つき、苦しむことか。
そんな不幸には、引きずりこむ訳にいかなかった。
だからこそ、必死に演技してみせたのだ。
嘲り、冷たく接して。
離婚を条件にまで出して、彼を拒絶してみせた。
あそこまで云えば、自分への気持ちも少しは冷めるだろうと、そう思って……。
(……だけど、本当は)
本当は、あんなこと云いたくなかった。
別れたくない、ずっと一緒にいたい。
あなたを愛してるの。
あなたがいない人生なんて考えられないのは、ぼくも同じで。
だから、お願い。
ずっといつまでも、ぼくだけを愛していて……!
そう縋りたかった。
縋りついて、あの人の力強い腕にだきしめられ、優しく愛されたかった。
愛してると囁かれ、キスを抱擁を受けたかった。
だが、それだけは絶対に───
「したら駄目なんだ……あの人を不幸にする訳にはいかないんだから」
自分に云い聞かせるように呟くと、総司は顔をあげた。
信号が青にかわる。
総司自身も、新しく前へ踏み出すべきだった。
愛する人の幸せを願うのなら、どんな犠牲を払ってでも、それを守るべきだろう。
そのために、どんなに泣く事になったとしても。
「……」
総司は凜とした表情で前を見据えると、青空の下、まっすぐ歩き出していった……。
「これで、宜しいでしょうか?」
そう訊ねられ、土方は頷いた。
書類を返しながら、前に立つ部下の山崎を見上げた。
「この裁判もそろそろ結審だな」
「はい」
「あと少しだ、頑張れよ」
土方の励ましに、山崎は黙って一礼した。寡黙な男だが、信用はできるし弁護士としての才能もある。
山崎が立ち去った後、土方は手元の書類に視線を落としたが、デスクに置いてある一枚の写真に、ふとある事を思い出した。
「……そう云えば、今日は遠足だと云ってたな」
写真は、桜子のものだった。
とても可愛らしい笑顔で映っている、桜子自身もお気に入りの一枚だ。
『パパは、桜子の恋人なの』
そう云った桜子が以前、仕事場に置いてと渡してきたのだ。むろん、土方もそれに微笑み、ちゃんと受け取りデスクの上に置いた。あんまり可愛い事を云ってくれる娘に、思わず抱き上げてしまった事を覚えている。
愛おしい娘だった。
母親に拒絶されていることが不憫で、尚さら愛情が深くなり、少し甘やかしてしまったかもしれない。
だが、土方は桜子を愛することを加減しようなどと、全く思わなかった。子供は愛情いっぱいに育てるのが一番なのだ。君菊からの愛情が絶望的であるからこそ、土方はそのぶん二倍も三倍も、愛してゆくつもりだった。
むろん、その愛は、総司へのものとは全く違っていたが……。
「……」
土方はため息をついた。煩そうに前髪をかきあげ、目を細める。
あれから、一度も総司とは逢っていなかった。
さすがにあそこで拒絶されれば、行く気にはなれない。
それに、またあんな冷ややかな瞳で見られることが、正直、辛かったのだ。愛しいものからの拒絶は、彼の胸を鋭く抉った。
「……離婚して、か」
低く呟いた。
あんな事を、総司が云うとは思ってもみなかった。別れるための口実かもしれないが、それでも、ショックだった。
総司はわざと彼を傷つけようとしたのだ。その瞳で声で、笑みで、鋭い爪を彼の胸に突きたて、深い傷を残した。それがたまらなく辛かった。
まるで、総司にもう愛されていないと、云われてしまったようで───
「……いや、実際そうなのか」
ほろ苦い笑みが口許に浮かんだ。
土方はデスクの引き出しを開けると、煙草を取り出した。桜子の事もあるのでオフィスの彼の部屋でしか吸わない。それも、ごくたまにだった。
立ち上がりながら、ライターで火をつけた。
部屋には他に誰もいない。それをいい事に、土方はデスクの端に行儀悪く腰かけると、紫煙をくゆらせた。
デスク後ろにあう大きな窓ガラスのむこう、神戸の街が広がっていた。ゆっくりと琥珀色に日暮れてゆく光景が美しい。
それを眺めながら、目を細めた。
(……総司)
愛しい恋人の名を、心に呟いた。
それだけで胸が熱くなった。愛おしかった……大切だった。失いたくない、ずっと傍にいて欲しいと願っていた。できることなら、一生を共にしたかった。
だが、その愛しい存在は今、彼から離れてゆこうとしていたのだ。
別れを望み、それが駄目ならば妻との離婚を迫ってきた。君菊と離婚さえすれば別れないであげると、残酷に笑ってみせたのだ。
土方には、総司の言葉を本気にする事ができなかった。
本当に君菊と離婚すれば、総司は別れないでいてくれるのか。いや、別れなかったとしても、その心は──愛は、今尚、彼のもとにあるのだろうか?と。
そんな事を、思わず考えてしまったのだ。
あの日、告げられた別れと拒絶に逆上し、その激情のまま総司を無理やり抱いた。それが土方の心に重く沈んでいた。
総司の中で、自分との恋は終わってしまったのではないのか。
どんなに愛してると囁いても、もう返されない。ただ冷たい瞳で見つめられ、静かに拒絶される。そんな未来だけが待っている気がしたのだ。
総司の心はもう、土方にむけて閉じられてしまったのだと。
6年間も想いつづけ、やっと綻んでくれた小さな花は、再び固い蕾へと戻ってしまった……。
「……俺もざまぁねぇよな」
土方は紫煙をくゆらせながら、思わず喉奥で低く笑った。端正な顔に、自嘲の表情がうかぶ。
たった一人の存在を愛し、6年間も片思いした挙げ句、ようやく成就した恋に一喜一憂している。いい年した男がなんて様だと苦笑するしかなかったが、それでも、総司のためならどんな無様な真似でも出来るだろう自分を知っていた。
総司を得るためなら、誇りや矜持が何だろう。あの綺麗で清らかで優しい花を手にいれるためなら、この命さえ惜しくないのだ。
「……」
土方はため息をつくと、煙草の火を消した。仕事に戻ろうと、しなやかな動作でデスクから降りる。
その時、電話が鳴った。
「……はい、土方です」
受話器をとると、向こうから懐かしい声が流れてきた。
『歳、元気にしていたか』
「近藤さんか。久しぶりだな」
ゆっくりと椅子に座りながら答えた土方に、近藤は笑った。
『久しぶりも何も、そっちが電話一つ寄越さんからだろうが』
「お互い様だろう。で、何の用だよ」
『君菊が出産したぞ』
「え」
土方は驚き、目を見開いた。反射的にカレンダーの方に視線をやってしまう。
「予定日は一ヶ月も先だろう? 早産だった訳か」
『まぁ産み月には入っていたしな。母子ともに元気そのものだ』
「……で、どっちだった? 男か女か」
そう問いかけた土方に、近藤は一瞬、黙った。だが、すぐに穏やかな声で答えた。
『女の子だったよ』
「……」
土方は押し黙ってしまった。様々な想いが押し寄せ、言葉にならなかったのだ。一番初めに脳裏をよぎったのは、桜子を産んだ時の君菊の拒絶だった……。
『うちは女系家族って事だな。仕方ないから、珠子に養子でもとらせて事務所を継がせるさ』
「君菊は……」
どうしているのか。
やはり、また赤ん坊を拒絶しているのか。
その問いが喉もとまで出かかったが、近藤に聞く訳にはいなかった。
「今仕事がちょっと詰まっていて、すぐ行けそうにもないんだ。そうだな……五日後なら大丈夫だろうから、そっちへ行くよ。むろん、桜子も連れて行く」
『仕事なら仕方ないな。五日後か、わかった。病院は前の処と同じだ』
「わかった。三日はいるつもりだが……俺も仕事があるしな」
『かなり危ない案件らしいな』
近藤の声が緊張を帯びた。
『気をつけろよ。おまえはけっこう無鉄砲な処があるからな』
「大丈夫さ、心配いらねぇよ」
土方は低く笑ってから、言葉をつづけた。
「じゃあ、明日、東京で」
『あぁ、待っている。気をつけてな』
「知らせてくれて、ありがとう」
切る間際、そう云った土方に、電話の向こうで近藤は微かに笑ったようだった。
静かに受話器を置いた後、しばらくの間、土方はじっと考えこんでいた。
僅かに伏せられた黒い瞳に、憂いの表情が揺れた……。
いつもより一本早い電車だった。
その朝、目覚まし電話の時間を間違えてしまった総司は、少し早く起きてしまったのだ。
もう一度眠るのにも中途半端で、いつもどおりさっさと支度をすると、家を出た。一本早い電車にのって、元町の駅に着く。
それは、朝のラッシュの中をぬうように歩いている時だった。
「……総司さん!」
不意に明るい声で呼ばれ、総司はふり返った。
とたん、鋭く息を呑んでしまう。
「……」
そこには、土方と桜子が立っていたのだ。こちらへと桜子が駆け寄ってくる。
「おはようございます、総司さん」
ぺこりと挨拶した桜子に、総司は慌てて笑顔をみせた。
「おはよう、桜子ちゃん。今日はどこかへ行くの?」
「うん、幼稚園を休んで東京に行くの」
「……東京に」
思わずそう呟いた総司の傍へ、土方がゆっくりと歩み寄ってきた。だが、何の挨拶もしないまま、黙ってその切れの長い目で見つめている。
二人の間に、妙な沈黙が落ちた。
総司は土方から視線をそらせると、桜子の方に身をかがめた。
「東京に行くの。ふうん、いいね」
「桜子、幼稚園の方がいい」
「そうかもしれないけど、でも、色々楽しい所に連れていって貰えるよ」
「ううん、駄目なの」
桜子は首をふり、はっきりと云った。
「赤ちゃんに逢いに行くから、駄目なの」
「……え?」
「赤ちゃん。あの人に赤ちゃんが生まれたんだって」
「──」
思わず、鋭く息を吸い込んでしまった。自分でも、さっと頬が強ばったのがわかる。
指先が、氷水の中へくぐらせたようにキンと冷たくなった。
「……そ…うなの」
できるだけ平然を装おうとしたが、声が僅かに掠れた。
傍から、土方の視線を感じる。
まるで、総司の心の奥までも探り出し、暴こうとしているかのような鋭く熱い視線を───
総司はそれを痛いほど感じながらも、何とか微笑んでみせた。
「よかったね。それは、おめでとう」
そう云ってから立ち上がったが、それが限界だった。
思わず一歩二歩と後ずさりながら、桜子に手をふってみせた。
「じゃあね、バイバイ」
決して、土方の方は見なかった。
「気をつけてね」
それだけ何とか告げてから、総司はくるりと身をひるがえした。そのまま、走り出そうとする。
だが、できなかった。
不意に力強い手がのびたかと思うと、総司の腕を乱暴に掴んだのだ。
「……総司ッ!」
そのまま無理やり、ふり返させられた。瞳を覗き込まれる。
とたん、土方は大きく目を見開いた。
「! 総…司……っ」
総司の瞳は涙に濡れていたのだ。ほんの少し頬に指さきでふれれば、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
涙を目にいっぱいにため、桜色の唇をきつく噛みしめて。そのほっそりした躯を震わせている様は、まるで傷つき濡れそぼった仔猫のようだった。
熱いほどの愛しさが、土方の胸に込みあげた。
「総司……」
男の声が甘く掠れた。
それに、総司は顔をそむけた。
「!」
大きく腕をふる事で男の手をふり払うと、素早く背をむけた。地面を蹴る。
今度こそ、その場から駆け出した。
それを、土方も追ってはこなかった。
だが、それでも。
その背に、何か問いたげな彼の視線を痛いほど感じて───
「……っぅ……っ……」
雑踏の中を駆け抜けながら、いつのまにか、総司は子供のように泣きじゃくっていた……。
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