ガンッと、拳を扉に荒々しく叩きつけた。
だが、既にもうエレベーターの扉は閉じられ、下降してしまっている。
「……」
土方は傍の壁に凭れかかると、固く瞼を閉ざした。ため息をつき、くしゃっと片手で前髪をかきあげる。
とんだ落とし穴だった。
自分の家だからと油断していたのか。思わず、口をすべらせてしまったのだ。
いつもより、表情の柔らかな総司が嬉しかった。二人きりになれたことも、心を弾ませた。
だからなのか、気がつけば、あの言葉を吐いてしまっていたのだ。
「……ったく、ざまぁねぇよな」
土方は苦々しく自嘲し、身を起こした。いつまでも、ここにいても仕方がないのだ。
部屋に戻ると、酷く静かな空気が彼を迎えた。
先ほどまでの、総司の気配はもう何処にもない。
ほんの少し前まで、あの愛おしい存在がここにいてくれたのに。
土方は部屋を横切ると、大きな窓際に佇んだ。窓下を見下ろしたが、さすがに総司の姿は見えない。
それでも、琥珀色に美しく染まる神戸の街を眺めた。
(……総司……)
ただ見守っていこうと、思っていた。
ほっそりとした優しい姿を、この瞳に映すことができればいいと。
そして、いつか花のような笑顔を見せてくれればと。
だが、彼が6年前の事も全部覚えていると知った今、総司はもう二度と心を開いてはくれないだろう。先ほどの態度から見ても、完全に彼を拒絶するに違いなかった。
「……」
土方は黙ったまま、僅かに目を細めた。
やがて、低く呟いた。
「……逃がすものか」
諦めるつもりなど、まったくなかった。
6年前とはもう違うのだ。
彼も様々な経験をへて、大人の男になっていた。
あの時は逃げた総司に絶望し、諦めたが、今度はもう自分から手をひくつもりは全くなかった。
どんな事があっても追いかけ、総司をこの手につかまえるのだ。
それが互いにとって、修羅の道であったとしても。
総司をこの腕に再び抱きしめられるのなら、どんな罪を背負っても何をしても構わなかった。愛しいものと共に堕ちてゆけるなら、彼にとって、それはこの世の至上の歓びだろう。
この愛を、もう失えるはずもないのだから───
「……総司」
土方は瞼を閉ざすと、掠れた声でそっと囁いたのだった。
「愛してる……」
世界の果てまで追いかけて。
この腕に、きつく強く抱きしめてやりたいほど……。
翌日の昼過ぎ。
昼食から戻った総司は、思わず息を呑んでしまった。
店の前に、土方が佇んでいたのだ。壁に凭れ、腕組みをしている。
彼も昼時に抜け出してきたのか、一分の隙もないスーツ姿だった。
タイトに締めたネクタイから、さらりと整えられた黒髪、こちらに向けられた切れ長の瞳まで、どきりとするほど魅力的だ。
「……総司」
しなやかに身を起こすと、土方は総司の方へ歩み寄ってきた。
それに、総司は思わず後ずさってしまった。だが、何しろ昼時の雑踏の中だ。人にぶつかってしまいそうになる。
「……あっ」
とたん、素早く腕を掴まれ、引き寄せられた。彼の吐息を、彼の鼓動を感じてしまう。
愛おしい男の存在をまざまざと実感し、かぁっと頬に血がのぼった。
「は、離して……っ」
総司は身を捩った。だが、土方は総司の細い腕を掴んだまま、その黒い瞳でじっと見つめている。
それに、総司は大きな瞳で彼を睨みつけた。
「こんな乱暴をされる謂れはありません! 離して下さい」
「……離せば、また逃げるだろう」
「あたり前です」
きつい口調で云いきった総司に嘆息すると、土方は若者の躯を道の端へと引っ張った。
通行の邪魔になると考えたのだろう。
それは確かだったので、総司も仕方なく従った。
ビルの裏に引っ張りこまれると、辺りは急に静かになった。表の喧噪もここまでは届かない。
総司はそれに少し怯えた。6年前もこうして路地裏で追いつめられ、抱擁とキスをあたえられた事を思い出したのだ。
男の手をふり払おうと、再び身を捩った。だが、男の力は凄まじく、どうしても離せない。
「離して下さいって、云ってるでしょう?」
「総司、頼むから話を聞いてくれないか。ほんの少しでいいんだ、俺に時間をくれ」
「お断りします。ぼくは、あなたの話なんか聞きたくありません」
総司は冷ややかに顔をそむけた。拒絶するように、固く唇を引き結んでいる。
それを見つめる土方の端正な顔には、焦燥の色が濃かった。口早に告げてくる。
「俺は、おまえを騙すつもりなどなかったんだ。ただ、6年前の事は云わない方がいいと思った。おまえが俺を怖がっているのを、見ていたから……」
「怖がって当然でしょう?」
思わず、総司は鋭く云い返した。
「今もこんな乱暴な事をして、6年前は、嫌がるぼくにキスまでして……っ」
「あれは悪かった。すまなかったと思っているんだ。だが、俺はおまえを……」
「口封じしたかった? 担当弁護士だと知られたから、口封じのためにあんな事をしたの?」
矢継ぎ早にそう云ってのけた総司に、土方は大きく目を見開いた。
思わず、総司の腕を掴む手にも力がこもった。
「口封じだと? そんな事あるはずがねぇだろうが……!」
「ぼくが子供だからって莫迦にして! けど、あの頃とは違う。もう騙されたりしない……!」
そう叫んでから、総司は土方をまっすぐ睨みつけた。
呆然としている土方の手を、ぱんっと音をたてて払いのけた。
「あなたなんか、だいっ嫌いだ! 顔も見たくない!」
「……総…司……っ」
土方の黒い瞳が苦痛にみちた。
だが、それに気づく事もなく、総司は言葉をつづけた。
「もう二度とぼくの前に現れないで! 6年前の事も、やっと忘れかけていたのに……っ」
そう云うなり、総司は身をひるがえした。ビル裏から抜け出し、店へと駆け戻ってゆく。
店の前で、ちょうど斉藤と一緒になった。
「斉藤さん……!」
ちらりと確かめれば、土方が少し離れた所に佇んでいた。総司だけをまっすぐ見つめている。
それを痛いほど感じながら、総司は斉藤の腕に手をからめた。笑顔をむける。
「今、戻りですか? 一緒になりましたね」
どこかわざとらしい笑顔に、斉藤は僅かに眉を顰めた。
だが、雑踏の向こう──こちらへ鋭い視線をむける男の姿に、納得がいったようだった。
微かに苦笑をうかべたが、すぐ総司の細い肩に腕をまわした。そっと抱きよせてやる。
「あぁ、早く仕事に戻ろう。昼から忙しいぞ」
「えぇ、頑張りましょうね」
総司は明るく笑ってみせながら、斉藤とともに店の戸口をくぐった。
だが、それでも。
店の中に入る瞬間、思わずふり返ってしまった。
世界中の誰よりも。
愛おしい男だけを求めて───
(……土方…さん……)
雑踏の向こう、土方はこちらをまっすぐ見つめていた。ふり返った総司に気づくと、僅かに目を細める。
それは、胸が痛くなるほど切ない表情だった。まるで少年のような脆く、悲しげな……。
一瞬だけ見つめあったが、土方は静かに目を伏せた。そのまま踵を返すと、歩み去ってゆく。
立ち去る愛しい男の後ろ姿を見つめ、総司はきつく唇を噛みしめた。
その日は、雨だった。
総司は売れ行きが悪くなる事を予想し、ケーキをつくる量を調節した。出来上がったホールドケーキをショーケースの中に置いてから、店の外を眺めやる。
旧居留地の街並みは、夕暮れの静かな霧雨に包まれていた。石畳が濡れ、街路樹の緑が濃さを深めてゆく。
「……雨、よく降るなぁ」
気がつけば、原田が隣にならんでいた。
「明日にはあがってくれりゃいいんだけどな」
「そうですね」
こくりと頷いた総司を、原田は眺めやった。
しばらく黙っていたが、やがて、静かな声で呼びかけた。
「なぁ、総司」
「はい?」
「こういう言葉を知ってるか?」
きょとんとした表情で見上げた総司に、原田は云った。
「恋路の闇……って言葉だよ」
「!」
恋という言葉に、どきりとした。
だが、原田はそんな総司に気づかぬふりのまま、言葉をつづけた。
「恋をすると理性なんかなくなって、まるで闇の中に迷い込んだみたいに、あたり前の事が見えなくなってしまう。そんな事を云うんだと」
「……」
「総司」
「はい……」
素直に返事をした総司を、原田は穏やかな目で見下ろした。
「いつまでも闇の中に閉じこもっていても、何も始まりゃしねーんだぞ。おまえは一生、そこにいてるつもりなのか……?」
「原田さん……」
何もかもを、原田は知っているのだろうか。
思わず目を見開いた総司に、原田が肩をすくめるようにして笑ってみせた。ぽんっと背をたたいてくる。
「ほら、仕事に戻ろうぜ。まさ子に怒られてしまう」
「え…えぇ」
総司はこくりと頷き、踵を返そうとした。その時だった。
扉が開いたかと思うと、桜子が息をきらし飛び込んできたのだ。
「……総司さん!」
駆け込んでくるなり、総司の躯にしがみついてくる。
「桜子…ちゃん?」
目を見開いた総司が次の瞬間、思ったのは、やはり土方の事だった。彼に何かあったのだろうか。
思わず身をかがめ、桜子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 何があったの?」
「お願い……総司さん、明日、桜子のマンションへ来て」
「え……?」
驚く総司の前で、桜子はぽろぽろと涙をこぼした。子供らしい丸い頬を、大粒の涙がこぼれ落ちてゆく。
「パパが……パパが……っ」
「土方さんがどうしたの?」
「今日、仕事先で倒れちゃって……さっき帰ってきたんだけど、ものすごい熱で」
「……」
「明日、桜子、お泊まり保育なの。幼稚園の旅行なの。休むって云ったんだけど、『行っておいで』って。楽しみにしてたんだから、パパは大丈夫だよって……でも……桜子、すごく心配で……っ」
「土方さんが……倒れた……」
「お願い、総司さん、助けて……!」
確かに、桜子に看病ができるはずはない。
だが、それでも、高熱を出して倒れた彼が二日も一人きりで、どうにかなるはずもなかった。誰か看護してあげる人が必要だろう。
総司は躊躇ったが、桜子の泣きじゃくる様子を見ると、断る事など到底できなかった。
いつものおませでしっかりした様子など何処にもなく、顔を真っ赤にして嗚咽をあげ泣きじゃくっている幼い少女。きっと不安で心配でたまらないのだろう。
ずっと、土方と二人きりで生きてきたのだから。桜子にとって、土方はすべてなのだから。
それは、総司にとっても同じことで───
「……わかった。行くよ」
「ほん、と?」
「うん。今日はちょっと無理だから、明日の朝に行く。桜子ちゃんが出かける時に入れ違いに入るから、何時に幼稚園へ行くのか教えてね」
「……ありがとう、総司さん……」
まだ涙声のままお礼を云った桜子に、総司は微笑んだ。
桜子は、本当に心から土方のことを愛してるのだろう。
この小さな体いっぱいで、彼の事を心配し、雨の中をここまで走ってきたのだ。この小さな手で懸命に父親である彼を支えようと守ろうとしている桜子が、たまらなく不憫で愛おしかった。
「こんなに冷たい手をして……桜子ちゃんの方が風邪ひいちゃうよ」
総司はそっと桜子の手をとり、店の奥へ誘った。状況を察したらしいまさ子があたたかいココアを用意してくれる。
それを飲みながら、桜子は不安そうに訊ねた。
「ね、パパは大丈夫かな……死んじゃったりしない……?」
「人間、そんな簡単には死なないよ」
総司は優しい声で、答えた。
「大丈夫。パパはきっとすぐ元気になるから。明日、ぼくがちゃんと看てあげるから、桜子ちゃんは安心してお泊まり保育に行っていいんだよ」
「うん……」
こくりと頷いた桜子の後ろ、窓ガラスごしに雨が静かに降りしきっていた……。
「……パパ、行ってくるね」
寝室の入り口で桜子はふり返ると、小さな声で云った。
お泊まりの着替えや様々なものを入れたリュックを背負い、幼稚園の制服をきちんと着ている。丸襟の白いブラウスがよく似合い、まるでお人形のように可愛らしかった。
そんな娘の姿に、土方は目を細めた。
「あぁ、行っておいで」
できるだけ平静どおりに云ったつもりだが、声が掠れてしまった。
桜子は不安げに瞳を揺らした。
「本当に大丈夫? ちゃんと寝ていてね?」
「わかってるよ。明日には治ると思うから、楽しんでおいで」
「……うん」
躊躇いがちに、桜子は頷いた。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけて、行っておいで」
優しい笑みをうかべてみせた土方に、桜子は小さく手をふると、寝室を出て行った。やがて、玄関の方でドアの開閉音が鳴る。
それを聞きながら、土方は枕に頭を沈めた。
ぐったりと目を閉じながら、ため息をついた。少し起き上がるだけで、くらくらと目眩がした。まだ熱がさがっていないのだろう。
最近では珍しい事だった。
親は子をもつと体調を崩さなくなると云うが、それは土方にもあてはまっていたのだ。弁護士という忙しい仕事の傍ら、男手一つで桜子を育てることに必死で、こうして病む事も全くなかったのだから。
だが、昨日、事務所で倒れてしまった。医者の話では風邪だけでなく、かなり過労が重なってるためだろうという話だったが……。
「ストレス…もあるよな」
土方は自嘲するように呟いた。
精神的疲労と云えば、いいのだろうか。
この処、総司とのことばかり考えていた。どうしたら、総司の心を開かせる事ができるのか。
どうすれば、総司にふり返ってもらえるのか、そんな事ばかり……。
「……莫迦ばかしい」
くすっと笑った。
何の保証も、未来も、望みもない恋だった。
ふり返ってもらえる事など、決してありえないのに。
なのに、どうして思いきる事ができないのか。
どうして、こんなにも総司だけを想ってしまうのか。
土方は片腕で目元をおおった。
「初めて……人を愛したんだ」
最悪の家庭環境の中で育った土方は、どうしても人を愛する事ができなかった。
人の情も全く解さなかった。周囲の弁護士が依頼人の言葉に涙したり熱くなったりするのを見ても、冷ややかに嘲笑っていたのだ。情に左右されるなど無様な事だと、軽蔑していた。
初めは総司の事を、ただ可愛らしい少年だなと思っただけだった。うまく手懐ければ、この少年を通して有益な情報が得られるかもしれないと、そんな事まで考えていたのだ。
だが、半年もたつうちに、土方は自分でも驚くほど総司に心惹かれていった。
その素直さ、無垢さ。人を疑う事の知らない優しい心。
綺麗に澄んだ瞳に映される自分を見るたび、心の奥が鈍く痛んだ。
俺は、この子を騙しているのだ。
何も知らないこの子は、こんなにも俺を慕ってくれる。
店を訪れるたび、まるで小鳥が飛び立つように、「土方さん!」とやってきてくれ、花のような笑顔を見せてくれる可愛い少年。
(……総司……)
心から、大切にしたいと思った。
花のような笑顔を、この手で守って愛しんでやりたいと。
なのに、すべてはある日突然、壊れてしまったのだ。
壊したのが彼自身であるからこそ、悔恨と苦痛は深かった。総司を傷つけた罪悪感に苦しみ、謝罪や贖罪の機会さえ与えられなかった事に、より苦悩を深めた。
そして、今。
再び、さしのべた手をふり払われてしまったのだ。
『もう騙されたりしない……!』
まるで憎んでいるかのように、彼を見据えていたその瞳。
激しい怒りの焔と、完全な拒絶。
『あなたなんか、だいっ嫌いだ! 顔も見たくない!』
(……総…司……!)
堪えきれぬ苦痛に、土方は固く瞼を閉ざした。
まるで鋭い錐で心臓を刺し貫かれたようだった。その瞬間、躯中の力が失われ、もう何も考えられなくなってしまったのだ。
ただ呆然と総司を見つめるばかりだった。
己の手をふり払い、逃げてゆく愛しい存在を。
そして、見たのだ。
店の前で、あの男の腕の中に飛び込む総司の姿を。
自分には決して見せてくれない、あの優しい笑顔をむけながら───
もう……遅いのだろうか。
自分には何の望みもないのだろうか。
こんなにも嫌われていると拒絶されているとわかっていながら、それでも尚、思い切れず総司への恋だけに狂ってしまう自分は、なんて愚かなのか。
だが、もう自分でもどうする事もできないのだ。この愛おしいという気持ちは、嫉妬は怒りは、独占欲は、消し去ることなど到底できない。
いつか、この想いはどす黒く凝り固まった愛となり、己自身をも滅ぼしてしまうかもしれなかった。
だが、そうだとしても、構わなかった。
世界中から指弾されても、どんな地獄に堕ちようとも、土方が望むのは総司の愛なのだから。
この恋のために破滅するのなら、いっそ本望だった。
愛を手にいれるためならば。
総司は、彼が初めて愛した小さな花だったのだから……。
ゆっくりと扉を押し開いた。
リビングへ入り、もってきた荷物を置くと、すぐさま寝室へ向かった。
中は薄暗かった。カーテンが重く引かれ、彼の不規則な寝息だけがひびいている。
総司は足音をしのばせ歩みよると、ベッドの中で眠る彼を覗き込んだ。
「……」
土方は想像していたのと違い、まるで子供のように身を丸め眠っていた。僅かに眉が顰められ、その唇からもれる息づかいは荒い。まだ、かなり熱も高そうだった。
「まず冷やさなくちゃ」
総司は氷袋をつくると、それを土方の額にのせた。そうして、汗をタオルで丁寧に拭ってやる。
汗に濡れた黒髪をかきあげると、男らしい端正な顔があらわになった。今は深く瞼を閉ざしているため、男にしては長い睫毛が翳りを落とす。
まるで少年のような寝顔だった。
愛しくて愛しくて、たまらなくなる。
「……恋の闇路……」
小さく呟いた。
愛おしい男の寝顔を見つめるうち、昨日の原田の言葉を思い出したのだ。
原田の言葉どおりなら、総司は今、その恋の闇路の中で蹲っている事になるのだろう。
真実からも目をそらし、真実にも耳をふさいで。
忘れようと思った。思いきろうと、己に何度も云い聞かせてきた。
だが、昨日からずっと考えつづけた事で、気づいたのだ。
あれは逃げではなかったの?──と。
彼の気持ちも話も聞かず、一方的に拒絶して、逃げ出して。
それをずっと、彼のせいにしていた。あんな事をされたのだから、当然のことだと。
でも、違うのだ。自分は……
「ぼくは……怖かったんだ」
決定的な真実を告げられるのが、彼の心の何処にも自分の存在がないと思い知らされるのが、怖かったのだ。だから、逃げた。
傷つきたくなかったから。
いつまでも恋の思い出に浸っていれば、幸せだ。
現実に向き合わなくて済む。
だからこそ、総司は土方への愛だけを抱きしめ、新しい恋にも踏み出そうとしなかった。挙げ句、せっかく再会しても、そのさしのべられた手を拒絶して───
「なんて……ぼくは弱くて臆病なんだろう」
今だって、本当は怖い。
土方が目を覚まし、自分を見た時になんと云うのか。どんな言葉を投げつけてくるのか、どんな瞳で自分を見るのか。
それを思っただけで、指さきがすうっと冷たくなった。
だが、もうここに来てしまったのだ。愛する男の傍に。
今さら逃げ出せるはずもなかった。否、もう逃げ出したくなかった……。
「……」
総司は傍らに置いてある薬を取り上げた。水と一緒に含んでから、そっと唇を重ねてゆく。
土方は眠りに落ちたまま、薬を嚥下した。男の喉がごくりと鳴るのを確かめ、総司は安堵の吐息をついた。
布団をかけ直してやると、土方は微かに呻きながら寝返りをうった。その仕草がどこか子供のようで、たまらなく愛おしい。
総司はそんな男を見つめ、静かな声で囁いたのだった。
「……愛してます」
昔も、今も。
そして、これからもずっと……。
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