「……パパ?」
桜子の声に、己の思考に沈み込んでいた土方は我に返った。
「え、あ……あぁ」
慌てて新幹線の座席に座りなおすと、桜子はにっこり笑った。
その笑顔がとても可愛らしく、あどけない。
癒される想いで、土方は小さな肩をそっと抱き寄せた。
平日だが、東京行の新幹線は満席だった。朝という時間帯もあるのだろう、ビジネスマンが大半を占めている。
「パパ、あのね」
桜子がちょっと迷った様子を見せてから、また話しかけてきた。
それに、小首をかしげ促してやる。
「何だ?」
「あのね、今、総司さんのことを思っていたの?」
「……」
どきりとしてしまったが、土方はいつもどおり表情には出さなかった。柔らかく微笑みながら、問いかけた。
「どうして、そんな風に思ったんだ」
「だって……パパ、総司さんと逢ってからぼーっとしてるし、それに……」
桜子はちょっと悲しそうに、ため息をついた。
「それに、総司さん……泣いてた、し」
「……」
「パパも見たでしょ? 絶対、泣いてたよね?」
「……そう…だな」
「桜子があのこと云ったのが、いけなかったのかなぁ」
膝上にきちんと揃えた小さな手を見つめ、桜子はまたため息をついた。
「赤ちゃんのこと……総司さん、すごく悲しそうだった」
「どうして、そう思うんだ?」
土方は思わず娘相手に問いかけてしまった。
「何で、赤ん坊の事で、総司が悲しむとおまえは思うんだ?」
その問いに、桜子はびっくりしたように目を見開いた。大きな瞳をどんぐり目にして、訊ねてくる。
「パパ、それ本気で聞いてる?」
「……え…いや……」
「総司さん、かわいそう……。桜子、パパもだい好きだけど総司さんもだい好きなんだからね!」
「……」
「だけど、総司さんは桜子よりも、パパのことがだい好きなの。だって、パパも総司さんのこと好きでしょ?」
「……」
「そんな事してたら、ふられちゃうからね!」
ぷんっと丸い頬をふくらました桜子は、しばらくブツブツ何か文句を云っていたが、やがて、前に置いていたランチボックスを取り上げた。蓋をあけ、サンドイッチをぱくぱく食べ始める。
通りかかったワゴンサービスのお姉さんに、
「すみませーん、オレンジジュースください」
と、しっかりした可愛い声で頼んだ。もちろん、支払いは土方だ。
ちゅーとストローでジュースを飲む、勝ち気でおませな娘を眺めながら、土方はやれやれと肩をすくめた。
理解ある娘でよかったと、喜ぶべきなのだろうか。
やはり男手一つで育てたためか、かなりアバウトな感覚の娘になったらしい。
ため息をつき、シートに背を凭せ掛けた。
だが、その瞬間、また、脳裏を今朝見た総司の表情がよぎった。思わず固く瞼を閉ざしてしまう。
(……総司……)
涙をいっぱいにためた瞳。
きつく噛みしめられていた、桜色の唇。
小さく震える躯は、思わず抱きしめてやりたくなるほど、儚げで。
ふり返らせた瞬間、じっと切ない表情で、彼を見あげていた恋人───
どんなに愛おしいと思ったことか。
二度と離したくない、ずっと傍においておきたい。ましてや、別れるなど出来るはずもないのだと、そうまざまざと思い知らされたのだ。
あんなにも愛しい存在を、どうして手放せるだろう。
そんな事をすれば、今度こそ喪失感と絶望にもがき苦しみ、そのまま息絶えてしまう気がした。総司を失うぐらいなら、殺された方がマシなのだ。
総司がいない世界など、もう二度と味わいたくなかった。
「……」
土方は目を開き、窓外を流れる光景へ視線をやった。
少しずつ、東京へ近づいてゆく。
妻である君菊と、生まれたばかりの子が待つ東京へ。
その二人を見捨てる事ができないのも、確かな真実だった。捨てないで欲しいと縋られ、それでも切り捨てられるほど、土方は非情になれなかった。
もともと君菊に対しては罪悪感がある。総司という愛するものがありながら、君菊と結婚したことが、重い罪となって土方の心に影を落としていた。
また、結婚してから桜子を出産するまでは申し分のない妻だった君菊を、どうしても愛する事ができなかったことも。
だからこそ、離婚しないで、捨てないで欲しい──と縋ってきた君菊を、突き放せなかったのだ。
なんて狡い男だと自分自身を侮蔑しながら、それでも、君菊と別れる事もできず、総司を手放す事もできず、中途半端なままで揺れつづけて……。
(どうすればいいのか……もう何もわからねぇよ)
正直な話、もう考える事さえしたくなかった。
ここ一ヶ月ほどの事で、土方は心底疲れきっていたのだ。
ふと見れば、桜子はいつのまにか食事を終え、すやすやと眠りこんでいた。土方の方へ凭れかかるようにして眠っている。
それに微笑み、土方はそっと桜子の体を横にしてやった。膝枕をしてやり、自分もシートに深く身を沈みこませる。
(……疲れたな……本当に疲れた……)
土方は深く嘆息すると、静かに目を閉じた。
そして。
愛する娘の体温を感じながら、暫しの眠りへと落ちていった……。
病院へつくと、近藤が待っていた。
いつもどおり穏やかに笑いながら、歩み寄ってくる。
「朝早く向こうを発ってきたんだろう。疲れなかったか?」
そう訊ねられ、土方は首をふった。
「いや、俺も桜子も少し新幹線の中で休んだから、大丈夫だ」
「そうか」
頷いた近藤は身をかがめ、桜子に手をのばした。髪を撫でる。
「こんにちは、桜子ちゃん。ますます美人になってきたな」
「こんにちは」
桜子は礼儀正しくきちんと挨拶した。それから、辺りを見回した。
「ね、珠子お姉ちゃんは?」
「学校だよ。後でおじちゃんのお家で会おう」
「うん」
嬉しそうに、桜子は頷いた。
近藤は身を起こすと、土方に云った。
「じゃあ、行こうか。こっちだ」
「……あぁ」
三人はエレベーターで二階にあがり、奥の部屋へ向かった。前と同じ個室らしい。
近藤は一つの部屋の前に立つと、かるくドアをノックした。
「君菊、歳が来たよ」
中から応えがあり、近藤はドアを開いた。三人は部屋の中へ入る。
君菊はベッドの上に半身を起こし、こちらをまっすぐ見つめていた。長い髪を後ろで一つに束ね、化粧気もなかったが、素顔のままでも十分美しい彼女は、出産後のためかより輝いてみえた。
静かに微笑んでみせる。
「あなた、遠い所をありがとうございました」
「……いや、おまえこそご苦労だったな」
そう答えながら、土方は戸惑っていた。
なぜなら、君菊のベッドの脇にはベビーベッドがあり、そこに赤子が寝かされていたのだ。桜子の時ではありえないことだった。
女の子だと聞いた時から、また君菊の拒絶が始まるのだろうと覚悟していたのに、母子同室をしているとはいったいどういう事なのだろう。病院の方針が変り、それに従っただけなのか。
疑問に思いながら、土方は桜子の方へ視線をやった。
だが、桜子は固い表情で床だけを見つめ、彼の背にかくれるようにしている。
君菊と赤子の方へ近寄る事も全くしなかった。むろん、今までの事を考えると、無理もない事だったが……。
「……近藤さん」
少し躊躇ってから、土方は親友の方へ向き直った。
まっすぐ切れの長い瞳で見つめる。
「悪いが、少し桜子と一緒に席を外してくれねぇか」
「歳?」
「少しの間、君菊と二人で話したいんだ」
そう云った土方に、近藤は自分なりに納得したようだった。近藤も、土方と君菊の事情、桜子のこと、皆よく承知しているのだ。
「わかった」
頷くと、近藤は桜子に優しい笑みをむけた。
「少しおじちゃんと病院の中を回ろうか。桜子ちゃんが遊べる所も、ここにはあるんだよ」
「うん。桜子、おじちゃんと行く」
こくりと頷き、桜子はさし出された近藤の手をとった。手をつなぎあい、部屋を出てゆく。
それを見送った土方は、微かに吐息をもらした。
とたん、君菊が小さく笑った。
「いったい、何を緊張されていますの?」
「……いや、別に」
「あなたのお話、わかっていますわ」
君菊はゆっくりと手をのばし、小さな赤子を抱きあげた。そっと大切に胸もとに抱えこむ。
すやすやと赤子は眠っていた。可愛らしい赤子だ。
「わたしがこの子を育てる気か……それをお聞きになりたいのでしょう?」
「そうだ」
頷いた土方に、君菊は目を伏せた。
「もちろん、育てるつもりですわ。ちゃんと愛して、育ててみせます」
「……女の子だろう。男ではなかったのだろう?」
「えぇ、女の子です」
「なら……どうして」
土方は思わず眉を顰めた。
「どうして、その子は育てられるんだ。桜子と何が違うと云うんだ」
「わたしはこの子を愛せます。桜子とは違い、本当に可愛くてたまらないのです……この子は、わたしの宝物です」
君菊は微笑み、愛しそうに赤子に頬ずりをした。
確かに、それは母親の表情だった。心から我が子を愛しんでいる母親の姿だった。
だが、土方はどうしても理解できなかった。
「いったい、何故なんだ。その子を愛せるなら、どうして桜子を拒絶したんだ。それとも、その子がまた夜泣きしたり手がかかったりすれば、育児放棄するつもりなのか。また同じ事をくり返すのか」
「そんな事するものですか。どんなに手がかかっても、何があっても、わたしはこの子を守り愛しつづけます」
きっぱりと断言した君菊に、土方はため息をついた。
なら、いったいどうして、桜子を愛そうとしなかったのか。出産直後から拒絶し、挙げ句、見殺しにしようとした。
なのに、今度の子は何故───
理解できぬまま佇む土方を、君菊はまっすぐ見あげた。
そして、云った。
「この子は桜子と違い、わたしは心から愛せるのです」
「だから、何で……」
「だって、この子は、あなたの子じゃないのですもの」
「──」
一瞬、意味がわからなかった。
いくら明敏な彼でも、突然吐かれた妻の言葉が即座に理解できなかったのだ。
「……何…だって……?」
思わず聞き返した土方に、君菊は静かに微笑んだ。
「ですから、申しました。この子の父親は、あなたではありません、と」
「……」
「8ヶ月前、あなたが東京へ戻ってきてわたしを抱かれた時、わたしはもう既に妊娠していたのです。月経もありませんでしたし、ちゃんと検査でもわかっていました。だから、出産が早くなったのです。あなたの子として申し出たので、逆算すると予定日がずれてしまいますものね。本当は、早産でなく予定どおりの出産だった訳です」
「……」
呆然としたまま、土方は君菊の言葉を聞いていた。だが、だんだんと事情が呑み込めてくる。
つまり、この妻は不貞をはたらいた上、他の男の子を夫婦の子として出産したのだ。信じられなかった。まさか、この妻がそんな事をするとは思ってもみなかったのだ。
しかもわざわざ神戸まで来て、自分の子と偽った挙げ句、それを盾に離婚しないでくれと縋りついてきた。
いったい、あれは何だったのか。
あんなにも総司も自分をも傷つけ、苦しみ抜いた日々は───
「どう…して……っ」
思わず声が掠れた。次第に、怒りと屈辱がこみあげた。
土方は鋭い視線を君菊にむけ、激しく問いかけた。
「どうして……そんな事をしたんだ……!」
「……」
「いや、他の男の子を妊娠し、出産した事じゃない。おまえは俺の子だと偽り、離婚しないでくれと縋ってきた。あれは、いったい何だったんだ」
「復讐です」
しんと底冷えのするような声で、君菊は答えた。守るように赤子をその手に抱きしめ、まっすぐ土方を見つめている。
美しいが、氷のように冷ややかな表情だった。
それに、土方はたじろいだ。
「……復…讐……?」
「される覚えがないとは云わせませんわ。あなたは、他に愛する人がありながら、わたしと結婚したのです。わたし自身、あなたを愛した訳ではありませんが、それでも良い妻になろうと努力しました。けれど、あなたは一度だってわたしを見てくれた事がありませんでした。どんなに尽くしても、わたしになど目もくれず、ただその想い人のことばかりを追っていたのです」
「気づいていたのか……おまえ、知っていたのか」
「毎日、傍にいたのです。嫌でもわかってしまいますわ。あなた、何度、わたしの傍で呟いたと思うのです。総司、と。あの時の屈辱は今も忘れられません」
「──」
土方は鋭く息を呑んだ。
全く気づいてない行為だったのだ。おそらく、無意識のうちに呼んでいたのだろう。君菊が屈辱を覚えて当然だと思った。
だが───
「なら、おまえは知っていたのか。総司の事を……神戸で俺たちが……」
「もちろん、存じておりました」
静かな声で、君菊は答えた。
「あの店に入ったのも、その総司という方を見るためでした。折良くあなたが入られたので、後を追ったのです」
「つまりは、俺がおまえと総司の板挟みになって苦しむのを、わかっていて仕組んだ訳か。その子を俺の子だと偽り、縋りつきまでして」
「復讐ですもの。あなたが苦しまなければ、何にもなりませんわ」
「君菊、おまえ……」
「あなたに責められる権利がありますの?」
冷ややかな目で、君菊は土方を見つめた。
「あなたに屈辱を味わされたわたしは、生まれてくる子に縋るしかなかった。男の子であれば、その子を育てることで、自分のプライドを保てると思いました。あなたに愛されなくても、跡継ぎを得るために結婚したのだと思えばいいと」
「……」
「でも、生まれた子は女の子でした。わたしは裏切られた思いで、到底桜子を愛することなど出来ませんでした。愛する人の子でもなく、ましてや他の誰かを想いつづけている男の子供を、どうやって愛せと云うのです」
君菊は言葉をとぎらせると、視線を赤子に落とした。そっとふわふわした髪を撫でる。
「本当に……愛してる人の子だからこそ、愛おしいのです。わたしは、この子を産んでようやくわかりました。あなたとの結婚が、いかに歪んだ間違ったものだったかを。わたしたちは、お互いに道を誤ったのです……」
「相手は、俺と同じ弁護士なのか」
そう問いかけた土方に、君菊は首をふった。
小さく笑う。
「いいえ、サラリーマンですわ。弁護士のような資格もない、ごく普通の会社員です。ですから、事務所を継いでもらう事もできませんわ。でも、わたしはその人を愛し、彼もわたしを愛してくれました」
「……」
「あなたと離婚したら、わたしはその人と一緒になるつもりです」
「つまりは……復讐が終わったという訳か」
掠れた声で呟いた土方に、君菊はもう何も答えなかった。彼に興味を失ったように、ただ自分の胸に抱いた赤子を愛おしそうにあやしている。
幸せそうに微笑み、小さな声で子守歌をうたっていた。
その姿に、土方は胸が締めつけられる想いだった。
結局は、こんな復讐をするまでに彼女を追い詰めたのも、桜子を母親から見捨てられた子にしてしまったのも、すべて自分が悪いのだ。
あれほど深く総司を愛しながら、偽りの結婚をした自分が……。
怒りよりも、罪悪感の方が深かった。
君菊に、心底すまないと思った。
「……すまなかった」
低い声で、謝った。
押し黙ったままの君菊に、言葉をつづけた。
「離婚手続きはすぐにする。全部、おまえの希望どおりにするつもりだ。すべて……俺が悪いのだから」
そう云ってから、土方は静かに踵を返した。部屋を横切り、出ていこうとする。
扉に手をかけた時、後ろから声をかけられた。
「あなた……」
ふり返ると、君菊が静かな表情で彼を見つめていた。
赤子を胸に抱いたまま、ゆっくりと頭を下げる。
それに、土方はもう何も云わなかった。無言のまま頷くと、扉を開いた。
廊下に歩み出た土方は視線をあげると、足早に歩き出した
一刻も早く神戸に戻りたかった。
愛する総司のもとへ。
すべてを告げ、あの躯をきつく抱きしめたかった。
愛してる、もう二度と離さない。
俺たちは、ずっといつまでも一緒なのだ──と。
そう、告げてやりたかった。
(……総司……!)
見あげた病院の窓のむこう、澄み切った青空が広がっていた……。
突然、空が翳ったかと思うと、サーッと音をたてて雨が降り出してきた。
旧居留地も雨に濡れ、道ゆくビジネスマンやOLたちが慌てて駆け出してゆく。皆、傘など持っていないようだった。
何しろ、先ほどまで綺麗な青空が広がっていたのだ。
リボンや包み紙を整理していたまさ子が云った。
「急な雨やねぇ。もう梅雨時って事やろか」
「そうですね」
総司は頷き、手元のケーキに視線を落とした。
ショーケースの中に並べられた、まるで宝石のようなケーキの数々。それにも、苺にとってかわり、旬のさくらんぼや枇杷が使われたものが多くなりつつある。
「初夏の通り雨ってところでしょうか」
「というより、梅雨やって。やんなるわぁ、洗濯もの乾かへんし」
ため息をついたまさ子に微笑み、総司は視線を店の外へ投げかけた。
夕暮れにさしかかりつつある街を、街路樹を、突然の雨が静かに濡らしてゆく。
それを、ぼんやりと眺めた。
今朝の事を思い出してしまったのだ。
どうしても我慢できなかった、涙を堪えることができなかった、彼との出逢い。
もっと自分が大人であったなら、きっと笑顔で「お幸せに」とでも云えただろう。彼との別れを決定的にするため、演技できたはずだった。
だが、そんなこと出来なかった。
無理だった。
あれで精一杯だったのだ。一生懸命に涙をこらえて、笑いかけて。それで、逃げるように背をむけた。
もう涙があふれる寸前で。
辛くて悲しくて、胸の奥が抉られるようで。
なのに、彼はそんな自分の腕を掴んで、無理やりふり返らせたのだ。
「……」
思わず、固く瞼を閉ざした。
あの時の、自分を見た時の彼の表情を──今でも鮮明なほどに覚えている。
大きく目を見開いて。
鋭く息を呑んで。
あの彼の表情で、自分がどんな顔をしているのか、わかった。
きっとみっともなく泣いていたのだろう。
自分の中にある弱さも真実も彼への恋も皆さらけ出して、涙をいっぱいにためた瞳で、彼を見あげてしまった。
どうして……?
いっそ、問いかけたかった。
どうして、ぼくはあなたと出逢ってしまったの?
こんな苦しい恋をするぐらいなら、いっそ逢わなければよかったのに。
あなたの腕に抱きしめられる事もなく、ただ遠くあなたの事を想っていた方がよかった。弱くても狡くても、その方が、こんなにも傷つかずに済んだのに。
こんなにも、あなたを傷つけることもなかった……。
ぼくが、あなたから幸せを奪ってしまったことが何よりも悲しい。ぼくの存在があなたを苦しめ、傷つけている事が、たまらなく辛かった。
本当は幸せになりたかったのに。
なのに、どうして?
どうして──こんなふうになってしまったの……?
「……っ」
気がつくと、視界が涙でぼやけていた。それに、慌てて目元を拭った。
ふるっと一度、小さく頭をふった。
考えても仕方のない事なのだ。
それに、前のように、仕事に影響させることだけはしたくなかった。気持ちを切り替えなければならないのだ。
総司は一つ深呼吸をすると、厨房へ戻ろうとした。
その時だった。
「──」
視界をかすめたものに、総司は細い眉を顰めた。ふり返ったとたん、驚く。
目を見開いた。
「……土方…さん……?」
店の外。
車道の向こうから、一人の男がこちらへ渡ってこようとしていた。傘をさし、幼い女の子を連れている。
それは、確かに土方だった。
「……どうして?」
総司は戸惑った。
今朝、土方は桜子とともに東京へ行ったばかりだった。しばらくは向こうにいるのだろうと思っていた。
自分の妻が出産したのなら、ごく当然のことだ。
なのに、どうしてこんなにも早く戻ってきたのか。
土方は左右の車の流れを確かめると、車道を渡ろうとした。
それを、総司はぼんやりと見つめた。
その時だった。
不意に、一人の男が走り寄ったのだ。彼の肩を掴み、ふり返らせる。
男の手元で銀色の刃が禍々しく光り──次の瞬間、それは土方の胸もとへ吸い込まれた。
「!」
目を見開く総司の前で、土方の動きがとまった。信じられないものを見たように、男を凝視している。
男はにやりと笑い、ナイフを引き抜いた。とたん、真っ赤な鮮血が勢いよく迸り、辺りに飛び散った。傘が彼の手から滑り落ちる。
「パパ……ッ!」
桜子が悲鳴をあげた。
土方は愕然とした表情で、自分の刺された胸もとを見下ろした。おさえた指の間から、どくどくと血があふれてくる。
それに笑った男は桜子の方へ向き直った。血濡れたナイフをふり上げる。
「! 桜…子……っ」
土方は、一瞬も躊躇わなかった。桜子の躯を血塗れの両手で引き寄せると、胸もとへ強く抱き込む。
その彼の肩にナイフが振り下ろされた。また、鮮血が飛び散る。
衝撃で土方は後ろによろめき、桜子を抱えたままビルの壁に背をついた。が、すぐ崩れるようにその場へ倒れこんでしまう。
周囲の通行人たちから、悲鳴と怒号があがった。
それに、男は身をひるがえし、逃げ出した。威嚇のためかナイフを振り回しながら、走り去ってゆく。
「パパ! パパ、目を開けてぇ……っ!」
気がつくと、桜子が激しく泣き叫んでいた。泣きじゃくりながら、必死になって土方の躯にしがみついている。
彼は完全に気を失っているようだった。
歩道の上は真っ赤な血の海となり、それを激しい雨が押し流した。
まるで──そう。
土方の命を、容赦なく削りとってゆくように。
その光景を、総司は呆然と見つめつづけていた……。
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