その知らせを受けた時、重い沈黙が落ちた。
だが、すぐに総司は顔をあげると、静かな声で答えた。
「わかりました……すぐ行きます」
そう云って鉢巻きを外し始めた総司を、傍らから島田が気遣わしげに見やった。
ちらりと周囲を見回してから、小声で云った。
「もし、沖田先生が望まれるなら……私が代理で行きましょうか」
「……」
それに、総司は澄んだ瞳で島田を見返した。
島田は躊躇いがちに言葉をつづけた。
「この状況で行かれたら、おそらくまた副長に……」
「酷く叱責されるでしょうね」
小さく、総司は苦笑した。
長い睫毛を僅かに伏せ、諦めたような笑みをその白い頬にうかべている。
「でも……これは私の仕事ですから。部下の失敗は、私の失敗です」
「ですが、沖田先生は何も……」
「私の判断、指揮を誤ったのです。もちろん、必要以上の叱責には反駁するつもりですが」
「沖田先生……」
思わず島田は嘆息した。
心配でたまらないのだ。
新撰組副長である土方は冷徹で厳しい男だったが、その厳しさが総司に対する時はより際だっていた。他の組長になら見過ごすような事でも、鋭く叱責してくるのだ。
それも、的確に総司の心を抉る酷い言葉をぶつける。
総司も一応反駁はしていたが、相手は副長であり九つも年上だ。叶うはずがなかった。そのため、いつも土方とやりあった後、ひどく傷ついた表情で戻ってくるのが常だった。
いつかなど、目に涙さえ浮かべていたのだ。
二人の様子を見ていた近藤が怒り、土方を諫めた事もあったようだったが、それを彼が聞き入れた様子は全くなかった。
嘲るような笑みをうかべ、冷ややかに総司を眺めただけだった。
まるで、総司が傷つけられ心壊れてゆくことを、望んでいるかのようだった。
(……いったい、どうすればいいのか)
むろん、一隊士である島田には、土方の思惑など全くわからない。
もう十年来のつきあいの、この九つ離れた若者をどう思っているのか──など。
土方と総司はともに、局長たる近藤が道場主だった試衛館出身だった。同じく試衛館の出である原田に話によれば、江戸にいた頃は他人行儀な関係だったが、今ほど仲が悪くもなかったらしい。二人の関係が一気に険悪化したのは、京へのぼってきてからだった。
いったい、二人の間に何があったのか、それは誰にもわからない。
だが、どんな事があったにしろ、島田には、土方が、どうしてそこまで総司のような若者を嫌い、蔑み、傷つけようとするのか、わからなかった。
もともと、土方は常に感情を外へ出さぬ男だ。
端正な顔はいつも冷ややかで、その黒い瞳は感情一つ映した事がない。
その声さえも荒げられることはなく、常に冷静だった。
だが、だからこそ、総司は傷つけられるのだ。
怒りにまかせて、感情のまま投げつけられた言葉なら、まだ人扱いされていると安堵できる。
だが、あれではまるで、おまえはその辺りの道傍に転がっている石だと云われているようなものだった。
それを、総司も感じとっているのだろう。だからこそ、より傷ついているに違いなかった。
そんな総司が憐れでたまらなくなる。
むろん、たおやかな花のような容姿をもちながら、隊中の誰よりも凜と誇り高いこの若者に、そんな言葉を告げられるはずもなかったが。
「……では」
総司は静かに頷いてみせると、踵を返した。
意を決したように小さな頭をもたげ、まっすぐ歩み去ってゆく。
その細い背を、島田は黙って見送った。
土方と総司の間に横たわる、昏い奈落のような沼底を垣間見た気がして、再び深く嘆息した……。
総司は角を曲がったとたん、重いため息をついた。
一番隊隊士たちの目もあり、凜と己を保っていたのだが、もう限界だった。
きつく唇を噛みしめたまま、庭の方へ視線をやった。
(……どうすればいいの)
本当は、副長室へなど行きたくなかった。土方に逢いたくなかった。
いっそ島田の言葉に甘え、この苦行を代わって貰いたかった。
だが、そのくせ、たまらなく──この世の誰よりも、彼に逢いたいと望んでしまう、この想い。
愛しいと。
好きで好きでたまらないのだと。
どんなに冷たい瞳で一瞥されても、鋭い刃のような言葉を投げつけられても、それでも、全く顔をあわさぬよりは余程いい。
一瞬でも、彼の傍にいたいと心から願ってしまう、この恋ゆえの愚かさ。
否、恋しているからこそ愚かなのか。
(酷くされても……逢えるだけでいい、なんて……)
総司は小さく自嘲するように笑うと、再び歩き出した。
そろそろ副長室が見えてくる。
気持ちを引き締め、鎧で身も心も固めなければならなかった。
彼から投げられる言葉の刃に、傷つかぬように。
そして、自分が大切に抱えている切ない恋心が、ふとした瞬間にも零れてしまわないように……。
「──」
総司はきっと唇を引き結ぶと、閉めきられた障子の前で膝をついた。
静かに声をかける。
だが、それに応えはなかった。
中は人の気配もなく、しん──と静まりかえっている。
「……」
総司はちょっと躊躇いはしたが、障子に手をかけると、そろそろと開いてみた。
やはり、中には誰もいない。
何か突然用事が出来て出ていったのか、文机の上には書類が広げられたままだった。硯にある筆もまだ乾いていないし、その傍らに置かれた湯飲みからはあたたかい湯気た立ち上っている。
総司は後ろ手に障子を閉めると、部屋の中へ歩み入った。
文机の傍までくると跪き、こくりと喉を鳴らしてから、おずおずと手をのばす。
「……」
土方の湯飲みだった。
それを手にとり、そっと唇をつけてみる。
(……土方さん……)
彼の唇がここにふれたかと思うと、それだけで心がじんわり熱くなった。胸がどきどきして、頬が紅潮してしまう。
その時、廊下を足音が近づいてきた。
土方かと思ったが、どうやら隊士たちのようだ。
それでも、総司はどきりとした。
「……っ」
耳朶まで真っ赤にしたまま、慌てて湯飲みを元の場所に戻した。
隊士たちが通り過ぎてゆき、再び、しん──と静まり返った副長室の中で、総司は途方にくれた。
いないからと戻ってしまえば叱責を買うだろうし、かといって、ここで待っているのも手持ち無沙汰だ。
(どうしよう……)
総司はため息をつくと、傍らの壁に寄りかかった。
ぼんやりと部屋の中を見回すが、彼の気配がそこかしこにあるばかりで、肝心の愛しい男の存在はない。
それだけで、酷く部屋が冷たく感じられた。
だが、そんな事を思う自分をつい笑ってしまう。
(優しくなんかされた事ないのに……この部屋で、いつも冷たい言葉ばかり投げつけられているのに……)
どうして、こんなにも彼が好きなのか。
他の誰でもありえなく、ただ彼でなければ、ならなかったのか。
自分でもわからない程、もう狂ってしまいそうなぐらい、彼だけが恋しくて恋しくてたまらない。
あの人の一挙一足に見惚れている自分がいる。
冷たく澄んだ瞳に、どぎまぎする自分がいる。
いつか、優しい笑顔を見せてもらえないかと、ずっと儚い望みを抱いている自分がいる。
そんな自分がたまらなく惨めで、悲しくて辛くて、でも、どんなに冷たくされても彼だけに恋している自分が、ほんの少しだけ愛おしい。
(……土方さん……)
総司は壁に凭れかかったまま、そっと瞼を閉ざした。
だが、目を閉じても、愛しい彼はいつも冷ややかな視線を向けてくるばかりで。
(どうして、土方さんは私のことがそんなに嫌いなの……?)
何度もくり返した問いを、心に呟きながら、きゅっと唇を噛みしめた。
涙がこぼれそうだった。
だが、総司が泣いてもいいのは、夢の中でだけだ。
武士たる自分が涙をこぼすことなど、土方の最も嫌う事だろうから。
(どんなに辛くても泣いたら駄目……)
(泣いたら、土方さんにもっともっと嫌われてしまう……)
無意識のうちに身を小さく丸め、両手で己の躯を抱きしめた。
冷たくて残酷な現から逃れるように。
自分自身の脆い心を守るように。
(……あぁ)
総司は身も心も重くなってゆくのを感じ、ため息をもらした。
(疲れた……こうして、自分を強く装ってゆく事も、誰にも甘えず戦ってゆくことも、あの人の冷たいまなざしに傷ついていないふりをすることも……)
(何もかも、とても疲れてしまった……)
ゆるやかに躯中が気怠くなり、やがて、指さき一つを動かすのも物憂くなった。
何しろ、早朝から働きどおしだったのだ。
しかも昨夜から熱があったのだが、誰に云える事でもなかった。甘えなど許された事のない総司は、ともすれば動きが鈍くなる己の躯を叱咤し、仕事に向かったのだ。
今、腰を下ろしたとたん、その反動が来て当然のことだった。
(……どうしよう……こんな処で……眠ったら駄目だ。こんな……また、あの人に蔑まれる……冷たい目で見られる……)
(もう……これ以上嫌われたくないのに……)
必死に、総司は躯を起こそうとした。
だが、もう自分でもどうする事もできない。
(……土方…さん……)
泥のような眠りが、総司をさらった。
そして。
総司は、自分を優しく抱きとってくれる闇の中へ、ゆっくりと落ちていったのだった……。
足早に廊下を歩んでゆくと、隊士たちが慌てて道をあけた。
おそらく、彼の険しい表情に恐れをなしたのだろうが、そんなこと構っていられなかった。
足袋ごしにでも足裏から伝わる板間の冷たさが、尚更、彼の心を逸らせる。
(……あの部屋は冷え切っているはずだ)
近藤に呼ばれ慌てていたため、火鉢もつけずに飛び出した。
そのため、今頃、副長室は氷のように冷え切っているはずだった。
今日は、今冬でも一番の寒さだ。
京の冬は底冷えと呼ばれるが、本当に骨の髄まで凍えそうな寒さだった。
だが、おそらく総司は暖をとっていないだろう。そんな事すれば彼に叱咤されるとでも思っているのか、だが、その予感があたっている事を、土方は嫌というほど知っていた。
総司は、自分が彼に嫌われていると思っているのだから……。
(……嫌っているのは、おまえの方だろうが)
足早に歩きながら、思わず短く舌打ちした。
だが、一方でわかってもいるのだ。
自分が悪いのだと。
総司を傷つけ苦しめ、報われぬ恋ゆえの嫉妬に狂い、あふれるほどの愛しさとは裏腹の、鋭い刃のような言葉ばかりを向けてきた。
優しい言葉など一度だってかけた事もない。
そんな男、総司に嫌われて当然なのだ。
当然なのだが、総司につと顔を背けられるたび、胸を抉る辛さ苦しさに、尚いっそう酷い言葉を吐いてしまう己を恥じながら。
どうして、こんなにも愚かなのか。
恋しているがゆえの、愚かさなのか。
ならば、いっそ愛さなければよかったのに。
思い切る事ができればどれほど楽になれるかと、幾度も女の躯を抱き、それで欲望を静め誤魔化した。だが、そんなものでこの狂おしいほどの渇望が、満たされるはずもないのだ。
こんな事をくり返して何になるのかと。
苦い後味とともに己の所業を悔い、誓った。
今度こそ総司に優しくしよう。もう二度と傷つけないでおこうと。
だが、屯所に戻れば、総司がまた怜悧な瞳で自分を眺め、まるで穢らわしいものを見たかのように顔をそむける。
そして。
自分には決して見せてくれない、まるで花のような綺麗な笑顔を、他の男たちにむける総司に、彼は再び狂うのだ。
心から願っているくせに。
その優しい笑顔を、俺にむけてくれ。
本当は、おまえを愛しているんだ。
心の底から叫ぶように願いながら、結局は、ただ背を向ける事しか出来なくて。
そして、狂うのだ。
自身の心の醜さを映し出したような黒い闇底で、一縷の望みもない愛にもがき苦しみながら……。
「……」
土方は思わず嘆息したが、すぐ目の前に見えた副長室に口許を引き締めた。
己の想いの一片さえ、総司の前で出すことは許されていないのだ。
厳しい副長の表情をつくり、障子に手をかけた。
そのまま、すっと押し開く。
「総司……」
この世の誰よりも愛おしい若者の名を、だが、冷たさにみちた声で呼んだ土方は、とたん、鋭く息を呑んだ。
慌てて障子を閉めると、部屋を大股に横切った。
傍らに跪き、畳に倒れこんでいる総司の躯を抱きおこした。ぐったりとした躯は酷く熱い。額に手をあててみれば、確かに熱があるようだった。
こんな躯で巡察に出たのか。
「……この莫迦!」
思わず忌ま忌ましさに舌打ちしたが、そんなことよりも今はやるべき事があった。
とにかく、あたためてやらなければならないのだ。こんな冷たい畳の上に寝かしている事が、総司の躯にいいはずがない。
土方は総司をそっと両腕に抱きあげた。
初めて抱きあげたその躯は、驚くほど軽い。
こんなにも細い躯で──どれほどのものを背負ってきたのか。
なのに、自分は傷つけるばかりで、手一つさしだしてやらなかったのだ。
それがたまらなく切なかった。
本当は、ひらひらと降り舞う花びらの中にうもれるような、幸せの日々だけをあたえてやりたかったのに……。
「……総司……」
土方は己の腕の中にいてくれる、愛しい存在をそっと抱きしめた。
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