小さな花でありたい
ささやかでも
雪のように儚くとも
いつまでも
あなたの心に
そっと、咲きつづける
小さな花でありたい……
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総司はオーブンの扉を閉めボタンを押すと、安堵したように、ふうっと息をついた。
先ほどから、新しいマドレーヌの試作をくり返していたのだ。
思ったより時間がかかってしまったが、何度も試行錯誤をくり返した甲斐もあり、今度こそうまくいきそうだった。
そのためか、その可愛らしい顔に疲れの表情はなく、むしろ生き生きとしていた。なめらかな白い頬は紅潮し、大きな瞳がきらきらと輝いている。
隣から、同じパティシエである斉藤が声をかけた。
ちょっとつりあがり気味の目が印象的な長身の若者だが、その鳶色の瞳は穏やかで優しい。
「お疲れさま。今度こそうまくいきそうだな」
「えぇ」
総司はにこりと笑った。
「大丈夫だとは思いますけど、でも、出来上がるまでわからないから」
「おまえなら大丈夫さ」
斉藤は優しい声でそう云うと、ぽんっと総司の肩をかるく叩いた。
二人は、同じ店で働く仲間同士だった。
神戸の旧居留地にある老舗の洋菓子店だ。
外見もしゃれたその店はいつも賑わい、夕方ともなると会社帰りのOLやサラーリーマンで、レジ前に長蛇の列が出来る程の繁盛ぶりだった。
その店の奥、大きなガラス張りのむこうにある厨房で、総司たちは働いている。
店長でもある原田に、斉藤、総司というメンバーだった。
その中でも、総司はまだ23才ながら業界でも注目されている若手の一人だった。もともと東京出身だが、高校卒業後フランスへ渡り、老舗のケーキ店で修行を積んだのだ。この神戸の店へ来たのは1年前で、すっかり暮らしにも馴染みはじめている。
「けどさ」
斉藤が後片付けしながら、云った。
「前から聞きたいと思っていたんだが、おまえ何で神戸に来たんだ」
「え?」
「いや、もともと東京出身なんだろ? なら、東京の店に勤めるはずだろうと思ってさ」
「……」
総司は長い睫毛を伏せた。きゅっと唇を噛みしめ、俯いてしまう。
それに、斉藤は微かに苦笑した。
「……悪い。聞いちゃいけない事を、訊ねてしまったみたいだな」
「そうじゃありません…けど」
「まぁ、人には人の事情があるって事か。オレも静岡からこっちに出てきてるしな、まぁ、原田さんに誘われたって事もあるけど」
「おれが何だって?」
折も折、ぬっと顔を出した原田が大声で訊ねた。
それに斉藤が笑って手をふる。
原田はかるく肩をすくめると、総司の方へ視線をやった。
「まだ試作をくり返していたのかい? もう遅いしさ、そろそろ帰った方がいいんじゃねーの」
「あ、はい。これが焼き上がったら、すぐに」
この店は神戸にあるのだが、原田の妻まさ子以外は皆、関西出身ではなかった。もともと原田がまさ子に惚れ込み、関西に店を開く事を条件に結婚してもらったという話なのだ。そのため、可愛い愛妻まさ子には、今も全く頭があがらない。
やがて、マドレーヌがふんわりと焼き上がり、それは仕事には厳しい総司も満足するできばえだった。ほっと息をついて、帰る支度を始める。
斉藤とも店前で別れ、駅への道を辿る途中、総司は必ず目をとめてしまう店があった。
路地裏にあるとても小さな店なのだが、夜遅くまで空いている花屋だった。ぽつんと明かりの灯ったその店には、いつも可愛らしい小さな花々があふれている。
大輪の薔薇や蘭などがない代りに、ワイルドストロベリーや菫など、小さな可憐な花がたくさんならべられていた。
総司は明日が休みだったので、久しぶりにその店へ立ち寄り、可愛いブーケをつくって貰った。
一人住まいしているアパートの部屋に飾ろうと思ったのだ。
「毎度ありがとうございました」
店員の笑顔に見送られながら、総司はその花束を手に歩き出した。
駅のホームのベンチに坐った時、そっとブーケに顔をうずめてみる。
甘い香りが優しく、疲れた心を癒してくれるようだった。
とくに何という名かわからぬが、小さな白い花がとても香りよく、可愛らしい。
「小さな花……」
そう呟きながら、総司は指さきでその花にふれた。
ふるっと、花びらが震えるように揺れる。
とたん、深い瞳の奥を何かが掠めた。
「……」
思わず、片手でコートの襟元を引き寄せた。唇に押しあてる。
(……こんなふうに)
こんなふうに、記憶は突然訪れてくるのだ。
決して忘れえぬ、記憶は。
ずっとずっと、昔の──もう6年も前になる出来事だった。
この躯を強く抱きしめた男の腕。
全身に感じた、あのぬくもり。
そして、驚き震える総司に、突然あたえられた甘く激しい──キス……。
『……総司』
あの時、彼はこう囁いたのだ。
優しく静かな、だが、熱っぽい声で。
───おまえは、俺の小さな花なんだ。
何よりも大切な、花だ……と。
「……土方…さん……」
総司は、その彼の名をそっと口にした。
世界中の誰よりも。
何よりも大切で、愛しい彼の名を。
6年の時が過ぎた今でも、この身が燃えたちそうなほど愛おしい。
一縷の望みさえない──なのに、どうしても忘れられぬ恋を想って。
愛してはいけない。
愛される事など、許されるはずもない男を。
(今さら……)
総司はきつく唇を噛みしめた。
今さら、何だというのか。6年もの時をかけて、わざわざフランスにまで行って、なのに今なお忘れる事のできなかった彼。儚く終わったはずの初恋。
逃げ出したのは、自分の方なのに。
心弱く幼く、恋の激しさ、愛ゆえの辛さにも立ち向かう事ができなかった。
だが、それでも。
この6年間、ずっと忘れる事などできなくて、この心の奥深くに秘めてきた想い。
そして。
こんなにもささやかな事で、たった一瞬のうちに掴み出されてしまった彼への熱い想いを、そっと抱きしめながら。
総司は固く瞼を閉ざしたのだった……。
6年前の事だった。
その頃、総司は東京で暮らしていた。
両親はすでに亡かったが、ケーキ屋を営む姉夫婦のもと、平凡な高校生として幸せな日々を送っていたのだ。
姉夫婦が営むケーキ屋は東京の下町にあり、当時、そこは立ち退き問題に揺れていた。大きなショッピングセンターやマンションの建設が計画され、ケーキ屋のある商店街も、その予定敷地に入っていたのだ。
長年地域に根付いた商売をつづけてきた商店街の人々は、当然ながら猛反対し、金に物を云わせて事を進めようとする企業側との対立と争いは、もう2年になっていた。
だが、まだ高校生の総司には今ひとつ実感できない、別世界のもめ事だった。事情は姉夫婦や商店街の人たちから聞いてよく知っていたが、自分の事としては感じる事ができなかったのだ。
その上、当時の総司は、全く別の事に夢中だった。
恋──だった。
この年頃の少年ならごくごく当然の事だっただろうが、総司はそれを周囲にも相手にも懸命に隠していた。何故なら、片思いの相手がふつうではなかったのだ。
姉夫婦はケーキ店に小さなカフェも併設していた。義兄の珈琲好きが高じてつくった店なので、珈琲だけを飲みにくる客も多かった。
そして、そんな客のうちの一人が、恋の相手だった……。
「──いらっしゃいませ!」
カランと鳴った音に、総司はふり返った。
学校から帰ってきてすぐ、店に出て手伝いをしていたのだ。カフェエプロンをつけた姿が可愛らしい。
入り口に立つ男を見たとたん、少年の顔がぱっと輝いた。
「土方さん!」
思わず駆け寄った総司に、土方は優しく微笑んだ。
濡れたような黒い瞳が印象的な男だ。
引き締まった長身に、いつもラフなセーターやジーンズを纏っていた。そのシンプルな装いがまたとてもよく似合う。
さらさらした艶やかな黒髪はすっきり整えられ、それが彼の端正な顔だちをより引き立てた。
誰もが見惚れてしまう、モデルのような容姿をもつ男だ。
「今日はどんな珈琲にしますか? モカのいい豆が入ったそうですよ」
にこにこしながら訊ねる総司に、土方は頷いた。
「じゃあ、それにしてくれ」
「畏まりました」
総司は注文を受け、やがて、義兄が入れた珈琲を運んできた。
「お待たせ致しました」
そう云ってソーサーを置いた総司に、土方はからかうような声音で云った。
「何だか、そうしていると本物の店員みたいだな」
「みたいじゃなくて、そうなんです」
つんっと桜色の唇を尖らせた総司に、土方はくすっと笑った。
珈琲を一口飲んで「旨い」と呟いてから、またその黒い瞳を総司にむけた。
「じゃあ、将来はこの店で働くのか?」
「そんな事まで考えてません。大学へ行くのは確かですけど、どんな仕事につくかなんて、まだまだですよ。今は大学受験で必死ですしね」
小さく笑った総司に、土方はふと目を細めた。不意に真剣な表情になると、静かな声で云った。
「仕事はよく考えて決めろよ。一生の仕事になるかもしれねぇんだからな」
「はい」
こくりと頷いてから、総司は小首をかしげた。トレイを抱いたまま、大きな瞳で彼を覗き込んだ。
「そう云えば、ずーっと気になってたんですけど」
「え?」
「土方さんって、何のお仕事をしているのですか?」
「……」
それに、土方の切れの長い瞳が昏く翳った。しばらく黙った後、珈琲カップを口にはこびながら、低い声で答えた。
「……何でも構わねぇだろ」
「そうですけど、何か気になっちゃって。あ、もちろん、秘密のお仕事なら仕方ないですけど」
「秘密の仕事って何だよ」
「んー、たとえばスパイとか?」
少年の無邪気な言葉に、土方は声をたてて笑った。その端正な顔に、もう先ほどの翳りはない。
「スパイって、おまえそれ、どういう発想なんだ」
「あれ、違うんですか。だって、秘密といったらスパイでしょう?」
「知らねぇよ。まったく……おまえは面白いな」
「面白いって、ぼくはおもちゃですか。そう云えば、土方さんは昔からぼくをからかってばかりですものね」
「この店に来たのは……もう2年前になるかな」
「そうそう、覚えてますよ。このお店に来たとたん、可愛い子だなぁって笑いかけて、で、何て云ったか覚えてます?」
「さぁ……何て云ったかな」
「あれ、女の子じゃねぇのかって。ほんっと失礼な人だなぁと思いましたよ」
「ふうん」
土方は頬杖をつくと、悪戯っぽい笑みをうかべながら総司を見つめた。
「間違った事を云ったつもりはねぇけどな」
「え?」
「今でも、おまえはそこらの女なんざよりも、すげぇ可愛いぜ?」
「!」
総司の目が大きく見開かれた。
次の瞬間、かぁっと頬が薔薇色に紅潮してしまう。長い睫毛が伏せられ、恥ずかしそうに両手が組み合わせられた。
それを濡れたような黒い瞳で見つめながら、土方は言葉をつづけた。
「おまえは可愛いし、それにとても綺麗だ」
「……」
「その素直で優しい、心そのもののように綺麗だ。まるで……可愛らしい小さな花だな」
「……土方…さん」
総司は思わず息をつめ、彼を見つめ返してしまった。土方もじっと見つめ返してくる。
二人の間に沈黙が落ちた。
だが、それは重苦しいものではない。どこか、熱っぽく優しいものだった。
先に視線をそらせたのは、土方の方だった。ふっと目を伏せると、黙ったまま珈琲を飲み始める。
その男の動きで我に返った総司はぺこりと頭を下げると、慌ててカウンターの奥へ戻った。物陰に隠れ、火照った頬を両手でおさえてしまう。
(……綺麗だなんて、可愛いだなんて……)
男からそんな事を云われて怒るべきなのが、逆に嬉しく思ってしまうのは、やはり恋する相手から告げられた言葉だからなのか。
社交辞令だと、彼にとっては気まぐれな言葉の一つだとわかっていても、それでも嬉しかった。
総司の恋する相手は、彼だったのだ。
9才年上の、時折店を訪れる男。いつも可愛がってくれ、気がつけば、無我夢中で恋していた。総司にとって、これが初恋だったのだ。
むろん、総司もよくわかっている。
これが世間一般の恋とは違っている事を。そして、一縷の望みもない恋である事も。
(……どうして、ぼくは女の子じゃないのかな)
総司は鏡を見るたび、そう思っていた。
いくら可愛いと云われても、女の子よりも可憐だとまで云われても、やはり総司は男の子なのだ。土方との恋が成就する確率など、0に等しかった。
「……」
その想いにため息をつくと、総司はカフェエプロンを外した。そして、長い睫毛を伏せ、店の奥への階段をあがっていった。
その小さな背を、男の瞳がじっと追っている事など気づかずに───
転機はその数日後に訪れた。
その日、総司は姉に頼まれ、隣町に行った。
商店街振興組合の会長が、そこに自宅を構えているのだ。子世帯夫婦と同居するため、新しく家を新築したという話だった。
会長の店である床屋は休みだったのだが、急いで渡さなければならないからと云われ、総司は隣町へとバスに乗って出かけた。
あまり自分の住む町から出た事もない総司にとっては、隣町へ行くことさえ珍しい出来事だった。楽しそうに窓外を眺め、書類を両手で抱きしめている。
地図を頼りに辿り着いた会長の家の前で、総司はかるく小首をかしげた。
「……お客様、かな」
家の前には、光沢の美しい大きな外車が停まっていた。
プジョーだ。テレビでしか見たことのない高級車を、総司は少年らしく好奇心いっぱいで眺めた。中には誰も乗っていない。
総司は門に取り付けられたインターホンを押した。応対の声がし、会長の奥さんが出てきてくれる。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げた。
「あの、これ……姉に頼まれて」
「ありがとうね、総ちゃん」
赤ん坊の頃から知っている奥さんは、にこにこしながら労ってくれた。
その時、開け放たれた玄関の奥から、大きな怒鳴り声が聞こえてきた。会長の声だ。
総司は目を瞠った。
いつも温厚で優しい会長があんなに声を荒げるなんて。お客様ではないのだろうか。
「あの……?」
不思議そうに小首をかしげた総司に、奥さんはため息をついた。
「お父さん、あんなにカッとなって。まぁ無理もない事だけどねぇ」
「お客様じゃないのですか……?」
「ほら、立ち退きを迫っている会社の担当弁護士。その人が来てるの。事が起った2年前から、ずっと担当していて……」
「弁護士さん……」
「世の中、お金さえつめば人も物も動くと考えてるみたいで、情ってものを解さないのよ。立ち退き料をつりあげる為に、わたしたちが反対していると思っているらしいわ」
「そんな……」
総司はきつく唇を噛みしめた。
確かに己の事として考えることは出来なかったが、それでも、姉夫婦の不安や困惑を傍で見てきたのだ。
立ち退き料など望んでいない。商店街の人々は皆、この町に暮らし店を開け続ける事だけを望んでいるのだ。子供の頃から生まれ育った、この町で。
なのに……。
総司は怒りに躯中が熱くなるのを覚えた。ぎゅっと両手を握りしめる。
その時だった。
玄関の奥から足音と声が近づいてきた。会長が「出ていけッ!」と怒鳴っている。
それに、弁護士らしい男は云った。
「おっしゃられなくても、出ていきますよ。まぁ、又すぐお邪魔させて頂きますがね」
「二度と来るなと云ってるだろう!」
「そちらが了承して下されば、その日から来ませんよ。ですが、どれだけ粘っても立ち退き料の値はこれ以上あがらない。その事をよく理解しておいた方がいいですよ」
くっくっと喉を鳴らし、男は低く笑った。
「あまり欲をかくと、何もかも失ってしまいますからね。その辺り、お忘れなく」
嘲りにみちた声音で捨て台詞を残し、男は玄関を出た。踵を返すと、歩み出そうとする。
とたん、その弁護士である男の姿が、総司の視界に入った。
(……え?)
僅かに目を瞬いた。
一瞬、信じられなかったのだ。
長身の若い男。
上質のスーツを纏った姿は一見すればエリートビジネスマン風だが、その身を包み込む雰囲気が、それとは明らかに違うことを周囲に知らしめている。
艶やかな黒髪をうるさげに片手でかきあげながら、その切れの長い瞳でこちらを見た。
だが、総司の姿を見た瞬間。
鋭く息を呑んだ男は、彼は───
「……っ!」
思わず後ずさり、両手を喉にやった。激しく喘ぐ。
気がつけば、総司は身をひるがえしていた。手にしていたものを全部放り出し、必死になって駆けだしてゆく。
背後で、男の声が響いた。
「総司……っ!」
それに、総司はふり返らなかった。何が何だかわからず、頭の中がぐちゃぐちゃだったのだ。
初めての恋だった。
その人の事を思うだけで、甘やかな心地になれた。
叶わなくてもいい、ただ憧れ、見つめていられるだけでよかった。
だが、その人は──恋していい相手ではなかったのだ。
姉夫婦を商店街の優しい人々を、町から追い出そうとしている企業の弁護士。それも、あんな冷酷で最低の言葉を、平気で投げつけるような……
「総司!」
すぐ後ろに足音と声が迫ったと思った瞬間、荒々しく腕を掴まれていた。路地裏で追いつかれ、捕まってしまったのだ。
壁にドンッと押しつけられ、総司は思わず顔をしかめた。
「い、痛い……!」
そう声をあげた総司に、土方は慌てて手の力を緩めた。だが、それでも両腕で囲いをつくり、決して総司を逃がさない。
少年を見つめる男の黒い瞳は、焦燥の色にみちていた。
「総司、頼むから話を聞いてくれ……!」
「何も……ありません」
総司はふいっと顔をそむけると、固い口調で答えた。
「ぼくがあなたから聞く話なんか、何もないはずです」
「ないはずがねぇだろ? 俺はおまえにずっと黙っていた。自分の事をずっと……」
「だから、それがぼくに何の関係があるの?」
総司は冷ややかに云い捨てた。
「あなたは、ぼくの義兄がやっているカフェのお客様です。それ以外は何の関係もありません」
「だったら、何で逃げるんだ!」
土方は思わず声を荒げた。少年の肩を掴む手に、力がこもってしまう。
「俺が弁護士だから、逃げるのか。おまえの町を店を、乗っ取ろうとしている会社の担当弁護士だからか。こんな男とは口も聞きたくない、顔も見たくねぇって事なのか……っ」
男の声に苦痛がみちた。
それに驚いて見上げると、土方は苦しげな切ない表情で総司を見つめていた。
そんな男の表情は一度も見た事がなくて、驚きにぼんやりしていると、不意に両腕で抱きすくめられた。
「おまえには嫌われたくなかったんだ……!」
少年の癖のない柔らかな髪に顔をうずめ、土方は掠れた声で言葉をつづけた。
「あのカフェを時折訪ねて、おまえと逢う時だけは、俺も本当の自分に戻れる気がした。ほっとして、自分でも驚く程あたたかな気持ちになれたんだ」
「……」
「だから、おまえには絶対に知られたくなかった。本当の事を知った時、おまえがどんなに俺を嫌うか、どんな冷たい蔑みの目で見るかと思ったら、気が狂いそうだった……」
「……土方さん」
「総司」
土方は顔をあげると、総司の瞳をじっと覗き込んだ。
「おまえは、俺の小さな花なんだ」
「……」
総司の目が大きく見開かれた。
その少年の可愛らしい顔を見つめ、土方は囁いた。
「何よりも大切な、花だ……」
「……」
呆然と見上げている総司を、土方は再び強く抱きすくめた。だが、その逞しい男の腕に、びくりと細い躯がすくみあがる。
初めて、男の力強く腕に抱きしめられた瞬間、総司は怖くなってしまったのだ。
甘く優しい綿菓子のように思っていた恋が、突然、激しく刹那的な嵐のような恋へと変貌した。
それに、まだ17才の少年の感情がついてゆけるはずもなかった。
躊躇い、不安、怯えが、総司の中で渦巻いた。
「……や」
思わず男の胸に両腕を突っぱねた。ふるふると首をふる。
「い、や。離して……」
「総司、俺が嫌か」
「やだ……いや! 離して、ぼくを離して……っ!」
とうとう大声で、総司は叫んだ。
怖くて怖くてたまらなくて。
それは、彼が敵対する立場の弁護士であった事よりも、恋愛そのものに対してだったのだが、そんなこと土方にはわかるはずもなかった。彼もまだ若い男だったのだ。
総司に拒絶されたと思った土方は、辛そうに顔をゆがめた。抑えきれぬ焦燥と怒り、苦痛がその瞳を昏く翳らせる。
「!」
不意に項を掴んで引き寄せられ、総司は「ひっ」と息を呑んで身を竦めた。大きく瞠った目で、己を見据える男を見上げる。
それに、土方は唇を歪めた。
「……そんなに俺が嫌か」
「は、離して……」
「あれだけ可愛がってやったのに、懐いてたくせに、俺の正体を知ったとたん、この様か。結局、おまえは俺自身の事など何も見ちゃいなかったんだな」
苦々しげに吐き捨てた土方は、底光りする瞳で少年を見つめた。
怯えながらも気丈に睨みつけてくる総司を見つめていたが、不意に項から後ろ髪に指をさし入れて引き寄せた。
「!」
総司の目が大きく見開かれた。
突然のキス──だった。
まるで吐息まで奪うように激しく唇が重ねられ、きつく強く両腕で抱きすくめられる。
「……っ、ぁ…ぅ…っ!」
いや、と総司は抗おうとした。だが、躯を抱きしめる腕の力は凄まじく、身動き一つできない。
土方は、呆然としている総司の唇に、角度をかえて何度も口づけをあたえた。
身も心までも奪うように、貪りつくすように。
彼の中に秘められた熱をつたえるように───……
「……ぁ……」
がくんっと総司の膝から力が抜け落ちた。初めてのキスに、もう躯中に力が入らなかったのだ。
土方はそれを素早く抱きとめ、そっと唇を離した。
そのまま総司の細い躯を抱きすくめると、愛しくてたまらぬ──と云いたげに、甘いキスを髪に額に頬に降らせてゆく。
それを心地よげに受けていた総司は、だが、遠くで鳴った車のクラクションに、はっと我に返った。
今、自分は何をしていたのか。
この人と、ぼくはいったい何を……!
「いや!」
思わず突き飛ばしてしまった総司に、土方は目を見開いた。
その男の深く傷ついたような表情に心が痛んだが、総司はそれを振りはらった。
黙ったまま身をひるがえすと、駆けだしてゆく。
路地裏を抜け、懸命に大通りへ向かって走った。諦めたのか、土方もそれ以上は追ってはこなかった。
(こんな事って、こんな……)
ようやく辿り着いたバス停で、総司は涙があふれるのを感じた。
だが、人目もあるのだ。声をあげて泣けるはずもない。
やがて、やってきたバスに乗り込んだ総司は、ふと視線を感じてふり返った。
「!」
思わず目を見開いてしまう。
窓の外に、土方の姿があったのだ。
バス停から少し離れた所に佇み、こちらだけをまっすぐ見つめている。
その切ないような表情に、きゅっと胸奥が痛くなった。
(……土方さん……)
バスはゆっくりと走り出し、窓の向こう、土方の姿もどんどん遠ざかっていった。
見えなくなるまで見送るつもなのか、その場に佇んだままだ。
そんな彼の姿を、総司もずっと見つめつづけていた。
遠く離れ、見えなくなってしまう瞬間まで。
これが、長い別れになるとも知らずに……。
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