次に土方が目覚めた時、もう夕方だった。
時計を見れば、4時を僅かにまわっている。
「……よく寝たものだ」
思わず苦笑した。
だが、よく眠ったためか、かなり躯が楽になっている。熱も下がったようだった。
そう思いながら、土方は身を起こした。とたん、水音をたてて氷袋が滑り落ちる。
「……?」
見下ろし、眉を顰めた。
いったい、どうしてこんな物があるのだろう。
自分で用意した覚えもないし、この家には氷袋などなかったはずなのに。
そんな事を考えていた土方は、やがて、リビングの方で物音がするのに気がついた。
まさか、桜子が帰ってきたのだろうか?
心配しなくても大丈夫だと云ったのに、あの子は俺の事ばかり考えているから……。
「……」
ため息をつき、ベッドから降りようとした。
その時だった。
ガチャッと音が鳴り、扉が開いた。
そして、そこから顔を覗かせたのは───
「あ、目が覚めたんですね」
「……」
土方は大きく目を見開いた。呆然とした表情で、目の前に立つ若者を見つめている。
それに、総司はちょっと困ったように笑ってみせた。
「すみません。勝手にキッチン使わせて貰いました」
「……」
「気分、少しはよくなりました?」
そう云いながら総司は歩み寄ってくると、身をかがめた。まだベッドに坐ったままの土方の額に、手を押しあてた。
ひやりとした感触がとても心地よい。
「んー、だいぶ下がりましたね。これならシャワー浴びれるかな」
「……」
「新しいパジャマを用意して、シーツもかえておきますから、まずはシャワーあびてきて下さい」
てきぱきと告げ、総司は身を起こした。忙しそうに部屋を出てゆこうとする。
それを、土方は慌てて呼びとめた。
「……ちょっと待ってくれ」
「え?」
総司はふり返り、大きな瞳で彼を見た。
「何ですか? あ……まだふらつきます? じゃあ、ぼくが肩をかして……」
「そうじゃなくて」
ゆるく首をふり、土方はまだ微かに潤んだ瞳で総司を見つめた。
「いったい、どうしておまえがここにいるんだ? 何だって、ここに……」
「桜子ちゃんですよ」
ちょっと素っ気ない口調で、総司は答えた。
僅かに視線をそらしながら、言葉をつづけた。
「昨日、桜子ちゃんに頼まれて……あの子に泣かれたら、断れるはずもないでしょう」
でなければ、ここに来るはずがないと。
そう言外に云われているようで、土方は思わず唇を噛みしめた。
だが、それでも、今ここに総司がいてくれるのは事実なのだ。彼を看護してくれた事も。
「……ありがとう」
低い声でお礼を云った土方に、総司は驚いたように視線をむけた。目を瞠ってから、すぐに頬を紅潮させる。
扉のノブを掴む手に、ぎゅっと力がこもった。
「そんな……お礼を云われるような事なんて……」
「桜子に頼まれた為であっても、おまえがここに来てくれたことは事実だ。礼を云って当然だろう」
そう云うと、土方はゆっくりと立ち上がった。
朝のような目眩もない。本当に、かなり楽になっていた。
その事にほっとしながら、部屋を静かに横切った。総司の傍をすり抜け、黙ったままバスルームへ向かった。
熱いシャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。
理由や気持ちがどうであれ、今、総司は彼の傍にいてくれるのだ。その事だけでも感謝すべきだろう。
少なくとも、完全に拒絶された訳ではなかったという事なのだから……。
そう思ってから、土方は苦笑した。
「……俺も未練がましいな」
あんなにも手酷くふられながら、まだこんな事を思ってしまうのだから。
正直な話、総司に逢うまで、土方はかなり恋愛経験を積んできたつもりだった。
この容姿や職業のおかげでもてたため、さんざん女遊びもくり返してきたのだ。土方の身持ちの悪さは、事務所でも評判になっていた。
だからこそ、結婚したとたん、ぴたりと遊びをやめてしまった土方に、周囲はそれが君菊のためだろうと噂したのだ。愛する妻を得たからこそ、他の女に目がいかなくなったのだろうと。
だが、そうではなかった。
土方の心の奥には、いつも総司の存在があったのだ。
本当の愛を知った以上、遊びなど出来るはずもなかった。しようとも思わなかった。
そして、その愛は6年たった今でも……。
土方はバスルームから出ると、濡れた躯をざっとバスタオルで拭った。総司が用意してくれた新しいパジャマの上から、薄手のセーターを着込む。
部屋が暖かいので大丈夫だろうと思ったが、湯冷めしてぶり返すのだけは御免だった。
リビングへ戻ると、総司がふり返った。
「ちょうど良かったです。土方さん、お腹空いてませんか?」
「……あぁ。少し」
「じゃあ、ここに坐ってください」
ソファの前へ坐るよう促され、土方は黙ってそれに従った。目の前のローテーブルの上に、小さな土鍋が置かれる。
総司が鍋掴みで蓋をあけると、ふわっとあたたかな湯気がたちのぼった。おいしそうな匂いが広がる。
「雑炊をつくってくれたのか」
「えぇ。鮭雑炊です。卵とネギもたっぷり入ってますから、栄養満点ですよ」
そう云いながら、総司は雑炊を茶碗によそい、手渡してくれた。
土方は「いただきます」と手をあわせてから、雑炊を食べ始めた。初めは少しずつだったのだが、そのうち若い男らしい旺盛な食欲で一杯を食べきってしまう。
とてもおいしかったのだ。
躯の芯からあたたまってゆく。
総司は空になった茶碗に、また雑炊をよそってくれた。
しばらく黙ったまま、土方は食事をつづけた。それを総司も黙って静かに見守っている。
やがて食事が終わると、総司は水を手渡してきた。
「水分もとらないと。それに、お薬も飲んでください」
「あぁ、ありがとう」
頷き、土方は薬を飲んだ。
それから、ふと錠剤のパックを眺め、小首をかしげた。
「おかしいな。これ、初めて飲んだはずなんだが……一つ減ってる」
「あ、それは……」
総司が答えかけ、口ごもった。が、そのまま耳朶まで真っ赤になると、俯いてしまう。
それを訝しげに眺めたが、土方は肩をすくめただけだった。コップを置きながら、静かな声で云った。
「……面倒をかけてすまなかった」
顔をあげた総司に、言葉をつづけた。
「ありがとう。とても助かったよ……たぶん、もう大丈夫だと思う」
「そう…ですか」
こくりと頷き、総司はまた俯いた。
それを、土方は濡れたような黒い瞳で見つめた。
妙に重い沈黙が、二人の間に落ちた。
やがて、総司はそろそろと腰をあげかけた。
「あの、じゃあ……ぼく」
どこか切なげに、長い睫毛が震えた。きゅっと片手が握りしめられる。
「ぼく……もう帰りますね」
「総司」
「お大事に」
そう云うなり、総司は立ち上がろうとした。だが、不意にのびてきた男の手に腕を掴まれ、強引に引き戻される。
「!」
横合いから引っぱられたため、総司はバランスをくずした。自然と男の腕の中へ倒れこんでしまう。
「あっ、ぃ…や!」
抱きとめられた格好になった総司は、顔を真っ赤にした。慌てて身を捩り、男の腕の中から抜け出そうとする。
だが、それを土方は許さなかった。
「総司……!」
きつく、息もとまるほど抱きしめられた。首筋に男の吐息がかかり、それを感じたとたん、かぁっと躯中が熱くなった。
思わず彼を見上げてしまう。
長い睫毛が瞬き、しっとり潤んだ瞳が男を見つめた。どこか甘く掠れた声が、彼の名を切なく呼んだ。
「……土方…さん……」
「……っ」
とても我慢など出来るものではなかった。
ずっと求めてきた──愛してきた存在が、この腕の中にあるのだ。
抱きしめれば、すっぽりと腕の中におさまってしまう華奢な躯は、土方の胸に強い保護欲と独占欲を起こさせた。
「総司……」
その名を囁きざま、なめらかな頬から顎を掌ですくいあげた。
キスをもとめてゆく。
総司は「あ…っ」と喘ぎ、小さく抗った。男の逞しい胸を必死に押し返そうとする。
だが、その手を逆に握りこみ、深く唇を重ねた。
「…んっ…ぅ、ん……ぁ…っ」
角度を変えて口づけ、その甘い舌を思う存分味わった。舌をさし入れて歯茎をなぞり、逃げようとする舌に絡める。
男からあたえられる熱く激しいキスに、総司はただ震え、目を閉じているだけだった。6年前と同じように。
だが、二人の上にも確実に時は流れていたのだ。
「……ん……っ」
総司は僅かに身をすり寄せると、おずおずとキスに応えた。舌を舐めかえし、土方の胸もとに甘えるように縋りつく。
それに、土方もすぐ気がついた。
「……? 総司……?」
キスをやめて見下ろすと、総司はまた俯いた。だが、おとなしく男の腕に抱かれ、その逞しい胸に顔をうずめている。
顔をあげさせようとすれば、いやいやと首をふって縋りついてきた。その仕草がたまらなく可愛らしい。
「総司……」
土方は柔らかな髪に唇を寄せ、その額や頬、首筋に甘いキスを落とした。なめらかな肌の感触が唇に残り、心地よい。
うっとりとした表情で、総司はようやく顔をあげた。
「土方さん……」
「……好きだ」
ごく自然に、土方は己の想いを告げていた。
ずっとずっと長い間、6年間も抱きつづけてきた総司への恋を、愛を……。
「──」
総司の目が大きく見開かれた。
それを見下ろし、土方は静かな──だが、熱っぽい声で言葉をつづけた。
「おまえが好きだ」
「……」
「初めて逢った時から、おまえの事がずっと好きだった……」
「……う…そ……」
総司は両手で口をおおい、ふるふると首をふった。
まるで怯えているかのように、恐ろしい事でも云われたように、男から身を離してしまう。
それを、躯中の力が抜け落ちるような深い絶望に身をひたしながら、土方は眺めた。
薄く笑い、自嘲気味に呟いた。
「気持ち悪いか。怖いか……男に告白されたんだ、当然だよな」
「……」
「だが、おまえも6年前からわかっていたはずだ。あの時、俺はおまえにキスをしたのだから」
「土方さん、ぼくは……っ」
「逢った時から可愛いと思って好きになって、俺のものにしたくてたまらなかった。初めて、誰かを大切に守ってやりたいと思ったんだ。心から愛したいと。だが、おまえはそんな俺を拒絶し、逃げた……」
「だって……!」
総司は思わず両手を握りしめ、叫んだ。
「突然、あなたの正体を知らされ、びっくりしてる処にいきなりキスされて……逃げないはずがないでしょう? そんな簡単に、何もかも全部受け入れられるはずがない!」
「……そうだな」
土方は苦笑し、ソファへ背を凭せかけた。まだ僅かに濡れている黒髪を指先で煩そうにかき上げ、目を細める。
「受け入れられるはずがねぇよな……」
「だから、そういう事じゃなくて!」
どこか噛み合っていない会話に、総司は苛立った。
いったい、どうすればいいの?
それに……どうして?
どうして、この人は急にこんな事を云いだしたの。
本気なの?
それとも、これも気まぐれの一つで───
「……一つだけ教えて下さい」
そう云った総司に、土方は僅かに目を伏せた。視線を己の膝上で組んだ手に落しながら、答えた。
「俺に答えられる事なら」
「土方さん……あなたはさっき、ぼくを好きだと云いましたね」
「あぁ」
「じゃあ、どうして? なぜ……結婚したのです」
「……」
総司の率直な問いかけに、土方は視線をあげた。深く澄んだ黒い瞳を、まっすぐ総司にむけてくる。
短い沈黙の後、静かな声で云った。
「おまえに拒絶され、絶望したからだ」
「……え」
「あれから何度行っても、おまえは顔一つ見せてくれなかった。俺はおまえに拒絶され、初めて愛した相手に拒絶されるという絶望に、何もかもが嫌になってしまったんだ。自棄になり、酒もくらったさ。そんな時だった。親友で恩人の近藤から、彼の妹との縁談をもちかけられたのは……」
「……」
「半ば自暴自棄だった。もう何がどうなっても良かった。おまえへの恋が成就しないのなら、他に道はないと思ったんだ。おまえ以外の誰を愛する事もできないなら、誰と一緒になっても同じことだろうと」
「そんな……」
大きく目を瞠った総司に、土方は肩をすくめた。
「わかってるさ、俺は酷い男だ。だが、君菊の方も俺を種馬扱いしていたしな。お互いの利害関係が一致したからこそ、俺たちは結婚したんだ」
「利害関係……?」
「君菊は弁護士である夫と、その弁護士との間に生まれるはずの男の子が欲しかった。うちの事務所は、男子しか継がせないという親父さんの遺言があるんだ。近藤の処はもう子供を望めず、なら、君菊が産むしかなかった。君菊自身も男の子を切望していたしな」
「……」
「俺自身は自棄になっていた事もあって、自分の地位が生活が保障されるなら、それもいいかと納得したんだ。むろん、俺は結婚するからにはいい夫であろうと努力した。おまえしか愛せず、どうしても君菊に恋愛感情をもてなかったからこそ、尚の事だった。君菊に誠実であろうとしたんだ。だが……」
そう云いかけ、土方は言葉を途切れさせた。黙ったまま、じっと前を見つめている。
僅かな躊躇いの後、そんな彼の手に、総司はそっと手を重ねた。
驚いたようにふり返った土方を澄んだ瞳で見上げ、ゆっくりと云った。
「土方さん、あなたのした事は……そんな愛のない結婚なんて、絶対に許される事じゃありません。でも、あなた自身も十分その報いを受けたはずだし、ぼくには責める資格なんて全然ないから……」
「総司……」
「それに、あなたは今、とても桜子ちゃんを愛してる。大切に、あの子の幸せをあなたのすべてで守ろうとしている。それをぼくは見たから、ずっと感じてきたから、だから……その結婚も間違いではなかったと思うのです。すべは、桜子ちゃんと出逢うためだったのだと……」
小さくため息をついてから、総司は土方の手を取り上げた。愛しさをこめて頬に押しあてながら、言葉をつづけた。
「ぼくも……ずっと罪を犯してきたから。あなたの苦しみも知らず、ただ自分の事だけを考えていた。自分だけが苦しいのだと思いこんでいた。あなたの言葉も何もかも拒絶して逃げ出したのは、ぼくの方だったのに……」
「総司」
不意に、土方は総司の言葉を遮った。その細い手をきつく両手で握りしめると、まっすぐ見つめる。
深く澄んだ黒い瞳が、真摯な色をうかべた。
「総司、もう一度だけ云わせてくれ」
真剣な声で、土方は告げた。
「俺は、今も話したとおり、酷い男だ。だが、本当に……おまえだけが好きなんだ」
「土方さん……」
「この気持ちが迷惑にしかならないと、嫌悪されてるとわかっていても、それでも……どうしても思いきる事ができなかった。6年たった今でも、おまえの事が好きでたまらない……っ」
そう云いざま、土方は総司の華奢な躯をきつく抱きすくめた。両腕で抱きすくめ、愛しくて愛しくてたまらぬと云いたげに、その柔らかな髪に頬をすり寄せる。
男の腕の中、総司は微かに吐息をもらした。
おずおずと土方の広い胸に顔をうずめると、告げた。
「……ぼくも…です」
囁くような。
小さな小さな声で。
「あなただけが好きです……6年前から、ずっと」
「……え?」
土方はよく聞こえなかったようだった。訝しげに眉を顰め、総司の顔を覗き込む。
それに、総司は恥ずかしそうに頬を染めた。ぎゅっと男の胸もとに縋りつく。
「総司……?」
優しい声で呼びかけられ、ふるふるっと首をふった。だが、ここで躊躇っていては、今までと同じなのだ。
自分も彼を愛してるのだと、ずっとずっと恋してきたのだと、ちゃんと告げなければいけなかった。
総司は不意に顔をあげると、かるくのびあがった。
そして──キスをした。
一瞬だけの、掠めるような甘いキス。
「!」
土方の目が大きく見開かれた。呆気にとられ、総司を見下ろしている。
そんな男の腕の中、告げた。
今度こそ、ちゃんと聞こえるように。
「土方さん……あなたが好きです」
「……」
「だい好き、愛してます。ずっとずっと、あなただけを恋してきたんです……初めて逢った時から」
「……う…そだろ?」
先ほどの総司と同じように、土方は思わず問い返した。
それに、首をふってみせた。
「嘘じゃありません。16才で逢った時から、あなたに憧れて恋して……ずっと愛してきたのです。この6年間、ぼくの気持ちは絶対にかわる事がなかった」
「……」
「あなたと同じように、思いきろうとしました。今頃、あなたはぼくの事など忘れ去っていると思っていたから。ちょっと一緒に過ごしただけの子供の事など、記憶の一片にもないと思っていたから。でも、どうしても出来なかった。忘れようとすればする程、あなたはぼくの心に鮮やかなほど在って……」
そっと吐息をもらしてから、総司は微笑んだ。
それに、土方が息を呑んだ。
ずっと求めてきた、笑顔だったのだ。
二度と見せてもらえぬと思っていた、あの花のような笑顔……。
「あなたが好きです。土方さん、あなただけを愛してる。どうか、あなたの傍にぼくを置いて下さい……」
「……総司……!」
土方は声をあげると、思わずその躯を両腕で抱き上げていた。膝上に抱きあげ、その額に頬に、唇に、キスの雨を降らせてゆく。
身を捩り、総司がくすぐったそうに笑った。
その幸せそうな柔らかな笑い声に、土方もようやく実感した。
確かに、今、総司は彼への愛を告げてくれたのだ。
ずっと恋していた、好きだったと云ってくれたのだ。
夢のようだと思った。拒絶され嫌悪されている、一縷の望みもない恋だと思っていたのに……。
「……総司、愛してる」
心から想いをこめて囁いた土方に、総司はこくりと頷いた。彼の背に両手をまわしながら、うっとりと吐息をもらした。
「ぼくも…です。ぼくも愛してる……」
「総司……」
「土方さん、あなただけをいつまでも……」
言葉が途切れた。
土方が総司の躯を抱きすくめ、深く唇を重ねたのだ。身も心もとろけるような、甘く激しいキス。
ただ、もう互いだけを求めて。
互いだけを見つめて───
やがて。
6年の時を越え、ようやく愛しあえた恋人たちを、甘やかな夜が優しく包み込んだ……。
>
>
>
>
「Petite Fleur8」へ もくじへ戻る 「贈り物のお話」へ戻る