我に返ったのは、斉藤の声でだった。
「総司、しっかりしろ!」
 そう怒鳴られ、肩を激しく叩かれた。
 はっと息を呑んだ総司は、弾かれたように店を飛び出した。雨の中、土方と桜子のもとへ駆けよってゆく。
 総司に気づいた桜子が、泣きながら顔をあげた。
「……総司…さん! どうしよう……っ」
「桜子ちゃん……っ」
「パパが、パパが…死んじゃう……っ!」
 見下ろした土方の端正な顔は、真っ青だった。瞼は固く閉ざされ、血まみれの手は力なく投げ出されている。
 早く手当をしなければならない事は確かだった。
「救急車を……っ」
 震える手で携帯電話を取りだそうとした総司に、傍らから斉藤が云った。
「さっきオレが呼んだ。もうすぐ来るはずだ」
「斉藤さん……」
「しっかりしろ。とりあえず止血をするべきだ」
 駆け寄ってきた原田と斉藤で、土方の躯を店内に運び込んだ。床が血塗れになったが、そんなこと構っていられなかった。
 ありあわせの布で傷口を縛り上げたが、土方はぐったりと気を失ったままだった。 
 やがて救急車が店前に停まり、土方は担架に乗せられた。
「ご家族の方ですか」
 そう問いかけられ、総司は困惑した。黙り込んでいると、桜子が総司の手を強くひっぱった。
「総司さんも、早く」
「でも、ぼくは……」
「パパの大切な人よ。そうでしょう?」
 桜子の言葉に、総司は何も答えられなかった。
 促され、二人して救急車に乗り込んだ。バンッと音をたてて後部のドアが閉められる。
(……ぼくは……)
 走り出してゆく車の中、総司はきつく唇を噛みしめた。








 手術は長時間に及んだ。
 その間に、東京の方へも連絡がいったようで、近藤と君菊もやってきた。
 君菊が病院の廊下に現れた瞬間、総司は思わず身を竦めていた。重苦しい程の罪悪感に囚われたのだ。
 当然のことだった。
 自分は、土方の愛人なのだ。不倫という許されぬ関係を結んだ相手なのだ。
 妻という正当な立場にある君菊の前で、昂然と顔をあげることなど到底できなかった。
 君菊は、先に事情を聞いてきた近藤に訊ねた。
「それで? 容態の方はどうなのですか」
「わからない。まだ手術の最中だからな」
 近藤の言葉に、君菊は目を伏せた。そっと細いため息をつき、ベンチに腰をおろす。
 その美しい顔が青ざめていた。当然だろう、夫が刺されたのだ。しかも産後の身だった。ここまで来るのも大変だったに違いなかった。
「しばらくの間、休ませて貰った方がいいのではないのか」
 そう訊ねた近藤に、君菊はゆるく首をふった。
「わたしは大丈夫です。それよりも、あの人を刺した犯人は……」
「もう捕まったようだ。だが、色々と難しいだろうな」
 近藤は嘆息した。
「今、歳がやっている案件がらみらしいのだ。組織の仕業だとなると、黒幕を逮捕するのは到底無理だ」
「では、これからも危険に晒されるという訳ですか」
「可能性がないとは云えない。もっとも、歳がこれで案件から手を引くとなれば、話は別だが」
「そんなこと……あの人がするはずもありませんわ」
 小さく、君菊は笑った。
「負けず嫌いのあの人ですもの、きっとより熱心に仕事へ取り組む事でしょう」
「そうだな」
 近藤は低く笑った。
「……」
 その会話を、総司は少し離れた所で聞いていた。
 まったく立ち入る隙など、どこにもなかった。
 君菊は土方の事をよく理解している、妻なのだ。君菊も近藤も、土方の身内だった。家族だった。
 なら、いったい自分は何なのか。
(ここに坐っているぼくは、いったい……)  
 そう思った時、君菊がふと顔をあげた。まっすぐ総司を見つめてくる。
 それに、どきりとした。
 緊張感にみちた沈黙が落ち、総司は思わず息を呑んだ。
「総司…さん、ですね?」
 問いかけられ、総司は大きく目を見開いた。
 まさか、自分の名を彼女が知っているとは思わなかったのだ。
「は、はい……そうです」
 慌てて答えた総司に、君菊は微笑んだ。
「夫から話は聞いてます」
「……え」
「それに、わたしの方でも色々と調べさせて頂きました。あなたと夫との関係も、すべて……」
「──」
 深く息を呑んだ。
 では、君菊は知っているのだ。
 自分が彼の愛人であることも、不倫関係にあることも皆───
「……っ」
 思わず、ぎゅっと目を閉じた。全身を固くしてしまう。
 それに君菊は僅かに小首をかしげた。
「……そんなに警戒されなくても、大丈夫ですわ」
「え……?」
 目を瞬いた総司に、君菊は小さくため息をついた。和服姿の女性がそうして嘆息する様は、まるで美しい絵のようだ。
 しばらく黙ってから、君菊は静かな声で云った。
「もう……復讐は終わりましたから」
「……え……?」
 君菊の言葉に、総司は目を見開いた。意味がよくわからなかった。
 思わず聞き返してしまう。
「? 復…讐……?」
「えぇ、すべてが終わったのです、わたしたちの間ではすべてが」
「……」
「真実を聞かされた時、あの人が見せた表情、瞳。あれを見た時、わたしの中で憑き物が落ちたように、すべてが消え失せてしまったのです。いったい今まで何をやって来たのだろうと、自分でも思いました。こんな事をして、何にもならなかった……と」
 君菊はそっと微笑んだ。
 それは慈愛にみちた、優しい微笑みだった。
「今はただ、あの子が愛おしいのです。それだけしか……思いません。あの子のために生きていきたいと、わたしは願っているのです」
「……」
 それに、総司は何も答えられなかった。
 君菊の言葉の意味を、別の形にしか受け取れなかったのだ。
 真実とは、土方と総司の事なのだろうか。
 それを知った君菊が彼に告げ、それで全部が終わってしまったのだと。
 夫婦関係が壊れてしまったと、そう君菊は告げたいのだろう。
 総司は俯き、固く両手を握りしめた。息をつめる。
「……すみません…でした……」
 喉奥から絞り出すような声で、総司は謝った。
 本当に申し訳ないと思った。
 なんて事をしてしまったのだろう。
 自分の幸せを求めようなんて、一瞬でも考えてはいけなかったのに───
「すみませんでした……本当に、ごめんなさい……ごめん…なさい……っ」
「……」
 謝りつづける総司を、君菊は不思議そうに眺めた。そっと立ち上がり、何かを云おうとする。
 その時だった。
 手術室の明かりがパッと消えた。やがて、銀色の扉が開かれる。
「……あなた」
 君菊は運び出されてきた土方に、駆け寄った。まだ麻酔が効いているらしく、土方は固く瞼を閉ざしている。
 桜子も走りより、父親の手を握りしめた。
「パパ……パパ……!」
 そんな二人に、医師は視線をむけた。
「ご家族の方ですか」
「はい」
「手術は成功しましたが、まだ予断を許さない状態です。詳しい説明を致しますので、こちらへいらして頂けますか」
「わかりました」
 君菊と桜子、そして近藤は、医師とともに去っていった。土方を乗せたストレッチャーも集中治療室へと運ばれてゆく。
 それを、総司は黙ったまま見つめていた。
 ベンチに坐り込んだまま、ぼんやりと眺めていた。
 だが、やがて、ゆっくり立ち上がると、踵を返した。静かに歩き出す。
「……」
 階段を幾つも降り、ようやく病院の玄関口へ出た。
 まだ雨が激しく降っていたが、そのまま総司は外にふらりと歩み出た。
 降りしきる雨の中、俯き、歩いてゆく。
 いつのまにか、その頬を涙が濡らしていた。
(……ぼくの居場所は、あの人の傍にない……)
 あらためて、思い知らされたのだ。
 自分という存在の危うさを。
 世間的には、彼と自分の関係に何の保証もないのだ。
 誰が見ても、ただの愛人だった。家族でもない、ましてや妻でもなかった。
 愛人──。
 不倫関係の自分たちに、未来などあるはずなかったのに。幸せなど望んではいけなかったのに。
 なのに、一瞬でもそれを夢見てしまった自分が情けなく、たまらなく惨めだった。
 心から──愛して。
 彼のためなら、この命も身もすべて捧げても構わないぐらい、深く深く愛して。
 毎日、彼の事だけを想って。
 だが、それでも。
 絶対に許されぬ関係──だった……。
「……っ…ひっ…くっ…ぅ……」
 総司は立ち止まると、嗚咽をあげて泣きじゃくった。堪えようとしても、後から後から涙があふれてくる。
 それを両手でぬぐった。
 もう涙なのか、雨なのか、わからぬほど頬は濡れていたが。
「……」
 突然、雨が止んだ。
 それに、総司は涙に濡れた瞳で見あげた。が、まだ雨は降っている。
 誰かが傘をさしかけてくれていたのだ。
 視線を落とせば、見慣れた靴が目に入った。安堵感に躯中の力が抜け、より涙があふれた。
「……っ」
 思わずその胸に縋りつくと、優しく抱きしめられた。抱きすくめ、そっと髪を撫でてくれる。
 まるで、総司の傷ついた心まで癒すように───
「……斉藤…さん……っ」
 総司は友人の胸もとに顔をうずめると、何もかも忘れるように泣きじゃくった……。








 数日後の事だった。
 昼下がりの病室で、近藤は嘆息していた。
 ベッドには土方が上半身を起こし、膝もとに組んだ両手に視線を落としている。
「まったく……だから、気をつけろと云っただろうが」
 そう云った近藤に、土方はほろ苦く笑った。
 怪我のためか痩せてはいたが、その端正さは全く失われていなかった。
 その艶やかな黒髪も、濡れたような黒い瞳も美しく、病院の看護婦たちがさんざん騒いでいるのを、近藤も耳にしていた。
 相変わらずだなと思うが、本人は全く意に介してないらしい。
「あんなの気をつけようがねぇよ」
 肩をすくめ、土方は答えた。
「いきなり、ナイフで刺されたんだからな」
「それはそうだろうが、危うく死ぬ所だったんだぞ」
「組織が絡んでいるんだ。こういう事もあるさ」
「これで手をひく……訳ないな、おまえの性格では」
「あたり前だろ」
 土方は背にあてた枕に凭れかかり、僅かに目を細めた。その黒い瞳に、怒りと闘志が燃え上がる。
「絶対に手をひくものか。こうなりゃ何が何でも勝訴してやるさ」
「火に油を注いだって訳だ。向こうの読み違いって奴だな……ま、死なん程度にやれよ」
「わかってるさ」
 形のよい唇の端をつりあげてみせた土方に、近藤はしばらく黙っていた。目の前の見事に生けられた蘭の花を眺めている。それは、先日、君菊が置いていったものだった。
 やがて、ぽつりと云った。
「……おまえたち、離婚するのか」
 それに、土方は黙ったまま顔をあげた。切れの長い瞳で、まっすぐ親友である義兄である近藤を見つめる。
「あぁ……」
 低く答えた土方に、近藤は深く嘆息した。椅子の背に凭れかかり、窓外へ目をやる。
「まぁ、いつかはそうなると思ってはいたがな……」
「君菊から聞いたのか」
「全部、聞いた。あの子供がおまえの子じゃないって事もな」
 近藤の口調は苦々しげだった。実直な彼には信じられない歪んだ関係なのだろう。
 土方はきっぱりした口調で云った。
「俺が全部悪いんだ。だから、君菊を責めないでやってくれ」
「……君菊は自分が悪いと云っていたぞ。復讐だとか、そんな事を考えた自分がいかに愚かだったか、やっとわかったと」
「君菊が……?」
 驚いたように目を見開いた土方に、近藤は苦笑した。
「あぁ。あいつもようやく大人になれたようだな。おまえには悪いが、今度の男と身を固めればきっと良い妻良い母になれるだろう」
「もともと、いい妻だったさ。それをぶち壊したのは、俺の方だ」
「お互い様って事じゃないのか」
 そう云ってから、近藤はちょっと躊躇った。が、思いきって云ってみる。
「あの日……おまえが刺された日、総司って子に逢ったぞ」
「──」
 土方の端正な顔に、さっと翳りが走った。その黒い瞳が静かに伏せられる。
「……そうか」
「桜子ちゃんの話では、ケーキ屋のパティシエらしいな。可愛らしい子だったが、あれは男だろう? 本当に、あの子がおまえの相手なのか?」
「そうだ」
 はっきりと答えた親友に、近藤は押し黙った。
 それに土方は顔をあげ、揺るぎない口調でつづけた。
「俺は総司が男でも女でも、そんなこと全く関係ねぇんだ。あいつという人間そのものを、愛したんだから。あんなにも愛しいと思ったのは初めてだったし、正直な話、初めて人を愛したのだと思う」
「……歳……」
「だからこそ、俺は君菊と離婚して、あいつと一緒になろうと思ったんだ。男であっても構わない。あいつなしの人生なんて、俺には考えられないとそう思ったから、だから……」
 そこで、声が途切れた。
 訝しく思った近藤が見ると、土方はきつく唇を噛みしめていた。両手でシーツを握りしめ、前を見つめている。
「歳……?」
 傷が痛むのかと問いかけた近藤に、土方は首をふった。
 そして、答えた。
「……もう…発ったんだ」
「え?」
「総司は、もう…日本にいねぇのさ」
「──」
 訳がわからぬと云いたげな近藤の前で、土方は小さく笑った。それはどこか諦めたような、達観したような笑いだった。
「6年前と同じだ。あいつはまた逃げ出しちまったのさ。フランスへ行ったと、桜子から聞いたんだ。昨日、ケーキ店に行ったら総司がいなくて、聞いたら店の者にそう答えられたと」
「……」
「あたり前だよな」
 土方は苦笑しながら、くしゃっと片手で前髪をかきあげた。
「逃げられて当然だと、自分でも思うさ。さんざん追いかけまわし、別れを拒絶するくせに君菊と離婚しないで、中途半端な狡いだけの男に成り下がって。挙げ句、目の前で仕事がらみで刺されちまったんだ。こんな危ない男の傍にいたくもねぇだろうよ」
「離婚や別れとかはともかく……刺されたのは、おまえのせいじゃないだろう」
「そうかな、俺のせいの気がするけどな」
 ため息をつき、土方は枕に再び背を凭せかけた。
「必死になってあいつを愛して、繋ぎとめようとして……なのに、結局はこのざまだ。ほんと情けねぇよ」
「……歳」
「君菊の子が俺の子でないと知った時、俺は怒りよりも、安堵と喜びの方が強かったんだ。これで離婚して総司と一緒になれると、舞い上がるような気持ちで神戸へ戻った。けど、今は……総司が去っちまったことを聞かされた今は……俺は……」
 それきり、土方は言葉を途切らせ、黙り込んでしまった。
 疲れ切ったような表情の親友を、近藤は痛ましげに見つめた。そっとかるく手をたたいてやる。
「歳……おまえは疲れているんだ」
「……」
「あまりにも色んな事が突然起りすぎて、随分と疲れてしまったのだろう。しばらく、ゆっくり休んだ方がいい」
「だが、仕事が……」
「ちゃんとおれが代りに見ておく。おまえが元気になる頃には、全部うまく片を付けておいてやるさ」
 そう云ってから、近藤はベッドの調整をし、横にしてくれた。土方が躯を横たえるのを見ながら、静かに毛布を掛けてやる。
 穏やかな声で云った。
「もう何も考えず、休め。おまえには休息が必要だよ」
 それに、土方は黙ったまま頷いた。
 近藤はカーテンをしめてやってから、病室を横切った。出ていこうと扉に手をかける。
 その時、土方が掠れた声で呼びかけた。
「……近藤さん」
「ん?」
「ありがとう……」
 珍しい親友からの素直な言葉に、近藤は微笑んだ。黙って頷くと、そっと部屋を抜けて出てゆく。
 ぱたんと閉じられる扉の音を聞きながら、土方は静かに瞼を閉ざした……。












 幾つかの季節がめぐり、神戸の街に再び春が訪れた。
 新緑が眩く輝き、花々が艶やかに咲き誇る。
 人々の装いも軽やかに華やかになり、春は街を鮮やかに彩った。
「いらっしゃいませ」
 今日も、旧居留地にある原田の店は大賑わいだった。まさ子が忙しく立ち働き、奥の厨房では原田と斉藤、それに今年入ったばかりの市村がケーキづくりに励んでいる。
 また扉が開き、一人の客が入ってきた。
 それにふり返ったまさ子は、思わず声をあげた。
「総司さんやないの!」
「……こんにちは」
 確かに、そこに立っているのは総司だった。
 小さく微笑みながら、ジーンズとジージャン、淡い色合いのTシャツという姿で立っている。瑞々しく可愛らしい姿は、一年前と何一つ変っていなかった。
 まさ子の声に気づいた原田や斉藤が、厨房から出てきた。
 もともと帰国を知らされていた斉藤は、にやっと笑いながら手をあげてみせた。
「──フランスで勉強して、腕をあげたんだろ」
 ちょうど昼時だからと食事に誘いながら、斉藤は訊ねた。
 それに、総司はちょっと笑った。
「どうかな。とても繁盛している老舗だから、かなり絞られてますけどね」
「なら、腕はあがってるさ」
 そう云ってから、斉藤はあるレストランへ総司を連れて入った。
 二人で食事をしながら、様々な話をしていたが、やがて、斉藤がふと気づいたように云った。
「そう云えば、おまえが欲しいと云っていた店の土地、売れてしまったぞ」
「え?」
 総司は驚き、目を見開いた。
 まだしばらくはフランスで勉強をするつもりだったが、いつかは自分の店を持ちたいと思っていたのだ。
 それも、ここ神戸で開きたかった。洋菓子の街である神戸で店を開くとなると、相当の腕がなければ駄目だが、それも自分の修行になると思ったのだ。
 原田の店にいた時から、北野坂の途中にいいなと思っている場所があった。もしも店を持てるなら、いつかここでと願っていたのだ。
 だが───
「そう……売れちゃったんですか」
「あぁ」
「仕方ないですね。でも、あそこすごく高かったから、手が届きそうもないなぁと思っていたし」
 総司はため息をつき、諦める事にした。
 交渉次第では値が下がるかと思っていたのだが、少し考えが甘かったようだ。
「それに、まだ店を出せるほどの自信もありませんし。もう少しフランスで勉強します」
「おまえ、原田さんの所に戻るつもりはないのか?」
 そう訊ねられ、総司はゆるく首をふった。
「戻るつもりはありません。あの店はだい好きだけど……でも、思い出が多すぎて……」
 どうしても駄目なのだ。
 今も辛くてたまらない、悲しい記憶が多すぎる。
 目を伏せてしまった総司に、斉藤はため息をついた。鳶色の瞳で、じっと想い人を見つめた。
「まだ……忘れられない訳か」
「ごめんなさい」
「オレに謝っても仕方ないけど、でも……という事は、オレの気持ちもやっぱり受け入れられないって事だよな?」
「斉藤さん……」
 揺れる瞳で、総司は斉藤を見つめた。
 フランスへ行く前も、この1年の間にも、何度か斉藤からアプローチされていたのだ。好きだと、絶対幸せにしてみせると云われ、淋しさから心がふと揺れ動く事もあった。
 だが、その瞬間にいつも思い出したのは、たった一人の男の事だったのだ……。
「……斉藤さん、あのね」
 小さな声で、総司は話し始めた。真剣な表情だった。
「ぼく、向こうで働いている時、聞かれたんです。きみは何のためにケーキをつくっているのかって」
「何のために?」
「そう。でね、ぼくはいつも願ってる事を答えました。ぼくのケーキを食べてくれた人たちが幸せになれるように……そう思って作っています、と。でも……」
 総司は長い睫毛を伏せ、ほろ苦く笑った。
「こう云われたんです。きみ自身が幸せでないのに、どうして、皆が幸せになれるようなケーキをつくれるんだい?って」
「総司……」
「ぼく、すぐ顔に出ちゃうから。いつも一人で黙り込んでいて、ケーキづくりにばかり打ち込んでいた。でも、全然幸せそうじゃないって云われちゃったんです。そう云われた時はカッとなって、思わず『Occupez-vous de vos affaires!』って叫んでしまいましたけど……」
「おまえも気が強いからな」
 斉藤はくすくす笑った。
「うん。でもね」
 総司はかるく小首をかしげた。
「その時は確かに余計なお世話だって怒ったけど、でも……後で考えてみると、本当のことだなぁと思ったんです。本当にぼくは幸せじゃなかったし、いつも毎夜泣いてばかりいた。そんなぼくが、皆を幸せにするケーキなんか作れるはずがないのだから……」
「で、幸せになるために、日本へ戻ってきたのか」
 斉藤はちょっと躊躇ってから、静かな声で問いかけた。
「あの男のもとへ戻るために?」
「!」
 総司のなめらかな頬がさっと紅潮した。
「そんな事……!」
 思わず両手をきつく握りしめ、激しく首をふった。
「そんな事、望んでなんかいません。ぼくもあの人も、もう十分傷ついたんです。許されない、愛したらいけない相手だった。だから、ぼくは二度と逢わないと……」
 きゅっと桜色の唇を噛みしめ、俯いてしまった。
その想い人の姿を、斉藤は静かな鳶色の瞳で見つめた。しばらく沈黙した後、ゆっくりと低い声で告げた。
「あの男、離婚したぞ」
「──」
 斉藤の言葉に、総司は「え?」と顔をあげた。
 まるで突然、言葉が通じなくなった子供のような表情で、斉藤をぼんやり見つめている。
 それに、斉藤はくり返した。
「土方さんが離婚したんだ。あの事件の後、すぐだった」
「!」
 総司の目が大きく見開かれた。
「う…そ……っ」
 その瞬間。
 店内のざわめきが遠ざかり、何も聞こえなくなった……。








 その翌日。
 関西国際空港の出発ロビーに、総司の姿があった。きつく唇を噛みしめ、僅かに目を伏せている。
 その顔には、不安と躊躇いがゆれていた。
 だが、それでも後ろをふり返る事は決してしない。否、ふり返る事を恐れていたのだ。
 なぜなら、このフランスへの出発は、一年前と同様──彼から逃げるためのものだったから……。
「──」
 総司は一瞬だけ固く瞼を閉じると、その後、静かに顔をあげた。
 そして。
 パリ行の飛行機へ搭乗するため、ゆっくりと歩き出していったのだった───。

















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