鳥の囀りが賑やかだった。
 春先なので、冬にくらべれば朝の訪れも随分早くなったのだ。
 僅かなカーテンの隙間から白いシーツへと射し込む光に、土方は僅かに眉を顰めた。
「……ん……」
 眩しいとばかりに寝返りをうち、布団の中へもぐり込みかけた。
 とたん、自分が抱きしめているものに気がついた。柔らかな髪が頬をくすぐる。
「……?」
 土方は薄く目を開き、それを眺めた。
 柔らかな髪に、なめらかな頬。それに翳りを落した、長い睫毛。
 微かな寝息をもらす、小さな桜色の唇。
 きゅっと両手をかるく握りしめ、彼の胸もとに可愛い顔をうずめているのは───
(……総司!)
 次の瞬間、一気に覚醒した。
 思わず起き上がりかけたが、とたん、総司が「んー…」とむずかり土方の背に両手をまわしてくる。甘えるように頬をすりつけ、ぎゅっと抱きついた。
 その細い躯はと見れば、一糸纏わぬ裸身だ。彼もパジャマ一つつけてなかったので、素肌がふれあい、とても心地よかった。
「……」
 土方は呆然としたまま、総司を見下ろした。
 起き抜けだったため、一瞬、無理やり抱いてしまったのかと思ったのだ。とんでもない事をしてしまったと、躯中の血の気がひく思いだった。せっかく見舞いに来てくれた総司に、なんて事をしてしまったのだろう。
 だが、しばらくすると、次第に昨日の記憶が戻ってきた。
「……そう…だ」
 のろのろと片手で口許をおおい、土方は呟いた。
「昨日、俺は総司に告白して、総司もそれに答えてくれて……それで……」
 6年もの時を経て。
 ようやく、二人は恋人同士になったのだ。身も心も一つにとけあわせたのだ。
 幸せで幸せで、夢のようだとさえ思った。
 あんなにも焦がれるように求め、愛した存在が、この腕の中にいてくれるのだ。
 愛してると囁けば、愛してますと返されて。
 花のような笑顔をむけられ、何度も口づけあい、抱きあった。
 この愛おしい恋人……
「……総司」
 土方はその細い躯を抱きすくめると、柔らかな髪に、頬に口づけた。夢心地にか、総司が幸せそうに微笑んだ。
「……土方…さん……」
 小さく彼の名を呼びながら縋りついてくるのが、たまらなく可愛らしい。可愛くて可愛くて、そのしなやかな躯すべてにキスしてやりたい程だった。
(……昨夜、やっちまったけどな)
 まっ白な肌のあちこちに残る薄紅の痕に、土方は目を細めた。総司への執着の深さ、独占欲の強さに、己自身でも驚いてしまう。
 あんな抱き方、一度だってした事がなかった。あんな快楽も幸せも、今まで味わった事がなかったのだ。
 愛しあう相手と繋がるのは、こんなにも幸せな事なのか。
 目も眩むような快楽を、あたえてくれるのか。
 とろけるような蜜のような情事の記憶に、土方はセックスを知ったばかりの少年のように躯が熱くなるのを感じた。
(ったく……ざまぁねぇよな)
 苦笑しながら、総司の躯をより深く抱きすくめた。
 その腕の中、総司がかるく身じろいだ。微かに長い睫毛が瞬いたかと思うと、ゆるやかにその目が開かれる。
「……」
 ぼんやりとした表情で、総司は土方を見つめた。しばらくそうしていたが、突然、「あっ」と声をあげた。
「や、やだ……!」
 一糸纏わぬ自分の躯に気づき、耳朶まで真っ赤になってしまう。
 慌ててシーツを肩まで引き上げた総司に、土方は優しく微笑んでみせた。
「おはよう、総司」
 甘いバードキスを落としてやると、総司は恥ずかしそうに目元を赤らめた。土方の裸の胸に身をすり寄せながら、小さな声で答える。
「おはよう…ございます」
「外はすげぇいい天気だぜ。ここから直接、店へ行くんだろ?」
「え……え、あっ!」
 総司は慌てて起き上がった。きょろきょろと見回す様子に、土方は思わず笑った。
「大丈夫だ。まだ6時だから、十分時間はある」
「……6時……よかった」
 ほっとしたように安堵の息をついた総司に、訊ねた。
「何時頃、店へ入ればいいんだ?」
「9時頃に入れば、大丈夫です。うちの開店、11時からだから」
「なら、朝飯食ってから、俺が車で送ってやるよ」
「え、いいですよ。土方さん、まだ本調子じゃないし」
「大丈夫さ」
 悪戯っぽく、土方は笑ってみせた。細い背に手をまわすと、しなやかな指さきでツ…ッと撫であげてやる。
 とたん、全身を走った甘い疼きに、総司は思わず「…ぁ……っ」と声をあげてしまった。無意識のうちに腰を擦りよせる。
 可愛らしい恋人の仕草に、土方は喉奥で笑った。
「昨夜を思い出してみろよ? 大丈夫に決まっているだろ」
「! や、土方さん……っ」
「それとも、ここでもう一度証明してやった方がいいか?」
 下肢へのばされる男の手に、その言葉が本気だという事を察した総司は、慌てて身を引いた。昨夜もさんざん抱かれてしまったのだ。これ以上されたら、とても仕事などできなくなってしまう
「い、いりません! 大丈夫だって、十分わかったから……っ」
「何だ、つまらねぇな」
 くっくっと喉を鳴らして笑っている土方に、総司は桜色の唇をとがらせた。
 この人って、すっごく意地悪だ。
 優しくて冷たくて、強引で、意地悪な恋人。
 でも、そんな彼がだい好きだった。好きで好きで、たまらなかった。
 昨夜は夢のような一時だたったけれど、でも、あれは夢ではなかった。確かに、愛してると囁いてくれたのだ。
 その歓びを思うと、胸奥がふわっとあたたかくなった。
「……土方さん」
 そっと彼の胸にまた凭れかかった総司を、土方は柔らかく抱きとめた。
「総司……?」
「ずっと、傍にいてね」
 小さな声で囁いた総司に、土方の目が見開かれた。
 それに、言葉をつづけた。
「お願いだから、もう二度と、ぼくを離さないで。ずっと、ぼくの傍にいて……」
「離すものか……!」
 土方は総司の華奢な躯を抱きしめ、その柔らかな髪に頬をすり寄せた。
「絶対に、おまえを離したりしない」
「土方さん……」
「だがから、総司……おまえも約束してくれ。二度と、俺から逃げないと。俺の前からいなくなったりしないと……」
 男の声が切なく掠れた。
 一度、総司に逃げられているだけに、不安で仕方がないのだろう。
 総司はその事に深い罪悪感を覚えながら、彼の広い背に両手をまわした。こくりと頷き、約束する。
「逃げません。絶対に……二度と逃げない」
「総司……」
「いつまでも、ぼくはあなたと一緒にいます……」
「……総司……愛してる……」 
 土方は深い想いをこめて囁くと、愛しい恋人の躯をもう一度抱きしめた……。








 朝食の後、土方は総司を送るために部屋を出た。
 何度も断ったのだが、車で送ると云って聞かないのだ。
「土方さんも本調子じゃないのに」
「そうでないのは、おまえの方だろ?」
「え?」
 地下駐車場に降りるエレベーターの中、総司はきょとんとして土方を見返した。
 それに、悪戯っぽく笑ってみせる。
「昨日の夜、俺も手加減できなかったからな。ちょっと可愛がりすぎたか」
「「!」
 とたん、総司の顔が真っ赤になってしまった。思わず、持っていた鞄で彼の胸を叩いてしまう。
「おい……痛いって」
「だって! 土方さんったら……っ」
「けど、本当の事だろ? なんなら、抱いていってやろうか?」
「もう知りません!」
 くすくす笑う土方を前に、総司はぷんっと頬をふくらました。その表情がまた可愛らしい。
 エレベーターを降りると、土方は停められてある自分の車へ歩み寄った。綺麗なブルーのスポーツカーだ。カチャッと音が鳴り、ロックが解除された。
 運転席へまわった時だった。
 不意に、横合いから声をかけられる。
「……土方先生」
「──」
 ふり返った土方の目に、一人の男の姿が映った。派手な色合いのシャツに、だらしなく汚れたズボンを履き、にやにや笑っている。
 助手席側にいた総司は、思わず細い眉を顰めた。
(……誰?)
 だが、土方は男を見知っているらしい。その姿を見たとたん、すっと冷ややかな表情で視線をそらした。無視したまま、車へ乗り込もうとする。
「先生、待って下さいよ」
 男は素早く近寄ると、ドアに手をかけた。
「話ぐらい聞いても構へんでしょう」
「断る」
「そんな殺生な。こっちもクビかかってるんですよ」
「知った事ではないさ。そっちがどんな汚い手を使ってきても、俺は絶対に引き下がらない」
「強情な弁護士先生やなぁ」
 にやにや笑いながら、男はわざとらしくため息をついてみせた。
「ちょっと告訴を取り下げてくれはったら、えぇんです。それか、先生が担当弁護から外れる。そんだけで、全部丸くおさまるっちゅう訳や」
「……」
「金なら、払うゆうてますやろ? 報酬分はちゃーんとお支払いしますって」
「そんな金があるなら、和解にすればいい。被害者の人たちも希望どおり賠償金さえ払ってもらえれば、告訴はしないはずだ」
「それじゃ困るんですよ。莫大な金額になってしまいますやろ」
「なら、裁判所で俺たちと戦え」
「連戦連勝の先生と? 先生が弁護した裁判は一度も敗訴した事あらへん、やり手の弁護士さんって、評判聞きましたで」
「……」
 土方は不愉快そうに眉を顰めた。これ以上相手にしても仕方がないと思ったのだろう。総司に助手席へ乗るよう促すと、自分も運転席に身を滑りこませる。
 男はドアに手をかけたまま、身をかがめた。
 なれなれしい口調で、云った。
「金の値段つりあげるつもりやろけど、潮時を見極めんと、痛い目にあいますで」
「……」
 土方は黙ったまま、鋭い視線を男にむけた。傍で見ていた総司が身を竦めてしまったほど、凄味のある冷たい瞳だ。
「……っ」
 思わず後ずさった男に目もくれず、土方は静かに車のドアを締めた。総司がシートベルトを締めているか確認してから、ゆっくりとアクセルを踏み込む。
 バックミラーの中、みるみるうちに男の姿が遠ざかっていった。
 地下駐車場から明るい地上へ出た時には、総司もほっと息をついてしまった。やはり、緊張していたのだろう。ずっと握りしめていた掌には、爪の痕が残っていた。
「……すまない」
 車の流れに乗ってから、土方はぽつりと云った。驚いて見た総司に、低い声で言葉をつづける。
「関係ねぇのに、嫌な思いをさせてしまった。本当に悪かったな」
「そんなの、土方さんが謝る事じゃありません」
 ゆるゆると首をふってから、微かに目を伏せた。ちょっと躊躇ったが、訊ねてみる。
「さっきの話は、あの……前に桜子ちゃんが話していた……」
「あぁ」
 土方は頷き、僅かに目を細めた。
「あの訴訟の相手がよこした奴だ。どうも組と繋がりのある会社らしくて、今までも色々と圧力をかけてきているんだ」
「大丈夫なのですか? さっきのなんて、まるで脅しだったし」
「あれぐらい日常茶飯事さ。あんな脅しでびびっていたら、弁護士なんざやっていけねぇよ」
 何でもない事のように笑ってみせた土方に、総司は驚いた。
 あんなことが日常茶飯事だなんて。
 菓子作りの勉強や修行が大変であっても、いつも甘い匂いに囲まれ、子供たちが喜ぶケーキをつくってきた総司にとって、先ほどの出来事も土方の話もまったく別世界だった。
 やがて、車は店のある旧居留地へとやってきた。店のすぐ手前で停めてもらい、総司は鞄を引き寄せた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
 きちんとお礼を云った総司に、土方は苦笑した。ハンドルに凭れかかりながら、悪戯っぽい瞳で恋人を眺める。
「そんな他人行儀な云い方するなよ。俺はおまえの恋人だろ?」
「そ、そうだけど……なんか慣れなくて」
 ぽっと頬を桜色に染め、答える総司はたまらなく可愛らしい。
 それに目を細めながら、土方は手をのばした。思わず、そのなめらかな頬を掌に包みこんでしまう。
 運転席から身を乗り出すと、総司は慌てたように男の胸に両腕を突っぱねた。
「だ、だめ! ここ、外ですよ」
「誰も見ちゃいねぇよ」
「だって……ぁ、んっ……」
 一瞬だけ掠めるような口づけをあたえてから、土方は首筋から頬を掌で柔らかく撫でてやった。それだけで、総司は感じてしまったのか、ふるふるっと身を震わせる。
「……もう、土方さんったら……」
 桜色の唇を尖らせた総司に、土方は綺麗な笑顔を見せた。
 ドアを開けてやりながら、優しい声で云った。
「ほら、行っておいで」
「……行ってきます」
 総司は車から降りると、歩道を横切った。店に入る直前にふり返り、可愛らしく笑いながら手をふってみせる。
 それに手をふり返してやった土方は、そのほっそりした姿が店の裏口に消えるまで見送っていた。が、ふと、格子シャッター越しに見える店内へ視線を走らせる。
 形のよい唇の端が、薄い笑みにつりあがった。
「……」
 土方は視線をそらすと、シフトをドライブに切り替えた。ゆっくりとアクセルを踏み込み、車を滑り出させてゆく。
 次第にスピードアップしてゆく車のボディが朝の光を浴び、色鮮やかに輝いた……。








「おはようございまぁす!」
 元気よく厨房に入った総司は、そこに誰もいない事にちょっと戸惑った。
 が、店の方から来た斉藤に気づき、笑いかける。
「斉藤さん、おはようございます」
「……おはよう」
 どこか強ばった声で答えた斉藤は、その鳶色の瞳で総司をじっと見つめた。
 それに、総司は小首をかしげた。
「? 斉藤さん……?」
 総司自身は、まったく自覚がないようだ。だが、その様子は一昨日までと比べると、あきらかに変っていた。
 大きな瞳は明るく輝き、なめらかな頬は淡い桜色に紅潮している。つやつやした唇も、まっ白な項も、恋を知ったばかりの初々しさ、艶めかしさが、匂い立つようだった。
 見慣れている斉藤たちでも、思わずはっと息を呑んでしまうほど、綺麗なのだ。生き生きと輝いているのだ。
「うまくいった…みたいだな」
 ため息まじりに呟いた斉藤に、総司はえ?と目を見開いた。
 それに、苦笑した。
「あの男とだよ……ほら、土方とかいう……」
「え、あ……えぇっ?」
 どうしてわかったの?と云わんばかりに、驚いた顔になった総司に、斉藤は思わず小さく笑った。
 まるで子供のように、素直なのだ。揺れる気持ちや感情が、すぐ顔に出てしまう。 
 そんな処も可愛いかった。
 決して自分のものにはならないからこそ、よりいっそう愛おしくて。
 だが、それでも構わないと思うのは、何故だろう。ただこう、見守っていられればいいのだと。
 悲しいほどの切なさで、総司の幸せだけを願ってしまうのは……。
「……総司」
 呼びかけた斉藤を、総司は見上げた。
「な、何ですか?」
「幸せか」
 そう静かな声で訊ねたとたん、総司の目が見開かれた。
 あまりにも突然の問いに、一瞬、意味がわからなかったらしい。その言葉の裏に秘められた、斉藤の深い想いも。
「今……幸せかと聞いたんだよ」
 斉藤は僅かに小首をかしげ、問いかけた。
「あの男と想いが通じあって、幸せなのかと聞いたんだ」
「……」
 総司は深く息を呑んだ。しばらく黙ったまま、斉藤を見つめている。
 やがて、耳朶まで桜色に染めると、恥ずかしそうに俯いた。細い指さきを組み合わせ、こくりと頷く。
「……はい」
 小さな声だったが、その答えは斉藤の耳に届いた。
 静かに微笑んだ。
「なら、いいんだ……よかったな、総司」
「斉藤さん、ぼく……」
 思わず何か云いかけた総司に、斉藤はゆるく首をふった。
 手をのばすと、そっと柔らかな髪にふれた。一度だけ惜しむように撫でてから、すぐ手を離す。
「これだけは覚えていてくれないか」
 穏やかな声で、斉藤は告げた。
「何があっても……オレはおまえの友人だと。辛い時、苦しい時、おまえにはオレという友人がいる事を、決して忘れないでくれ」
「……斉藤さん……」
 感じやすい総司の瞳が潤んだ。
 優しく微笑みかけてから、斉藤は踵を返した。仕事を始めるため、厨房を横切ってゆく。
 それを見送った総司は、やがて、静かに目を閉じた。
 斉藤という男の存在を。
 土方とは全く違う意味で、心の奥に深く感じながら……。








 土方と総司は、三日とあけず逢瀬を重ねるようになった。
 むろん、お互い仕事があるし、桜子の存在もある。土方にとっても、総司にとっても、桜子は大切な存在だった。
 そのため、二人は桜子を連れての外出を重ねたのだ。大抵は、今までどおり夕食をとるだけだったが、時には休みの日に遊園地へ出かけたりもした。
 桜子はうすうす二人の関係に気づいているようだった。
 否、それどころか───
「この間、桜子に云われたよ」
 二人の休みが重なった日。
 総司は土方のマンションを訪れていた。むろん、朝から桜子は幼稚園へ行っている。
 久しぶりに抱きあい、ベッドの中でさんざん愛しあった後の会話だった。
「桜子ちゃんに?」
 きょとんとした表情の総司に、土方は肩をすくめてみせた。
「おまえと食事をして帰宅した後だ。いきなり、パパよかったねって、にこにこしながら」
「え……」
「いったい何がだ?って訊ねたら、頬をふくらまして、総司さんとの事に決まってるでしょって云われちまった訳さ」
「……そ、それって……」
 さーっと青くなる思いに口ごもってしまった総司だったが、土方は余裕の表情で笑ってみせた。悪戯っぽい瞳で恋人を覗き込んだ。
「俺とおまえが恋人同士だってこと、桜子はちゃんと知ってるみたいだ。いや、もしかすると、お互い片思いしあっていた時から……」
「桜子ちゃんは全部、お見通しだった……ってこと?」
「さぁ、何しろ俺の娘だからな」
「桜子ちゃん、可愛いし、優しい子だから、大好きですよ」
 そう云ってから、総司は小さくため息をついた。
「本当に、ぼくたちの事わかっててくれて、それで……受け入れてくれているのなら、その方がいいんだけど。あの子に嫌われるのは辛いです」
「大丈夫さ。桜子はおまえが大好きだし、俺の事も愛してくれている。けっこうアバウトに育ててきたから、あまり細かい事にこだわらねぇ娘になる可能性大だろう」
「やっぱり、土方さんの娘ですものね」
 総司はくすっと笑った。
 が、ふとある事を思い出すと──その顔が曇った。僅かに目を伏せる。
 それに、土方はすぐ気がついた。総司の細い肩に腕をまわして抱きよせ、その瞳を覗き込んだ。
「総司? どうした……?」
「ん……」
 こくりと頷いてから、総司は視線をさまよわせた。何か云いづらい事らしい。
 土方は優しく頬に口づけてやった。
「どうした。何か云いたい事があるんだろ?」
「……あの、ね」
 きゅっと両手を握りしめた。
「あのね、桜子ちゃんは……桜子ちゃんは、君菊さんに、似て…る……?」
「……」
 土方の目が僅かに細められた。
 しばらく押し黙っていたが、やがて総司の背から腕を抜くと、そのままベッドから滑り降りた。
「……土方…さん……?」
 慌てて声をかけたが、土方は無言のままこちらに背を向け、衣服をつけてゆく。ジーンズを履き、ばさっと音をたててシャツを羽織った。
 そうして俯き、釦をとめているその端正な横顔は、思わず息を呑んでしまうほど冷たい。
 そんな男の態度に、総司は思わず泣きそうになってしまった。きゅっと唇を噛みしめ、俯いた。
「……っ」
 やっぱり、聞いてはいけない事を口にしてしまったのか。
 妻の名は……禁句だった──?
 土方が既婚者である事など、初めからわかっていた。妻子ある身だと──何もかもわかった上で、この恋に身を投じたのだ。
 世間から見れば、二人の関係は不倫だった。
 決して許されえぬ関係。
 しかも、総司は男であり、より指弾の的になることは確実なのだ。
 だが、それでも、今さら引き返せるはずがなかった。否、引き返すつもりもない。
 たとえ、この先に破滅しか待っていなくても、それでも愛さずにはいられなかったのだ。
 周囲の人々を傷つけ、自分も彼も傷つく恋だとわかっていながら、愛しい彼の胸に飛び込んだ。きつく抱きしめあい、身も心も熱くとけあわせて───
「……」
 総司はそっと目を閉じた。
 ……そう。
 人は、こんなにも傲慢になれるのだ。
 誰かを愛するためなら。
 世界中で唯一、狂ったように求めてしまう恋人のためなら……。
「……総司」
 気がつくと、土方がベッドに歩み寄ってきていた。傍に佇み、静かに手をのばしてくる。
 そっと、柔らかく頬を手のひらで包みこまれた。
「土方…さん……」
 僅かに潤んだ瞳で見上げ、その名を呼んだ。
 土方は身をかがめると、甘いキスを落としてくれた。そして、囁いた。
「総司、俺は……離婚するよ」
「──」
 総司の目が大きく見開かれた。呆然とした表情で、土方を見つめている。
 それに、彼はどこか切なげな瞳をみせた。
「おまえは何も心配しなくていいんだ。全部、俺が片付けるから」
「……だ…って……っ」
 ふるふると、総司は首をふった。思わず手をのばし、土方の腕に縋りついてしまう。
「離婚なんて……そんなの、君菊さんが拒んだら? それに、桜子ちゃんは……」
「桜子は、俺の娘だ。絶対に手放さない」
 きっぱりとした口調で、土方は断言した。
「親権は必ず俺がとる。もし裁判沙汰になったとしても、俺は弁護士だぜ? 負けるはずがねぇだろうが」
「でも、そんな……」
 総司は云いかけ、言葉を途切らせた。
 きつく唇を噛みしめると、彼の胸もとに顔をうずめた。
(……本当に、そんな事が許されるの──?)
 どんなに罪深くても、構わないと思った。
 彼のためになら、たとえ地獄へ落とされてもいいのだと。
 だけど、でも。愛する人を、こんな修羅の道へ引きずりこんで。
 この人から家庭までも奪ってしまう資格が、いったいぼくにあるのだろうか。
 自分が傷つくのなら構わなかった、彼のためならどんな事でも出来るし、どんな非難でも全部受け立ってみせる。
 でも、この人が傷つくのだけは嫌だった。重荷になりたくなかった。
 ぼくはただ、この人を愛したかっただけなのに……。
「……このままじゃ、駄目?」
 小さな声で問いかけた総司に、え?と土方は聞き返した。
 それに俯いたまま、言葉をつづけた。
「このままじゃ……駄目、なのかな。離婚なんてしないで、秘密でこうして逢って愛しあって……」
「そんなの駄目に決まっているだろう」
 土方は僅かに眉を顰めた。
「俺はおまえに誠実でありたいんだ。君菊に対しても、隠したくない。離婚すれば、俺たちは堂々と愛しあえるんだ。だから……」
「……ね、土方さん」
 彼の言葉を遮り、総司は小さく笑った。
「ぼくは……とても狡いね」
「総司」
「このまま生ぬるい状態で、あなたと愛しあってる方が楽だからって……離婚に反対したりして。でも、そのくせ、あなたのことを独り占めしたくて、あなたが好きで好きでたまらなくて……」
 なんて傲慢で狡くて、臆病なのだろう。
 ぼくは本当は怖いのだ。はっきりさせる事が恐ろしいのだ。
 だって、もしも。彼の気持ちが変ったら?
 離婚を切り出したとたん、君菊さんが泣いて縋ったら? もう一度やり直そうと云ったら?
 それを、この人が拒絶できるのだろうか。見かけよりずっと、優しく脆い心をもっている彼が。
 人の気持ちなんて、些細な事で揺れ動いてしまうから。
 言葉なんて、信じられないから。
 この人がぼくを捨てる日がこないなんて、誰にも断言できない……。
「……」
 そっと吐息をもらした総司は、男の胸もとに顔をうずめた。彼の躯に手をまわし、ぎゅっとしがみつく。
 それを抱きとめてやりながら、土方は目を伏せた。柔らかな髪に顔をうずめ、低い声で囁いた。
「何も心配するな」
「土方さん……」
「おまえには迷惑をかけない。これは俺の問題だ。俺一人で全部片付けるから、おまえは安心して……俺を待っていてくれればいいんだ」
「……」
 総司は黙ったまま、土方を見上げた。その澄んだ瞳が不安げに揺れる。
 それを見つめながら、土方は微笑んでみせた。前髪を指さきでかきあげ、白い額にそっとキスを落としてやる。
「俺はおまえのものだ。おまえも……俺のものだ」
「土方…さん……」
「何も心配はいらない。ふたりの手がしっかり繋がれている限り、何があっても大丈夫だ……」
 優しい声で囁いた土方に、総司は一瞬だけ目を閉じた。
 そして、再び彼の胸に顔をうずめると、小さく頷いたのだった……。








 カスタードクリームを丁寧に絞り出した。
 それと、さくさくとした歯触りに焼き上がったパイを重ねてゆく。
 仕上げに粉砂糖をふりかけて苺をのせると、総司は、ほっと吐息をもらした。
 いつもの事だが、一つの菓子を作りあげるのは大変な集中力がいった。決して失敗は許されないのだ。また、総司自身、仕事に関しては一切妥協を許さない性格のため、厨房の空気はいつも張り詰めていた。むろん、いい意味での緊張感なのだが。
「できました」
 総司は声をかけながら、店内に入った。
 ショーケースのガラス扉を開き、苺のミルフィーユをそっと並べる。もともと店内にいた客たちからさっそく声がかかり、注文が入った。
「ありがとうございます」
 まさ子がてきぱきと、客達をさばいてゆく。
 総司が厨房へ戻ろうとした時、再び扉が開き、土方と桜子が入ってきた。幼稚園の帰りなのだろう、桜子は可愛らしい制服姿だった。
「いらっしゃい、桜子ちゃん」
 明るく笑いながら挨拶した総司に、桜子はすぐさま飛びついてきた。
「総司さん、こんにちは!」
 それから、嬉しそうに総司を見上げた。
「あのね、今日は参観日だったの。パパが来てくれたんだけど、もう大変だったんだから」
「え?」
「他のお母さんたちが皆、パパばかり見ちゃって、終わった後も話しかけまくってきて。ほら、パパ、すっごく格好いいから」
「桜子」
 困ったように遮った土方に、総司はちょっと唇を尖らせた。
「ふうん……良かったじゃないですか、もてまくって」
「……嬉しくねぇよ」
「そうですよね、別に慣れてる事ですものね」
 土方はため息をつき、手をのばした。総司の腕を掴んでかるく引き寄せ、桜子がショーケースの中のケーキを眺めている隙に、そっと耳打ちする。
「俺には、おまえだけだって。そんなのわかってるだろ?」
「だって……」
「拗ねるなよ。ま、やきもち妬いてくれるおまえも可愛いけどな」
「や、やきもちなんて……っ」
 図星の言葉に耳朶まで真っ赤になってしまった総司に、土方は楽しそうに喉奥で笑った。
 それに、桜子がふり返った。
「? パパ、どうかしたの?」
「いや、何でもないよ」
 土方は踵を返すと桜子に歩み寄り、一緒になってショウケースの中を覗き込んだ。どれを買うのかと、あれこれ親子で話し始める。
 それを眺め、総司はため息をついた。ふり回されてばかりだなぁとも、思う。
 何しろ9才も離れているのだ。土方の方が、恋愛経験もずっと豊富に決まっていた。
(それに、もてて当然だよね。桜子ちゃんが云うとおり、こんなに格好いいんだもの……)
 参観日に行ったためか、土方はスーツ姿だった。と云っても、カジュアルな雰囲気のもので、ネクタイも締めていない。淡いグリーン色のシャツの釦が一番上だけ外され、そこから僅かに覗く逞しい胸もとがセクシャルだった。大人の男の色気を感じさせる。
 さらりと流した黒髪に、総司の方を時折ふり返り笑いかけてくる黒い瞳も。形のよい唇も、しなやかな指さきも。
 何もかも、うっとりするほど艶やかで、愛おしくて……。
(今でも信じられないや。この人がぼくの恋人だなんて、本当にぼくを愛してくれるなんて……)
 そんな事を思いながら、総司は土方を見つめつづけた。
 その時、また客が入ってきたのか、店の扉が開かれた。カラン…ッとベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
 総司は反射的にふり返り、挨拶した。入ってきた客を見たとたん、ちょっと目を瞠る。
 滅多に見かけぬほど美しい女性客だったのだ。
 品の良い着物を纏った、いわゆる和服美人だ。細面の顔だちに、美しく結い上げられた髪。淡いルージュをひいた唇が、とても艶やかだった。
 年の頃は二十代後半だろうか。上品で落ち着きがあった。
「……」
 女はちらりと総司に視線をむけると、かるく目礼してみせた。そのまま草履の音もたてず、静かにショウケースへ歩み寄る。
 総司は、それを洋菓子を選ぶためだと思った。
 だが。
「……あなた」
 静かな声が店内に響いた。
 そっと手をのばし、土方の肩にふれる。
「!」
 それに、土方が弾かれたようにふり返った。女の姿を見たとたん、その端正な顔に驚愕の色が走る。
 愕然とした表情で、女を凝視した。
 傍で桜子も気づいた。きゅっと唇を噛みしめ、土方のスーツの裾を小さな手で縋るように掴んだ。
 土方は女を見つめたまま、掠れた声でその名を呼んだ。
「……君…菊……っ」
 東京にいるはずの。
 離婚しようと思っていた女。


   彼自身の、妻の名を───
















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