土方が総司を連れていったのは、北野坂にある小さなフレンチレストランだった。
フランスの片田舎風の店内はあたたかく、どこへ連れていかれるのかと緊張していた総司は、ちょっとほっとした。白い漆喰塗りの壁につくられたニーチがあちこちにあり、総司たちが案内された席もそうだった。
ごく自然に、そこへ坐るよう土方は総司に勧めた。ぽっかり空いたニーチの中に坐ると、何だか包まれているようで心地よい。
「素敵なお店ですね」
注文をすませてから、そう云った総司に、土方は微笑んだ。
「時々、桜子と来るんだ。子供連れだからね、あまり小煩い事を云う店は避けるようになる。こういう家庭的な雰囲気の店ばかり行くようになってしまったな」
「ぼくはこういうお店の方が好きです」
「なら、よかった」
料理が運ばれてくると、二人は食事を始めた。
総司が想像していたよりも、ずっとなごやかに会話がかわされてゆく。
あくまで逢ったばかりの他人として振る舞う土方に、胸が鋭く痛みはしたが、一方でその事に救われもしていた。
もしも6年前の事に言及されたら、どんな顔をしたらいいのか、総司にはわからなかったのだ。
自然と、話は桜子の事になった。
「桜子ちゃんは元気にしてますか?」
「あぁ」
土方は鱈のムニエルを綺麗に切り分けながら、頷いた。
「毎日、元気に幼稚園へ通っているよ。ただ、あまり俺は傍にいてやれないが」
「お仕事忙しいのですか」
「この頃、持ち込まれる案件が多くてね」
ため息まじりにそう云ってから、ふと気づいたように顔をあげた。
「あぁ、云ってなかったね。俺は弁護士をやってるんだ」
そう云いながら、渡すのが遅れてすまないと名刺をさし出した。
「……弁護士さん、ですか」
名刺を受け取り、総司は小さく答えた。
だが、その長い睫毛の影で、瞳は翳った。
(そんな事みんな知ってます。あなたが弁護士だという事も……あなたの名前も年齢も、全部。あなたの腕の力強さも、心からの笑顔がどんなに綺麗なのかも、それから……あなたからのキスの甘い熱も、みんな……)
きゅっと唇を噛みしめた。だが、すぐに顔をあげると、小さく笑ってみせた。
「弁護士さんなんて、何だか格好いいですね。桜子ちゃんのご自慢のパパらしいです」
「人が思ってるような綺麗な仕事じゃないよ」
どこか苦々しげな口調で、土方は呟いた。
「時には、依頼人のためなら、自分の感情も正義感も殺さなければならない。もちろん、こんなこと桜子には絶対に知られたくないが」
「桜子ちゃんのこと、本当に大切にされてるんですね」
「あぁ、俺の宝物だ」
頷いてから、土方はふと目を伏せた。低い声で呟いた。
「どんな事をしても、桜子だけは幸せにしてやりたいと思っている……」
どこか翳りのある口調に、総司は小首をかしげた。そっと呼びかける。
「土方さん……?」
「……いや」
土方は僅かに首をふった。
「俺はもしかすると、桜子を可愛がりすぎてるのかもしれないな。だが、どうしても、あの子には悲しい思いをさせたくないんだ」
「それは親なら当然のことですよ」
「親…か」
低く呟き、土方はふっと息を吐いた。椅子の背に凭れかかると、話しはじめる。
「実を云うと、俺自身、親には恵まれなくてね」
「……え」
目を見開いた総司に、土方は言葉をつづけた。
「父親は早くに亡くしていたし、母親は俺を生んだ事さえ後悔していて、『おまえなんか産みたくなかった』が口癖だった」
「……そんな……」
「いや、実際に本心だったのだろう。母は、幼い俺の前で、愛人の男との情事をするような女だった。それも昼間からだ。うちに愛人の男がいない事はなかったよ。とっかえひっかえ、数え切れないぐらいの男が来たな」
「……」
呆然としたまま聞いている総司に、土方は頬杖をつくと薄く笑ってみせた。
「まぁ、世の中こういう事もあるって訳さ。もう母も亡くなったが、俺はもし自分が結婚して子供ができたら、己のすべてで愛してやろうと思っていた。たっぷり愛情をそそいで、いつも幸せの中にいられるようにしてやろうと。絶対に、俺のような子供時代だけは味わせたくなかった。だからこそ、俺は君菊を……」
そう云いかけ、土方はふと我に返り言葉を途切らせた。
深く澄んだ黒い瞳を総司にむけると、小さく苦笑してみせる。
「ごめん。何か、変な話をしてしまったな」
「いえ……」
「そろそろデザートにしてもらおうか」
土方は手をあげてウェイターを呼んだ。
それを見つめながら、総司はテーブルの下、片手で腕を握りしめた。指さきが白い肌に食い込んだ。
──君菊。
それは、6年前にも聞いた名だった。
土方が結婚した相手。妻だ。
なら、今の言葉につづくはずだったのは。
『──だからこそ、俺は君菊を愛したんだ』だったのか。
やはり、土方はその妻と桜子といて、幸せなのだ。
6年前の事を思い出す必要など、まったくないほど。
ほんの一時、一緒にいただけの少年のことなど、まったく忘れ去ってしまうほどに……。
(……ぼくは……今もこんなに覚えてるのに)
不幸を願っていた訳では決してなかったが、こうして幸せを見せられると、まるでこう云い聞かされているような気がしてしまうのだ。
ほら、ご覧?
おまえの入り込む隙間など、どこにもないのだよ──と。
(わかっていた事だったんだ……全部、初めから6年前から、わかっていたこと。だけど、でも……)
(なら、このぼくの気持ちはどこへいけばいいの? あなたを今も忘れられない……忘れる事などできなかった、ぼくの初恋は……)
土方は何も気づいてないようだった。
運ばれてきたデザートを、すすめてくる。
それに頷き、総司はフォークで切り分けると口へはこんだ。
土方が小首をかしげてみせた。
「おいしい?」
「はい、とても」
「きみがつくったケーキよりも?」
悪戯っぽい瞳で訊ねてくる土方に、総司は微笑んでみせた。だが、うまく笑えたのか、わからない。
親しげに、優しい声で話しかけてくる。
世界中の誰よりも恋しい──愛おしい男の前。
総司はもう、今にも泣き出しそうな自分を堪えるだけで精一杯だった……。
土方は扉を静かに閉めた。
もう夜の11時を回ってしまったので、桜子もとっくの昔に帰宅し眠ってしまっている。いつも遅くまで頼んでいるハウスキーパーとは先ほど廊下ですれ違ったので、部屋の中には淡い明かりだけが灯されていた。
土方は吐息を僅かにもらしながら、玄関をあがった。コートを脱ぎ捨ててリビングのソファに放り出し、タイトに締めたネクタイを僅かに緩めた。だが、ふと気づき、コートを取り上げた。
「また、こんな処にコートを放り出しておくと、桜子に怒られるからな」
苦笑しながら呟き、コートをハンガーに掛けた。それから、ふと気づき、リビング奥の子供部屋の扉を開いた。
白とベビーピンクを基調とした、とても可愛らしい部屋だ。いかにも女の子の部屋らしく、あちこちに人形やぬいぐるみが飾ってあった。
その部屋の角に置かれたベッドの中、桜子はすやすやと眠っていた。
どんな夢を見ているのか、とても安らかであどけない寝顔だ。
「……桜子」
土方はベッドの端に腰かけると、優しい瞳で己の娘を見つめた。
彼にとって、桜子は愛おしい大切な宝物だった。
桜子を傷つけるものは、誰であっても決して許せぬほどの。
たとえ、それが桜子の実の母親であっても───
「……」
土方の瞳が昏く翳った。
初めから、愛など全くない結婚だったのだ。
むろん、嫌悪していた訳でもない。
ただ周囲に勧められるまま、お互い結婚した。それが間違っているとわかっていながら。
いつかは、ふつうの夫婦になれると思っていた。恋愛感情をもてなくとも、それなりに夫婦になれるのだろうと。
だが、そんな日はいつになっても訪れなかったのだ。
土方が結婚した相手は、弁護士事務所の所長であり、土方の親友でもある近藤の妹、君菊だった。
とても美しくしとやかで、非の打ち所のない妻。
だが、一つだけ欠点があった。
君菊は、非常にコンプレックスの強い女性だったのだ。
とても頭がよく成績も優秀だった君菊は、だが、封建的な考えをもつ父親によって大学進学を断念させられ、むろん、弁護士にもなれなかった。
一方、その兄である近藤は大学に進み、弁護士となり、父親が設立した事務所を継いだ。
その事が、兄妹の中に──とくに君菊の中に、重い影を落としていたのだ。
やがて、近藤と結婚した昌代が長女珠子を生んだ際、出産不可能な躯になってしまったため、事務所の後継者は君菊が生むだろう子供という事になった。時代遅れな話だが、父親が男児にしか事務所を継がせないという遺言を残していたのだ。
君菊は、その跡継ぎを生むために、土方と結婚したと云ってもよかった。
そして、新婚旅行先で懐妊し、十ヶ月後、酷い難産の末に子供を生んだのだ。
──元気な女の子を。
どれだけ、君菊が落胆した事か。その気持ちは土方も理解できた。彼女が心から男の子を望んでいた事を知っていたからだ。
だが、その後の君菊の行動は、到底許せるものではなかった。
君菊は桜子の育児をまったく放棄してしまい、土方に次の子をねだったのだ。妊娠させて欲しいと、今度こそ男の子を産んでみせるからと。
それに、土方は激怒した。
『じゃあ……桜子はどうなるんだ! あの子も、おまえの子供だろうが!』
『そんな事ぐらい、云われなくてもわかっています』
君菊は強ばった表情で、答えた。
『ですが、私が欲しかったのは男の子だけ。一度だって女の子を望んだ覚えはありません』
『望んだ覚えはないって、生み捨てにでもするつもりか!』
『誰か人を雇って育てさせればいいでしょう。私はどうしても、あの子に愛情をもてないのです』
完全な育児放棄だった。
土方は怒りのあまり絶句したが、それでも、酷い難産だったから、君菊も気がたっているのだろうと思った。しばらくたてば、桜子を少しは可愛がるようになるかもしれないと。
だが、状況はよくなるどころか、悪化する一方だった。
君菊はまったく桜子に見向きもせず、勝手に雇ったベビーシッターに任せっきりだった。そして、とうとう、ある日、桜子は高熱を出したまま放っておかれ、死にかけたのだ。
土方が帰宅し気がついた時には、桜子はもう虫の息だった。ベビーシッターも帰った後であり、しかも、君菊は傍にいながら放置しておいたのだ。
すぐさま救急車で病院に担ぎこみ、懸命の看護のおかげもあって、桜子は一命を取り留めた。
だが、土方はもう君菊を許す事ができなかった。
もともと彼自身、母親に忌み嫌われ生み捨て状態にされた身の上だ。今の桜子が自分に重なり、一番愛情をあたえられるべき母親に見向きもされない娘が、不憫でたまらなかった。
彼にとって、君菊よりも桜子の方が何倍も大切だったのだ。
病院からも忠告というより警告された。
親子関係が危険な状態にあること、このままでは君菊自身の手で桜子を殺しかねないこと、児童施設にあずけるか暫く引き離した方がいいと思われること、君菊が少しノイローゼ気味になっていること。
それらの言葉も、土方の決意をより固めた。
愛おしい小さな躯を抱きしめ、土方は近藤に告げたのだ。
離婚はしないが、別居させて欲しいと。
このままでは桜子の身が危ない。
どこか離れた場所に事務所を開くから、そこで自分の手で桜子を育てることを許して欲しいと。
初めは渋っていた近藤も、土方の必死の頼みに、とうとう頷いた。
そして、まだ赤子だった桜子を連れ、土方は神戸に移ったのだ。
君菊を一人、東京に残して。
それに対して、君菊は別に何も云わなかった。桜子が目の前から消えて、かえって安堵したようだった。
あれから、5年。土方が東京の君菊のもとを訪れる事はあるが、君菊が神戸を訪れてくる事はまったくなかった。
桜子も、君菊という母がいることさえ、あまり認識していないようだ。むしろ、母親のことを思い煩わぬよう、あふれるほどの愛情で包み込み、育ててきたつもりだった。
だが、それでも、桜子は母親がいないも同然なのだ。
「……俺が全部、悪いんだな」
土方は低く呟き、組み合わせた両手の中に顔をうずめた。
あの時、自暴自棄になって結婚さえしなければ、こんな事にはならなかったのだ。
だが、あの──6年前、彼は深く傷つき、絶望していた。
初めて得た、ずっと傍にあるはずだった愛情をぬくもりを優しさを、とり返しのつかぬ事で失ってしまった絶望に、呆然としていたのだ。
「総司……」
そっと、その名を口にした。
6年ぶりに逢う総司は、記憶にあったよりもずっと可愛らしく、綺麗で、そして──愛おしかった。
再会できた瞬間。
この瞳に愛しい姿を映した瞬間。
プライドも世間体もかなぐり捨て、この両腕で思いっきり抱きしめてしまいたいと、どんなに渇望したことか。
だが、そんなことは到底できなかった。
なぜなら、総司は彼を完全に拒絶していたのだ───。
「……っ」
土方は堪えきれぬように、固く瞼を閉ざした。
あの時、あの瞬間の、総司の表情が脳裏にうかんだ。
自分を見たとたん、大きく目を見開いて。
さっと青ざめたそのなめらかな頬。
怯えたように僅かに震えていた、桜色の唇。
きつく固く握りしめられていた指さき……。
完全に、総司は土方を拒絶していた。
今なお、6年もたった今でも、総司は彼を許さず、忌み嫌っているのだ。覚えていてくれても、憎悪や嫌悪によるものだった。
それは、土方に再度の絶望を与えた。
6年もの間、求めつづけて。
ずっと想いつづけて、愛しつづけて。
忘れようとしても思い切れず、そんな自分をなんて未練がましい男なのかと自嘲して。
それでも、忘れることなどできなかった。
土方にとって、総司は、永遠の恋人だったのだ。
8年前、初めはただ内情を探るために訪れた、一軒のカフェ。
そこで逢った少年に、一目で惹かれて。可愛いと思った気持ちに我ながら驚き、そして、気がつけば仕事とは何の関係もなく足繁く通っていた。
ただ、総司の花のような笑顔を見るためだけに。
自分を見ると駆け寄り、明るく笑いかけてくれる少年が、誰よりも愛しかった。
大切にしたい。この笑顔を守ってやりたいと、心から願った。
なのに……。
「……あんな事さえなければ」
土方はため息をつき、だが、ふとある事に気づいて苦笑した。
「俺が男である以上、想いを受け入れる事などありえねぇか……」
その証拠に、とうとう我慢できずキスしてしまった彼を、総司は拒絶したのだ。怯えきった表情で彼を見つめ、逃げた。
挙げ句、後日、何度訪ねていっても、顔一つ見せてくれなかった総司。
そんなにも俺が嫌なのかと、思った。
やはり、一縷の望みもない恋だったのか──と。
そんな事はわかりきっていた。だが、それでも、ただ傍にいられるだけでよかったのだ。
あの綺麗な笑顔を見せてくれるだけで、俺は世界中の誰よりも幸せになれた。
なのに……もうそれさえ許されないのか。
俺は、おまえに笑顔をむけてもらえる資格を失ってしまったのか。
そんな絶望の中、あの縁談が持ち込まれたのだ。
親友である恩人である近藤の懇願を、土方は半ば自棄になったまま承諾した。だが、この結婚がうまくいくはずがないと、心の中ではわかっていたのだ。
君菊は頭がよく美しい女だと思っていたが、土方が求めているものとは全く違っていた。
大輪の蘭のような花など、一度だって望んだ事はなかった。
彼はただ、野道の脇に咲いているような小さな花を、そっと掌の中で守ってやりたいと願っていたのだ。
総司という小さな花を、心から愛していたのだから───。
それは、結婚後もまったく変らなかった。
君菊に申し訳ないと思いながら、土方は総司の近況を調べた。調べずにはいられなかったのだ。
そして、知ったのだ。
総司が予定していた大学進学を突然とりやめ、パティシエの研修のためにフランスへ旅立ったという事を。
それを知った瞬間、土方は目の前が真っ暗になるような絶望と、激しい憤怒に目眩さえ覚えた。
そんなにも、俺が嫌いなのかと思った。
国外へ出るほど、もう二度と顔を見たくないと逃げるほど、忌み嫌っていたのか。
俺みたいな男にキスされ抱擁された事が、そんなにも嫌で恐ろしい事だったのか。
いや、確かにそうだろう。
総司のような純心で無垢な少年には、恐ろしい嫌悪すべき事だったに違いない。
だが、弁明の余地さえ与えてくれなかったのだ。
土方は、愛する相手に拒絶され嫌われているという事実に、深く傷つき、苦しんだ。
そんな頃、桜子が生まれたのだ。
愛おしい、不憫な小さな娘が。
土方は、母親からも愛されぬ桜子を、無我夢中で愛した。そして、桜子も、土方を愛してくれた。
総司への愛に絶望し、仕事だけが生き甲斐となった彼にとって、己の血をひいた娘として生まれた桜子は何よりも大切な宝物だった。どんなに疲れていても、桜子の可愛らしい笑顔を見れば、元気になれる気がした。
桜子が時々訪れているケーキ屋の事は聞いていた。そこに、優しいパティシエがいるのだという事も。
だが、まさか、それが総司だとは一度も思わなかった。想像だにしなかったのだ。
だからこそ、驚愕した。
呼びかける桜子に歩み寄り、抱き上げて。
ケーキ屋の方をふり返った時。
ガラスの向こう──そこに立ちつくす総司の姿を見た瞬間。
息がとまるかと、思った。
心臓が鼓動が。
その瞬間、とまってしまうのかと───
「……桜子」
土方は手をのばし、そっと娘の髪を撫でてやった。
「おまえが総司に逢わせてくれたんだな……」
6年もの時を経て。
ようやく、再び逢えたのだ。
あの時とは違い、土方も大人の男となっていた。もう二度と総司を怖がらせるような事はしたくなかった。
桜子の父親としてであっていい。
初めて逢った他人として、ただ時折、その愛しい姿をこの瞳に映す事を許してくれれば、それでいいのだ。
もう二度と逢えないと思っていた。
ずっと愛し、求めつづけてきた。
だからこそ、土方は多くを望むつもりはなかったのだ。傍にいられるだけでいいと、思っていた。
そして。
いつか、もう一度、あの花のような笑顔を見せてくれたなら……。
「……総司……」
愛おしいその名を口にすると、土方は静かに目を閉じた───
初めて食事に誘った時、総司はひどく緊張していた。
怯え、会話もぎこちなくなりがちだった。おそらく、土方を怖がっていたのだろう。
それを敏感に察した土方は、桜子を介して誘うようになった。桜子を連れて逢いにいき、三人での食事に誘うのだ。
むろん、桜子に誘われれば断りきれない総司の立場を考えての、ある意味ずるい行為だった。
だが、土方も必死だったのだ。
ほんの少しでも、総司を傍においておきたかった。
本当は、また目を離したら最後、どこか遠くへ逃げ去ってしまうのではないかと疑っていた。
今度こそ、土方の手のとどかぬ何処か遠くへ、まるで天使のように飛び去ってしまうのではないかと。
だが、土方も逃がすつもりは全くなかった。
あの時は諦めたが、今度逃げたら最後、世界の果てまでも追いかけてやるのだ。
追いかけ抱きしめ、そして、もう二度と離さない。
この腕の中に──甘やかな蜜の檻に閉じこめ、彼の激しく狂おしい愛だけをあたえてやる事だろう。
だが、それは儚い桃源郷だった。
総司が彼の愛を拒絶することは、明らかなのだから。
(……ほら、今も迷惑そうにして……)
土方は薄いサングラスの奥から、じっと視線を総司に注いだ。
さらりと流した艶やかな黒髪に、今はグラスの下に隠された黒曜石の瞳。固く引き結ばれた形のよい唇に至るまで、本当に端正で美しい男だ。
今日は休みなので、彼も淡いパープルのシャツに、ジーンズというラフな服装だった。まだ春先なので一応もってきた上着は、腕に掛けている。
そうして、すらりとした長身で佇む土方の姿は、店内の女性客の熱い視線を一身に集めていたが、彼自身の関心はすべて総司と桜子にむけられていた。
世界中で二人だけ、彼が心から愛しているものたちに。
「だから、ね?」
桜子は少し甘えるような声で、総司にねだった。
「すっごく素敵なお店なの。前から、桜子、行きたくて」
「でも……ぼくなんかが行ったら、お邪魔になるよ。パパと行っておいで」
「それもいいけど、桜子、総司さんとも行きたいんだもの。パパにいいよって云われてから、ずっと楽しみにしてたんだから」
桜子の言葉に、総司はため息をついた。
それに、桜子が小首をかしげる。
「ね、だめ?」
「……」
「総司さん?」
「……わかった、行くよ」
ようやく、総司は頷いた。
やったぁ!と大喜びする桜子を見ながら、苦笑する。
「桜子ちゃんの頼みだもの。うまく口説き落とされちゃった」
そんな総司の前でぴょんぴょん跳ねた桜子は、土方のもとへ駆け寄ってきた。
「パパ、総司さん、一緒に行ってくれるって!」
「よかったな」
浮きたつような思いを押し隠し、土方は微笑んだ。そっと桜子の髪を撫でてやってから、総司の方へ視線をむけた。
穏やかな口調で一応謝した。
「こちらの勝手につきあわせてしまって、すまない」
「……いえ」
とたん、総司の表情がさっと翳った。俯き、そっと顔をそむける。
その澄んだ瞳に彼の姿を映すことさえ、拒んだのだ。
明らかな拒絶に、土方の胸奥が鋭く痛んだが、むろん表情には出さなかった。彼のプライドが許さなかったのだ。
だが、気がつけば、爪が食いこむほど両手を握りしめていた。
(……そんなにも俺が嫌なのか)
苦々しい思いが、激しく渦巻いた。
(顔を見るのも拒むほど、そんなに俺を嫌っているのか……っ)
狂おしいほどの絶望と悲しみに、身の内が震えた。
だが、土方はあくまでポーカーフェイスを保ちつづけた。
自分の激しい想いの一端も、総司には知られてはならなかったのだ。
そんな事になれば、こうして逢える──この瞳に愛しいその姿を映す事ができる一時さえ、儚く失ってしまうだろう。
一度、総司を失っている土方にすれば、到底堪えられる事ではなかった。
そんな土方に、総司はかるく一礼した。
「では……閉店後に」
そう小さな声で告げると、足早に奥の厨房へ歩み去ってゆく。
(……総司……)
遠ざかる細い背を見つめながら、土方はきつく唇を噛みしめた……。
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