総司は苺を洗う手をとめると、小さくため息をついた。
 外を見れば、とてもいいお天気だ。初春そのものの、青空が窓外に広がっていた。
 いつもなら気持ちも浮きたち、様々なケーキのアイデアなども浮かんだ事だろう。だが、今、総司の心は晴れなかった。
(……どうしたら、いいの?)
 仕事に専念しようと思うのだが、頭にうかぶのは土方の事ばかりだった。
 あれから、何度も逢っている。
 桜子も一緒の食事を、何度重ねたことか。
 もし彼があの夜のように一人で誘ってきたなら、総司も断る事ができただろう。だが、そんな総司の心を読み取ったのか、土方は決して自分一人では誘わなかったのだ。
 桜子を連れてやってくると、食事に誘う自分の娘を優しい瞳で見守っているだけだ。
 食事はいつも楽しかった。
 おしゃれなレストランや、可愛らしいカフェに連れて行かれ、そのたびに総司は桜子とともに驚いたり喜んだりした。それを土方は傍らから、いつも優しく微笑みながら見守っていた。
 何一つ不快な思いなどさせぬよう、きちんとセッティングされた食事。
 完璧にエスコートしてくれる彼。
 桜子の可愛い笑顔。
 こちらを見つめる彼の優しい瞳に、静かな声。
 嫌な事など何もなかった。彼だけに恋している総司にとって、幸せで幸せで、夢のような一時だった。
 だが、それでも。
 彼らと別れて一人になった瞬間、思い知らされてしまうのだ。
 このすべてが、一人娘桜子のため──もしくは、土方の気まぐれである事を。
 6年前、土方は総司を騙し、その口封じのためか抱擁とキスをあたえ、挙げ句、美しい女性と結婚したのだ。あの時も、気まぐれで総司の心を弄んで。
 総司の恋はあの時、壊れてしまったというのに……。
(……壊れて……?)
 小さく自分に問いかけた。
 本当に壊れてしまったのだろうか。
 彼の結婚を知った瞬間、この胸は張り裂けてしまったが、恋心は消えてなくならなかった。この6年の間に忘れるどころか、その想いはより深まるばかりで。
 誰よりも鮮やかに、誰よりも綺麗に。
 総司の心の奥深く、彼の姿は在りつづけたのだ。
 どんな男女にあっても、彼らに誘われても、それでも総司の愛はただ一人の男だけにそそがれていた。他の誰に心を奪われることもなかったのだ。
 なぜなら、総司は、彼のものだったから。彼だけのものとして、ずっと在りつづけたのだから。
(でも、だからって……)
 きつく唇を噛みしめた。
 今の状況を嬉しいとは、とても思えないのだ。
 どんなに恋しても愛しても、相手は妻子ある男だ。成就することなどありえなかった。
 しかも、土方は総司のことなど、一片の欠片も記憶にないのだ。これだけ言葉をかわしても、思い出した様子は全くない。
 土方の記憶に、総司の存在はまったくなかった。
 それを思い知らされるたび、どれだけ胸が痛んだか。まるで、鋭い刃で胸奥を抉られるような痛みが走った。
 だが、総司は必死にそれを押し隠していた。
 その無理がいつまでつづけられるのか、自分でもわからなかったけれど……。
「──総司」
 不意に傍らから声をかけられ、総司ははっと我に返った。
 ふり返ると、斉藤が訝しげに眉をひそめ、覗き込んでいた。その鳶色の瞳に、気遣う色が濃い。
「大丈夫か」
「え?」
「苺、もういいんじゃないのか。洗いすぎだろう」
「……え、ぇ……あ!」
 総司は慌てて苺を引き上げ、蛇口を閉めた。ぼうっと考え事をしていたため、水が流しっぱなしだったのだ。
 斉藤が黙って苺の篭を受け取り、布巾を渡してくれた。
「ご、ごめんなさい」
「いいけど……最近、おまえ変だぞ」
「そう…かな」
 俯いた総司に、斉藤は唇を噛みしめた。
 店の方にはまさ子がいるが、厨房には他に誰もいない。原田は仕入れ先との取引のため、外出していたのだ。
 小柄な総司の前へかるく身をかがめ、そっと瞳を覗き込んだ。
「……総司」
「はい」
「何か辛い事があるなら、オレに相談してくれないか」
「斉藤…さん……?」
「そんな悲しそうなおまえを見ると、オレもたまらなくなってくるんだ。何とかしてやりたくて、たまらなくなる」
 斉藤はちょっとため息をつき、両手をのばした。
 そっと総司の細い躯を引き寄せ、柔らかく背を撫でてくれる。
「オレは、おまえにはいつも元気で明るく笑っていて欲しいんだ。幸せでいて欲しい……それだけを、オレはいつも望んでいるのだから」
「……斉藤さん……」
 総司は斉藤の胸に顔をうずめ、長い睫毛を伏せた。
 この友人を愛することができたなら。
 こんなにも優しい、誰よりも総司の幸せだけを望んでくれる大切な友人。彼の恋人となれば、きっと幸せになれるのだろう。
 斉藤は全身で、総司だけを守り愛してくれるに違いないのだから。
 だが、それでも……。
「──」
 不意に、総司はびくりと躯を震わせた。
 店への扉が開き、まさ子が明るい声で呼びかけてきたのだ。
「総司さん、お客さまやよ」
「……え」
 まだ斉藤の腕の中におさまったままの総司は、ふり返った。とたん、息を呑んでしまった。
「!」
 ガラス越しに見える店内。
 そこに、土方が立っていたのだ。
 薄手の黒いセーターにブラックジーンズという姿だった。しなやかに均整のとれた躯のラインがより際だち、とても艶やかだ。
 だが、男の冷たく澄んだ黒い瞳は、総司だけを見つめていた。
 射抜くような鋭い視線で。
 形のよい眉が顰められ、唇も固く引き結ばれている。
 そのしなやかな長身は、まるで青白く燃える焔を纏いつかせているようだった。
「……っ」
 思わず怯えたように、総司は斉藤の腕にぎゅっとしがみついてしまった。
 それをみとめた土方は、嘲るような笑みに唇の端をつりあげた。そのまましばらく見ていたが、やがて、すっと視線をそらした。
 しなやかな指さきで黒髪をかきあげると、桜子の方へ身をかがめた。
「……ぁ」
 彼の鋭い視線から逃れられた事で、総司の呪縛がとけた。
 ほっと息をつき、斉藤から身を離した。歩みだそうとしたとたん腕を掴まれ、驚いてふり返った。
「斉藤さん」
「……あの男のせいか」
 低めた声で訊ねられ、びくんっと躯が震えた。
 それに、斉藤が辛そうに顔をゆがめた。
「あの男のせいなんだな。おまえがいつも悲しそうなのは……」
「……ごめんなさい」
 小さな声で謝り、総司はそっと身を捩ることで彼の手から逃れた。足早に店へと出てゆく。
 いつものように桜子が駆け寄ってきた。
「総司さん!」
 その後ろから、静かな声がかけられた。
「仕事中、邪魔して悪かったね」
「いえ……」
 総司はおずおずと視線をあげたとたん、どきりとした。
 土方が酷く昏い瞳で、総司だけを見つめていたのだ。
 だが、それも一瞬の事だった。
 ふっと視線をそらすと、再び総司の方へ視線を戻した時は、いつもの綺麗な笑みをうかべていた。
「先日の約束は今夜だから……大丈夫かと思って来たんだが」
「あ、はい。大丈夫です」
「なら、閉店後に迎えにくるよ」
 優しく微笑みかけてから、土方は踵を返した。桜子の手をひき、ゆっくりとした足取りで店を出てゆく。
 ふたりを見送り、総司はきつく唇を噛みしめた。
 その背に、斉藤の視線を痛いほど感じた───。    








 その光景を見た瞬間、頭の中がまっ白になった。
 躯中の血が逆流したようで、怒りと嫉妬に叫び出しそうになったのだ。
 土方が店に入ったとたん、ガラス越しに見た光景。
 それは、総司が他の男に抱きしめられている光景だった。、
 ちょっと力をこめて抱きしめれば、壊れてしまいそうな華奢で細い躯。
 その愛しい躯が、他の男の腕に抱きしめられているのだ。
 ほんの一瞬でも、誰かの指さきがふれるだけでも、許せないほど愛しい存在が。
「……っ」
 ぎりっと奥歯を噛みしめた。
 怒りを衝動を激情を、堪えるために。
 もし傍に桜子がいなければ、矜持も誇りも世間体もかなぐり捨てて、厨房に飛び込んでいただろう。総司を抱きしめる男から、愛しい存在をこの腕に奪い取っていたに違いない。
 だが、そんなこと出来るはずもなかった。
 彼は、総司の恋人ではないのだ。それどころか、6年たった今でも忌み嫌われている存在だった。
 それゆえ、現実には、懸命に己の感情を押し殺し、視線をそらしたのだ。やがて、何もなかったように出てきた総司に声をかけ、微笑みかけて。
 その身の内を狂おしいほど焦がす、激情を痛いほど感じながら───
「……パパ?」
 可愛らしい声に、はっと我に返った。
 いつのまにか、ぼんやりと己の思考ばかりを追ってしまっていたらしい。
 食事をしていた手は、完全にとまり、会話も途切れていたのだろう。
 気がつけば、傍らから桜子が心配そうに覗き込んでいた。
「パパ、お仕事で疲れてるの?」
「……いや」
 土方はゆるく首をふった。
「大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだから」
「この頃、パパ、とっても忙しいから」
 桜子は大人っぽくため息をついてみせてから、総司の方へつぶらな瞳をむけた。
「あのね、パパの今のお仕事ね、とっても大きな会社のお仕事なの」
「桜子」
「ほら、ニュースでもずっと云ってるでしょ? 毒をたくさん流しちゃった会社の」
「……あぁ、あの去年、訴訟を起こされた会社」
 総司は呟き、細い眉を顰めた。
 おそらく、また権力者側にたち冷酷な仕事をしていると思ったのだろう。
 6年前の時と同じように。札束で頬をはたくような、弱い人々を踏みにじる仕事を。 
「土方さんが弁護をするなら、その会社も勝ったも同然でしょうね」
 どこか冷ややかな声音で、云い捨てた。
 その可愛らしい顔にうかんだ紛れもない嫌悪と侮蔑の表情に、土方は視線をそらした。
 そんな彼の傍で、桜子は大きく首をふった。
「違うの! パパは、毒を飲んじゃった人たちのために働いているの」
「……え?」
 総司が驚いたように目を見開いた。
 それに、桜子は誇らしげに頬を紅潮させ、言葉をつづけた。
「困っている人たちのために、パパ、一生懸命戦っているのよ。すっごく格好いいんだから」
「桜子」
 咎めるような土方の口調に、桜子は唇を尖らせた。
「だって、本当の事だもん」
「仕事の話は、外でしてはいけないんだ。やめなさい」
「はぁい」
 不承不承頷く桜子の傍で、総司は澄んだ瞳でじっと土方を見つめていた。だが、彼が見つめ返すと、すぐに目を伏せてしまう。
 長い睫毛がなめらかな頬に翳りを落し、儚げで玲瓏とした様は、男の心をたまらなく惹きつけた。 
 その時、ウェイターが次の皿を運んできた。丁寧な手つきで一人ずつの前に置いてゆく。
「わぁ、綺麗!」
 桜子は思わず歓声をあげた。総司の顔も綻ぶ。
 今夜の食事には、薔薇の花びらがそえられていた。それが白い皿と料理を艶やかに彩り、とても綺麗だ。
「きみは薔薇は好きか?」
 突然、そう訊ねた土方に、総司は一瞬瞳を揺らした。
 だが、僅かに躊躇った後、静かな声で答えた。
「花は何でも好きです。花はよくケーキのモチーフにも使いますし……」
「そうだな。きみのケーキは花模様が多い」
「ねぇ、パパ」
 桜子が小首をかしげた。真っ赤な花びらを手にとりながら、訊ねる。
「パパは、薔薇みたいな花が好きなの?」
「そうだな……」
 土方は視線をおとした。何を思いだしたのか、微かに笑った。
「いや、あまり好きではないな」
「じゃあ、どんな花が好き?」
「小さな花……かな」
 そう低い声で呟いたとたん、総司がびくりと躯を震わせた。
 顔をあげて見ると、大きな瞳を瞠り、こちらをじっと見つめている。
 それに、優しく微笑みかけた。
「蘭や薔薇のような大輪の花よりも、小さな花が好きだ。この手でそっと守ってやりたい……そんな小さな儚い花が好きなんだ」
「……」
 総司は黙ったまま、長い睫毛を伏せてしまった。だが、そのなめらかな頬は仄かに紅潮している。
 それを見つめ、土方は歓喜に胸を熱くした。
 総司は覚えていてくれたのだ。
 あの時の、彼の言葉を。
 総司を自分の小さな花だと告げたあの言葉を、その記憶に刻んでいてくれた。
 たとえ、それが嫌悪ゆえであったとしても───
「あのね、総司さん」
 土方の傍で、桜子がにこっと笑った。
 総司の服の袖をひっぱり、つぶらな瞳で見上げる。
「お願いがあるんだけど」
「え?」
「今度、桜子のお家に来て欲しいの」
 それに、総司の頬がさっと強ばった。すぐ断ろうと思ったのだろう、その桜色の唇が僅かに震えた。
 だが、桜子はすばやく言葉をつづけた。
「来週の水曜日ね、桜子のお誕生日なの」
「……お誕生…日……?」
「うん! お友達も呼んでパーティを開くのよ。毎年、パパが全部してくれるの」
「……」
「ね、総司さんのお店、水曜日お休みでしょう? だから……ね? だめ?」
「……でも」
 総司は視線をさまよわせた。困ったような顔で、小さく呟いた。
「ぼくなんかがいったら、お邪魔じゃないのかな」
「違うもの。総司さんが来てくれたら、桜子、すっごく嬉しい! だから、お願い、総司さん」
「……そ…う。じゃあ、水曜日に」
 ようやくこくりと頷いた総司に、桜子は嬉しそうに両手を打ち合わせた。さっそく、誕生日パーティの事を弾んだ声で話し始める。
 総司は優しく微笑みながら、それを聞いてやっていた。
「……」
 それを、土方は黙ったまま見つめていた。
 何も云う気になれなかったのだ。
 一瞬だけ。
 桜子にねだられている最中、総司は土方の方を見やった。
 その時、その瞬間の、瞳の色。
 明らかな拒絶と、激しい怯えにみちていた─── 
 これだけ逢瀬を重ねても、決して6年前の事にはふれぬようにしても、それでも尚、総司は彼を嫌悪しているのだ。
 どんなに見つめても、優しく微笑みかけても、いつも冷たく視線をそらされるか、顔をそむけられてしまう。
 そのたびに、我が身を貫く苦痛と激情を堪えるため、密かに奥歯を噛みしめて。
 愛おしい存在が──6年もの間、ずっと想いつづけた相手が目の前にいるのに、指一本ふれる事ができない。
 その澄んだ瞳にさえ滅多に映してもらえず、彼に話しかけてくる事も稀だ。
 なのに、総司は、あの男の腕には抱かれていたのだ。
 素直にその身をあずけ、どこか切ない表情をうかべて。
 そのほっそりとした躯のすべて。
 柔らかな髪も、長い睫毛も、桜色の唇も、細い指さきも。
 本当は、他の誰にも指一本ふれさせたくないのに、愛しくてたまらないのに。
 なのに──現実はどうだ。
 目の前にいる総司にふれる事もできず、ただ怒りと嫉妬に我が身を焦がしている事しかできないのだ。
 なんて惨めなのか、なんて情けない姿なのか。
(……いったい、いつまで続くのだろう)
 土方は嘆息すると、僅かに目を伏せた。その端正な顔に、憂いの影が落ちる。
 いつかは、と思っていた。
 愛されないまでも、いつかは、あの花のような笑顔を見せてくれる。そんな日がくるはずだと。
 だが、総司は今、彼の方を見向きもせぬばかりか、他の男の手をとろうとしているのだ。他の誰かのものになってしまうのだ。
(こんなにも愛しているのに……)
 再び、土方は目の前に坐る総司を見つめた。
 優しく微笑みながら、桜子と楽しげに話をつづけている総司を。
 決して、自分にはむけてもらえぬ。
 その綺麗な笑顔に、胸を締めつけられながら……。








 水曜日の昼下がり、総司は道を歩いていた。
 時々、手にしているメモに視線を落としている。
「え…っと、ここかな」
 立ち止まったのは、立派な高層マンションの前だった。オートロックなので、玄関前でインターホンを押した。
「はぁい、どちらさまですか?」
 すぐ、明るい桜子の声が響いた。それに、ちょっとほっとする。
「こんにちは、総司です」
「今あけまーす」
 その言葉と同時に、ガラス扉のロックが解除された。
 総司は中へ入ると、ちょうど来ていたエレベーターに乗り込んだ。指定された階で降り、廊下を歩いた。
 角部屋なので一番奥の扉に、「土方」と表札がかかっている。それに、どきんっとした。
 本当は来たくなかったのだ。
 むろん、土方には逢いたい。桜子も可愛い。
 だが、それでも、土方の家という最もプライベートな空間にまで招き入れられて、片思いの気持ちを吐露してしまわないかと不安だった。ひどく怖かったのだ。
(……頑張ろう。ほんの少しの時間だもの)
 総司はふるっと首をふり、インターホンを押した。しばらくすると、ガチャと音が鳴り、大きく扉が開けられた。
 とたん、どきりとした。
「やぁ、いらっしゃい」
 扉を開いてくれたのは、土方だったのだ。
 ドアノブに手をかけたまま、優しく微笑みかけてくる。
 白いシャツに艶やかな黒髪が映え、すらりとした長身にシャツとブラックジーンズを纏った姿は、まるで一枚の写真のようだった。やり手の弁護士というより、グラビア雑誌の表紙を飾るモデルのようだ。
 土方に恋してる総司が思わず見惚れてしまったのも、ごく当然のことだろう。
「……ぁ」
「入って。桜子もお待ちかねだよ」
 土方は穏やかな声で、総司を中へ招き入れた。框に上がるのを見守ってから、リビングへと案内してゆく。
 リビングは広く、大きな窓から神戸の街が一望できた。テーブルを囲み、桜子や小さな可愛いお友達が何人かきゃあきゃあ賑やかにしている。
「総司さん!」
 嬉しそうに駆け寄ってきた桜子に、総司は笑顔をみせた。
 身をかがめ、持ってきた箱をさし出す。
「お誕生日おめでとう、桜子ちゃん。ほら、これ……ケーキ」
「わぁ! 総司さんがつくってくれたの?」
「もちろん。気にいってくれるといいんだけど」
 桜子はうきうきとリボンをほどき、箱を開けた。
 中から現れたのは、今が旬の苺や苺ババロアをあしらった、バースディケーキだ。あちこちに、ピンク色のゼリーでつくられた桜の花びらが、飾られてある。
「これ、新しいのでしょ? お店には並んでない?」
「桜子ちゃんスペシャル。ちょっと頑張ってつくっちゃった」
 くすっと笑った総司に、桜子は大喜びした。
「ありがとう! ありがとう……桜子、とっても嬉しい!」
「よかった。後で皆で食べてね」
「うん!」
 桜子は総司の手をひいて、テーブルへとむかった。幼稚園のお友達をいちいち紹介してくれる。
 それに笑顔で応じていた総司は、ふと気が付いた。
「……あ、土方さんは……?」
「パパは今キッチン。すぐに用意して来てくれるよ」
 そう云っているうちに、土方がトレイを手に戻ってきた。テーブルの上に、様々な料理を並べてゆく。
 どれも子供たちが食べやすいよう一口大にされたものが多く、花の形にくり抜いたり、様々な可愛らしい飾りが施されてあった。
 それに、総司は目を丸くした。
「……これ、土方さんが?」
「あぁ」
 土方はちょっと照れくさそうに笑った。
「これでも一児の父親だからな。けど、つくれる料理は、こういう子供向けのものばかりになってしまった」
「でも、すごい! 綺麗で可愛いし、おいしそうです」
「ありがとう」
 お誕生日会は、総司が思っていたより楽しかった。
 土方の手製の料理はびっくりするほどおいしく、桜子も桜子の友達も大喜びだった。
 きゃあきゃあ賑やかに食事をした後は、皆でゲームをしたりして、それから総司がつくったケーキにキャンドルをたてて歌を唄い、ケーキを頬ばった。
 騒ぎが一段落した頃、桜子が土方のシャツの裾をひっぱって、おねだりしているのに気がついた。
「ねぇ、いいでしょ? 里香ちゃんの家、行ってきても」
「今からか?」
「まだ3時だもの。だって、里香ちゃん、新しいお人形セットのお家買ってもらったって」
「桜子だって、明日買うだろうが」
「それとは違うもん。ね、お願い」
「仕方ねぇな」
 ため息をつき、土方は苦笑した。くしゃっと桜子の髪を撫でてから、身をかがめ、云いきかせる。
「けど、5時前には帰ってくるんだぞ」
「はぁい!」
 桜子は元気よく返事すると、お友達と一緒に部屋を出ていってしまった。きゃあきゃあ笑いあっている声が、どんどん遠ざかってゆく。
 それを見送っていた総司は、あちこちを片付けている土方に、慌てて立ち上がった。
「あの……お手伝いします」
「いや、いいよ」
 土方は手際よく片付けながら、首をふった。
「きみはお客様だ。後で珈琲でも入れるから、坐っててくれ」
「でも、それじゃ落ち着きませんから、手伝わせてください」
 懸命に云った総司に、土方は優しい瞳をむけた。ちょっと笑い、頷いてくれる。
「じゃあ、頼もうかな」
「はい」
 それから、二人は忙しく立ち働いた。洗い物や片付けもの。かなりあったが、二人でやれば早い。
 綺麗になったリビングで、土方はほっと息をついた。
「やれやれ……何とか片付いたな。珈琲でも飲もうか」
「えぇ。ぼくが入れましょうか」
「いや、そこに坐っててくれ」
 彼の言葉に、総司はソファへ坐った。
 目の前の大きな窓からは、神戸の街が一望できてとても綺麗だ。遠くきらきら輝く海が、少しずつ夕陽の色に染まり始めていた。
「お待たせ」
 トレイをもってきた土方は、芳醇な香りをただよわせる珈琲を総司の前に置いてくれた。
 一口飲むと、とてもおいしい。
 あたたかくて、躯の力が抜けるようだった。
「おいしいです……」
 そう云った総司に、一人がけソファに腰をおろした土方は嬉しそうに笑った。
 しばらく黙って珈琲を飲んでいたが、やがて、静かな声で彼が話しかけてきた。
「今日は、すっかりつきあわせてしまって悪かったね」
「いえ、そんな」
「ケーキまでつくってきてくれて、桜子も随分喜んでいた。おかげで、とても楽しい誕生日パーティになったみたいだ」
「それは良かったです」
 総司は僅かに目を伏せた。
「お誕生日パーティだから、ケーキが一番かなと思って。他にぼくができる事もないし」
「そんな事ないだろう」
 土方は微笑んだ。
「いつも桜子の相手をしてくれるし、とても有り難いと思っているんだ。今日も、桜子の友達たちと随分遊んでくれて、本当に助かったよ」
「ぼく自身、楽しかったですから」
「子供が好きなんだね」
 そう云った土方に、総司はこくりと頷いた。
「えぇ、大好きです。ケーキ屋になろうと思ったのも、そのためかも」
「お姉さん夫婦の影響ではなくて?」
「もちろん、それもありますけど、でも、ケーキ屋なら子供たちと接する事が多いですし……」
 そう云いかけた総司は、ふと小首をかしげた。
 何かがひっかかったのだ。
 彼の言葉の、何かが。
 思わず先ほどの会話を反芻した。
『ケーキ屋になろうと思ったのも、そのためかも』
『お姉さん夫婦の影響ではなくて?』
(……え?)
 総司は大きく目を見開いた。
 再会してから、彼に自分の身の上話など一度もした事がなかった。
 彼は、総司が東京出身であることも、姉夫婦がケーキ屋を営んでいる事も、知らないはずなのだ。総司自身、この神戸に来てから、店の者たちにも自分の事は全く話したことがなかったのだから。
 なのに、どうして知っているのか?
 総司に姉がいること。
 そして、姉夫婦がケーキづくりの仕事に携わっていることを、どうして───
「……っ」
 鼓動が激しくなり、耳奥がキーンとなった。
 まさか。
(……まさか、この人は……) 
 思わず息をつめ、目の前の土方を見つめた。
 ゆったりと足を組み、くつろいだ様子で珈琲を飲んでいる男を。
「……?」
 総司の様子に気づいたのか、土方が訝しげに眉を顰めた。
 かるく小首をかしげてみせる。
「何だ……?」
「……土方…さん」
「あぁ」
 頷いた土方を、総司は大きな瞳で見つめた。
 そして、ぎゅっと両手を握りしめると、小さな掠れた声で訊ねたのだった。
「どうして……知っているのですか」
「え?」
 訝しげな男に、言葉をつづけた。
「どうして、そんな事まで知っているのですか? ぼくに姉がいること、姉夫婦がケーキ屋を営んでいること、それをどうして……」
「!」
 珈琲カップを口にはこんでいた土方の手が止まった。鋭く息を吸い込み、総司を見つめている。
 愕然とした表情だった。
 やがて、それが「しまった……!」と舌打ちしたげな表情にかわってゆく。
 それらすべてに、総司は知った。
 土方が、総司の事を記憶していた事を。
 6年前の事も何もかも、全部覚えていながら他人として振る舞っていた事を。
 彼は総司を覚えていたくせに、初めて逢ったふりをしていたのだ。
 再び、総司を騙したのだ。
「……っ」
 総司はがちゃんっと音をたてて珈琲カップを置くと、傍らに置いていた鞄を掴んだ。立ち上がり、そのままリビングを飛び出してゆく。
 もう、彼に傍にいられなかった。
 恥ずかしくて悲しくて辛くて、たまらなかったのだ。
 6年前の事を覚えている彼の前に、これ以上いられる訳がなかった。
「……総司!」
 土方の声が鋭く響いた。
 6年ぶりの声だった。あの頃、いつもそう呼んでくれたように。
 再会して初めて、土方は総司の名を呼んでくれたのだ。
 だが、それでも、総司はふり返らなかった。慌ただしく靴を履いてる最中、ぐいっと腕を掴まれた。
「総司! 待ってくれ……!」
「……離し…てッ!」
 総司は激しく身を捩った。抱き寄せようとする男の逞しい胸に、両腕を突っぱねた。
 それに、土方が口早に言葉をつづけた。
「頼むから! 俺の話も聞いてくれ、総司……っ」
「いや! 何も聞きたくない……!」
 そう叫ぶなり、総司は土方の躯を激しく突き飛ばした。そのまま身をひるがえし、外へ飛び出してゆく。
 廊下を走り、丁度やってきた空のエレベーターに飛び乗った。
 すぐさまボタンを押し、扉を閉める。彼が追ってきたかどうかなど、確かめる余裕もなかった。
「……っ」
 下降してゆくエレベーターの中、総司は壁にどんっと背をつけた。そのまま、ずるずるとその場に坐り込んでしまう。
 呆然と、宙を見つめた。
 覚えていたなんて。
 全部覚えていながら、初めて逢ったふりをしていたなんて。
 あのキスも、抱擁も、囁きも。
 みんな覚えていながら、知らぬふりをしていたなんて……!
「……どう…して……?」
 桜色の唇がふるえた。
 気がつけば、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
 覚えていてくれてよかったなどと、到底思えなかった。
 それよりも覚えていながら知らぬ顔をしていた彼が、たまらなく憎らしかった。相変わらず弄ばれていたようで、悔しく、悲しかったのだ。
(覚えてないと安心してるぼくを見て……笑っていたの? 相変わらず扱いやすい子供だと、嘲笑っていた? それとも、やっぱり……また気まぐれに、ぼくを振り回しただけだったの……?)
 考えれば考えるほど、わからなかった。
 否、もう何も考えたくなかった。
(……土方…さん……!)
 こんな仕打ちをされても尚。
 愛しくて愛しくてたまらない男の名を呼ぶと、総司はきつく目を閉じた……。 

















[あとがき]
 ここまで五日毎更新できましたが、少しお休みさせて頂きます。どうしても、他のシリーズの前後編を金曜日にupしたいので。詳しい更新予定はぶろぐ雑記をご覧下さい。
 次回からは、どんどんジェットコースターで展開していきます。ぜひ、また読んでやって下さいね。


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