「桜子、待ったか?」
我に返ったのは、その声だった。
今も忘れていない、よく透る低い声。
まるで何もなかったように、土方は桜子に優しい声で訊ねた。
桜子を片腕に抱いたまま、店に入ってくる。
その濡れたような黒い瞳が総司の姿を再び映したが、男の表情は変らなかった。
「パパ、あのね」
桜子は嬉しそうに、総司の方へ手をさしのべた。
「この人、総司さんっていうの。とってもおいしいケーキをつくってくれるのよ」
名を呼ばれた瞬間、びくりと思わず震えたが、土方は何も気づかなかったようだった。
そっと桜子の髪を撫でてから、彼女の躯を抱き下ろした。
「いつも、桜子と遊んでくれるの。とっても優しいお兄ちゃんなの」
「そうか……」
静かに頷き、土方は総司の方へ向き直った。
優しい、だが明らかに他人行儀な笑みをうかべ、話しかけてくる。
「土方です。いつも桜子が世話になってるみたいで……ありがとう」
「……」
「一人っ子だからと俺は少し甘やかしすぎみたいでね。桜子が、お店やきみに迷惑をかけていなければいいのだが」
そう云った土方に、総司が何も答えられず立ちつくしていると、カウンターからまさ子が声をかけてきた。
「とんでもないですよ」
にこにこと愛想よく笑い、まさ子は答えた。
「桜子ちゃんは、うちのお得意さまですから。いつもご贔屓にして頂いて、こちらこそお礼を云いたい程です……ね? 総司さん」
「!」
突然ふられ、総司はハッと我に返った。
慌ててこくりと頷き、土方を見上げた。とたん、綺麗な黒い瞳で見下ろされ、躯中が微かに震える。
だが、自分の気持ちを動揺を、気づかれる訳にはいかなった。
総司は視線をおとすと、小さな声で答えた。
「……はい」
それに、桜子が小首をかしげた。不思議そうに覗き込んでくる。
だが、土方が桜子の小さな手をひいてショーケースの前に歩み寄ると、ケーキに意識がいってしまったようだった。
「桜子ね、このケーキが大好きなの」
うきうきした声で云いながら、桜子がさし示したのは、むろん、総司がつくったケーキだった。
淡いピンク色のクリームに包まれた、苺のケーキ。とても懐かしく優しい味で、店でも一番人気だった。
「これ、総司さんがつくったのよ。とってもおいしいんだから」
「じゃあ、これを買うか」
「うん! パパは甘いの苦手だから、この間のマドレーヌにしておく?」
「そうだな」
頷いた土方に、桜子は元気よく注文した。
「このケーキとこのケーキと、このケーキを一つずつと、それからマドレーヌを一つお願いします!」
「おいおい」
土方は呆れたように娘へ声をかけた。
「ケーキ三つも誰が食べるんだよ」
「もちろん、桜子が食べるの。久しぶりのお出かけなんだから、いいでしょ?」
「仕方ねぇなぁ」
くすっと笑い、土方は桜子の髪をくしゃっと片手でかき回した。とたん、桜子が唇を尖らせた。
「もうっ、せっかく綺麗にしてる桜子の髪、ぐちゃぐちゃにしないで」
「わかったよ、ごめん」
「パパは、女の子の気持ちとかわかってないんだから」
「はいはい」
楽しそうに会話をかわす土方と桜子の姿を見ながら、総司はまだショックから立ち直れないでいた。
どう見ても、彼は土方だ。
あの頃よりも年を重ね、だが、より大人の男へと成長した彼は、とても魅力的だった。こうして店の中に立っているだけで、どうしようもなく人の心を惹きつける華を纏っている。
そんな誰もがふり返るようないい男が、幼い一人娘を可愛がっている様は、とても微笑ましかった。
だが、それを総司は信じられないものを見るように、呆然と見つめつづけていた。
(……どう…して……?)
なぜ、どうして。
彼がここにいるのか。
東京にいるはずの彼が、この神戸に何故?
しかも、彼が桜子の父親だったなんて。
(これは……現実の事なの……?)
何も云えず立ちつくす総司の前で、土方と桜子はケーキの箱が入った紙袋を受け取った。
「じゃあね、総司さん」
桜子はバイバイと手をふった。
土方はかるく黙礼し、ケーキの紙袋を下げた反対の手で、桜子の手を握りしめた。そのまま、店を出てゆく。
「……」
総司は思わずショーウインドに歩み寄ると、遠ざかる二人の姿を見つめた。
夕暮れの光景の中。
仲の良い親子らしく手をつなぎ歩いてゆく、土方と桜子を。
(……こんな偶然があるなんて……)
もう二度と逢う事などないと思っていたのに。
すれ違う事さえ、ありえないのだと。
そのためにも、彼を避けるためにも、日本を出てフランスへ行き、帰国後も勤め先を東京でなく神戸としたのに。
今頃、彼は東京にいるのだとばかり、思いこんでいたのに。
なのに、こんなにも近い処にいたなんて。
桜子の父親だったなんて───
(……あぁ、もう何もわからない……!)
総司は、きつく目を閉じた。
その夜、アパートの部屋に戻った総司は、ほとんど何も手につかなかった。
食事をしても、今こうしてバスルームであたたかい湯につかっていても、ある人の姿ばかりを思い出してしまうのだ。
今日、久しぶりに見た。
土方の姿を。
愛しい……世界中の誰よりも愛しい男だった。
6年ぶりに逢った、恋する人。
だが、その彼は、総司に気がつかなかったのだ。
「……」
その事を思い出し、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
6年の時は長いのだ。とくに、成長期の少年にとっては。
だが、17才の頃と、そんなに違ったのだろうか。
それほど背が伸びた訳でもないし、体格自体も今尚ほっそりして華奢で、年よりも幼く見られる事がしばしばだった。鏡を覗き込めば、あの頃とあまり変らぬ女顔が映る。あの頃と同じように、女の子と間違われる事もよくあった。
だが、それでも、土方は総司に気づかなかったのだ。
全く表情一つ変えず、その綺麗な笑顔をむけ、他人行儀な口調で話しかけてきた。
彼は、総司と初対面だと思っているのだ。
名前まで聞いても尚。
それはとりもなおさず、土方の記憶には、総司が全く存在していない事を意味していた。
総司の事など、全く覚えてもいないのだ……。
「……っ」
それを思ったとたん、視界がぶれた。あっと気づいた時にはもう、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまっている。
総司はお湯の中で両膝を抱え込み、泣いた。
あとからあとから、あふれる涙をぬぐおうともせず。
(……土方さん……)
これが現実なのだと、わかっていた。
いったい誰が、6年も前、ちょっと気まぐれに手を出しただけの少年の事など、覚えているだろう。
忘れられていて、当然だった。
総司だってわかっていたのだ。
幸せな結婚生活を送っているだろう土方が、総司の事など覚えているはずがないと、痛いほどよく──
(だけど……)
ぽたぽたと、涙が湯の上に落ちた。
それを霞む視界に見つめながら、泣きじゃくりながら、思った。
だけど、それでも。
(……ほんの少しだけ…夢見ていたんだ……)
もしかしたら、覚えていてくれるかもしれないと。
あの人の心の片隅に、ほんのちょっとでも、自分の存在があればいいと。
どんなに願っても叶えられぬ夢なのだと、よくわかっていながら……。
「……っ、ひ…く……っ」
総司はとうとう声をあげて、泣き出した。
まるで、子供へ還ったように。
泣きじゃくる総司の傍で、バスルームに生けられたガーベラが静かに揺れていた……。
一晩さんざん泣いて落ち着いたのか、朝陽をあびる頃には少しだけ元気を取り戻していた。
それに、いつまでも泣いていられないのだ。
今日も仕事があるのだから。
「……頑張らなくちゃ」
総司は自分に云い聞かせると、起き上がり、朝の支度を始めた。
出勤すると、先に来ていた原田がぎょっとしたように総司の顔を見た。
「……どうしたんだ、総司」
「え?」
きょとんとする総司に、原田は云った。
「その顔だよ。すっげぇ目腫れてるぞ」
「え、えぇっ?」
慌てて店の壁にはられた鏡を覗き込むと、確かに目のまわりが腫れていた。泣いていた事がバレバレだ。
どうしようと狼狽えていると、ちょうどそこへ斉藤が出勤してきた。総司の顔を見るなり、その目をつり上がらせる。
「どうしたんだ!」
駆け寄り、肩を掴んでくる斉藤に、総司は視線をさまよわせた。
「え…っと……」
「いったい何があった! それ、泣いた跡だろう? そんなに腫れるまで泣くなんて、いったい何があったんだ」
「ちょっと、その……映画を見て……」
総司は苦しい言い訳をしながら、必死になって笑ってみせた。
「ぼく、悲恋もの映画とか弱いから。その…いっぱい泣いちゃって……」
「総司」
だが、斉藤はまったく信じてくれなかった。真剣な表情で、じっと総司を探るように見つめている。
「誤魔化さなくていいだろう? 本当の事を云ってくれ」
「だ、だから、本当の事だって……映画で泣くなんて、みっともないかな」
「いや、オレもよくあるぜ」
傍から、総司の窮状を見かねたのか、原田が助け船を出してくれた。ぽんっと肩を叩き、明るく笑ってみせる。
「オレなんかも、まさ子と一緒にタイタニックを見た時、思いっきり号泣してさ」
「え、ほんとですか?」
「マジ。まさ子は泣かないのに、オレの方が号泣だもんな。笑っちゃうだろ?」
そう云った原田に、総司は小さく笑ってみせた。
その笑顔に安堵したのか、原田は厨房へと戻っていった。そろそろ下準備をしなければならないのだ。
原田に続いて厨房へ向かおうとした、不意に、その総司の腕を斉藤がぐいっと掴んだ。
「斉藤さん」
困ってふり返った総司を、斉藤は鳶色の瞳でじっと見つめた。
怖いくらい真剣な表情だ。
「……斉藤さん?」
小首をかしげてみせると、斉藤は低い声で問いかけた。
「あの男が来たから、か」
「え」
「桜子って子供の父親だ」
どきりとした総司に、言葉をつづけた。
「昨日、あの男が来てから、おまえ、ずっと変だった」
「……気の、せいじゃないですか」
総司は震えそうになる声をおさえ、ぎこちなく笑ってみせた。
「昨日の夕方はちょっと頭痛がしてたから、それでおかしく見えたのかもしれません。斉藤さんに迷惑をかけたなら、謝ります」
「迷惑なんて思っていない。それより、オレは……」
「斉藤さん」
懇願するような口調で呼びかけた総司に、斉藤は黙り込んだ。
斉藤は総司に片思いしている事は明らかなのだが、だからこそなのか、いつもあまり強引には出てこないのだ。
総司の嫌がる事は決してせず、ただひたすら傍に寄りそい、見守ろうとしてくれている。
そんな斉藤を嬉しく思いながらも、総司は彼を友としか思えなかった。友人として、とても大切な存在だった。
「……わかったよ」
小さくため息をついてから、斉藤はそっと手を離した。するりと抜け出してゆく総司を切ない表情で見送ったが、すぐ彼も支度をするため後を追う。
だが、それでも気になるのか、下準備をしながら時折、探るような視線をむけていた。
「……」
それを痛いほど感じながら、総司は静かに目を伏せた。
やはり土方は総司の事を覚えていなかったらしく、それきり何の接触もなかった。
二週間の時が過ぎ、その間に桜子が訪れてきたが、いつも一人だった。
総司はあらためて、桜子の顔をじっと見つめた。
いったい、どうして気づかなかったのか。
こんなにもよく似ているのに。
癖のない艶やかな黒髪はもちろん、アーモンド形の目、その綺麗に澄んだ黒曜石のような瞳まで、何もかも彼を思い起こさせた。
だからだったのか。
初めて逢った時から妙に親近感を覚えたのも、他の子供よりも可愛く思ってしまったのも。
何もかも、彼の娘だったから……
「……総司さん?」
不思議そうに小首をかしげた桜子に、総司ははっと我に返った。
どうしたの?と聞いてくるのに首をふり、優しく微笑みかけた。
「今日は、何をお買い上げ頂けるの?」
そう訊ねた総司に、桜子はにこっと笑った。
「うん。あのね、今日はエクレールにするの。チョコのとこが大好きなの」
「いくつ?」
「二つ」
その答えに、総司は瞳を揺らせた。エクレールを袋に入れてやりながら、さり気ない口調で訊ねた。
「……パパと食べるの?」
「うん。たぶん、今日はちょっとだけ早いから」
「そう……」
総司は頷き、躊躇いがちに問いかけた。
「あのね、一つ聞いていいかな」
「なぁに?」
「桜子ちゃんたちは、神戸へいつ頃来たの?」
「んー、桜子が赤ちゃんの時だって聞いた」
「えっ? そんなに前に?」
思わず驚いて声をあげてしまった総司に、桜子は小首をかしげた。
「うん。それがどうかした?」
「う、ううん……別に」
総司が袋を手渡すと、桜子は嬉しそうに受け取り、くるりと背を向けた。いつもどおり手をふり、店から出てゆく。
それを見送り、総司は唇を噛みしめた。
桜子が赤ん坊の頃と云えば、5年前ではないか。なら、結婚してすぐ、こちらへ来た事になるのだ。
あの商店街立ち退き問題は、あの後、立ち消えになったと聞いていた。姉夫婦が営むケーキ屋がある商店街は、建築予定地から外されたのだ。それを皆、とても喜んだという話だった。
結局、土方はあの案件には関わらず、結婚後、こちらで事務所を開いたのだろう。所長の妹と結婚したのだ、それなりの資金援助もあったに違いない。
だからこそ、今この神戸にいて───
「……」
そこまで考えてから、総司はふるっと首をふった。
もう、関係のない人の事だった。
向こうが全く覚えていない以上、想い続けても虚しいだけなのだ。
もとからよくわかっている事だったが、今度の事で思い知らされた。
片恋というものの切なさ、報われなさを。
そして。
この胸が張り裂けてしまいそうな、深い悲しみも……。
(……もう忘れよう。忘れた方がいい)
総司はぎゅっと両手を握りしめ、それを口許に押しあてた。
(あの人のことは全部忘れて、新しく生きてゆくんだ。その方が、きっといいはずだから……)
一度深呼吸をしてから、総司は踵を返した。気持ちをきりかえ、厨房へと入ってゆく。
ガラスの向こう。
あの日と同じように、神戸の街に黄昏が訪れようとしていた……。
その数日後の事だった。
総司は仕事を終え、店を出て駅へむかっていた。
夜の8時なので、街もまだ賑やかだ。
久しぶりに早く帰れたので、総司はどこかに寄り道しようかと考えた。ちょっと浮きたつ気分で、ブティックのショーウインドを覗き込む。
その時だった。
「……?」
後ろで、かるくクラクションが鳴らされたのだ。
ふり返ってみると、車道の路肩に一台の車が停まっていた。プジョーのスポーツカーだ。ラインの美しいブルーの高級車だった。
小首をかしげる総司の前で、運転席のドアが開いた。
「!」
降り立った男を見た瞬間、総司は鋭く息を呑んでいた。
そこに立っていたのは、紛れもなく土方だったのだ。仕事帰りなのか、端正なスーツ姿で一分の隙もない。いかにも、やり手弁護士らしかった。
「……」
呆然と立ちつくしている総司に、土方は微笑みかけた。
「ちょうど良かった。今、帰りだろう?」
「……」
黙り込んでいる総司に構わず、土方は言葉をつづけた。
「食事に誘いたいと思って来たんだが、どうかな」
「……」
彼の言葉に、総司は思わず後ずさってしまった。どんっと背がガラスについたことで、我に返った。
ふるふるっと小さく首をふった。
それを可笑しそうに、土方は眺めた。その黒い瞳が優しい色をうかべている。
「そんなに怯えなくても、とって食ったりしないよ」
「……っ」
もう一度、総司は首をふった。
掠れた声で、問いかけた。
「……どう、して……」
「え?」
僅かに小首をかしげてから、土方は「あぁ」と頷いた。
「今日は、桜子が幼稚園の友達やその親たちと一緒にバレエを見て、その後、夕食会でね。まだ5才の子がそんな遅くまでと思ったが、明日は土曜日だし桜子にさんざんおねだりされて許してしまったのさ」
「……」
「それで、一人淋しく食事をするのも何だから、きみを誘おうと思った訳だ」
「……だから」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。
鼓動が激しく、全身が熱くなった。
もしかしたら?
もしかして、ぼくの事を思い出してくれたの?
そんな淡い期待に、躯中がどうしようもなく震えてしまった。
「どうして……ぼく…なんですか。なぜ、ぼくを誘うのですか」
勇気をふり絞り、総司は問いかけた。
必死になって、目の前に立つ愛しい男を見つめる。
だが、土方の表情には何の変化もなかった。
風に吹き乱される黒髪を、しなやかな指さきでかきあげながら、小さく笑ってみせた。
「もちろん、桜子が世話になってるからだよ。その礼をと思ったんだが、駄目かな?」
「……」
男の容赦ない言葉に、総司は思わず目を伏せてしまった。
現実は、やはりこうなのだ。
覚えててくれるはずなどないのだ。
そんなこと、ありえるはずもなかったのに。
(……この人の心のどこにも、ぼくの存在なんかない……)
あくまで他人として接してくる土方に、胸奥が鋭く痛んだ。
だが、それでも、ずっとずっと6年もの間、恋しつづけてきた相手だった。その誘いを断れるはずもなかった。
どんなに辛くとも悲しくとも。
一分一秒でも長く、彼の傍にいたいと願っているのだから───
「……」
黙ったまま歩み寄った総司に、土方は微笑んだ。助手席のドアを開け、総司を優しく車へ乗せてくれる。
静かにドアを閉めてから自分も運転席にまわると、シフトレバーをドライブに戻した。アクセルを踏み込む。
やがて。
ゆっくりと滑り出した車の中、総司はきつく唇を噛みしめた……。
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